みそ文

なにものでもなく

自分が好きなこと、自分がせずにはいられないこと、何かに突き動かされるようにそうしてしまうこと、などが、私には何かあるだろうか。ないから残念、というわけでも、ある人がうらやましい、というわけでも、自分にもあったらいいな、というわけでもないのだけれど。どちらかというと、私は、折々に、私には、そういうものが特別見つかっていなくて、よかったなあ、と思うのだ。

そうせずにはいられないものが、たまたま、個人的にも家庭的にも社会的にも受け容れられやすい種類のものであれば、問題なく平穏に過ごしやすいのだろうけれど、必要以上に手を洗わずにはいられなかったり、自分の髪の毛を抜かずにはいられなかったりする「強迫性障害」的な表れ方をしたときには、それはそれで本人も周りもいろいろとつらいものがあり、その治療にも折り合いにも手間や時間が多く必要だ。あるいは、自分の中から、止めようのない犯罪傾向が突き上げてくるとしたら、ただの「残念」や「途方に暮れる」ではすませることなどできないほどの断続的な絶望と無縁でいられる自信がない。自分の中から突き上げてくる何かが、常に自分にとっても周りにとっても望ましいものばかりであるとは限らないことや、その内容が選び放題なわけではないことを思うと、「突き動かされるもの」という大雑把な分類のものを、自主的に召喚するような願いを発動することには、慎重にならざるを得ない。

木々や葉緑の佇まいに、空と稜線の境に、ふと、こころ奪われてしまうとき、乾いた空気と風がさあっと身を清めてくれるとき、しっとりとした雨音に全身がそばだつとき、もしも自分が絵を描く人だったら、こんなときも脳内では絵筆が自動で動くのだろうか、詩を詠む人ならば、歌を詠う人ならば、ことばが体を駆け巡るのであろうか、音楽を奏でる人であれば、そこには常に音とメロディがセットになっているのだろうか、などと、知らない世界を想像する。けれど、私は、ほぼいつでも、どんなときにおいても、なにものでもない。だから、その場に、その空間に、その時に、身を任せ、こころを委ね、そこにある様々なものを浴び、そこに存在する自分を感じる。いつでも、ただそれだけのことに、専念できるのだ。

私は常になにものでもなく、別段何も突き上げてはこず、穏やかに和やかに、ときには激情の波風とともに、ひたすらに自分と周りのあらゆる存在を味わう。エネルギーの流れる様や、それらが繋がり離れては、また別のところで繋がる様を、飽きることなく堪能する。そうするとき、そうなるとき、私はいつも、自分には何も特筆すべき各種才能が備わっていないことに、完全なよろこびと安堵と悦楽を、そして、もしかすると若干の優越を、覚える。

なににも突き動かされることなく、中途半端であることも、存分に集中することも、ある程度以上、自分で制御できる状況や境遇に、うっとりと酔いしれる。そして、なにかに突き動かされるようになにごとかを成す人々の、その躍動するエネルギーを、眺めたり浴びたりしては、その濃厚さにしびれる。私は、自分自身が躍動することや濃厚であることよりも、そこにいること、そこに在ることを、よろこぶことを担当する「なにものでもないもの」なのだろう。その「なにものでもないもの」として、その役割をまっとうする気概はいつだって十二分だ。     押し葉

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どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

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