みそ文

翻訳大会「とりえ」

ご注意:今回の日記は、やや面倒くさい内容なので、そのつもりで読むなり読まないなりしてください。


翻訳にときどき困ることばがある。といっても、外国語から日本語への翻訳ではなくて、日本語から日本語への翻訳(日日翻訳)。こういうことはよくある。翻訳がうまくできないばかりに、毎回毎回脳が詰まる。

脳が詰まる、というのは、思考がそこでひっかかって、あれ? あれれ? と戸惑ったり、繰り返し同じことを考えたりして滞ったかんじがすること。

けれど、地道にこつこつと日日翻訳に取り組めば、あるときふと、脳の詰まりがとれてなくなり、すんなりと快適にこの世を過ごせるようになる、こともある。というわけで、自分の健やかな脳みそのために、ときどき翻訳作業にいそしむ。

前々から取り組んではいるのだけど、未だになかなかよい翻訳に至らないのが、「元気な(丈夫な)だけがとりえ」ということば。他にも翻訳に困っていることばはたくさんあるけれど、常に上位に入るのはこれ。

念のために言っておくが、実際誰かがこう言うのを目の前で聞いたからと言って、その人のことを咎めたり、異議を唱えたり、質問攻めにしたり、はしていないので、ご安心いただきたい。ただ勝手に、自分の脳みその中が、ぐるぐるぐるぐるするだけだ。

「元気な(丈夫な)だけがとりえ」。このことば。一見謙遜に見えるのだけれど、実は自慢なのだろうか。「元気なだけが」と限定することで、さも、「とりえ」が少ないような、一個だけしかないような、印象を与えている。けれど、実際のところ、「とりえ」が一個だけ、なんて、どんな人なんだろう。(「とりえ」とは「役に立つ点」「よい点」「長所」と国語辞典には書いてある。)しかもその「とりえ」が「元気」なら、元気をベースにして、さらに「とりえ」が増えるではないか。世の中、元気だからできること、元気じゃないとできないことは本当にたくさんある。元気ならば、おそらく、よりたくさんの活動ができる。ということは、「元気なだけがとりえ」というのは、「私はたくさんの活動ができるよ」という意味なのか?

実際の用例を出して考えてみよう。

用例その一。
誰かが忙しそうにしているときの、応援とそれに対する応え。
「忙しそうやねえ。体には気いつけやー。」
「だいじょうぶー。私、元気なだけがとりえやから。ありがとねー。」

合ってるか? この用例。まあ、合ってるとしよう。この場合は、自分の忙しさをねぎらい応援してくれる人に対して安心感を与えたい、という思いがあるのだな。「わたくし、今のところは、充分に体調が整っています。余裕もたっぷりあるので、心身ともに健康状態は上々です。だから高速で動いて、エネルギーの大量消費をしても大丈夫なんです。ご安心ください。」ということだろうか。ついでに言うなら、「あなたがいつもそうやって、ふとしたときに私の健康を思って念じてくださるから、おかげさまで、元気に人生楽しんでいます。感謝してます。ありがとう。」という気持ちもあるかもしれないな。


用例その二。
誰かが思いがけず何かの病気、しかも結構重めの病気にかかったときの本人談。
「私は元気なだけがとりえだったのに。」

この場合は、元気が過去形になっている。ということは、今はもう、そのたった一つのとりえがなくなってしまった。だから自分の価値はひどく低下してしまった。とりえがない自分なんて、なんの存在意義もない。わけはないんだけど、うっかりと、そう思いそうになるくらい、今の自分は不幸な気持ちだ。ということなのか。それとも、元気がとりえなのだから、自分は病気になるはずはないのだ。なのに病気の診断を受けるのは、予想外で想定外で困惑している。ということか。あるいは、病気になるはずないと思い込んでいた、過信していた、だからセルフケアもメンテナンスも怠っていた、けれど自分は何も悪くない、過失もない、けれど後悔してしまう。そんな気持ちのあらわれなのか。それとも、そこまで思考の段階を踏んだ意味はなくて、ただ単に、「不本意である」という意味の比喩なのか。

