みそ文

みずからがかけるもの

 自らの心身のすこやかさを護るために、かけてもいいのは、尊厳であって、健康や命ではない。

 自分の自尊心を損なうような作用を持つエネルギーには、様々な形がある。自分に対して否定的な言動、という形の場合もあれば、自らの美学や美意識や価値観とどうにもこうにも相容れない、という形もある。

 自分に対して否定的な言動、というのは、まあまあわかりやすく、その認定も対処も、どちらかというと、まだやりやすい。それでももちろん、消耗も疲弊もするものだから、必ずしっかり腹を括って、心づもりを整えて、ことにあたる必要がある。

 けれども、自分とはどうにも相容れないものについては、ついうっかり、気づき損ねてしまうことがある。
 間違いなく瞬時に「これは自分にとっては十分に不愉快である」とせっかく感知したとしても、「みんな仲良く」だとか、「多様な価値観」だとか、「異文化共生」だとか、自分の中で勝手に自己主張している、そういう「人類こうでありたい(かもしれない)」スローガンのようなものに、ついうっかり惑わされる。
 その結果、本来相容れないエネルギーを持つものが、自分の自尊心を損なうことを、あるいは、既に自分の自尊心を十分に損なっていることを、認定することに遅れをとる。
 遅れるだけならまだしも、うっかりした上に弱ったりまでしてしまうと、相容れないものが自分に対して持つ攻撃力を認定する機会を逃してしまうことすらある。

 この世に、自分と異なる価値観が存在するのは当たり前のことである。
 けれども、自分にとって心地よくない価値観や、自分にとって美しくない価値観を基準とした言動が、ただそこに存在しているだけなのか、それとも、必要以上に自分と近い距離にいて、場合によっては自分を攻撃するエネルギーを発したり、自分の健康や自尊心を損なう力になっているかどうか、そのことを見極めることは、おそらく、間違いなく、重要で大切。

 そうして見極めた結果、その価値観を基準とした言動が、少しでも、自分の健康や自尊心を損ねる力を持っていると認定したなら、そのときは、ただちに、すみやかに、自らが、その言動を行う存在との距離を置くよう努める。
 身体的な距離が変わらない場合でも、目に見えないしっかりとした防御壁を建設する。
 それだけではなく、その言動を行う存在の、その言動、そのエネルギーが、自分から遥か彼方に遠ざかるよう、正しく真剣に願うべきだ。

 その存在、多くの場合は人物であるのだろうが、その存在がこの世から消滅することやその存在の健康の低下を願うわけではない。
 その存在の、その価値観を基準とした、その言動、そのエネルギーが、かわることなくこの世に存在するとしても、少なくとも、自分の目の前、自分の身の周りには、立ち入ることがないように、立ち入ることが極めて少なくなるように、自らを防御するだけではなく、自ら離れるだけではなく、そのエネルギーが遠ざかることを、そのエネルギーの現れ方が弱くなることを、正しく真摯に願うべきだ。

 その存在、多くの場合は人物であるのだろうが、その人物がその言動を行うことが不可能で、かつ、その人物にとって不健康で不本意な状況を、願ったり念じたりするわけでは、決して、ない。

 ただ、その存在の、その価値観が、その言動が、そのエネルギーが、自分の身辺から離れること、自分の身辺に立ち入ることを控えること、姿をあらわにしないこと、その結果、自分が穏やかですこやかであること、そのことを、ひたすらに、静かに正しく熱心に願うのだ。

 その存在の、その価値観が、その言動が、そのエネルギーが、もしも離れてゆくときには、その背景に関しても、その状況に関しても、自分は関知しないし、関知する必要もない。その背景や状況が、その存在にとって、本意な場合もあれば、不本意な場合もあるだろう。この世的に、望ましい場合もあれば、望ましくない場合もあるだろう。
 けれど、それは、自分のあずかり知るところではない。そのエネルギーが、自分から離れるにあたり、より速やかであるとともに、その人物にとってもより適切であるように、なにかしら采配するのは、天の仕事であって、自分の仕事ではないのだ。

 だから、いつでも、安心して、きちんと願うべきなのだ。それは、まったく、「恨み」ではなく、「呪い」ではなく、純粋で、正当で、必要な、「願い」であり、「祈り」なのだから。

 自らの自尊心を損なう力を持つものであることを、速やかに認定したならば、すぐに「願い」を開始する。瞬時に「祈り」を発動する。去るべきものに「去れ」と。離れるべきものに「離れろ」と。「ゆけ」と。「控えろ」と。
 決して頼むのではなく、懇願するのでもなく、エネルギーという単純な存在が、正しくその意味を理解するように、すべてにおいて肯定形で、すべてにおいて命令形で、静かに正しく指示を出す。

 直接、その存在、その人物、に向かって、声に出して言わなくてもいい。ただ、たしかに、いつも必ずしっかりと、強く確実に「思う」のだ。
 その結果、その人物が、かわらずそこにいたとしても、その言動が、そのエネルギーが、目の前に現れる頻度が、少なくなるかもしれない。
 その結果、その人物は、かわらずそこにいたとしても、そして、その人物の言動もエネルギーも、かわらずそこにあったとしても、自分の視点や波長が、そのエネルギーの存在と、もはや全く接することがないほどに、遥か彼方に移行するかもしれない。

 どういう形で、どうなるか、それはその場ではわからない。けれども、まずは必ず願うところから、まずは指示を出すところから、きちんと正しく始めたい。
 自分の自尊心を損なうものを見誤ることなく見極めて、そうであることを認定する。認定したら、指示を出す。それだけのことなのだ。

 誰かの不幸を願うのではなく、誰かの不本意を願うのではなく、その人から発せられる、特定の種類のエネルギーが、自分の周りからきちんとちゃんと離れることを、静かに正しく願うだけだ。

 自らの自尊心を護るためには、その手間暇を惜しんではならない。見極めて、認定して、指示を出す。その繰り返しを、怠ってはならない。
 自尊心の損失は、いともいとも簡単に、肉体を、こころを、健康を、生命を、損ない奪いうるものだから。

 特定のエネルギーの、その姿を薄めるために、そのエネルギーを飲み込んで、そのエネルギーを放置して、自らの肉体を、自らのこころを、自らの健康を、自らの生命を、ひきかえに損なってはならない。

 それでも、もしも、うっかりと、うっかりしなくてもなんらかのいきさつで、自らの肉体を、こころを、健康を、生命を、損なったそのときには、命を懸けて、誠心誠意、すべての力を込めて、修復に精を出す。
 けれども、いったん損なってから修復しようとするよりも、損なう前に気づいて対処するほうが、本当はおそらくずっと簡単で、安全性も高くて、きっとさらに省エネ。

 自らの心身のすこやかさを護るために、尊厳をかけてことにあたるのはかまわない。けれども、自分の健康や命をかけたり引き換えにしたりしてはならない。ぜったいに。     押し葉

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どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

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