みそ文

目覚まし時計の記憶

 夫が「最近毎日明け方に目が覚めて、なんでだろう、と思っていたけど、その原因がわかった」と言う。

「明け方、って何時くらい?」
「4時」
「くっと世の中の気温が下がって寒くなる時間帯で身体が冷えて目が覚めちゃうのかな。トイレに行きたくなるとか?」
「ちがう。トイレには行きたいわけじゃない。人間年とったら睡眠時間が短くなるっていうからそれかなとも思ったけど違っとった」
「んーじゃーなんだろう」
「目覚まし時計」
「は?」
「目覚まし時計が4時にセットしてあったんだって」
「誰がそんな時刻にセットしたの? どうやらくん最近そんな早朝に起きて出かける用事が何かあったっけ。山に行く日でもそんな早くには起きないよね」
「セットしたのはおれじゃけど、たぶんお昼寝した時に夕方4時には起きようと思ってセットしたんだと思う」
「じゃあ出勤で毎朝6時過ぎに起きるのはどうしてたの」
「もう一個の目覚ましがちゃんと鳴るからそこはだいじょぶなのさ」
「でも毎朝4時に目覚まし時計が鳴って目覚めて、そのときに目覚まし時計を止めてるってことだよね。なのに目覚まし時計が朝4時に鳴ったこともその音を自分が止めたことも記憶になかったってこと?」
「うん。目が覚めて、時計を見て、あー、また4時だー、なぜだー、とは思っても、その直前に目覚まし時計が鳴ってその音を自分が止めた記憶はなかった」
「ほう、それはそれでなんかすごいね」

 自分の目覚まし時計の設定時刻が4時だったことに気づいた夫は、本来の起床希望時刻に設定しなおし、目覚ましはいつもの二台体制に戻った。     押し葉

蒸気で加湿青い箱

 先週の木曜日の夜から金曜日と土曜日の午前中まで夫は広島に帰省した。金曜に行われた義父の手術に合わせての帰省。入院前日まで普段通りお店で仕事をしていた義父の手術はたいへんに無事で順調で、手術後病室に戻ってきた義父は「ちいと疲れたかのう」とは言うものの自力でベッドに座り家族との会話もふつうにできる。一週間程度の入院で退院する予定だ。金曜日、義実家に帰宅した義母と夫に夜になってから電話して話を聞いてみたところ、ふたりとも、「現代医学すごいわあ」と、たいそう感心し、そして安堵していた。

 夫が今日、帰省のために使っていたかばんの中身を出して整理していた。洗濯物は洗濯カゴに入れ、その他のものはそれぞれの場所に片付ける。我が家の薬置き場に今までうちにはなかった青色の箱を夫が置く。

「どうやらくん、エスタックイブ買ったん? 風邪ひいたん?」
「ん? これ? うん。広島でとーさんの手術が終わって病院出たときになんかちょっと喉が痛い気がして、かぜ薬飲んどいたほうがいいかんじがしたけん買って飲んだんだけど」
「そうなんだ。まだ飲んでるん?」
「ううん。広島にいた二日間だけ飲んだかな。こっちに戻ってきたら治ったけんもう飲んでない」
「そうか、早めに飲んでひどくならんですんだんならよかったね」
「うん。で、これってエスタックイブいう名前なん?」
「じゃないの?」
「(まじまじと箱に書いてある商品名を見て)うわっ、ほんまや、エスタックイブって書いてある。なんでそこからおれの手の中の箱を見ただけでエスタックイブってわかるん? これを買うたおれですら、かぜ薬だとは思ってても名前までは記憶してないのに」
「なんでいうても、箱の色がエスタックイブの青色じゃけん」
「箱の色だけで薬の種類がわかるなんてすごいな」
「そうかな、そう言われたらそうなのかな。全部がわかるわけじゃないんじゃろうけど、エスタックイブの箱の青色はなんか特徴があるんかなあ。青色の箱のかぜ薬はベンザブロックIPプラスも青いなあ、他にも何社か青い箱のかぜ薬はあるけど、それらの青色とエスタックイブの青色はちょっと違うけん。なんかその色相明度彩度の青色を見たら自動的にエスタックイブをイメージするようになっとるんかもしれん」

