みそ文

甘やかなヤクルト

 結婚して初めて、夫と一緒に広島帰省したときだったと思う。夏だったのか冬だったのかそれとも春か秋だったのかの記憶は定かでないけれど、そのとき私達は夫の実家の居間にいた。当時の義実家はまだ今の新しい家に建て直す前で、いまほどキッチンリビング空間にゆとりがあるわけではなかった。

 義母が冷蔵庫を開けて私と夫と義妹に「ヤクルト飲む?」とたずねる。私は「はーい、いただきます」と挙手する。夫と義妹は何も言わない。義母は「飲みんさい、飲みんさい、おいしいしお腹にええけんね」と言いながら私に一本手渡してくれる。私は「ありがとうございます」と受け取りヤクルトの蓋をぴろぴろっとあけて中身をチュビチュビコクコクと飲む。おいしい。義母が夫と義妹に「あんたらもヤクルトいる?」ともう一度訊く。夫と義妹は「いらん」「いらん」と言う。そうなんだ、要らないんだ、と私は思う。義母は「そうね、いらんのんね」と冷蔵庫の扉を閉じる。

 その直後、夫が「あ、やっぱりヤクルト飲む」と言う。義妹も「私も飲むけん、おかあちゃん取って」と言う。義母は一度座っていたのに立ち上がり再び冷蔵庫に近づいて扉を開けヤクルトを取り出し息子と娘に手渡す。ふたりとも黙ってヤクルトを飲む。そして飲み終えたヤクルトのボトルを黙って卓上に置く。そのあとも無言だ。

 私は「ちょっと、どうやらくんもえりりちゃんも、なんなのそれ」と立ち上がる。義実家の食卓は冬はコタツで夏はこたつ布団を取り去った床置きテーブルだから居間では畳の上に座っているのが基本形で、座ったままでもいいのだが、そのときの私は思わず立ち上がっていた。そしてその立ち方には尊大な雰囲気をまとっていた、いや敢えてまとわせていた。きっとああいうのを仁王立ちというのだ。

「どうやらくんも、えりりちゃんも、ふたりともちょっとどういうことなん。さっきおかあさんがヤクルト要るかいうてきいてくれちゃったときにはなんにも返事せずにおいて、もう一回要るかきいてくれちゃっても『要らん』って言うといて、お母さんがいったん冷蔵庫閉めて座っちゃったあとになってやっぱり要る言うて、そりゃあなんとなく気が変わることはあるじゃろうけど、だったら自分で立って冷蔵庫に取りに行ったらいいいじゃん、それをおかあさんに取ってもらって、なのにふたりともおかあさんに『ありがとう』もなんにも言うてないでしょ、そういう態度はおかあさんに対して失礼じゃと思わんのん。おかあさんになにかしてもらったんならちゃんとお礼を言いんさいや」と一気にまくしたてる。

 義妹は私と夫よりも一歳年下なのだが素直に「ほんまじゃ、ごめん、おかあちゃんありがとう」と言う。夫は私と同い年なのだが「んー、でもさっきはほんまに欲しゅうなかったんじゃもん、いいじゃん別に取ってもらっても」と言う。私は「取ってもらうのはかまわん、かまわんけど取ってもらったんならお礼を言おうや。そもそもどうやらくんのいるところから冷蔵庫まで二メートルもないんだから立って自分で取りに行けばいいじゃん。それをしないなら自分がほしいかどうかはお母さんが最初に要るかどうかきいてくれちゃったときにまじめに本気で考えてその場で判断して答えんさいや」と言う。

 義母が「みそさん、ありがと、ありがと、でも、ここはところが狭いんじゃけん、ええんよ、ええんよ」と言う。義実家の当時の台所居間は空間が狭かったから動かなくていいおとなはじっとしていたほうが広く使えるといえばそうなのかもしれないが、人様に対しては当然、たとえ相手が身内であってもおとなであってもこどもであっても、なにかしてもらったらすぐにそのタイミングでお礼を伝え合う文化と習慣を私は実家で教育され刷り込まれてきた。そしておそらくそうすることこそが人間関係における「あるべき姿」だという価値観を持つ人間に成長したのだろうと思う。

 義母にしてみたら嫁になったばかりのよその娘(私)が仁王立ちになり義母の尊厳をだいじにしろという意味合いのことを訴える姿は思いがけず嬉しかったかもしれないが、そのために私が説教する対象が我が子たちだとなるとそこは心底歓迎できるわけではない複雑な心境があったかもしれないと思う。とっくの昔に成人しおえた我が子たちであるとしても母としてあれこれ世話してやりたい気持ちが湧くことは自然にあるだろうことでそれはちっともおかしくない。私が自分の文化の価値観を義実家でとっさに発動させたことで、結果的に義母の義父母の子育て教育方法文化習慣の在り方に否定的評価を下したと受けとめる人がいても仕方のない側面があることになるのかもしれない。自分のことを自分でするばかりではなく、なんでもないちょっとしたことで甘えたり甘えてもらったり甘やかしてやる親と子やその他の仲よき関係性はそれはそれで平和な快楽なのに。ヤクルトはおそらくそういうなんでもないちょっとした甘やかなことのひとつに過ぎないだろうに。

 結婚は異文化交流だ。文化習慣として馴染んでいること心地よいこと、馴染んでいるとも心地よいとも意識すらしていないようなことが、結婚した相手にとってもおなじように馴染みがあり心地よいものであるとは限らない。結婚した当人同士はそういう部分をすり合わせ折り合いをつけて新たな文化と習慣を構築してゆけるところはそうしてゆき、各々の実家構成員との交流においては相容れる部分でのお付き合いを中心とし相容れない部分でのお付き合いは遠ざけ、関係者として協力することが円滑だと判断する場面においては腹をくくって臨む。必要であれば異文化研究のフィールドワークをする者であるかのような視点で観察し脳への記録を行う。

 あのとき私が仁王立ちになりあんなことを言ったからなのか、それとも義母はもともと私と同じ文化価値観を持つ人だったからなのか、義母は私がすることなすことほぼなんでも褒めてくれ、私をねぎらい、いたわり、感謝を伝えてきてくれる。もちろん私はもともとそういう文化風習価値観にどっぷり浸かって逃れられない個体だから、義母に対しても同じようにふるまう。その結果、年に数回帰省したときともに過ごす程度の時間内においては、お互いにたいへんに穏やかで良好な嫁姑関係の中にいることができている気がして、ありがたいことだなとしみじみと味わうように深く思う。義母がずっと私によくしてくれるのが、私が仁王立ちになったあのときに、「この嫁、怒らせたら怖えー」と思ったからなのだとしても、もう今さら当時の私を止めることができるわけでもなし、ありがとう、うれしい、と伝え合う関係の中に身を置き余生を過ごすつもり。     押し葉

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どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

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