みそ文

そして炊きたてのご飯を

 今は他界中の友人が自宅療養していた頃、がん疼痛を軽減する目的で彼女の身体をアロマオイルトリートメントしに通っていた時期がある。鎮痛剤を使いつつも彼女は「痛みが思い通りになくなるわけじゃないのに痛み止めの副作用で眠たくなるのが嫌だから」と言う。私が「それは私がアロマで身体を触ってるときにも痛みがなくなるわけじゃないし眠たくなって寝てるじゃん。でも私のトリートメントを求めてくれるでしょ。痛み止めのことも同等に捉えて求めていいのではないかしら」と言うと彼女は「うーん、痛みが完全になくならないとしても、みそさんに触ってもらっている間は鎮痛剤を入れた時の何倍もらくだから。それで眠くなって寝たとしてもその眠りも気持ちいいの。薬のほうは使った割には痛いままで、それで眠くなって寝てる時も痛いのは痛いのよねえ」と言う。私は「んあー、そうなんだー、それは痛いねえ。でも事前に鎮痛剤を使ってくれていればこそ、私のアロマトリートメントの手技も薬と一緒に身体のお手伝いができてるんだと思うよー」と言う。

 和室のふすまを閉めて半裸の彼女にバスタオルをかける。手のひらであたためたアロマトリートメントオイルを彼女の身体に塗り伸ばす。彼女の呼吸に合わせて上下左右にオイルのついた手のひらを広げる。少しずつ少しずつペースをゆるやかにしてそれからリズミカルにそののちまたゆるやかに。彼女の呼吸が私の手のひらのリズムに合わせて少しずつゆるやかにそして深くなる。彼女は「痛いときってどうしても呼吸が浅くなるけど、意識して深呼吸をしたくらいではなかなか自力だけではこの呼吸の深さが取り戻せないんよねえ、ああーきもちがいい、痛みがまぎれるー」と空気を吐いては吸い、また吐いては吸う。背中、足の裏と太ももの裏側とふくらはぎ、足の甲すね膝と太ももの表側、腕と手のひらと手の甲。デコルテと顔と頭。90分前後経過して「ひととおり終わったけど、もうちょっと触ったほうがいいかんじのところがあれば」と言うと彼女は自分の身体に意識を集中して「坐骨の内側につながってるところあたりかなあ」などの希望を伝えてきてくれる。では、と、その部位にまず手を当て、そこからもう片方の手を滑らせて彼女の身体が「ここから始めよ」と伝えてくる場所をさぐる。いきなり指定の部位をほぐすのではなく、指定の部位を両手で覆ってから『あとでまた戻ってくるから準備をよろしくね』と思いを込めたのちに『ここから始めよ』の部位から順番にゆるめていく。

 台所で夕餉のしたくをしているお姑さん(彼女の夫のおかあさん)が「あれー、うーん、あれれー」となにやらお困りの気配がふすまごしに聞こえる。彼女が「ああ、たぶん部品が」と言う。私は手をタオルでふいてからふすまを開ける。「おかあさん、どうかされましたー? 私に何かお手伝いできそうでしょうかー」と言いながら台所に近寄ると「炊飯器がねえ、うまくスイッチが入らないの」とおっしゃる。

「はてさて、どうしたんでしょうね。ではまずはパーツのチェックをしてみましょうか。お米とお水の入ったお釜はおっけー。蓋の内蓋もおっけー。外蓋のこの部分のここも大丈夫そうですけど、うーん、どうなんでしょう、この部品のさらに中にある小さい部品が水切りカゴかどこかに残ってるとかないですかねえ」
「そう思って見たんだけど全部大丈夫そうでしょう。水切りカゴになにか残ってるかねえ…、あっ、あった、みそさん、これだわ。これをつけてないからスイッチが入らんかったんだわ」
「ああ、見つかってよかったですねー。この部品をここに入れれば」
「ああ、スイッチ入った入った。よかった」
「おおー、めでたしー。解決してよかったですねー。今ならまだまだ夕ごはんの時間までに余裕で炊きあがりますよ。早い時間に気づいてよかったですね」
「ありがとう。じゃ、みそさんは戻ってまたアロマの続きしてあげて。私ちょっと買い物に行ってくるから」
「はーい。いってらっしゃい。よろしくお願いしまーす(炊飯器の中のご飯はその日の私の夕ごはんでもある)」

