みそ文

カレーひとすじ

大人になってから、なんとなく思うのは、「感謝」というものは、まず自分の内側に、じんわりと、あるいは、突き上げるように、「湧いてくるもの」であって、感謝しなくてはと義務感に駆られるようなものではない、ということだ。自分の内面に湧き上がってきた「ありがたい」という気持ちを、言動で表出することも「感謝する」ことに含まれるだろうが、その表出の仕方やスタイルは、各人の習慣や表現特性によって異なる。

私はどちらかというと、言葉にすることにこだわる習慣と表現特性を持つタイプだ。だから、「わざわざ言わなくてもわかるだろう」と期待することも判断することも多くない。自分の脳がいつまで正常に言葉を紡ぐ機能を保てるのだろうかと、折々に気にして生きるくらいだから、ほとんど常に、言葉は惜しんでいないと思う。けれども、その結果、いろんなことを、言葉にのせて、つまびらかにしすぎることでの、くどさやイタさが現われる傾向も、そこにはあると思う。

よそはよそ、うちはうち」の教育を施しつつも、「おまえらはもっと感謝せんにゃあいけん」と言う父の真意としては、私たちきょうだいや家族が、こうして暮らしているなかで、安心や安全や便利や快適を享受してることへの感謝を意識する人であってほしい、という思いがあったのだろう。おかげで、現在、私たちきょうだいは、その父の願いが叶った形で、日々を暮らしていると思う。

少し具体的な話になるが、父がそうやって「おまえらはもっと感謝せんにゃあいけんじゃろう」と子どもたちに言うときというのは、たいてい、食卓の品数の多さについて言及するときであった。たとえば、「今日の夕ご飯はカレーよ」と母が言えば、カレー大好きな子どもたちは「やったー!」と喜ぶ。しかし、カレーだけでは、生鮮野菜が足りないね、という観点もあり、母はサラダも作ってくれる。うれしいなあ、うれしいよね。けれど、母の立場としては、カレーとサラダだけでは、やや高齢の祖母(父の母)には少しつらいかも、と思うから、祖母にはカレーは小鉢におかずのひとつとして小さく盛って、サラダ以外にも、煮物も、お刺身も、お漬物も、お吸い物か味噌汁も、少しずついろいろと、用意して並べる。この「少しずついろいろ」というのは、父の好みでもあった。いろんなものが少しずつ品数多く食卓にのっている風景と味わいを、父はこよなく愛していたし、母もそれに応えることを、ある程度自分に課していた。

けれど、小さな子どもにとって、大好きなカレーがあるところに、サラダは仕方がないとしても、煮物や刺身や味噌汁は、かなり、そうとう、必要ない。できることなら、サラダも省いて、カレー一筋に集中し、可能な限りカレーのおかわりをし続けたい。なのに、品数の多さを愛する父は、そこで子どもたちに言うのだ。「よその家ではカレーだったら、カレーだけというのがふつうで、カレーがあるのに、他のおかずもこんなにたくさんあるというのは、ありがたい恵まれたことなんじゃけん、おまえらはもっと感謝せんにゃあいけんじゃろう」と。『この父は何を言っているのだ。その情報が本当ならば、うちよりよそのほうがいいじゃん』と、おばかな子どもは本気で思う。

たしかに、いろんな食材を、品数多く少しずつ、食品として摂取することは、身体にとって望ましいこともあるだろう。そうできることの幸運に感謝を覚えるのもわかる。けれど、覚えたその感謝を言動で表せというならば、どうすることがその表現にあたるのか、父は私たち子どもに対して、手本を見せる必要があったのではないかと思う。品数多く食卓を用意した母に対してねぎらいの言葉をかける姿を見せるなり、天地万物に対する感謝を毎日神棚や仏壇に向かって思いを込めていると話すなど。食事ごとに両手を丁寧に合わせて、「いただきます」「ごちそうさまでした」ときちんと言葉にする以外に、恵まれた境遇に感謝をあらわすということは、どのようにすることなのかを。「感謝しろ」と一方的な言動を求めるのではなく、「ありがたいなあ。うれしいなあ。今度の休みには、みんなでお墓参りに行って、この感謝の気持ちをご先祖様たちに伝えよう」と言われたとしたら、おばかなお子様であっても、自分の周りのあらゆるものに感謝を覚えるということを、その感謝を形に表すということを、より自然で日常的な行為として、感じたり理解したりしたのかもしれない。

そう、あの頃、子どもの私にとっては、父が私たち子どもに諭す「感謝せんにゃあいけんじゃろう」は、父の好み(食卓に品数多くおかずがそろえてあること)に同調することを求めていると同時に、その好みの実現による恩恵を受けることができているのは、父の経済力によるものなのだから、父に対する感謝の言葉をもっと再々述べなさい、と、いう意味合いを多く含んでいるような気がしていたのだ。

子どもはだいたいおばかだから、その程度の誤解をするのは簡単だ。ただ、もしかすると、と思うのは、実は誤解は誤解ではなく、その解釈もそれはそれで正しかったのかもしれない、ということだ。食卓の品数の、好みひとつをとってみても、父の好みと私の好みは大きく異なっているということが、あの場面では学習可能だ。そうであるということは、私はきちんと大きくなって、しかるべきときに親元を離れ、自分の好みに合致した独自の食文化生活を営む欲求を満たすべきだということなのだ。

当時の父の真の狙いが、どのあたりにあったのかについては、謎のままにしておきたい。が、謎も含めて、父が父として、私たち子らに与えてくれた多くの機会と幸運を思うとき、そのことを特筆して思い出すわけではないとき、どちらのときも、私の中には、大きくて太い源泉のような感謝がいつも湧き続ける。     押し葉

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どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

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