みそ文

狸(たぬき)の岩魚(いわな)

以前、熊本に住んでいた頃、何回か、温泉付きのキャンプ場に泊まりがけで遊びに行ったことがある。屋外で汗をかいて疲れても、ゆっくりしっかりお風呂に入ると、すっきりさっぱり快適に、テントの中で眠りにつくことができると知った。そのキャンプ場は、たいへんよく整備されていて、各テントサイトまで、各自の車で乗り付けられる。その奥に平坦な芝生サイトがあって、テントやタープはそこに設置する。水道も流し台もある。レンガで組んだカマドもある。なんと、電源まである。本格的なアウトドア派には、へなちょこでちょこざいなキャンプ場かもしれないけれど、へなちょこでちょこざいな私には、なかなか適した場所だった。

初めて遊びに行ったときには、下界の暖かさに油断して、山の寒さを甘く見ていて、寝具が足りず寒くて困った。でも、焚き付け用の新聞紙をばらして、それを体に重ねてかければ、ちゃんと温かく眠れるということも知った。だけど、じきに暑くなりすぎて、汗だくになってしまうということも、そのときに学習した。

そのキャンプ場に、何度目に行ったときだろう。飯盒で炊いたごはんと肉や野菜を炭火焼きにした食事もすんで、温泉のお風呂もすませて、夜空も心底満喫して、じゃあ、寝る前に、トイレに行っておきましょう、ということで、夜道をてくてくと歩く。テントサイトからトイレまでは、十数メートルから数十メートルの距離だろうか。

トイレから先に出てきた私は一人、濃く深い夜の空と星を見上げながら、夫が出てくるのを待つた。そうしたら、見知らぬ男性が何か声をかけてきた。年のころは、二十代前半だろうか。十代後半だろうか。わりと小柄な男性だ。男性は「シオナカトデスカ」と言う。何を意味する言葉なのかとっさに判断できなくて、「え?」と聞き返す。「シオナカトデスカ」「は?」何度言い直してもらっても、やはり聞き返してしまう。でも、そのおにいちゃんは、とてもとても根気よく、でも言い方を変えることもなく、「シオナカトデスカ」を繰り返してくれる。何度か聞き返しているうちに、「塩なかとですか?(塩ありませんか?)」であることが判明した。

そこで夫がトイレから戻ってきて、「どうしたの?」と聞いてくる。「あのね、塩がほしいんだって」「塩?」「はい。すみません。下の川で、友達といっしょに、岩魚をとってきたんですけど、炊事場で炭火で焼いて食べるのに、塩がないことに気がついて。もしもあれば分けてください」という意味のことを、濃い熊本弁で話してくれる。

「いいですよ。テントサイト、ちょっと遠いんですけど、取りに来てもらえますか?」ということで、三人でテントサイトまで歩いて、塩の瓶を手渡してあげる。「ありがとうございます! 使い終わったらすぐ返しに来ます!」「明日の朝ご飯までに返してくれればいいですよ。私達、もう寝ちゃうんで、返しに来てくれた時に、もう寝てたら、この辺に置いておいてくださいね。」と場所を指定しておく。

おにいちゃんは、嬉しそうに、塩を片手に去ってゆく。おにいちゃんが立ち去りきったのを確認して、夫が言う。「狸(たぬき)だ!」

「え? 別に狸顔の人じゃなかったよ」
「違う! 本物の狸だ! おかしいじゃろう。こんな夜中に川で魚とってくるって」
「でも、狸なら、生で食べるんじゃないの?」
「人間が魚を焼いて食べてるの見て、やってみたくなったんじゃないか?」
「塩もそれで真似するの?」
「そうに違いない」
「じゃ、友達っていうのは、仲間の狸?」
「そうだ」
「へえ。地元の狸じゃけん、熊本弁も上手なんじゃね」

テントの中で毛布にもぐりこんで、ランプも消して、静かに夜の音を聴く。くすくすと笑いながら。「しおなかとですか?」って、すぐには聞き取れなかったよ。熊本弁の道は険しいね。と話しながら。

どれくらい経っただろう。少し眠気が訪れた頃、「すみませーん。すみませーん」と小さな声が聞こえてきた。あ。塩返しに来てくれたんだ、と思って起き上がろうとしたら、夫が肘で私を制する。そして、声を出さずに、口の形だけで言う。「出るな。ばかされる」

じーっと、静かに過ごす。「すみませーん。塩、ありがとうございました。ここにおいておきまーす」

した、した、した、と、去って行く気配。「このまま寝よう」と夫が言う。

「塩は? 湿気ないかな?」
「いい。いい。明日の朝見ればいい」

ちょっとだけなら、ばかされてみてもいいのにな、と思いながら眠りに就く。

翌朝。塩は湿気ることもなく、指定の場所にちゃんと無事に置いてあり、朝ごはんのゆで卵に、問題なくかけて食べられる。と、思っていたら、園内放送が。「みなさま、おはようございます。忘れ物のお知らせです。協同炊事場に、岩魚が置いてありました。心当たりのある方は、管理事務所に取りに来てください。くりかえします、共同炊事場に岩魚が置いてありました」

「うわ。きっと昨日の夜の岩魚だね」
「なー。狸だろうー?」
「じゃあ、泊まらずに帰ったのかな」
「そりゃあ、狸じゃもん。自分の巣があるじゃろう。あんな夜中に来たら、管理事務所も開いてないから、入園料なしで入れるし。タダで日帰り利用したんじゃろう」
「でも、岩魚、全部食べられなかったんだね」
「狸と言えども、乱獲は、いかんやろう」
「それかあまりに美味しくて、キャンプ場の利用料として置いていったか、キャンプ場の皆に食べてね、っておすそ分けかもよ」
「といっても、そんな放置してある魚、今時だし、真夏だし、食べられんわなあ。昨日の夜も、塩のお礼だとか言って、岩魚を葉っぱに乗せて持ってきてくれてたら、どうしようかと思ってた」

こうして、あのおにいちゃんは、狸、ということで、私達に記憶されることとなった。

その後も、そのキャンプ場に行く度に、「また、あの狸に会えるかな」と楽しみしていたけれど、狸もその仲間達も、岩魚の塩焼きは、あのときだけで満足したのか、もう会うことはなかった。     押し葉

 | HOME | 

文字サイズの変更

プロフィール

どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

ときどき、思い出したように、いただいたメッセージへのお礼やお返事をリンク先の「みそ語り」に書いています。よろしければ、いつでも、どうぞ、どなたでも、ご覧ください。「みそ語り」では、メッセージをくださった方のお名前は書いておりませんので、内容から、これは自分宛かしら、と推理推察しながら読んでいただければうれしいです。手の形の拍手ボタンからメッセージをくださる場合は五百文字以内、文字の方の押し葉ボタンからメッセージをくださる場合は千文字以内となっております。文字数制限なくお便りくださる場合には、下のメールフォームをご利用ください。

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

最新記事

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (0)
暮らし (109)
仕事 (161)
家族 (300)
想 (23)
友 (47)
学習 (79)
旅 (16)
心身 (8)

FC2カウンター

検索フォーム

FC2Ad

Template by たけやん