不本意に関する表現は、実はけっこう奥が深い。
「どうして私(だけ)がこんな目に」=「とにかくひたすら不本意です。その気持ちを発露中です。」
この日日翻訳は、すでに完了したものである。これに関しては、もう脳の詰まりはない。
この場合の「どうして」は、本当に本当の理由が知りたくて用いる疑問詞ではない。不本意であることを表明する時の枕詞的用法である。なので、この人がこんな目に遭う背景を鑑みたり、原因と思われる理由を予想して提言したりするのは、多くの場合適切ではない。
「私だけが」というのは、何十億人もの地球人口の中で、本当に自分一人だけだ、と、言っているわけではない。「少数派で孤独で不安な気持ち」であることを表現する比喩的用法である。だから、これに対して、「あなたと同じ境遇の人やもっと厳しい境遇の人はいっぱいいる。」と当たり前のことを言うのは、適切さに欠ける言動となる。もし何かするのであれば、少し落ち着いた頃を見計らい、「同じ境遇の人たちが情報交換できるところがあるみたいだよ。」などの、情報提供するにとどめたい。

不本意であることの発露、は、発露だから、ただ、発露するしかないのだ。その行為により何かが解決改善するわけでなくとも、人にとって「発露」という行為そのものが必要な時もあるのだ。


用例その三。
「君はいっつも元気やなあ。」
「はっはっはー。元気なだけがとりえなんですよー。」

この場合は、謙遜の効果を狙っている、と思われる。
元気なのはとりえなんですけどね、頭はわりかしばかなんで(あくまでも例として)。それに続く言葉はなんだろう。
「あんまり期待しないでください。」ちがうなあ。
「充分お役にたてないかもしれません。」これもちがうなあ。
「全然偉くないんです。」これだ! これだな。


ということは、用例一は感謝、用例二は発露、用例三は謙遜、となるのか。

けれど、感謝や謙遜として使うときは、少し注意が必要かもしれない。。闘病中の患者さんや、その周りの人に対しては、「元気なだけがとりえ」という言葉の使用は控える配慮が適切なこともある。元気の定義は人それぞれだろうけれど、元気を渇望している人にとっては、あるいは、渇望しても元気というものを完全に充分に得られそうにない人にとっては、そして渇望のあまり心身の余裕が低下している人には、「元気なだけがとりえ」だと言うその「元気さ」も「あどけなさ」も、まぶしすぎて痛すぎる場合がきっとあるから。感謝ならば「おかげさまで。ありがとうございます。」と、謙遜ならば「いや実は、なかなかそれほどでもないんです。」と言うほうがよいときもありそうだ。

でもどんなに苦しい状況でも、どんなに重篤な病状でも、どんなに死期が迫っていても、気持ちがすこやかな人や、何かを悟るような境地にある人や、枕詞的用法や比喩表現を上手に日常使いできる人は、そんな自慢も謙遜も発露も感謝も、どんな自慢も謙遜も発露も感謝も、あどけなさも、まぶしさも、痛さも、愛らしいと、元気はとても大切だからこれからもだいじにしなさいと、慈しむものなのかもしれない。     押し葉

 | HOME | 

文字サイズの変更

プロフィール

どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

ときどき、思い出したように、いただいたメッセージへのお礼やお返事をリンク先の「みそ語り」に書いています。よろしければ、いつでも、どうぞ、どなたでも、ご覧ください。「みそ語り」では、メッセージをくださった方のお名前は書いておりませんので、内容から、これは自分宛かしら、と推理推察しながら読んでいただければうれしいです。手の形の拍手ボタンからメッセージをくださる場合は五百文字以内、文字の方の押し葉ボタンからメッセージをくださる場合は千文字以内となっております。文字数制限なくお便りくださる場合には、下のメールフォームをご利用ください。

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

最新記事

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (0)
暮らし (110)
仕事 (161)
家族 (301)
想 (23)
友 (47)
学習 (79)
旅 (16)
心身 (8)

FC2カウンター

検索フォーム

FC2Ad

Template by たけやん