みそ文

四十四の碁盤と碁石

昨日、夫が誕生日を迎えた。四十四歳。結婚したとき、夫は二十八歳で、その後、二十九歳、三十歳、と順を追ってお祝いしてきて、今年が四十四歳だということは、結婚してから十六回「お誕生日おめでとう」を伝えたことになるのだなあ。

今回のプレゼントは、碁盤と碁石にしようと、数日前に決めた。夫は、これまで長い間、ずっと将棋の人だったのに、半年くらい前から突然、囲碁の修行を始めた。修行の場は、インターネットのオンライン囲碁ゲーム道場と、書籍による先生からの指導と自主学習。実物の碁盤と碁石もほしいなあ、と思うことはあるものの、実際の購入にはまだ至っていない。それなら、と、私が、誕生日のお祝いとしてプレゼントすることにした。

インターネットの通販で買える碁盤と碁石のセットを見てみると、いきなり、何万円も何十万円もするものがたくさん出てくる。いやいや、我が家は狭い賃貸住宅暮らしだし、そんなに立派なのではなくて、コンパクトにお片づけができるようなもので、予算は一万円前後で、と希望を具体的にしてゆく。

誕生日の前日の夜、会社の飲み会から帰宅した夫に、「明日の、どうやらくんの誕生日のお祝いに、碁盤と碁石をプレゼントしようと思うんだけど、予算は一万円から二万円くらいまでで、買えるかな」と訊いてみる。夫は、「やったー。ほしいのある。あるあるある」と言いながら、NHK囲碁講座のテキストを持ってきて、その裏表紙の広告を見せてくれる。「ほしいのは、これかこれ」だといううちの、ひとつは折りたたみの碁盤とプラスチックの碁石のセットで四千円台。もうひとつは、折りたためない碁盤と硝子の碁石のセットで八千円台。「買うちゃる、買うちゃる、両方買うちゃる」と言う私に、「両方は要らない、一個でいい」と夫は言う。けれど、「碁盤は折りたためるほうがいいけど、碁石はプラスチックじゃなくて本物の石(硝子など)がいい」という希望があるらしい。それならそのつもりで、この広告を出しているお店のホームページを見てみようよ、と検索して見てみると、やっすいのから、たっかいのまで、選び放題であるらしいことがわかる。それで、なんだか、安心して、誕生日当日には間に合わないけれど、また、ゆっくり選んで買おうね、と、約束してから眠る。

ネット通販もいいけれど、もしかすると、意外と自宅の近くにも、碁盤碁石取り扱い店があるのではないだろうかと思い、誕生日翌日の朝に、検索して調べてみる。隣の市の、うちから車で四十分くらいのところに、碁盤、碁石、将棋盤、将棋駒を、製造修理販売しているお店が何件かあるようだ。それなら、直接お店に行って、実物を見比べて買おうよ、という計画になる。

碁盤屋さんに行く前に、モスバーガーでお昼ごはん。これもお誕生日プレゼントとして私がご馳走。

碁盤屋さんのお店に入ると、おじいさんが一人と、少し若いおじいさんが一人、向かい合って座っている。おじいさんがお店の人で、少し若いおじいさんはお知り合いの方の様子。「碁石と碁盤がほしいんですが」と言って、店員であるおじいさんに相談にのってもらう。折りたたみの碁盤がほしい、という私たちに、おじいさんが出してきてくれた製品は、少し分厚くて立派過ぎたので、「もう少し薄手のものはありますか」と尋ねる。おじいさんは、「あるはずなんやがなあ。どこかなあ。どこかなあ」と言いながら、あちらこちらを探してくださる。おじいさんが探してくださる間に、少し若いおじいさん(店員さんではない)が、「このへんのんとちがうんか? あ、これは将棋やな。でも、こういうかんじのがほしいんやろ」と、接客をしてくださる。しばらくして、お店のおじいさんが、「今、若いもんが、お昼ご飯食べに家に帰ってて、よくわからんが、もう少ししたら戻ってくるんだが」と教えてくださる。「それなら、もう少ししてから、また来ます。三十分くらいで大丈夫ですかね。じゃあ、お向かいの喫茶店で、ちょっとお茶を飲んできますので、その間、駐車場に停めてる車、そのまま置いててもいいですか」「ああ、そうしてくれるかね」ということに。