 冬の広島は空気が乾燥しており肌や目や喉や鼻が乾きやすい。こちらは年間の降雨量降雪量が多い気候のため広島に比べると湿度は高いがそれでも冬は乾燥を覚えるから加湿器で熱心に加湿する。インフルエンザ予防のためにもとにかく手洗いうがいと加湿に努める。日頃しっかり加湿してある環境で暮らしていると、広島でしかも加湿していない環境にしばらくの間身を置くだけでも鼻喉粘膜が乾燥して軽く炎症を起こし痛みが生じやすいのかもしれない。

 今回夫に託して義母にプレゼントした「蒸気でホッとアイマスク」は「あれを目にのせたらええにおいがしてきてぬくうなってすうっと寝てしもうた」と義母にとても好評だった。昨夜夫が「かあさんがあんなに、ええ、ええ、言うんならおれも使うてみたいけん一個分けて」と言うので、どうぞ、とひとつ手渡した。

 蒸気でホッとアイマスクのシリーズは、無香料、ラベンダーの香り、カモミールジンジャーの香り、ローズの香り、ユーカリグリーンの香り、柚子の香りと六種類あるのだが、そのとき私の手元にあったのは、カモミールジンジャーとユーカリグリーンと柚子だった。夫に「三種類のうちどれがいい?」ときくと「うーん、じゃあ、カモミールにする」と言うから最後の一個のカモミールジンジャーを渡した。人それぞれ好みもあるだろうが、このシリーズの香りはどれも出来がよい。特に新作の柚子はこの冬の私の好みに合致していて繰り返し使いそうな予感。     押し葉

娯楽における律の有無

 夫は毎年新年の抱負を自分で考えて決めているらしい。決めた抱負をことさら私に話すわけではないため、私は夫の一年の抱負の内容を把握してはいない。でもそういえばこれまでに何度か「今年の抱負はなになになんだ」と話してくれたことがあったかもしれないが、どんな内容だったのかあまり記憶にない。

 一昨日ノドグロを食べに出かけた帰り道の車中で、夫がその日の午前中に書店で購入した本について話をする。どんな本なのかと問う私に夫は「仕事の本だけど仕事の中でも趣味的な要素が多い分野の本かな」と言う。仕事に今すぐ直接必要なわけではない内容ではあるけれど夫としては興味があり勉強しておくと将来仕事上どこかで役に立つことはありそうだな、ないかもしれないけどそれはそれでいいな、というような内容なのだそうだ。「みそきちで言うなら薬にも関係はあるといえばあるけど現状の日々の仕事に直接すぐに関係あるわけじゃなくて、でもみそきちとしては個人的に趣味的にその分野に興味があるような、そういう分野」なのだと言う。それ以上詳しく説明してもらっても私にはよくわからないだろうなと思い「なるほど」と言う。夫が「去年は本を六冊読む、っていう抱負だったけど、吉川英治の本を読んだら六冊なんかあっという間だったから、今年の抱負は、吉川英治以外の本を六冊以上読む、上限はなく読めるだけ読む、にした」と言う。

「抱負、というのは、なんだろう、抱負に吉川英治さんの本を入れないのはなんでだろう」
「抱負、いうのは、ある程度己を律する要素が必要なものじゃないと」
「自分が好きな本を楽しく読むのは、律の要素は、ない、かあ、ない、か」
「いや、そんなことはないんじゃないかな、娯楽でも律があるときにはあるんちゃう?」
「そうかなあ、律だよ、自律の律よ、律令制の律よ。どうやらくんが吉川英治さんの本を読むのは、お酒を飲んで楽しくて飲んでおいしくて気持ちがいいようなもんでしょう? そんなお酒を飲むのに律の要素があるかなあ。己を律してお酒を飲むのは、お酒を飲みたくない人ならともかく、お酒を飲みたくて飲んでいる人には律はなさそうだなあ。読みたくて読んでひたすらたのしい本を読むのは飲酒みたいなもので、そこに律はあるかなあ、ないような気がするなあ」
「そうやなあ、ないわ。少なくともおれが吉川英治の本を読む限りにおいてはなんにも己を律してないわ」
「だよねえ」
「まあ、だから、吉川英治を除いて他の本を六冊以上、という抱負で。吉川英治の本は広島に帰省してる間に既に二冊読み終えたし、会社でも毎朝仕事前に30分弱くらい読んでるから六冊なんてすぐに読み終えてしまう」
「それはあっという間だろうねえ。ところで今年の豊富が『吉川英治さん以外の本を六冊以上読む』で去年が『本を六冊以上読む』だったんならその前の年の抱負はなんだったん?」
「んーーーー、なんだったかなあ」
「え、おぼえてないの?」
「うん、だって本格的に抱負を意識するようになったのってここ二三年じゃもん」
「え、そうなん。なんか前にも抱負を聞いたことがあるような気がするんだけど」
「あったかもしれんけど、今みたいに具体的な内容にして数字もありで手帳に書いて定期的に意識して、よしよし、とか、もうちょいがんばろ、とか思ってたわけじゃないから。昔は抱負なんとなく、一年健康に過ごす、とかなんかそんなかんじだったんちゃうかなあ」
「そうなんだ」
「それを去年から、本を六冊以上、百名山に七つ以上登る、にして、結果百名山は九個登った」
「なるほど数字がついたのが新しいんじゃね」
「富士山に登った年は『富士山に登る』が抱負だったかな。山はあれからだもんな」

