みそ文

フルート妖怪の参上と退散

 フルートの伴奏をピアノで弾きたい、という私の欲望のもともとのもともとは、実は前回書いた話よりももっとむかしにまでさかのぼる。

 結婚して間もない頃、私たちは奈良県の当麻町(當麻町たいまちょう)という町で暮らしていた。最寄りの公共交通機関は近鉄電車。
 
 その結婚して間もない頃、どういうわけか夫が、突如なにかにとりつかれたかのように「フルートを吹けるようになりたいなあ。フルート習おうかなあ」と言い出した。
 夫は小学校中学校の音楽の授業以外の音楽経験はなく、音符は読めないという。それでも何か音楽を、楽器演奏をしてみたいと思うのは実に素敵なことだと思うから、それはぜひぜひ習ったらいいよ、楽譜は慣れれば読めるようになるし、もしも難しい時には私が楽譜に読み仮名をつけてもいいしね、とすすめる。
 夫は「でもなあ、フルート買うの高いよなあ、うーん、中古を探したほうがいいかなあ、いきなり新品はなあ。習うところもどうやって探していいのかわからんしなあ」と迷い続ける。

 当時の私は現在よりももう少し「いらち(せっかち)」なところが若気の至りのひとつとしてあったのだろうと思う。夫に限らず誰に対しても、そんなふうになんとなく直感のような感覚が「やってみたいなあ」と感じることは、それが合法で適切な範疇のことであるならば、さっさとせんでどないすんの、四の五の言わんとさっさとやってみたらええやん、というような気持ちがふつふつと湧きあがるお年頃であったのだろう。

 うちの最寄り駅から近鉄電車で奈良側に二駅ほどいったところに少し大きな町があった。その町に何かの用事で行くたびに、この駅前にはこじんまりとしたよい楽器店があるなあ、と思っていた。そういえば、あの楽器店には通りに面したショーケースにフルートが置いてあったような気がする。フルートがどれくらいするものなのか、一度見に行ってみよう、と思う。私は一人で楽器店に入る。

 その楽器店にあるフルートは全て新品だったように思う。中古を取り寄せてもらうこともできるけれど、中古でそれくらいの値段で、新品でこれくらいの値段なら、新品で買ってもいいんじゃないかなあ。という情報を持ち帰って夫に情報提供するだけのつもりでいたのに、店頭でフルートを見ていたら、ああ、このフルートを夫が吹くようになって、別にそんなに難しい曲でなくてもいいから、簡単な曲であっても、夫がフルートを吹いて、私がピアノで伴奏できたら、夫婦で合奏ができたら、どんなにたのしいだろうか、とめくりめく妄想が広がる。

 夫は音楽に関しては、他人が演奏したり歌ったりするのを聴くことは好むけれど、自分では演奏しないし歌もうたわないのだと本人が言っていたから私もそのように認識していた。でも、それは、夫のそれまでの二十八年間がそうであっただけで、別にこれからいくらでも音楽を始めればいいよね、うんうん、それで夫がフルートを吹けるようになれば、私がピアノで伴奏して、老後や晩年は二人で合奏を楽しむの、くうっ、いいじゃん、いいじゃん、すてきじゃん。

 その日はとりあえず、あのフルートがいくらで、別のフルートはいくらで、初心者ならこれくらいからがいいのではないでしょうかねえ、とお店の人が説明してくださったことを記憶して、フルート教室のチラシをもらって、帰宅する。
 夫はあいかわらず「フルート吹きたいなあ。フルート習いたいなあ」と口走る。ああ、夫が今のフルート吹きたい意欲の勢いのどさくさにまぎれてフルートを習い始めさえすれば、私たち夫婦の老後の晩年の趣味の音楽生活の準備は万端なんだわ、と思う。

 その次の日もまた次の日も、夫は「フルート吹きたいなあ、フルート習いたいなあ」とうわ言のように口にする。よしよし。そこまで言うのであれば、これはもうフルート買っちゃおうよ、買って習おうよ、よーし、買っちゃおう、私が買っちゃう、秘密で買って夫にプレゼントしちゃうぞー。

 そして私は、自分にとって日常的に持ち歩くには少し大きな金額を自分の口座からおろして、となり町の楽器店に行く。こんにちは、先日見せていただいたフルートをください、と購入。
 ほくほくと、うきうきと、ケースに丁寧におさめられたフルートを抱えて帰る。いいなあ、フルートは、まあバイオリンもそうではあるのだけど、持ち運びが簡単なのがピアノに比べるとずいぶんと気軽でいいなあ、うふふふふ。

