みそ文

被害届けは力を抜いて

大学生のときの夏休み。帰省先の実家から四国のアパートに戻った。ルームメイトはもうすこし実家でゆっくりするらしい。夜になって、さてお風呂に入りましょう、と、着替えを出そうとしたところ、ない。下着がない。パンツがない。今一度、気持ちを落ち着けて、下着を片付けてある場所を、もう一度よく見てみる。やっぱりない。えーと、これは困ったが、どうしたものか。もしかすると、これが噂に聞く「下着泥棒」というやつか。気持ち悪くて、気持ちがわさわさどきどきする。とりあえず、誰かに話を聞いてもらって、気持ちを落ち着けよう、と決めて、近所の友人に電話する。友人は、「ひとりでいるのは危ないから、今夜はうちにとまったら?」と提案してくれる。「夜道はひとりじゃ危ないから、今から、どうだくん(友人の彼氏)に迎えに行ってもらうね」とも。

どうだくんが来てくれて、友人の部屋に移動して、ひと息ついて、ようやく、警察に被害を届け出ることを思いつく。警察に電話をしたら、すぐに捜査(という呼び名で合っているのだろうか)に来るとのこと。自宅で待っていてください、との指示を受けて、また自分のアパートに戻っていく。どうだくんと友人も一緒に来てくれることになった。

警察の人たちは、思ったよりも大人数だ。家中あちこちの指紋を採取する作業が行われる。被害届けに記入するため、おまわりさんらしき装束の人の質問に答えていく。住所と名前と、被害に遭った物の名前と個数と素材と色と模様と、ことこまかに聞かれる。が、日常生活の中で私は、自分のパンツの枚数をきちんと把握したことがない。素材となればさらに記憶していない。色柄をとっさに正確に書き出せるほど、観察も記憶もしていない。それでも、だいたいでよいからと、説明されて、書類に書く自分の下着の枚数と素材と色柄を決定した。

ルームメイトの下着もおそらく被害に遭っているのだろうが、どこに片づけてあるのかも、数が減ってるのか増えているのかも、私ではわからない。彼女の分は、また後日、被害があれば届け出て、被害がなくても、指紋照会のために一度、警察に出向いてもらえるよう伝えてください、とのことだ。

私の分の指紋を用紙にとる作業が始まる。指先に朱肉かインクのようなものをつける。おまわりさんが私の手首と手の甲を軽くつかんで用紙の規定枠に誘導してくれる。おまわりさんは、緊張してこわばり気味の私に、「緊張せずに、力を抜いてください」と言う。だから私は素直に力を抜いた。そうしたら、ちょっとした沈黙が訪れたあと、おまわりさんが今度はこう言い直してくれる。「えーとですね、力を抜くのは、指先だけでいいです。体の力は入れたままでいてください」

はっ。そうだったのか。それもそうだよな。私はどういうわけか全身の力を抜いていた。正座をした畳の上で、片方の手首だけおまわりさんにつかまれた状態で、へなへなへたへたと、上半身から頭の先まで倒れこんでしまっていた。けれどよく考えてみなくても、この場面と状況において、私が全身を弛緩させる必要は、どこにもないのだ。いや、びっくり、びっくり、ああびっくり、と思いながら、こそこそと、なにごともなかったかのように起き上がり、指先だけの力を抜いて、所定の枠に指紋をきれいに押す。その後も指示通りに作業を続けて、被害届け作成終了。それからしっかり戸締りをして、再び友人の部屋に戻る。そこで一晩泊めてもらって目が覚めて、私はようやく落ち着いた気持ちを取り戻した。

後日、アパートに戻ってきたルームメイトに、自分の下着を確認してもらう。やはりルームメイトの下着も盗まれていた。「こんな書類をこんなふうに作るんだよ」と口頭で説明しながら、私もいっしょに警察まで出向く。警察では、彼女の指紋の届出と、彼女の分の被害届けを作成する作業を行う。それらの書類は、私の分の被害届けと一緒にまとめてファイリングされた。そのファイルはとても分厚くて、私たち以外の被害届けも大量に綴られている。同様のファイルは一冊だけではなく何冊も山のように積んである。膨大な量の被害届けを目の前にして、ルームメイトと私は、「このうちのほとんどは、犯人が見つからないままなんじゃろうね」「私らのも、わからんまんまになるんかもしれんね」と話しながら帰る。結局、その予想通り、私達が被害に遭った事件の犯人は見つからないままであった。けれど、その後に被害の再発がなかったのは、あのとき、すかさず警察を呼んで来てもらったのがよかったのかもしれないな、と思う。

教訓その一
力は全身全部抜くと体が倒れるようになっている。

教訓その二
下着を一度に買い揃えようとすると、けっこうな金額と労力が必要で、財布の力も気持ちの力も必要だ。     押し葉

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どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

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