みそ文

出張と雪道

 夫が百名山制覇を目指している話は何度かしたことがあると思うが、その活動は今も地道に続いている。

 夫は今週の月曜日と火曜日に関東地方での出張の予定が入った。それが決まった時に夫は「よっし!」と拳を握り、うきうき、わくわくと、出張仕事前の土日を利用して茨城県の筑波山に登る計画を立て始めた。
 月曜日の夜は会社が手配してくれているビジネスホテルに泊まることになっているし、往復のJRの切符は社用費で既に購入してあるし、あとは土曜日と日曜日に泊まるところをさがして予約し、通常の仕事道具と出張お泊り道具の荷造りに足して、山登りに必要な装備を用意したら完璧。
 山登り用の大きなリュックサックに荷造りを終え、体重計で重量を測る。夫が「うわ、こんなに詰め込んでるのに、思ったより軽いな」と言う。何キロなのと訊くと「13kg」と応える。13kgは重いと思うよ、だって、お米10kgひとつと3kgだよ、お米5kgふたつと3kgとも言えるけど、と喩えになっているようないないような言葉が口をつく。夫は「いや、でも、ほら、山に来る人って、いろんな装備を抱えていて、寝袋やらテントやら自炊道具やら背負ってる人は相当な重量抱えてくるし、山で会う人ともよく『その荷物何キロですか? ああ、やっぱり15kg超えるとぐっと重く感じますよね』って話すし。その感覚だと13kgは軽い」と言う。

 こちらでは先週の金曜の夜から雪が激しく降り積もった。土曜の朝、夫は予定よりも1本早い特急列車に乗れるようにと1時間くらい早く家を出たのだが、雪による遅延のためJRの駅でしばらく待つことになり、遅れて発車したものの徐行運転区間が多く、結局はもともと予定していた列車を使ったのと同じくらいか少し遅くなって現地に到着することとなった。
 土曜日の夫はただ自分の遊びのためだけに当日のうちに着けばいいや、くらいの軽やかな気持ちなので、遅延も徐行運転も全然気にならず、ま、太平洋側に出てしまえばあとはなんともないんだし、と気楽に車中で過ごせたらしい。
 しかし同じ列車に乗っている人たちで、遊びではなくその日のお仕事のために移動している人は「いっそのこと運行中止して出発せずにいてくれたら乗らずに済んだのに。遅延でも運行すると聞くと乗らないわけにはいかずに乗ったけど、これではもう今日の午後の会議には間に合わない」と午後の会議には遅れます、もしかしたら欠席になるかもしれません、という連絡を入れるなど気の毒な様子であったともいう。

 夫は土曜日の午後には目的地に着き、宿に13kgの荷物を置き、身軽になった体で浅草に移動する。浅草をさらりと観光し、そのあとはどじょう鍋屋さんでどじょう鍋を食べる。生まれて初めてのどじょう鍋。おいしいといえばおいしいけれど、このためにまたわざわざ浅草に出向くかといったらそこまでではないかな、それにどじょうの身はやわらかかったけど小骨が喉にひっかかって、あー、小骨がー、と翌日まで思ったから、よっぽどなにかがない限りはまた食べることはなさそう。
 どじょう鍋のあとは落語。寄席に入り夕方から最終までの演目を4時間近くかけて見て聴く。夫としては古典落語をたくさん見たいなと思っていたらしいのだが、実際に行ってみたら、最後のひとつ以外はすべて現代落語で、面白いのは面白かったし、さすが東京の都会の寄席で毎日大勢のお客さんを相手に芸を磨いている落語家さんの話は、巧いわ、レベル高いわ、名前を知らない人でもすごいわ、と思ったけど、下調べが足りなかったとはいえ古典落語が少なかったのはちょっとだけ残念だった。