 それから私は和室に戻りまたオイルを手のひらで温めて彼女の身体を触る。彼女はおもむろに「ああー、みそさんみたいに言うたらいいんよねえ」と言う。

「なにが?」
「さっきの、いまの、ううん、いっつも。おかあさんの炊飯器のスイッチが入らないときとか。私ね、おかあさんが私の看病のために毎日ずっとここにいてすごくよくしてくれてるのはわかってるしすごく感謝してるのに、ああいうときとっさについ、なんで何度もやってることなのにまたそんなこともできないのよ、っていうような責め心が湧いてくるん。おかあさんだけでなくてどうだくん(彼女の夫)に対しても、やってくれていることよりもしてもらえてないことに目が行くの。でもさ、そういうのって実際に言うわけでもないし、それをいま責めても仕方のないことやん。それなら解決してよかったことに着目したほうがお互いに平和やん。ご飯が炊けるのは食事に間に合えばいいことなんやけん、ちょっとくらい遅くなってもたいした問題じゃないんやけん。早く気づいてよかったって、部品が見つかればすむことなんやけん、部品の入れ忘れがこれまでにもあったとしても、それでも見つかってよかったって、スイッチ入ってよかったって、そう思ってそう言えばそれで済むことやん」
「うーん、まあ、人それぞれ認知に関しては得手不得手の分野があるのはあるけんねえ。おかあさんにとってはあの炊飯器のパーツが微妙に何度でも難しいんかもしれんね。そもそもおかあさんにとってはあの炊飯器は普段自分ちで使いようてのものとはちがうしねえ、自分で選んで自分で買った炊飯器でもないしねえ、息子夫婦の家とはいえよそのおうちの家電製品を使いこなすのはちょっと力がいることではある。でもさ、からだが痛いときには気持ちの余裕が少なくなるじゃん。自分の円滑や快適がそがれる要素や要因に対しては責め心だって湧くよ。それはまっとうでそういうもんじゃないかなあ」
「ううん、そういうもんじゃないと思う。こういうのは習慣なの。たぶん私は普段から、この病気になる前から、具合がいいときでもずっと、とっさにそういうふうに思って捉える習慣があったんだと思う。元気なときにはちょっとでも誰かに対して責め心の尻尾を感知した時点で自分でちゃっちゃと動いて解決して、それでいいと思ってたんじゃないかな。で、そういう感情や思考の習慣はいざ自分がこういう思い通りにならないからだになったときにすごく自分で自分のこころを蝕むというかね、こころだけじゃないのからだも、ただでさえ痛いからだを自分の感情や思考がさらに傷つけて痛くしているのが今は本当によくわかる」
「ああ、それは、相当に痛いのよ。なでなで」
「うん、痛いのは痛いけど、たぶんね、おかあさんやどうだくんに対する責め心が湧くたびに私はそういう責め心が湧く自分を自分ですごく責めてしまうん。それが本当にすごくつらくてイヤなん」
「うーん、ただでさえ痛いのに、それはさらに痛みが増すじゃろう」
「そうなんよ。おかあさんやどうだくんをこころの中で責めて、そうやって責めたことで自分を責めて、それで自分で自分のからだをいためつけて痛みを大きくして、それで誰にもなんにもいいこといっこもないじゃん。だから誰かや何かを責めるんじゃなくてさー」
「んー、そうかー。でもさ、痛くないときはそういう責め心が湧くことで自分を責める心情はそんなに湧いてなかったわけでしょ」
「どうかなー、そうかなー。そういえばそうかなー」
「ということはよ、やっぱりね、他者に対する責め心も、その責め心が湧く自分に対する責め心も、痛みや不調の目安というか指標なんじゃないかなあ。自分に対する責め心まで湧いてくるときというのは、それは『自責の念』とか『自責感』っていう症状だから、やっぱりそれだけ具合がよくないっていうことなのよ。だからそういう自分の感情や思考に気づいたら『ああ、これは、相当痛みが強いんだな、具合がよくないんだな』と判断してだね、使える薬はさくっと使って養生して、そしておかあさんにもどうだくんにも各自至らぬ点はそれはそれとしてありがとうはありがとうねと思ってリクエストできそうなことはリクエストする方向で考えられそうなら考えつつ、一連の自分の労をねぎらうパターンでいくのはどうかな。他人や自分を責めないようにするのもいいけど、自動で責め心が湧く時にはそれはそれで仕方がないじゃん、具合がよくないんじゃもん。責めるのは責めてもそのあとの展開を手動で双方ねぎらいでよりきるパターンを新たにくっつけるかんじではどうじゃろ」
「でもそれだといったん自責の念で自分が傷つかんといけんやん。それでがん細胞を自分でがしがし作って増やすことになるんだよ、それが今はわかるもん。そんなん自分が損やん。家族にもなんにもいいことがない。それなら最初から、お、そこで気づいて解決してよかったね、って、無理矢理にでもそういうことにしたほうが自責も湧かず自分も傷つかず相手も傷つけず相手を傷つけたことで自分のこころが痛むこともなくて、からだの損傷も少なくて、私はそっちのほうがいいと思う」
「そうか。そういうことなら、そこまで言うなら、止めない。存分に行きたい方向に行ってくれ」
「ねえ、ほんとうにねえ」
「でもね、私の具合がよくないときに、どうやらくんにしてもらいたいことがなかなかしてもらえないときには、やっぱり『なんですぐにいいぐあいにしてくれないの』って責め心が湧いてると思うなあ」
「だからってそれでみそさんは自分がそう思ったこと責めないでしょ」
「ああー、そうかなー、そこは自責の念が湧くべきところなんかなあ」
「ううん。いいんよ。湧かんでいいん。それにそもそもどうやらくんのことは責めていいと思う」
「え、それは、なにゆえ。だったら、おかあさんやどうだくんのことも責めていいんじゃ」
「ちがうん。どうやらくんはね、なぜそこでそれをする、それを言う、なことがよくあるやん。なぜそこでそういう要らんことをっていうような。だからみそさんはどうやらくんのことを責めたいときにはいつでも責めていいよ。私がゆるす」
「あのー、一応私の配偶者の名誉のために言っておくとね、どうやらくんは要らんことをしようと思って何か言ったりしたりしてるわけじゃないと思うの」
「そうかもしれんけど、だから余計によー。結果的にそれでみそさんが『ああっ、もうっ』って思うってことはそういうことなのよ。だからみそさんはどうやらくんを好きなだけ責めていいけん」
「なにやら私に対してたいそう寛大なことで本当にどうもありがとうだけど、その寛大さをぜひあなたにも」
「あれー、ほんとねえ」