 そうか。夫自身がたいしておぼえておらず思い出せない過去の抱負の内容を妻の私がおぼえていなくても思い出せなくてもそれはとても自然なことだわ。

 それにしても娯楽には己を律する要素がある娯楽とない娯楽とがあるのかなあ。私の娯楽と言えば、最近で言えば年末にケーブルテレビで連続放映していたパーソン・オブ・インタレスト(従来の犯罪捜査ドラマとは少し異なる犯罪予防ドラマの何度目かの再放送、これまでにもう何度も見た内容をまた見る)をひたすら見る娯楽において、あるいはやはりこの年末年始に大河ドラマ平清盛DVDを最終回から一話ずつ遡って見続けた娯楽において、私は何か己を律しただろうか。身に覚えがない。いや、眼精疲労がひどくならないうちに寝ましょう、と決めるのは律だろうか。しかしそれは眼球健康維持上の律であって娯楽における律ではないような。
 娯楽は娯楽ではあっても勉強要素やお稽古事的な要素がありある程度の練習の蓄積などが必要なものになると「律」が生じるのだろうか。ピアノなど楽器で演奏できるようになりたい曲が最初は円滑には演奏できず練習を重ねて重ねていく過程には「律」があるかもしれないが、その練習の過程が「娯楽」かというとどうなんだろう。
 例えば私がここに何かしらの文章を綴ることに「律」は伴っているのだろうか。あるいは例えばweb上で自分が気に入って読みたいと思い読む誰かの文章を読むときにそこに「律」はあるのだろうか。ううむ、なんか、やっぱり「律」はなさそう。
 夫とともにノドグロを食べておいしいね、はふう満足、全身特に脳みそにノドグロのあぶらと栄養が行き渡ってみなぎってぷるぷるぴくぴくしちゃいそう、と助手席でジタバタするときにも「律」はやっぱりなさそう。
 娯楽に伴う「律」の有無。ざっと考える範囲では自分にとって「律」が伴わない娯楽ばかりを思いつくけれど、自分にとって「律」が伴う娯楽は何があるかな、それはどんなことだろう、あるなら思いつきたいな。     押し葉

ノドグロへの道

 年末29日からひとりで車で広島帰省していた夫が昨日帰宅した。義実家を朝8時に出てこちらに午後2時半には到着した。

 広島の話を聞かせて、と頼むと「んー、どてら(私の実家)に行ったら、みそきちは年末大掃除三昧していたらしいって聞いた、以上」などという広がりのない報告をしてくれ、本人からの発話に任せていたら求めるものは得られないわと判断し時系列にインタービューしていったら私が満足する情報が得られた。

 昨夜寝支度をしてから布団の中でしばらく話をし、ふと「そうだ、どうやらくん、このまえのほか弁だけど、私やっぱりボーナスお食事はほか弁じゃなくてノドグロを食べに連れて行ってもらうほうがいい」と話した。夫は「やっぱり?」と言い「おれも『あれでいいんかなあ』とは思ってたんだ」と続ける。

