みそ文

頓原の学習

 お蕎麦でくちくなったお腹を抱えて、国道54号線を北上する。道はずっと下り坂。あれれ、下り坂では夫が運転してくれていた記憶があるということは、お蕎麦屋さんを出る時の運転は私ではなくて夫だったということかしら。つい二日前のことなのに、なんだか記憶がずいぶん遠いなあ。その坂道で夫が「すごい下り坂」と言い、私が「アクセル踏まなくてもいいくらい?」と訊くと、夫が「アクセルなんて全然踏んでない、ほら」とアクセルから離した右足を揺らして見せたということは、やはり夫の運転だったのかしら。

 母が「ここは坂道が急でしょう」と言う。私が「うん。このへん頓原(とんばら)だよね。山からいっきに下りてます、下っています、ってことなんじゃろうね」と応える。

「むかしねえ、お父さんと結婚して最初のころ、まだあんたがお腹の中にいたころよ、お父さんが年末にどうしてもお正月は広島に帰りたいって言ってねえ、その頃は松江に住んでて、私は島根の人間だからお正月を島根で過ごすことに全然抵抗はないというか、そうするもんだと思っていたんだけど、お父さんは広島の人じゃけん、お正月は島根じゃなくて広島で過ごしたかったんじゃろうねえ、レンタカー借りて広島まで運転して帰るって言い出してねえ、当時は今ほど道もよくなくて時間がかかるけん、それなら私は留守番しとるけん一人で帰ってきてって言ったんだけど、一緒に帰ろう、って説得されてねえ、島根県側からここの頓原の坂道までお父さんの運転で来たのよ、昔はお父さんしか運転できんかったけんね、でもここの坂道は急で、あの頃はこのへんは雪が深くて、タイヤが滑って坂道を上がれんいうのがわかって、お父さんはようやくこれはダメだってあきらめたんよ」
「七月に私が生まれるまえの年末年始ということは、まだ妊娠初期じゃん。雪の中で遭難せんでよかったねえ」
「ほんとようねえ」
「あの頃はまだスタッドレスタイヤが世の中にふつうにはなかったじゃろうし、雪道を車で走るとしたらチェーンをつけるしかなかったじゃろうけど、ここの坂道はチェーンをつけても滑るような雪道だったん?」
「どうじゃろうねえ。あの頃はお父さんもまだ島根の雪に慣れてたわけではなかったんじゃろうけん、チェーンをつけとったんかつけてなかったんかどうかねえ」
「えー、でも、今は広島で冬に少し雪が降った時にスタッドレスタイヤもチェーンもなしで運転する人のことを父はむちゃくちゃ大馬鹿野郎扱いするじゃん」
「そうよー、自分だって最初から雪道に慎重だったわけではないのにねえ」
「でも、それはきっと父はここの坂道で学習したということなんじゃね、冬の雪道を走行するならそれなりの装備は必需って」
「でもねえ、この坂道で滑って上がれんようになるよりもずっと手前の町中から雪はひどかったけんねえ、もうこんなお天気で山を越えて広島に行くなんて無理無理と私は思うとったけど、お父さんは自分で納得するまでは頑固じゃけんねえ。あの頃は今みたいにいい具合に除雪車が雪をよけてくれるわけでもなかったしねえ、今よりもずっと雪が多かったけど、お父さんも若かったけんねえ」
「とうちゃんとしては、お嫁さん(母)に広島の正月を見せちゃりたいと思うたんかもしれんし、お腹におる私のことを広島のじいちゃんやばあちゃんに自慢したかったんかもしれんけど、まだ安定期に入ってない妊婦を車に乗せて当時の雪道の峠を越えようだなんて、それはいかんやろう、私が危ないじゃん」
「あの時お腹におった子がこうして私を広島から車に乗せて島根に連れて行ってくれるくらいに大きくなったんじゃけんねえ、あのとき無事でよかったよねえ」
「よし。当時の父の雪道体験は『頓原の学習』と名付けよう。頓原の坂道、当時の父にいろいろと教えてくれてほんとうにどうもありがとう。おかげさまであのとき雪の中でこの坂道の上にいた私はこうして無事に生まれてこんなに大きくなることができました」

 胎児期の私にそんななんとなく危険なひとときがあったことを、自分がこの両親のもとに生まれてくるにあたって必要なこころづもりと学習のいくつかのうちのひとつをおそらくこの坂道でもしていたんだなということを、この夏、私は初めて知った。     押し葉

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どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

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