みそ文

精進してカレンダー

 昨夜訪れた落語温泉では年中無休で落語の寄席を開催している。夕方五時半からの一時間と、夜八時からの一時間の、一日二回公演。一回あたりの一時間は二人の落語家さんが一人約三十分ずつ小話と落語を行う場合もあれば、一人は落語家さんで残り半分はマジックや曲芸など落語以外の演芸の場合もある。

 寄席会場の入口には、その月の出演者の名前を書いたスケジュールのカレンダーが貼ってある。夫と一緒にそれを見ながら、「この人とこの人のは見たことあるね」「この人とこの人はまだ見たことないなあ」などと話す。

 そうしていたら、寄席会場の案内を担当する旅館従業員の女性が「本日はお越しくださりどうもありがとうございました」と声をかけてくださった。そこで私はその人に「すみません、この出演者カレンダーの来月三月のぶんをいただくことってできますか」と訊いてみる。寄席会場案内係のおばちゃんは「すみません、こちらのカレンダーはここに貼ってあるだけで、ここではお一人お一人にお渡しはしていないんです。でももしかするとフロントで尋ねていただければ、今月のぶんは印刷してお渡しできるかもですし、もしすでに来月の予定が組んであれば、ご希望の方には差し上げるサービスをしているかもしれませんがこちらではそこまでわからないものですから、ごめんなさい。当日ご来館くださるときに電話で訊いてくださるのが一番確実だとは思うんですが。もしよろしければ、お帰りの際にでも、フロントで確認してみていただけますか」と説明してくださる。「はい。ではそのようにしてみます。ありがとうございました」とお礼を伝える。

 それからエレベーターに乗って、一階に降りる。私は夫に「トイレに行ってくるから少しだけ待っててください」と頼んでトイレに入る。トイレから出てきて土産物売り場にいる夫に手を振って「おまたせしました、ありがとう」と呼びかける。

 フロントで預かってもらっている車の鍵を受け取る。今回私達が利用した時間帯に担当してくださったフロントの若い女性はフロント業務を十分以上にこなすレベルではあるものの日本語の発音発生に若干中国語風味がまじる。髪型もメイクも今時の日本の若い女の子そのものだから見た目には若いスタッフさんだなあ、としか思わないけれど、話すと「おねえさん、どのこ人ですか、どこから来たのですか、何か今後ここの温泉旅館はあなたの地元のお国にも新規開業の予定でもあるのですか、そのための研修中かなにかですか」とお尋ねしたくなるけれど、そこはだまってただにこやかに「ありがとうございました」と言って自分の車の鍵を受け取る。
 
 そのフロントのおねえさんに「今日は車の置き場所はどこでしょうか」と質問する。ここの落語温泉では玄関前まで車で乗り付けると旅館の従業員の人がそのときの状況に応じて車を移動して駐車してくださるシステムなのだが、利用客が多い日であったりすると、第一駐車場、第二駐車場、第三駐車場、第四駐車場とずいぶん遠くになることもある。だから車の鍵を返してくださるときに、「お客様のお車はどこどこの駐車場に置きましたので、よろしくお願いいたします」というような説明がだいたいある。駐車場の場所が遠方でややこしいときには簡単な地図のプリントにペンで丸をつけながら「玄関を出られましてから、少し歩いていただいた、こちらの駐車上のこのあたりとなります」と解説がつくこともある。

 今回はそのどちらの説明もなかったから「どこでしょうか」と訊いたのだが、フロントのおねえさんは「玄関前でございます」とにっこりと教えてくださる。わあ、玄関前の敷地内駐車場だったら、雪の中遠くまで歩かなくてよくてうれしいな、と思う。だから「そうですか、それはうれしいです、ありがとうございます」とフロントのおねえさんにお礼を言う。

 フロントから離れて玄関に向かおうとしたとき夫が私に「落語の三月のスケジュールのこと訊かないの?」と言うから、ああ、そういえば、と思ってもう一度フロントに戻る。今度はさきほどの中国語なまりのあるおねえさんではなくて、その隣りのカウンターに立つおねえさんにお世話になる。

「すみません、落語の来月の三月の出演者予定といいますか、寄席の入り口に貼ってあるようなスケジュールのカレンダーの来月分を分けていただくことはできますか?」
「申し訳ございません。三月の予定はまだ出ておりませんで、いつもぎりぎりになってから確定いたしますので、また近くなってからか当日おいでくださるときに、お手数ですがお問い合わせいただけますでしょうか。本当にすみません」
「そうですか、では、また問い合わせるなどしてみます。ありがとうございました」
「ありがとうございました、お気をつけてお帰りくださいませ」

 それから広い階段をおりて玄関へと向かう。夫が「残念やなあ、スケジュールのカレンダーがあったら、まだ見たことない人のときを選んで来るとか、いろいろできるのになあ、まだスケジュールできてないのかあ。芸人さんも来月の仕事があるかないかわからんのは不安やろうなあ」と言う。私が「ううん、実はね、来月のスケジュールカレンダー、本当はあるんだよ」とこっそりと耳打ちする。