 そして炊きたてのご飯は極上においしかった。     押し葉

高みを目指す

 仕事から帰宅して玄関に鍵を差し込むとなにやら動きが軽い。ドアが開く。うわっ。私、鍵を閉め忘れて出勤したのかっ。と動悸をおぼえる。家の中で灯りをつけて着替える夫の姿を見て、ああ、夫が帰ってきて玄関の鍵を開けたのか、ああよかった、と安堵する。「おかえり。私が鍵を閉め忘れたのかと思ったけど、どうやらくんが先に帰っとったんじゃね。よかったー。ただいま」

 中に入り、荷物を置き、カーテンを閉めてエアコンと扇風機をつける。いつもの流れで食洗機の扉を開けようとしたら食洗機の扉が開いている。うわっ。私、食洗機の扉を閉めてスイッチ入れてから出勤したつもりだったのに、スイッチを入れる以前の扉を閉める段階からまるごと忘れたのかしらっ。と再び少しどきどきとしながら庫内の食器をしげしげと眺める。

「どうやらくん、もしかして食洗機開けてくれた?」
「うん。乾き終わってたみたいだから開けた」
「ああ、そうなんだー。よかったー。閉めてスイッチ入れるの忘れたかと思ったー」
「洗浄してないわりにはあまりにもきれいすぎるじゃろう」
「うん、きれいきれい。ちゃんと洗えてる」

 希望としては、自分の暮らしに関することで、自分が何かし忘れたかなあ、と思うようなことがあったときでも、既にいまさらどうしようもないことで、かといって別段取り返しがつかないというようなことでない場合には、思わずどきどきするのではなくて、ただ淡々と、あーらー、無事といえば無事でよかったねー、と思えば思うくらいの平常心でそこに佇めるようでありたい。     押し葉