 仕事から帰ってきた夫との夕食を終える。夫はやはり「フルート吹きたいなあ、フルート習いたいなあ」と言う。私は「あのね、プレゼントがあるの」と話す。夫にフルートを手渡す。夫はたいそうおどろく。「高かったんじゃないの?」「うん、高かったけど、ピアノよりはずっと安いと思う。どうやらくんがフルート吹けるようになったら、年をとってから二人で、フルートとピアノで合奏できたらいいなあ、と思って」

 ねえねえ、開けてみて、と私が言うと、夫はいそいそとフルートのケースを開く。おそらく初めて手にするフルートを「こうかな」と言いながら連結して組み立てる。夫は、ほう、ほほう、と言いながら、フルートに口を近づける。「フルートを吹くときの口の形って、ちょっと横長なかんじだよなあ」と言って、それから少し息を吐いて吹く。音は出ない。「あれ、うーん」と言いながら、夫は何度かフルートに息を吹き込む。ぴーっ。

 わあ、鳴ったよ、フルートの音が鳴ったね、フルートだね、きれいな音だね、とぱちぱちと手をたたく私に、夫は「うん。鳴った。フルートの音がした。満足した」と言う。そして、夫はフルートを分解して拭いて、ケースに片付ける。

「え? それだけ? それでおしまい?」
「うん。フルート吹きたかったのが吹けた、満足した」
「ええと、これでフルートを習いに行けると思うんだけど、フルート教室案内のチラシももらってきたよ」
「うん、でも、もう、いい、習わなくていい、満足した。あとは、このキラキラを眺められたら、それでいい」
「えーと、えーと、自分一人での練習では、なかなか、きらきら星レベルでも一曲演奏できるようになるのはたいへんだろうと思うから、誰かの指導を受けたほうが吹けるようになりやすいと思うよ」
「うん、でも、もうフルート吹いて満足したけん、いい。別に曲は吹けなくていい。ありがとう。このフルート、銀貨と一緒に大切に保存する」
「いや、銀貨は保存して眺めるものかもしれんけど、フルートは保存して眺めるためのものじゃなくて、吹いて音楽を演奏するためのものだから」
「うん、でも、このフルート、プレゼントしてもらったから、あとはおれにまかせて」

 ええと、ええと、ええと、ええと。なんなんだ、なんなんだ、なんなんだ。
 さっきまでの連日の「フルート吹きたい習いたい」のうわ言はなんだったんだ。フルートというのは、ただ単にぴーっと音が出たらそれでいいものではなくて、音階の出る楽器なのだから、音階を組み合わせた曲を吹いてこそのものなのではないのか。
 ぴーっと一吹きフルートの音が出ればそれで満足なのであれば、なにもフルートを「購入」しなくても、一時的にお借りするような、たとえばフルート教室に体験入学だけしてみてその教室のフルートを借りて音を出してみる、などでもよかったのではないのか。

 学習。夫に何かプレゼントをするときには、本人がほしいと所望したものであっても、本人がそれをどの程度真に必要としているか時間をかけてよくよくよくよく観察して見極めること。自分がフルートのピアノ伴奏したいからといってその欲望のおもむくままに高価な買い物をするようなことは今後自重すること。それから、夫とのフルートとピアノのコラボに関しては期待せずに生きていくこと。

 それから、夫は、毎晩、フルートのケースを開けては、フルートの銀色のキラキラをしばらく手にとって眺めて、ニヤリとして、片付ける。ときどきフルートを拭くものでフルートを拭いて、フルートのキラキラを保つ。

 しかし、その後、奈良から大阪に引越してしばらくした頃には、もう、そのフルートはケースを開けて眺めてもらうこともなくなった。さらにその後、大阪から熊本に引っ越し、熊本から福井に引っ越しても、フルートの境遇に変化はない。
 今でもときどき、あのときのあのフルート、どうなっているんだろう、と、三年か四年に一度くらい気になって、私はこっそりと夫の部屋に入りフルートのケースを開けて見る。フルートは順調にサビている、というのだろうか、手入れをしていない金属特有の変色変質が進行している。
 ああ、うう、贈り物というものは、贈る側の贈りたい「気持ち」をのせるものではあるけれど、「気持ち」を超えた個人的な「欲望」がこもることで、贈り物を受け取る側のその物に対する興味が消失することがあるのだなあ。そして贈り物その「もの」がその「もの」としての本来の役割を果たさなくなることがあるのだなあ。

 あのときのことと我が家に今もいるフルートのことを思い出すと、今でも、贈り物に関しては、ああ、うう、と、願いごとも贈り物もままならないものであるなあ、という深々とした気持ちになる。あのときの自分の、フルートとピアノの合奏に対する鼻息の荒い欲望を思い出すと、さように突っ走らずとももう少し落ち着いたらよかったのにねえ、と思う。