カフェでお茶も飲みたいね、と思っていたから、本当にちょうどよい展開で、お日様もうららかで、二人ともご機嫌で道路を渡る。喫茶店だと思ったお店は、小さな喫茶スペースもあるケーキ屋さんだった。夫はイチゴとブルーベリーがのったチーズケーキとアイスミルクティーを、私はシュークリームとホットキャラメルを注文。薄暗くもなく、かといって明るすぎもしない、さっぱりとくつろげるかんじのテーブル席に腰掛ける。夫はお店に置いてある雑誌を持ってきて開き、私はお店に置いてある絵本を取ってきて開いて、誰にも聞こえないくらいの小さな声で、静かにゆっくり音読する。そうしているうちに、お店の人がケーキとお茶を持ってきてくれる。「いただきます」と、一口食べて、二人同時に「あ、おいしい」と顔を見合わせる。「こっちに引っ越してきてから、一番おいしいケーキ屋さんかも」「じっくりとしたおいしさがある」と、二人とも大満足で、お皿についたクリームもフォークで丁寧にすくいとって食べきる。お店の窓からは、お向かいの碁盤屋さんの外の様子が見える。さっきのおじいさんとは異なる人の素早い動きが見えて、「碁盤屋さんの若い人、戻ってきちゃったみたいなよ」と夫に声をかける。

お店に戻ると、もうちゃんと、先程のとはまた別の、薄手の折りたたみ碁盤が二種類用意されていて、夫は、「こういうのがほしかった」と言いながら、最初に見せてもらったのよりは薄手で、でも、一番薄いのよりは分厚い「六分板」の碁盤を選ぶ。最初に見せてもらったのは「一寸板」で、それよりは少し薄い。碁石は、直径は同じでも、一番厚みのあるもの(10mm厚)と、一番薄いもの(7mm厚)では、ずいぶんと印象が異なる。その間に8mmと9mmのものもある。夫は「初心者なので、一番薄いので十分です」と言い、「ケースもありますか」と尋ねる。お店のおじいさんは、「一番薄い碁石なら、プラスチックのケースで入るな。厚いのだとこういう鉢になったやつでないと入りきらんのや」という説明とともに、プラスチックケースを出してくれる。そしてそのプラスチックケースに、ビニール袋に入ったままの碁石をぎゅうっと詰め込んで、「ほら、ちゃんと全部入って蓋もできるやろ」と見せてくださる。

「それぞれおいくらなんでしょう」と質問する私に、おじいさんは、「えーと、どうやったかなあ、ちょっと待ってよー、えーと」と言いながら、お店の商品価格一覧表のようなものをじっと見て、「板が二千円で、石とプラケースが合わせて六千円」と言われる。「石だけだとおいくらなんですか」と質問すると、「石は四千円」とのこと。「えーと、じゃあ、このプラスチックの箱だけで二千円するということですか」と言いながら、私が『それなら、プラのケースだけ、百円ショップで買おうかな』と思っていたときに、夫は『それなら、百円ショップで、缶の容れ物買うわ』と思っていたらしい。「ちなみに、厚みのあるほうの石はおいくらなんですか」と尋ねると、「厚いほうは六千円」とのこと。私が「そうですか。実は、板と石とケースと全部合わせて六千円くらいのつもりの予算だったものですから」と言うと、夫が「こちらのお店の、インターネットのホームページで、折りたたみ碁盤と碁石とケースのセットで六千円のが載っていたのを見てきたんですけど、その商品は、どのぶんになるんですかね」と続ける。

すると、お店のおじいさんは、「そうだったんですか。若い者がなんかやってるみたいなんやけど、どれがどれなんやろうなあ。でも、そういうことならいいですよ。その板と石とプラのケース合わせて六千円で」と言われる。私は内心『うわっ、いきなり、二千円のプラケースが、タダかいな』と思いながらも、「わあ、うれしいです。ありがとうございます」と微笑んでお辞儀する。夫も「じゃあ、この組み合わせで、いただいて帰ります。あ、もう、外箱も袋も要らないんで、このまま持ちます」と言うので、私は財布から千円札を六枚出し、お店のおじいさんに手渡す。おじいさんは「領収証書こうか?」と訊いてくださるが、「いえいえ、いいです」と応えて、夫にも「いいよね?」と訊くと、夫も「要らん要らん」と言う。お店のおじいさんは、「あ、碁石には、見栄えをよくするために、油のようなもの、体に害のあるものではないんですが、わざと塗ってありますけど、手触りが気持ちよくなければ、乾いたタオルで拭き取ってくださいね。そのまま使ってもらっても大丈夫ですけどね。あと、うちの碁盤や将棋盤は、木のは、全部うちで作ってますんで、ご要望があれば、どんな素材でどんな大きさにもできますから。ほら、車を停めてもらってるところにも、たくさん木の板が干してあったでしょう。ああやって、板を切り出して乾かすところから、全部うちでしとるんです。よかったら、商品一覧も持ってってください」と、薄い冊子を手渡してくださる。夫と私はにこやかに、「ありがとうございました」と挨拶して、扉を開けて店を出る。