「いいわけないじゃん。ほっかほっか亭のお弁当をごちそうしてくれるのもそれはうれしいけどそれをボーナスお食事としてというのは、なにかちがう感、が湧くの」
「やっぱり? みそきちあれでいいって言うてたけど、ほんまにええんかなあ、と考えてはいた」
「いやいや、いいとは言ってないって。あまりに思いがけない発想についていけなくてつっこみ損ねはしたけど」
「よし、じゃあ、またノドグロ食べに行こうや。冬のノドグロは冬ならではのあぶらがのってておいしいよ」
「うん、知ってる」

 今の季節、あの魚料理屋さんの一階魚売り場は大半のスペースが蟹で埋まっていて魚たちは隅の方に追いやられているだろうけれど、ノドグロを2尾買って、一匹は清涼感のある奥深い味わいのお味噌汁に仕立ててもらい、もう一匹は身の照りとつるりほくりとした食感が至福の煮魚にしてもらおう。そしてご飯(お漬物と小鉢付き)を注文し、ノドグロとご飯と交互にいただく。夫は「おれは焼きがいいなあ」と言うかもしれない。そのときは、煮魚にするノドグロの半身を焼きにしてもらい骨と頭のついた半身を煮魚にしてもらってもよいし、奮発してもう一尾ノドグロを買い、まるごと一匹ずつ夫は焼きで私は煮でいただくのもきっとぜったいパラダイス。     押し葉

甘やかなヤクルト

 結婚して初めて、夫と一緒に広島帰省したときだったと思う。夏だったのか冬だったのかそれとも春か秋だったのかの記憶は定かでないけれど、そのとき私達は夫の実家の居間にいた。当時の義実家はまだ今の新しい家に建て直す前で、いまほどキッチンリビング空間にゆとりがあるわけではなかった。

 義母が冷蔵庫を開けて私と夫と義妹に「ヤクルト飲む?」とたずねる。私は「はーい、いただきます」と挙手する。夫と義妹は何も言わない。義母は「飲みんさい、飲みんさい、おいしいしお腹にええけんね」と言いながら私に一本手渡してくれる。私は「ありがとうございます」と受け取りヤクルトの蓋をぴろぴろっとあけて中身をチュビチュビコクコクと飲む。おいしい。義母が夫と義妹に「あんたらもヤクルトいる?」ともう一度訊く。夫と義妹は「いらん」「いらん」と言う。そうなんだ、要らないんだ、と私は思う。義母は「そうね、いらんのんね」と冷蔵庫の扉を閉じる。

 その直後、夫が「あ、やっぱりヤクルト飲む」と言う。義妹も「私も飲むけん、おかあちゃん取って」と言う。義母は一度座っていたのに立ち上がり再び冷蔵庫に近づいて扉を開けヤクルトを取り出し息子と娘に手渡す。ふたりとも黙ってヤクルトを飲む。そして飲み終えたヤクルトのボトルを黙って卓上に置く。そのあとも無言だ。

 私は「ちょっと、どうやらくんもえりりちゃんも、なんなのそれ」と立ち上がる。義実家の食卓は冬はコタツで夏はこたつ布団を取り去った床置きテーブルだから居間では畳の上に座っているのが基本形で、座ったままでもいいのだが、そのときの私は思わず立ち上がっていた。そしてその立ち方には尊大な雰囲気をまとっていた、いや敢えてまとわせていた。きっとああいうのを仁王立ちというのだ。

「どうやらくんも、えりりちゃんも、ふたりともちょっとどういうことなん。さっきおかあさんがヤクルト要るかいうてきいてくれちゃったときにはなんにも返事せずにおいて、もう一回要るかきいてくれちゃっても『要らん』って言うといて、お母さんがいったん冷蔵庫閉めて座っちゃったあとになってやっぱり要る言うて、そりゃあなんとなく気が変わることはあるじゃろうけど、だったら自分で立って冷蔵庫に取りに行ったらいいいじゃん、それをおかあさんに取ってもらって、なのにふたりともおかあさんに『ありがとう』もなんにも言うてないでしょ、そういう態度はおかあさんに対して失礼じゃと思わんのん。おかあさんになにかしてもらったんならちゃんとお礼を言いんさいや」と一気にまくしたてる。