 でも、若気の至り、というのは、だいたいそういうものなのだ。後年まで、ああ、うう、と思ってこその、若気の至り、なのだから。

 そういうわけで、我が家には、なぜか謎のフルートがある。誰もフルートを吹く人はいないにもかかわらずフルートがある。あのフルートは、夫に「フルート吹きたいよう、習いたいよう」と口走らせる「フルート妖怪」の参上によって我が家に仲間入りしたのち、その「フルート妖怪」のすみやかな退散とともに楽器ではなく置き物となった。

 思えば、あの頃、結婚した当初から、私の「フルートのピアノ伴奏をしたいです」の願いは、私の周りで浮遊し続けていたということなのかもしれない。
 当時からのその願いの強さと大きさ深さ以外にも、結婚十八年目という時間の長さもある程度なんらかのエネルギーを持っていて、だから、こうしていきなり三人ものフルート奏者の人たちと出会うような形として願いが叶いつつあるのだろうか。

 けれども、別に私はそんな三人もの大量のフルート奏者を求めていたわけではないのだ。転職せずに一人のフルート奏者と出会えるならそれで十分満足なつもりでいたのだけどなあ、と少し思う。
 いや、もちろん、今の職場で三人のフルート奏者の方々と出会えたことは大きな喜びではあるのだ。それは本当にうれしい。

 けれど、なんで三人もまとめてなんだろう、なんとなく出血大サービス過ぎるような、願いの叶い方が少々遅いわりにはやや激しすぎるような、どうだあっ、これくらい叶ったら満足いっぱいで嬉しいだろうっ、願いが叶うのにかかった時間のぶん喜びもひとしおだろう、と采配してもらえたのかもしれない微妙なさじ加減のようなものに若干の戸惑いを覚える。
 いやでも、もしかすると、出会ったフルート奏者が一人ではなく三人であるからこそのメリットというか実は私が特別強く意識することなく潜在的に願っていた何かが叶うからくりがそこにはあるのかもしれない。
 実際、現在の職場のフルート奏者の人たちは、三人三様に曲の好みが異なっている。だから、私が持っていった楽譜の中から選んでくれる曲目もそれぞれに異なり、そのぶん私が伴奏に取り組める曲の数は多くてわくわくする。それはたしかに、奏者が三人いるからこそのメリットでうれしいことではある。
 
 そう、きっと、おそらく私もどこかではもうわかってはいるのだ。願い事というのはこういう造りになっているということも、そこにはある種のしょっぱさのような駆け引きにも似たままならなさを伴っているということも。
 そして、愚痴や軽口で口にしただけのつもりでいたことが願いとして天に受けとめられ叶うことがあるくらいだから、本気の願い事として抱いたことが叶うときには、自分としては、私はこんなことを願っていたかしら記憶にあまりないのだけど、なぜこのタイミングでなのかしら、この願いが叶う過程として本当にどうしても自分がそれなりに気に入って馴染んでいる何かを手放す必要があるのかしら、なにかもっと別の願い方や叶い方が実はあるのに私はまだそれを知らないがために、ままならなさをままならなさとしてそのまま受け取るしかない境遇にあるのではないだろうか、と考えるわけだ。

 かみさま、そのあたりの、得るものの数や量やそれと引き換えのように手放すことになるものとの兼ね合いはどのような設定になっているのでございましょうか。
 ああ、それでも、本当は、きっともう、私は知っているしわかっているのだ。自分が気づいていない部分との兼ね合いも含めて、それはたしかにそれぞれがエネルギーの折り合いをつけてそういう形であるようになっていて、無駄なく安全で自分にとって適切な成り行きとなるように物事が展開しているということは。それが一見短期的には不本意や不安を伴うことであるように思えるとしても、不本意と本意はいつもある程度の一定数ずつ散りばめられているもので、自分が気づいた不本意を凌駕する本意のある場所に自分の身を置くかどうか、不本意がすでにあったことはなかったことにはならないけれど、それはそれとして、それとは別に実はすでに手にしているあるいは用意されている本意に気づいてそうなのかと自分がそう思うかどうか、どちらをより深く繰り返し味わい耽溺するか、それだけなのだというこは。

 それでも、願いごと研究家としては、思うがままに意のままに世界征服、とまではいかないとしても、せめてもう少し、自分で腑に落ちやすいような、少なくとも、ついとっさに天に向かって「ああ、うう、かみさま、これはもしかして、あのときのあれが叶って今のこれなのでしょうか。もっと私にとって都合よく感じられるタイミングや加減でというわけにはいかなかったのでしょうか」と少々物申し問い正したくなる気分の出現は控えめになるような、そんなやりようがもしかするとまだあるのではないかなあ、と、私にその余地と伸びしろがあるならそこも見てみたいなあ、と、さらなる高みを目指すのであった。     押し葉

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どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

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