みそ文

長次郎さんと義務教育

昨夜放映の「龍馬伝」の中で、亀山社中内で会計経理的業務を担当していた長次郎さんが亡くなられた。彼の悲しみや徒労感や後悔や彼の人生に対する満足感やそういういろいろな思いは、現代の中でどう昇華されているのだろうか。

「わしは難しいことはようわからんきい、長次郎に任せるきい」という龍馬さんの言葉に従って、グラバーさんと長州藩の武器お買いもの係の人との間に立って交渉を成した長次郎さん。けれど、そのお買い上げ品目のひとつである船の所有者名義と使用可能者についての契約内容はなかったことにしろという指示が出る。

おそらく交渉の現場にいた長州藩のお買いもの係の人は、グラバーさんにぼったくられることなくお買い物ができたのは、ひとえに長次郎さんの商い能力のおかげだと痛感したのだろう。だからこそ、亀山社中が「交渉手数料」をとらないというのであれば、せめて、船の使用権を認めることで、払わない手数料と同等以上の利益を得てもらえたら、と思うほどに感謝した。だから、船の使用権を亀山社中にも認めることに同意した。船籍を薩摩藩にすることについても、そのほうが政治上安全な背景があるのではなかったのか。

長次郎さんはほんとうは、亀山社中の経済状況に関して、龍馬さんや他の仲間たちに会計報告を行って各種協力を得た上で各種業務を行えたら、もっと円滑で安心だったのかもしれない。けれど、あの社中の中で、算術が必要十分にできるのは、おそらく長次郎さんだけで、他の「武士」の人たちは、あの時点では会計に関する話についていけるレベルの算術は身についていなかったのかもしれなくて、だから、長次郎さんの会計報告を聴いて理解するだけの能力はなかったのかもしれない。わざわざ「勘定方」という役割を置く背景には、そういった教育事情や実情があったのかもしれないなあ。そしてまた長次郎さん自身も、算術は得意であっても、自分が代表として任されて行った業務に関する報告連絡相談の必要性は知らなかったということなのか。

「こんな仕事をしました」「これだけお金を使いました」「現在と今後の自分たちの生活と業務継続のためには少なくともこれだけのお金が必要です」龍馬さんと長次郎さんが長州に向かう道中で、そういう話をする時間がなかったわけではなくて、そういう話をすることを思いつかなかったということなのかなあ。せめて道中でそういうような話をして、「船籍は薩摩に、使用権は亀山社中にも、ということで話をつけてありますきい。長州藩の人の同意も得ちょりますきい」という報告が、長次郎さんからなされていたら、龍馬さんも「そうか。もしそのことに関して、桂さんや他の長州藩士の人たちからの反発があるときには、場合によっては、そこは曲げにゃあならんときがあるかもしれんが、そういうこともあるかもしれん、いう、心づもりは、わしらも一応しちょくぜよ」と、意志の確認と共有作業を行うことができたかもしれない。

「社中の生計を成り立たせるにはお金が必要なのだ」という、現代社会に生きる者にとっては、ごくあたりまえでまっとうとされていることを考えている長次郎さんと、「社中が私利私欲に走ったら信頼を失うがぜよ」という龍馬さん(そして社中の他のメンバー)との間に横たわる溝は、おそらくそう小さくはない。お買いもの交渉の席で決めた船籍と使用者に関する条項は破棄せよ、という指示も、「あんさん、ビジネスにおける、契約いうもんを、必要経費いうもんを、なんやと思うてはりますのん」と、誰か言える人はいないのか、と、登場人物を見渡してみても、誰もいない。いや、グラバーさんや、小曾根さんや、おけいさん、などの豪商の方々ならば、そのあたりのことはよくご存じかもしれないけれど、彼らには「武士」に商いの手ほどきをする義務も必要性もない。龍馬さんもこの時点では「ビジネス」や「契約」の概念のない人だし、交渉役を担当した商業能力の高い長次郎さんすらも、「ビジネス」や「契約」を概念として持ち、その有用性や重要性を言葉で説明するには至っていない(ドラマ上の設定として)。

何かを概念として獲得し、そのことについて具体的に考えたり工夫したり落ち着いて話し合ったり相談したりできるのは、そのために必要な訓練を重ねていればこそなのだろうなあ。少なくとも、自分たちの生活費について具体的に計算したり計画したりできるくらいの算術技術は身につけて、他人が会計報告をしてくれるときには、その話についていけるようにはしておこうよ、そういうことができる人たちがごく一部の「勘定専門職」の人ではないように、できるだけたくさんの殆どの人がそうできるように、学校でこれくらいの算術はできるようにしておこうよ、そうして築き上げられたのが、きっと公教育なのだ。

算術だけではなくて、連絡も大切だよね、ということで、学校教育の特に初期の段階には「連絡ノート」を用いて、連絡事項を確認することの重要性を学んで訓練を重ねる。学級会やホームルームという場所で、連絡の仕方、報告や相談の仕方、怒鳴り合うのではなくて静かに会議する方法の訓練を重ねる。もちろん各教科で身につけば身につくはずの、観察力や思考力や考察力や判断力や行動力の元となる各種の力と基本回線を個人個人の中に設置することも重要だ。