 義妹は私と夫よりも一歳年下なのだが素直に「ほんまじゃ、ごめん、おかあちゃんありがとう」と言う。夫は私と同い年なのだが「んー、でもさっきはほんまに欲しゅうなかったんじゃもん、いいじゃん別に取ってもらっても」と言う。私は「取ってもらうのはかまわん、かまわんけど取ってもらったんならお礼を言おうや。そもそもどうやらくんのいるところから冷蔵庫まで二メートルもないんだから立って自分で取りに行けばいいじゃん。それをしないなら自分がほしいかどうかはお母さんが最初に要るかどうかきいてくれちゃったときにまじめに本気で考えてその場で判断して答えんさいや」と言う。

 義母が「みそさん、ありがと、ありがと、でも、ここはところが狭いんじゃけん、ええんよ、ええんよ」と言う。義実家の当時の台所居間は空間が狭かったから動かなくていいおとなはじっとしていたほうが広く使えるといえばそうなのかもしれないが、人様に対しては当然、たとえ相手が身内であってもおとなであってもこどもであっても、なにかしてもらったらすぐにそのタイミングでお礼を伝え合う文化と習慣を私は実家で教育され刷り込まれてきた。そしておそらくそうすることこそが人間関係における「あるべき姿」だという価値観を持つ人間に成長したのだろうと思う。

 義母にしてみたら嫁になったばかりのよその娘(私)が仁王立ちになり義母の尊厳をだいじにしろという意味合いのことを訴える姿は思いがけず嬉しかったかもしれないが、そのために私が説教する対象が我が子たちだとなるとそこは心底歓迎できるわけではない複雑な心境があったかもしれないと思う。とっくの昔に成人しおえた我が子たちであるとしても母としてあれこれ世話してやりたい気持ちが湧くことは自然にあるだろうことでそれはちっともおかしくない。私が自分の文化の価値観を義実家でとっさに発動させたことで、結果的に義母の義父母の子育て教育方法文化習慣の在り方に否定的評価を下したと受けとめる人がいても仕方のない側面があることになるのかもしれない。自分のことを自分でするばかりではなく、なんでもないちょっとしたことで甘えたり甘えてもらったり甘やかしてやる親と子やその他の仲よき関係性はそれはそれで平和な快楽なのに。ヤクルトはおそらくそういうなんでもないちょっとした甘やかなことのひとつに過ぎないだろうに。

 結婚は異文化交流だ。文化習慣として馴染んでいること心地よいこと、馴染んでいるとも心地よいとも意識すらしていないようなことが、結婚した相手にとってもおなじように馴染みがあり心地よいものであるとは限らない。結婚した当人同士はそういう部分をすり合わせ折り合いをつけて新たな文化と習慣を構築してゆけるところはそうしてゆき、各々の実家構成員との交流においては相容れる部分でのお付き合いを中心とし相容れない部分でのお付き合いは遠ざけ、関係者として協力することが円滑だと判断する場面においては腹をくくって臨む。必要であれば異文化研究のフィールドワークをする者であるかのような視点で観察し脳への記録を行う。

 あのとき私が仁王立ちになりあんなことを言ったからなのか、それとも義母はもともと私と同じ文化価値観を持つ人だったからなのか、義母は私がすることなすことほぼなんでも褒めてくれ、私をねぎらい、いたわり、感謝を伝えてきてくれる。もちろん私はもともとそういう文化風習価値観にどっぷり浸かって逃れられない個体だから、義母に対しても同じようにふるまう。その結果、年に数回帰省したときともに過ごす程度の時間内においては、お互いにたいへんに穏やかで良好な嫁姑関係の中にいることができている気がして、ありがたいことだなとしみじみと味わうように深く思う。義母がずっと私によくしてくれるのが、私が仁王立ちになったあのときに、「この嫁、怒らせたら怖えー」と思ったからなのだとしても、もう今さら当時の私を止めることができるわけでもなし、ありがとう、うれしい、と伝え合う関係の中に身を置き余生を過ごすつもり。     押し葉

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プロフィール

どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

ときどき、思い出したように、いただいたメッセージへのお礼やお返事をリンク先の「みそ語り」に書いています。よろしければ、いつでも、どうぞ、どなたでも、ご覧ください。「みそ語り」では、メッセージをくださった方のお名前は書いておりませんので、内容から、これは自分宛かしら、と推理推察しながら読んでいただければうれしいです。手の形の拍手ボタンからメッセージをくださる場合は五百文字以内、文字の方の押し葉ボタンからメッセージをくださる場合は千文字以内となっております。文字数制限なくお便りくださる場合には、下のメールフォームをご利用ください。

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