扉を閉めたらスイッチオン

 出勤する前に食器を食洗機(食器洗浄乾燥機)に並べて入れる。食洗機用粉末洗剤を洗剤投入口にスプーンでさらりと入れる。食洗機の扉を閉じる。電源ボタンを押す、スタートボタンを押す。

 帰宅したら食洗機の扉を開ける。私が出かけている間に食器を洗いすすぎ乾燥し、さらにはドライキープなる技術で送風乾燥を行い食器と庫内の乾燥状態を保ちつつ温度を下げておいてくれる。食洗機は食器を洗うのも乾かすのもたいへんに上手だ。

 今朝も出勤前に食洗機に食器を並べた。洗剤も入れた。食洗機の扉も閉じた。仕事から帰ってきていつものように食洗機の扉を開ける。食器を片付けようかなと取り出して、あら、なんだか今日はあまりきれいに洗えていないわ、と思う。おかしいなあ。うちの食洗機は食器を洗うのが上手なのにどうして今日はあんまり上手じゃないんだろう。昨日炒めものの調味料にカレー粉(五葷抜き)を使ったから黄色っぽいかんじと油っぽいかんじが残っているのかしら。お皿は手で洗い直しましょう、とシンクに置く。あら、スプーンもあんまりきれいになっていないなあ。他のものはどうかしら。グラスとカップは洗えているようないるような。でもマグボトルは明らかに洗えていないかんじがするなあ、これはちょっと酸素系漂白剤を入れてしっかり洗浄しよう。箸も菜箸もなあんか洗いあがりがいつもみたいにぱりっとしていないなあ。ううむ、もう一度洗おう。すべての食器を取り出す。食洗機の中全体を濡れ布巾でざあっと拭き消毒用エタノールを軽く噴霧する。

 食器類はもう一度洗うものと片付けてもよさそうなものに分けて、片付けるものは卓上にいったん置き、もう一度洗うものをスポンジで洗う。洗ったものは食洗機を食器水切りカゴとして中に並べる。その作業をしていて、はっと、あっと、洗剤投入口に入れた洗剤がそのまま溶けずに残っていることに気づく。ということは、食洗機の扉を閉じて、スイッチを入れて出かけるはずが、スイッチを入れずに扉を閉じただけで出かけて、食器が洗われていないままに扉を開けて片付けようとしたということなのねえ。洗い物を食洗機に入れる前には軽く流水で流しものによってはスポンジでこすっているものもあるからすっごく汚れているわけではないのが洗えているように見えたのかな。食洗機が上手に洗えなかったのではなくて、私が食洗機に食洗機としての仕事をさせるために必要な作業をしていなかったのねえ。いやあ、これは失礼いたした。卓上にいったん置いた食器もすべてシンクに戻してスポンジで手洗いする。

 それにしても実は洗えていなかったことに気がついてよかったなあ。夏の食中毒の季節に洗っていない食器を使うのはなかなかに命がけだもの。食器を使用ごとに水洗いして用いる文化は近年になってからのことだとどこかで聞いたか読んだかしたことがある。毎回食器を洗うわけではない時代に暮らした人であれば毎回洗ったわけではない食器で食事をしてもそう簡単に食中毒にもその他の病気にもならなくて強い子丈夫だったのかもしれないけれど、私が生まれたときにはもう食器は使用ごとに洗浄する文化が完成していたから、私の身体は洗った食器で食事をすることにおそらく慣れすぎている。昔の人はそのへんの衛生事情の兼ね合いもあってあまり長生きしないケースが多かったのかもしれないなあ。世に生きる生き物のひとりとして希望を述べるならば、衛生的には少々課題がある状態での食事であっても体調を崩すことなくひたすら栄養を吸収し血に肉に力にし、なおかつ自分の身体にとって毒となるものはすみやかになにごともなかったかのように排出できたらとは思う。だが私は同じ物を食べて夫がなんともないときでも私だけが下痢や嘔吐に至るあるいはその他の不調に陥るということを何度か何度も経験している。そういった私の身体にとっての危険防止のためにも食器はきれいに洗ったものを使い、そこそこ安定した体調を保って暮らしてゆきたい。