「え、なんで、そんなこと知ってるん? 上の階のおばちゃんもフロントのおねえさんもないいうて言うてたのに」
「実はね、どうやらくんがお風呂に入っている間、私、休憩室でペルシャ語の勉強してたじゃろ。あのときに落語常連のおじいちゃんたちが休憩室にいてはってね」
「ああ、そういえば、おれが風呂からあがってきたときにも奥のほうにいてはったなあ」
「そうそう、あのおじいちゃんたちのところへね、寄席会場のお世話係りのおばちゃんがね、『だれだれさん、なになにさん、これ、まだ確定じゃないけど、一応来月の予定の三月の出演者のカレンダーな、できたから』って言いながら印刷された紙を手渡してあげてたのを私は知ってるんよ、熱心にペルシャ語書いて勉強してるふりしてたけどね。おばちゃんはあのときあの部屋の端の席でうつむいて何か書いてた女性客が今スケジュールカレンダーを所望している客と同一人物の私とは気づいてないと思うけど。もし気づいてても一応なにかの内規というか建前があっての対応なんだろうし」
「なんと。みそきちどんさん、ぬしもオトナよのう」
「うん。なんかただの大人じゃなくてえらい人なかんじじゃろ」
「くーっ。お代官様にはかないませんなあ。でもスケジュール出てるんなら、あの常連のおっちゃんたちにあげるんじゃったら、他にも配ったらいいのになあ、せめておれらみたいに問い合わせた客にだけでもくれたらいいのになあ、そしたら落語が好きなお客さんの『この日に行こう』っていう気持ちを高めてもっと繁盛できるかもしれんのに。なんか今のままだとあの寄席、いつなくなるか心配なかんじじゃん」
「まあ、そうなんだけどね、まだまだ私たちくらいの通い方では、あの落語温泉の人たちには常連として認めてもらえん、いうことじゃろう。あのおじいちゃんたちがどれくらい再々通いようてんかはしらんけど、世話係のおばちゃんや芸人さんたちから顔と名前をおぼえてもらえるくらいになってこそ、あのスケジュールカレンダーの極秘情報を教えてもらえるいうことなんじゃないかな」
「芸の道は厳しいのう」

 玄関を出て、敷地の門の壁際に、車がきっちりと縦列で駐めてある。夫が「これ、いいぐあいに出せるかなあ」と腕を組む。「私がやってみようか。外から見て誘導してくれるかな」と夫に頼んで運転席でエンジンをかける。前後数十センチメートルの隙間をいったん少しだけ右前に出て、それから左後にさがる。夫の誘導に従って車を切り返していたら、宿の駐車場案内の男性が近づいてきて、夫よりもさらに上手な誘導をしてくださり、車を無事に出すことができる。

 そこまでして門を出たところで運転を夫に変わってもらい、私は助手席に座る。帰り道で夫に「あの常連のおっちゃんたちがね、私がペルシャ語を書いてるのをまじまじ見て、おねえさんどこの人や、いうて訊かはったんよ」という話を披露する。夫は私の話を聴いて「そこは素直に『福井から来ました』じゃなくて、もっとなんか面白い返しをして話を転がしてあげたほうがよかったんじゃないんか」と提案する。私は夫に「そんな、私は芸人さんじゃないんだし、あの場所であの常連のおっちゃんたちと語らうことが目的ではなくて、あの時あの場所で私にとってもっとも優先順位の高い目的はペルシャ語で一週間を書いて言えるようになることだったから、あの返しで十分よ」と答える。

 帰宅して夫がパソコンでこの日に聴いた落語家さんのホームページを閲覧する。そして「今日の落語家さん、三月も四月もまた何回か今日の落語温泉に来るって。カレンダーに仕事の予定が書いてある」と教えてくれる。そして「なんで旅館はまだスケジュール決まってないとか嘘を言うんやろうか。こうやって芸人さんの情報見ればわかることなのに」と言うから、「そりゃあまあ、宿や事務所としても芸人さんとしてもある程度の期間契約を決めておくほうが他の仕事の予定も組みやすいだろから、実際はある程度はもう決めてあるじゃろう。でも宿としては、今日の出演は誰かなあ何かなあ、という未知なかんじのワクワクを提供するのもエンターテインメントの仕事のうち、ということにしてるんかもしれんし、特定の芸人さんのときにお客さんが集中するようにではなくて、どの人の時にもまんべんなく一期一会で見に来てもらえるように、という思いがあるんかもしれんし。私らもあの常連のじいちゃんたちくらい通いつめて常連になって、芸人さんが登場してきたときに『いよっ、待ってましたっ』くらい言えるようになったら、また何かが違ってくるかもよ。精進しようや」と言ってみた。

 精進精進。     押し葉

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どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

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