そして、現在、わたしたちの多くは、その恩恵に与っている。その気になれば、会計報告を聴いたり報告書を読んだりして、それなりに理解することは、できる世の中になっていると思う。ある程度の得手不得手はあるとしても、家計のやりくりも団体経費のやりくりも、特別な算術の訓練を受けた人でなければできないわけではない。会計士さんや税理士さん等の活躍が必要な場合は、もちろんあるのだけれども。

大勢の人の中には、勉強が嫌いな人もいるだろうし、その必要性がわからない人もいるだろう。でも、仲間の会計報告や各種業務連絡をきちんと聴くことができないために、聴くために必要な基礎力を養っていないがために、その会計や業務を特定の人に任せきり、でも、任せたからといって全てを任せるわけではなくて文句は言うし批判もする、というような行為の積み重ねの結果、その人の志気が低下して、途方もない脱力感とあきらめの気持ちで苦しくそして悲しくなり、その流れや様々な事情で、その人の命を失うような哀しいめに遭うくらいなら、嫌でも苦手でも面倒くさくても、基本的な勉強くらいはするほうがずっとマシなように感じる。知識と教養を身につけるということは、場合によっては必要以上の悲しみを回避する力や、必要十分なよろこびを相当相応に味わう力を、高める側面を持つのかもしれないなあ。

ドラマの中の長次郎さんのような無念が繰り返されなくて済むように、そしてその他の多くの人々の無念や果たしきれなかった志を昇華するべく、先人たちは時間をかけて、公教育というシステムを整備した。整備されてもその中には、常に問題や課題があるだろう。けれども、公教育の整備によって、繰り返されなくてすんでいる無念や、果たすことができている志が、多くあるのもたしかなはずだ。

公教育の中だけではなくて、世の中全般、世界全般、疑問や不安や不満をおぼえれば際限がないけれど、それと同じかそれ以上に、ほんとうは、よろこびも安心も安堵も際限なくおぼえられるはずだ。だから、現代のシステムやサービスの中で享受している恩恵を、常に強くよろこんだり感謝したりする。それでも成長や向上の糧としておぼえる不満や不安については、必要に応じて適切に表出するけれど、常にその量と同等以上の満足と安心を表出する気概を持ちたい。


ところで、話は少し長次郎さんから離れるけれど、「龍馬伝」をこれまで見てきて、幕末歴史に関して、気になって気になってしかたがないことがある。

以前、海軍総連所が運営されていた頃に、その運営資金を、越前の松平春嶽さんに出資してもらうため、勝海舟さんからの特命により、龍馬さんが越前へと赴いたことがあった。あのとき、たしか、龍馬さんは、お金には「生き金」と「死に金」とがあって、春嶽さんに出資してもらうお金は、必ず「生き金」にしてみせますきに、と豪語して説得したように記憶している。

ドラマ用に作られた台詞とはいえ、松平春嶽さんから出資してもらったのが史実であるとするならば、という前提での気がかりなのだけれども、その後、海軍総連所は閉鎖となり、戻るところがある者は戻り、戻るところがない者たちは、亀山社中でカステラを焼いたり、薩長同盟のコーディネイトをしたり、している。それはそれでいいのだけれど、あのとき、松平春嶽さんに出資してもらったお金は、「生き金」になったと言えるのだろうか、というのがまず一点目の気がかり。

そしてもうひとつの気がかりは、あの出資金はきちんと返済されたのだろうか、あれは「借りた」お金ではなくて、「もらった」お金だったのだろうか、だとしたら返さなくても何の問題もないということなのだろうか、という疑問が二点目。

私が貸したお金ではないのだから、私が気にする筋合いは別段まったくないのだけれど、気になるものは気になるのである。松平春嶽さんは、おそらく視野の大きな方で、海軍総連所そのものが華々しく活躍せずとも、そこに関わった人物たちがのちに大きく活躍したことをもって、「生き金」となったと捉えて逝かれたのかもしれない。いや、私が知っていないだけで、実は、その後、勝海舟さんからきちんと返済されたのかもしれないし、返済はされなくても返済に相当する何かを得たのかもしれないし、私がそんなに心配しなくても誰も困りはしないのだけど、気になるものは気になるのだ。

もしかすると、私が知らないだけで、龍馬さんは、その後、亀山社中や海援隊で稼いだお金を持参して返金して、松平春嶽さんに「あのときはたいそうお世話になりました」と挨拶済みなのかもしれない。その話は、今後残り数か月の放映予定の脚本には書き込み済みなのかもしれない。

けれど、なんとなく、大きな仕組みを大きく変えるような仕事にかかわる「さだめ」や「天命」のような下にある人というのは、借りたお金は返したほうがいいのではないか、返すべきなのではないか、など、そういうある種の「瑣末なこと」は超越して気にしないところが必要なのかもしれない、のか、な、そうなのか、な、そうかなあ、と思ってみたり。

大きな仕組みが大きく変わる。そう、パラダイムがシフトする「とき」に立ち会った人たちの話が、私はきっと好きなのだ。だから、幕末の、いろんな立場のいろんな正義の中で生きた人々の物語に魅かれるのかも。「龍馬伝」も「篤姫」も「新撰組」も「徳川慶喜」も。これらの大河ドラマDVDドリル(繰り返し視聴)を、老後の楽しみのひとつとして、そろそろ、始められるところからでも始めれば、わたしがこの世を終えるまでには、十分に、あるいは十分の八割か六割くらいは、満喫することができるだろうか。DVD購入のために投資するその「上等な金額」は、私の人生において、「生き金」となるだろうか。     押し葉

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どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

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