 夫がどじょう鍋と落語を堪能している頃、私は雪に埋もれた車を掘り出すことをあきらめて、徒歩と地元鉄道を利用しての出勤をして働いていた。自宅から最寄りの駅まで、そして職場の最寄りの駅から職場まで、まだ雪かきのされていない雪道をぼすっぼすっと踏みしめて歩き、ふだんの5倍くらいかかる通勤時間をこなしたあと、インフルエンザの患者さんにリレンザの投薬を繰り返した。
 仕事からの帰り道にはさらに雪が降り積もり、職場の最寄り駅からほぼ定時の地元鉄道に乗り込んだものの、乱れたダイヤのため列車たちは線路の譲り合いが必要で、その場で15分くらい線路の順番待ちをするため列車は停車したままとなった。でも、イヤホンでベートーヴェンの5番と7番を聴いているから待ち時間も全然苦ではない。仕事を終えてあとはもう帰るだけだし、帰ったら家にはコーンとなめこのホワイトクリームスープの作り置きがありそれを温めて食べればいいし、これだけ雪が降り積もったら待つ時には待つしかない。しかもこれだけ列車内でベートーヴェンを聴くのが愉しいということは、年末年始に購入したコンパクト版の楽譜を持って乗り込めば、月曜日からの通勤で車が使えないとしても、列車内や駅の待合室で交響曲を聴きながら楽譜を読んで遊んだらたいそう愉しいのではないかしら、と思いつき、途端にそれが待ち遠しくなる。

 日曜日、夫は予定通り快晴の筑波山に登った。標高は800メートルほどでさして高い山ではないけれど、登山口の標高もあまり高くない位置からとなり、思ったよりも登りごたえがあったと満足そう。関東平野と名付けられた関東の平野はどこまでもひらけていて、800メートルの山頂からでも遠くが見渡せて、さすが平野は平野というだけのことはあるなと感心した登山となった。

 土曜日の夜、翌日の登山を目前にして夫が宿でうきうきと眠りにつく頃、私は自宅の窓の隙間から外をちらりと眺めて、私の車も夫の車もほぼ完全に雪で埋もれたことを確認した。あちこちでスリップして立ち往生している車の音が聞こえてくる。うーん、明日は食材買い出しに行かねばだけど、車で行くのが無理だったら徒歩にしよう、車を雪の中から助け出せるかどうかは、明日になってから考えようと決めて寝る。

 日曜日の朝にはさらに車は深く埋もれていた。それでもお昼前後には雪がやみ、太陽が見えてきて、よし、これなら雪かきをする気になるかも、と、しっかりと食事をしてから、汗を吸い取るためのタオルを背中に入れ首に巻きスコップを持って駐車場に行く。耳にはイヤホンでベートーヴェンの5番と7番を流す。

 まずは車の周りの雪をぐるりとよける。今回の大雪の中、ひとつ幸運だったのは、私の車の左隣の駐車スペースがここ数ヶ月借り手がなく空いていること。この空きスペースにかいた雪を置いて作業ができる。そのおかげで作業はうんと楽になる。隣に車があるときは自分の車の周りでかいた雪をスコップで抱えたまま車と車の間を歩いて自分の車の後ろまで運び道路との間に捨てることになる。もちろん車の排気口は十分に確保して。
 ベートーヴェンを聴きつつ作業して、時々手を止めて天を仰ぎ休憩し、垂れる鼻水をリネンのハンドタオルで拭い、黙々と作業を続ける。5番を聴いて7番を聴いて、その次に録音してあるライブの4番と7番を聴き終える頃には、車の上の雪もおろして、その雪もまたよけて、雪かきはほぼ終了した。

 では、これで、お買い物にも出かけられるかしら、と一度帰宅して汗だくになった衣服を着替える。アーモンドミルクを飲んで一息つく。それから買い物用のマイバッグと家計のお財布を持って出かける。車に乗りエンジンをかける。さあ、どうかな、と前進する。自分で雪かきをしたところまでは進めるけれど、その先の駐車場の共用スペースである通路部分の雪に阻まれタイヤが滑る。前進の勢いで雪に乗り上げて雪を潰して走行できたらいいなと思っていたのだけど、あー、これはだめかー、と後退しようとするも、それも滑って動かない。くー、だめかー、と思いつつ、車から降り車の中からスコップを取り出し、タイヤ周りの雪をよける。車に乗って前進と後退を試みる。まだだめだ。またスコップで雪をよける。前進と後退を試みる。それを4回か5回繰り返してようやく後退に成功し自分の駐車位置に戻る。

 これはもう、今日車で出かけるのは無理、と判断する。駐車場の通路部分もだけど、そこから出たところの道路も全然雪かきがされていないから、ボコボコのツルツルでどの車も時速10km以下で走行している。これなら歩いたほうがいいよねと決めて車からおりる。買い物道具を持って、いつものスーパーに向かう。
 予定では先週クリーニングに出しておいたダウン風ジャケットを受け取るつもりだったが、それは来週以降に延期することに。そして、夫からは「バナナとリンゴジュースを買っておいてください」とリクエストを受けていたが、バナナだけ買い1リットルのリンゴジュースを買うのはあきらめる。できるだけ買い物の荷物を軽くしたい。リンゴジュースは夫の日々の食生活に必要なものではあるが、リンゴジュースならうちにある私の仕事中の血糖補給用の125ml紙パックのを飲んでもいいことであるし、こんな時にこんなことで無理をするのはやめよう。
 厳選して購入した食材が入った買い物バッグを両肩にかけ、雪道をボスボス歩く。できるだけ誰かが既に踏みしめたあとのありそうな雪の浅い歩きやすいところを選ぶ。それでも途中何度かつるりと足元が揺らぐ。
 