 しかしこの調子で私のうっかりにさらなる磨きがかかると、食器が洗えていないことに気がつかないまま食器を片付けてその食器を次にそのまま使う域にまで到達するかもしれない。そのときに食器が洗えていなかったことに気づくことなく体調良好でいられるか、それともどうしたんだろうおかしいなあ何がどうしたというのだろうと心当たりのないままに体調を崩して苦しむか、どちらになるんだろう。ううむ、どうしてもその二者択一で選ぶのであれば前者を選ぶけれども、できることならそのどちらも選びたくない、どちらにもなりたくないなあ。清潔に洗った食器で食事をし続ける未来に自分の身を置く方向で考え行動していこう。できるあいだはそうしていこう。

 しばらくは食洗機の扉を閉めたらすぐにスイッチを入れて「スイッチオン!!」と声を出し指差し確認をすることにしてみよう。今朝はたしかに食洗機の扉を閉めたその後に何か他のことを思い出してそれをしてからそのあとで食洗機のスイッチを入れましょうと思ったのにそのまま忘れて出勤したという経緯があったように思う。食洗機の扉を閉じたにもかかわらずもう少しあとでスイッチを入れようなどというようなことはせずに、今後は食洗機の扉を閉じたらすぐにスイッチを入れてスタートさせる習慣にして様子を見る。扉を閉じたらすぐにスイッチ。扉を閉じたらすぐにスイッチ。

 私はいろんな家電製品にお世話になりながら暮らしていて、どの家電製品に対しても便利でありがたいことだなあと思っている。中でも洗濯機の仕事に対しては特に尊敬と愛情をおぼえる。そして食洗機の仕事もやはり尊敬して愛している。そんな洗濯機と食洗機には存分にお世話になりながら暮らしてゆきたい。今後も彼らにじゅうぶんにお世話になるそのために、スイッチを入れて作動させることが必要な家電製品に関しては、その「スイッチを入れる」という家電製品を使うヒトとしての基本動作を忘れることなくぜひとも毎回確実に実行したいと思う。     押し葉

のどぐろとサンダル

 先週のいつだったか夫が「ボーナスが出たー」と言って明細書を見せてくれた。「わあ、いっぱいもらってよかったねえ。お疲れ様でした」と言う(金額の多寡にかかわらず毎回こう言う)と夫は「でもこんなに税金引かれてる」と言う(夫は毎回だいたいこう言う)。「こんなに納税したということはそれだけ収入を得たということじゃけん、豊穣の証じゃん」と伝えてもう一度「よかったね」と言う。夫が「ボーナスも出たことですし、何かおいしいものを食べに行きましょう」と言う。「わーい、やったー。じゃあ、のどぐろの干物がいいなー」と小踊る。

 それでは日曜日のお昼ごはんは漁港近くの鮮魚店お魚料理屋さんに行きましょう、と計画してお昼前に高速道路に乗る。鮮魚店の一階でまずは「のどぐろの干物をください」と干物コーナーで物色する。干物三枚入りのカゴと二枚入りのカゴとあり二枚入りを選ぶ。それから生のお魚の売り場に移動してのどぐろを見比べる。小さいものと大きいものがあり100gあたりのお値段は大きなのどぐろのほうが少し高い。売り場のおばさんが「大きいのにするんなら、半分焼きにして半分煮付けて頭をおつゆにする?」ときいてくださる。

「今日は焼きは干物をいただきたいので、生のほうは煮付けと汁で」
「干物はおうちでも焼けるから買って帰って家で焼いてここでは焼き魚のほうが食べたらいいのに。まあ干物もここの二階で焼くとおいしいけどね」
「はい。のどぐろの焼いたのはまえに来た時に焼いてもらっておいしくて、今度は干物を焼いてもらいたいなあとずっと思ってたんです」
「じゃあ、干物を焼いて、こっちの胴体を煮て、頭をおつゆね。お刺身にもできるけどお刺身はいいのかな」
「今日はお刺身はいいです」
「あ。他のお客さんたちがいま駐車場からたくさん入ってくるみたいだから早く二階に上がって席とったほうがいいよ」
「はい、わかりました、すぐあがります」
「干物と魚は厨房に持って行くから席で待ってて」