車に乗って、「よかったね。今日は、お昼ご飯も、久しぶりのモスバーガーだったし、碁盤も碁石も実物を見て選べたし、思いがけずおいしいケーキにも出会えたし」と私が言うと、夫は「やったね」と合いの手を入れる。私が運転する横で、助手席に座る夫が「そうだ。もらった価格表でも見よう」と言って、ぱらぱらとページをめくる。少しして、夫が、「あ、あった。一番厚い硝子碁石は、おっちゃん六千円って言ったけど、七千円って書いてあるなあ。俺らが買った一番薄い硝子碁石とプラスチックケースの値段は四千七百円って書いてある」と教えてくれる。「ああ、やっぱり、プラケースだもんね、せいぜい七百円だよねえ。二千円は上等すぎるよ」と私が言うと、「でも、たぶん人によったら、なんかこのおっちゃん、ようわかってないみたいやし、まあ、ええわ、プラケースが二千円でも、合計八千円、払う、払う、て人もいるのを見越した、あの店の戦略ちゃうかな」と夫が言う。

「戦略かあ。あの一連の接客が、演技だったらすごいよねえ。向かいにいた少し若いじいちゃんも含めて。でも、あのお店のじいちゃん、何歳くらいだろう。八十にはなってないかんじかなあ」
「七十代後半ちがう?」
「そうだよね、そんなかんじだよね。でも、そう思うと、ずいぶんしっかりしてはるよね」
「そりゃあ、やっぱり、人相手にして、お金のやり取りしてたら、頭使うからなあ。なかなかボケにくいんやろう」
「そうじゃねえ。商いって、老年の時期をすこやかに生きるための手段として、いいよねえ。碁盤と碁石とケースも、思ったようなものが、思ったような値段であってよかったね」
「うん。よかった。探せば、同じくらいのものが、もっと安く手に入るところもあるんかもしれんけど」
「でも、いいよ。六千円なら、十分に予算以内だし。実物を見比べて買うことができたし」
「それに、あのおっちゃんの接客は、ネット通販じゃ、味わえんしな」

碁盤と碁石が自宅にあると、たとえば、ネットで対戦し終えて、「あのとき、あそこで、あの手ではなくて、こうしていたらどうだったんだろう」「どうしてあそこで逆転されてしまったんだろう」というようなことを試行錯誤して確認や復習をしたり、書籍に載っている内容を自分で応用して転がして考えたりするときに、とても役に立つのだそうだ。

夫の実家では、義父が理髪店を営んでいる。義父は囲碁歴五十年以上のベテランで、お店にも、自宅の居間にも、私たちが帰省したときに泊めてもらう和室の床の間にも、碁盤と碁石を置いている。お店と居間のは折りたたみ式で、床の間にあるのは、四本足がついているでっぷりとしたかなり大きな直方体の塊。昨年末に帰省したときに、初めて、義父に、生の対戦相手をしてもらった夫は、たくさんのハンデをつけてもらっているにもかかわらず、「オヤジとは互角で、たぶんもうじき追い越す」と、謎の豪語をしていた。

今日からようやく、実物の碁石と碁盤で自宅練習できるようになった夫に、「この調子で練習してたら、何十年もしないうちに、おとうさんと互角に勝負できるようになるかもしれんね」と言ってみる。夫は「何十年もかからんって。年末のときは、いっぱいハンデつけてもらったけど、それでも互角じゃったし(私にはその理屈がもうひとつよくわからないのだが。ハンデをつけてもらうということ自体が、互角ではないという証なのではないのかなあ)、たぶんお盆にはもう、ハンデ、前の半分くらいになるし、今度の年末に帰省したときには、初対戦から一年だけど、たぶん、もう、オヤジを追い抜くわ」と、不思議な自信をみなぎらせている。     押し葉

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どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

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