みそ文

どこから来た人なのか

 土曜の夕方、隣県の温泉施設に出かける。第一目的は落語。この温泉施設では、日帰り入浴の利用料金六百円で入浴して落語を含めた演芸を見ることができる。入浴だけの利用でも六百円、演芸観覧だけの利用でも六百円。

 夫は演芸を観覧する前に大浴場へ入りに行く。私はここのお湯はわざわざ入らなくてもまあいいかと思うことが多くて、夫が入浴している間、日帰り客用休憩室で座ってゆうるりと好きなことをして過ごす。休憩室は広い和室で、テーブルと座布団が並べてある。その休憩室を利用する人はそんなには多くなくて、今日は最初しばらく私一人だった。

 夫がお風呂に入っている間の待ち時間のおたのしみは、ペルシャ語(イラン語)。最近勉強し始めて、文字の読み書きがたどたどしいながらやや自由になってきたところ。文字の読み書きはある程度できるけれど、イラン語の読み書きが自由にできるレベルにはまだない。ローマ字アルファベットを使って日本語ローマ字や英単語の簡単なものは書けるけれど、簡単な英文を思いどおりに読み書きできるわけではない、あのころのようなかんじ。

 テーブルにテキストとノートを広げて、ノートの右端からウニョウニョとペルシャ文字を綴る。シャンベ、シャンベ、シャンベ(イラン語で土曜日の意味。イランの暦では土曜日から一週間が始まり休日の金曜日で一週間が終わる)、とつぶやきながらペルシャ文字で「シャンベ」と書く。

 土曜日の次は日曜日。日曜日はイェキシャンベ。イェキは数字の一の意味。一(イェキ)シャンべが日曜日、ニ(ドゥ)シャンべが月曜日、三(セ)シャンべが火曜日、四(チャハール)シャンベが水曜日、五(パンヂュ)シャンベが木曜日、そしてジョムメが金曜日、これが一週間。

 ペルシャ語の綴り書き方練習には筆ペンを用いている。ペルシャ文字には活字体がなく筆記体だけだからあの流れるような文字を書こうと思ったら鉛筆やボールペンよりも筆ペンのほうが真似しやすい。

 土曜日から金曜日まで私が何度も書いておぼえていると、誰かが休憩室に入って来た。人が入室する気配は感じたものの、私は大変熱心にシャンベシャンベと書いていたから、その人が私のテーブルの横に立って私の手元をじっと見ていることに気づくのにしばらく時間がかかる。

 なんだろう、なにか手元に視線を感じるわ、と視線の元をたどってみたら、ご年配の男性が立っていて「これは、英語では、ない、なあ」とおっしゃる。私が「あ、こんにちは。はい、これは、イラン語です」と言うと、おじいちゃんは「イラン語!」と驚いて、それからおもむろにゆっくりと「おねえさん、どこの人? どこから、来たの?」と訊かれる。

 私はしばらく考えて、ここは「日本人です」と答えるのが流れなのかしら、でもお互いのこの普段着感覚といいたいへん地元の方っぽいことだしもう少し細かい行政区分でお答えしたほうがいいよねと判断して「隣の県の福井から来ました」と言う。おじいちゃんは「福井か。おねえさん、日本の人か」と問われる。「はい。イラン語の読み書きできたらたのしいかなあ、と思って勉強してるんです」。おじいちゃんは「英語の勉強してる人は見たことがあっても、イラン語の勉強してる人を見たのは初めてや」とおっしゃってから「いやあ、感心感心」と言いながら少し離れたテーブルの席に座る。

 私はにっこりと会釈してから、また、シャンベシャンベと練習を続ける。すると今度はテーブルの向かい側に別の気配を感じる。はて、と思って見上げると、先ほどのおじいちゃんとは別のおじいさんがじっと私のノートを覗き込み「これは、英語では、ない、なあ」と言われる。

「こんにちは。えーと、これはイラン語、ペルシャ語、なんです」
「イラン語! それは、また、何か、イランに行く用事でもあるんか?」
「いえ、用事は全然ないんですけど、イラン語を読んだり書いたりできるといいかなあ、と思って勉強してみています」
「ほおー、イランに行く用事もないのに勉強するとは、何に使うんや?」
「うーん、これといって特に使い道はないんですけど、イランの人と文通をしているので、それは英語でなんですけど、それも近頃はごくたまになんですけど、私が少しはイラン語も書けるとお互いにたのしかったりするかしら、と思いまして」
「それは相手の人はうれしいやろうなあ」
「そうでしょうか」
「そらそうやろ。で、その文通相手の人は、男か? 恋人なんか?」
「いえいえいえいえ、女の子です、といっても私と同じくらいの年の」
「おねえさん、学生さんか?」
「いえ、学生ではないです」
「そうはいうても、そんなイラン語を勉強するとか、ただの人じゃないやろ」
「いやあ、ふつうに、ただの人、やと思います」
「はあー、長いこと生きてきたけど、そんなイラン語を勉強しとる人を見たのは初めてやわ」

 二人目のおじいさんはそう言ってから、一人目のおじいちゃんが座るテーブルに向かい合わせに座る。そして「あのおねえさんが書いてるのイラン語なんやて」と言う。一人目のおじいちゃんも「初めて見たなあ。おれも英語じゃないなあ、とは思うたんやけど、イラン語やいうのはわからんかったわ」と言われる。

「それで、なんや、イランに行く用事はないけど、文通相手がイランにおって、それでイラン語勉強しとるんやって」
「ほお、その文通相手は男なんかな、恋人やろか」
「それが女の人らしいわ」
「なんや男とちがうんか」
「それなのにわざわざ勉強するとはなあ、感心やなあ」
「いやあ、ほんま、イラン語勉強しとる人なんか見たの、生まれて初めてやわ」

 このおじいちゃんとおじいさんは別々の人なのに、なんでこんなによく似た発想でよく似たことを言われるのか、あんたら兄弟なんか、と思ってにっこりと会釈をしながら二人のお顔を見てみるけれど、外見は全然似てなくてたぶん他人。

 その後の落語の寄席のときに、このときのおじいちゃんとおじいさんが、後方の座席から「よっ、待ってました、大統領っ」などと芸の合いの手(というのだろうか)を入れておられて、ここの落語の常連さんであるらしいことがわかるのだが、休憩室ではただの日帰り温泉利用客にしか見えず、そしてそれはあながち間違ってはいない。

 そういうわけで、今日はペルシャ語で土曜日から金曜日までを書いて言えるようになった。しかし、突然に、では、月曜日は、と問われても、えーとちょっと待ってよ、土曜日がシャンべだから月曜日は土日月で、シャンべ、イェキシャンベ、ドゥシャンべだからドゥシャンべね、という程度の時間はまだまだ必要なのだけど。

 落語もたのしかったし、ペルシャ語で曜日も言えるようになったし、いいおでかけだったな。     押し葉

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どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

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