 座席について間もなく、大人数の家族連れのお客さんが食堂に入ってくる。魚売り場でゆっくりと魚を見てから上がってきた夫が席につく。お店の人が蟹の形をした竹製の箸置きと割り箸とおてふきを卓にならべる。それからあつい緑茶を運んできて「いまご注文の確認に来ますからね」と私達に声をかける。まもなく注文を取る人が来て「干物を焼いて、生の頭を味噌汁にして、あとは煮付けでいいですか。ごはんふたつでいいですかね」と私達の注文パターンをある程度熟知した確認作業を行う。「味噌汁はひとつだけネギ抜きでお願いします」と頼む。

 すぐに運ばれてきたバイ貝の煮付けとヤリイカの煮物とタコの塩辛を食べながらお茶を飲む。タコの塩辛は私よりも夫のほうが得意な海鮮珍味系の味だから大半を夫が食べる。

 最初に来たのは煮魚。大きなのどぐろだから身が肉厚でぷりぷりとしている。胴体の尻尾側と胸側のふたつに分けて切ってあり夫は胸側を私は尻尾側を食べる。薬味でついている山椒の葉を一緒に口の中に入れる。のどぐろのあぶらが濃厚で甘い。皮のついた部分はさらにおいしい。そして煮てあるその火加減が素人が自宅でそうするのはきっと無理と思えるくらいに芯にごくわずかに生な感触が残る状態。そのままお刺身で食べられるのどぐろであればこその火加減だねと感心しあいながら熱心に食べる。

 まもなくご飯と味噌汁と干物を焼いたものが運ばれる。味噌汁は味噌汁なのだけど爽やかで清涼でなおかつコクが深い。目を閉じて汁の旨味が自分のからだの細胞の隅々に届くのを感じる。のどぐろの目と頬と頭全体の可食部がとぅるりとしている。ああ、おいしい。干物にはレモン汁をかける。もともと魚の干物が好きな私はたいそう満足するけれど、夫は「干物に関しては伊豆に軍配があがるな」と冷静に比較した感想を述べる。たしかに伊豆の干物、特に金目鯛の干物は極上だ。伊豆半島で浴びるお日様と風があの味を作り出すのだろうなあ。けれども北陸の風も魚をおいしく干してくれている。干物の皮は香ばしく身のほっくりとした塩味がご飯によく合う。夫が「今度は鯛の干物を食べたいな」と言う。

「鯛の干物があったの?」
「うん。大きな鯛の干物があった」
「鯛の干物はなんとなく珍しい気がするね。今度来た時にはそれをいただこう」

 すべてをお腹におさめて満足してごちそうさまと手を合わせる。もう一度お茶を少し飲んで席を立つ。何度も何度もおいしかったね、おいしかったね、のどぐろ素晴らしいね、と言い合いながらお店を出て車を運転する。お店を出る直前に見た鯛の干物は「醤油干し」と書いてあった。今度はあれを焼いてもらって食べよう。

 毎年この時期になると夫が株主優待割引券で私にサンダルを買ってくれる。誕生日プレゼントを兼ねた贈り物のようなのでありがたくもらっている。魚料理の帰りにリーガルに寄る。今年のデザインはどんなのかな、と見た結果、鮮やかな濃い桃色と薄い桃色と茶色い皮のサンダルが「私を買って履いて」と言ってきたからそれでサクッと決まる。帰宅して玄関に新しいサンダルをならべる。華やか。ようこそ我が家にようこそ私の足元に。     押し葉