 月曜火曜の出張仕事を終えて火曜日の夜12時前に帰宅した夫を出迎えた。小田原の九頭竜餅という和菓子と外郎をお土産に買ってきてくれた。夫と私、それぞれの土日を伝え合う。夫は関東地方でテレビニュースを見て「うちのほうはひでぇことになってるなー、なのにこっちは全然雪ないなー、と思った、雪ってなあにっていうくらいだった」という。
 月曜火曜は私はいつも車で通勤する勤務先に全行程徒歩で通勤しており雪道歩行で疲れていた。翌日水曜日の勤務先には徒歩と地元鉄道を使っての通勤予定でコンパクト楽譜とイヤホンはもう用意してあるし、あとは寝るだけの状態で夫の帰宅を待っていたから、夫が入浴している間に「じゃ、先に寝るね、おやすみ、あとはよろしく」とお布団に入った。
 
 水曜日の地元鉄道通勤の列車内で交響曲を聴きながらコンパクト楽譜を読むのは思った以上にたいそう愉しく、仕事帰りに駅で待ち時間(30分くらい)を過ごすのも列車に乗っている間(約15分)もずっと愉快で快適だった。車なら10分ちょっとで帰れる道のりにかかる時間が長くなることがむしろたのしみとなった。同じ時間がかかるのであっても、これが車に乗って渋滞してのことであると、たとえ車内で同じベートーヴェンを聴いているとしても、渋滞の進まない感と雪道での事故を避けつつ運転する緊張とでここまでのたのしみには全然ならない。

 水曜日に帰宅した夫に「鉄道通勤の道中、楽譜で遊ぶのがたいそうたのしゅうございました。大判のフルスコアの楽譜は持っていても同じ曲のコンパクト楽譜を買ってよかった。ミニスコアだからこそバッグに入れて気楽に運べて膝の上で広げて座席でも立っていてもめくって遊べるんだもの。フルスコアではフルスコアでいいけどミニスコアはミニスコアでいい。こんな大雪で鉄道通勤となった今となってはコンパクト楽譜を買っておいた年末年始の自分の手柄を誉めたい」と話したら夫は「よかったねえ」と言ったあと「また明日から急に出張に行くことになった」と言う。今度は九州。「九州に行けるなら、この前の九州出張の時に登ったお山以外の阿蘇に行こうと思えば今度の土日に行けるのに。まだ今回筑波山に登った時に使った山の服の洗濯ができてないし、そもそもリュックサックから荷物すら出してないし、無理だ。行こうと思えば行けるのに無理だ」と残念がる。

 そういうわけで、この木曜日金曜日と夫はまたいない。土曜日の午後に帰ってくる。ということは、日曜日の買い出しのときに無理して1リットルのリンゴジュースを買わなかったのは大正解だった。なんならバナナも買ってこなくてもよかったくらいだがバナナはまあよしとしよう。
 水曜日からは夫がいるつもりで、ふたりで食事をするつもりで買ってきた食材を私一人で消費することになる。今日の仕事を終えた時も、今日は久しぶりに車で通勤できたし、このままお気に入りのとんかつ屋さんに立ち寄って、鹿児島黒豚のとんかつで夕ご飯を済ませて帰ろうかなーと思ったのだが、いやいや待て待て、うちにはいろいろと早く食べたほうがいい生々しい生鮮食材があるじゃないの、と思い直しそのまま素直に帰宅した。そして一人鍋にミル挽き山椒と屋我地島の塩をパラパラとかけて夕ご飯とした。おいしかった。ごちそうさま。
 今日の鍋は鶏がら出汁の澄んだスープで作ったが、明日は今日の鍋の残りに追加で冷凍あさりとチンゲンサイを入れてマッシュルームホワイトクリームスープ缶と牛乳を加えてクラムチャウダー風にしたらどうだろう。おいしいかな、どうかな、おいしいといいな。     押し葉

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どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

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