セミの抜け殻よりも

 七月二日の夜。先に寝床に入った夫に「そうそう、あのね、今日はね、やぎ(妹)の誕生日なんよ」と伝える。夫は「ほうほう、それはそれはおめでとう」と言う。私は「うん、ありがとう」と満足して夫に「おやすみ」と声をかけてふすまを閉める。
 妹が母と一緒に病院から帰ってきたとき私はもうすぐ5歳で弟はもうじき3歳だった。生まれてまもない妹は小さくて丸くて、私がそれまで見たことのあるほかの赤ちゃんとくらべるとずいぶん髪の毛が少なかった。
 夏の間弟と私は外遊びでセミの抜け殻を見つけると大発見したみたいに報告しあう。ふたりで顔を見合わせて「やぎにも見せちゃろう」とかけって持ち帰る。そして「ほら。セミの抜け殻よ」と妹に見せる。妹はたいして反応しない。「見てみんさい。こうやったら服にもつくんよ」と私も弟もそれぞれに自分の服にセミの抜け殻をつける。ブローチかなにかみたいに。それから妹の着ている服(乳幼児用衣類)の胸というかお腹のところにもセミの抜け殻をそっとのせてつけてやる。三人いっしょで、おんなじで、仲間だ。すると妹は大きく泣く。母と祖母から「やぎがいやがることをしたらいけん。やぎがよろこぶことをしちゃりんさい」「赤ちゃんには虫も抜け殻もつけたらいけん。やさしくなでなでしてあげんさい」と指導鞭撻を受ける。妹がなにをよろこぶのかはまだよくわからないものの、セミの抜け殻を服につけてやると泣くというのはわかった。
 妹はセミの抜け殻はいやがるけれども、歌をうたって聞かせたり創作踊りを踊って見せてやるのならよろこぶみたいだということを知るのはお互いにもう少しずつ大きくなってからのこと。     押し葉

求める酢

 昨日もタコとキュウリの酢の物を作って食べたのだが、今日もまたタコとキュウリの酢の物を作った。さらに豚肉の冷しゃぶを作りポン酢をダバダバとかけ、キュウリのピクルス(酢漬け)を切り、そのままうっかりしていたら冷奴に釜揚げしらすをのせたものにまで酢をかけそうになったが、いやいやここは醤油でしょう、と思いとどまり醤油をかけた。

 むかし、広島の祖母が夏になると「す素麺が食べたい」と言うことがあった。最初は「素うどん」の素麺版の「素素麺」だろうと思い、具も薬味もなくひたすらに素麺だけすすりたいときもあるかもね、と、はいどうぞ、と、めんつゆを卓上に置く。しかし祖母は「これじゃあなしに、酢をかけて食べる」と言う。「はあ? 酢?」と確認すると祖母は「ほうじゃ。酢じゃ」と言う。当時実家で酢はどんな瓶で買って使っていたのか、一升瓶だったのか500ccくらいの瓶入りだったのか、どこにどんなふうに保存していたのかに関する記憶はまったくないが、普段酢の物を作る時に使う酢を出すと祖母は「それそれ」と言う。そして器に盛られた素麺にそのまま酢をトポトポとかける。「ばあちゃん、つけつゆみたいにして、ちょん、とつけるんじゃなくて、そんなにかけて食べるんじゃ」と言うと祖母は「酢が食べたいんじゃ」と言う。

 祖母がそうして酢素麺を食べるのを見ても誰もそれを真似はしなかった。祖母は「うまいのう、うまいのう」と言いながら酢素麺をすすり、ときたま「むほっ」とむせたりもした。誰かが「そんなにむせながら無理に酢で素麺を食べんでもめんつゆで食べたら」と言っても祖母は「いいや、めんつゆじゃなしに酢で食べたいんじゃ。酢が食べたいんじゃ」と言って志を貫く。

 あのとき、祖母が酢を素麺にかけて食べるのを見たとき、ちっともおいしそうだとは思わず、むしろどちらかというと、私の味覚食文化的にそれはないな、と思っていた。でも今なら少し祖母の気持ちが、祖母の身体が求めていたものが、なんとなくわかるような気がする。身体が酢を求める。     押し葉

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プロフィール

どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

ときどき、思い出したように、いただいたメッセージへのお礼やお返事をリンク先の「みそ語り」に書いています。よろしければ、いつでも、どうぞ、どなたでも、ご覧ください。「みそ語り」では、メッセージをくださった方のお名前は書いておりませんので、内容から、これは自分宛かしら、と推理推察しながら読んでいただければうれしいです。手の形の拍手ボタンからメッセージをくださる場合は五百文字以内、文字の方の押し葉ボタンからメッセージをくださる場合は千文字以内となっております。文字数制限なくお便りくださる場合には、下のメールフォームをご利用ください。

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