みそ文

老婆と犬と歯科医院

 仕事を終えて帰宅したのが夜七時過ぎ。冬至の夜七時は暗い。駐車場で車を降りる。夕ごはんはあったかいおうどんなのよー、たのしみねー、うふふー、と思いながら歩く。「あの、すみません」という声が聞こえる。声の主は七十代にはなっておられそうなもしかすると八十代かもしれない年配の女性で、その足元にはそんなに大きくない犬がいる。

「はい、こんばんは。なんでしょう」
「ちょっと道をお尋ねしたいんですが。五丁目はどのあたりでしょうか、このへんですか?」
「いいえ、ここは四丁目なんですよ。五丁目はここよりももう少し西のあたりだと思うのですが、五丁目のどのへんをおさがしでしょうか」
「それが、五丁目という以外わからないんです。でも五丁目まで行けばわかるかと。実は夕方明るいうちに犬を連れて散歩に出たんですが周りがだんだん暗くなってきて家に帰る道がわからなくなってしまって。家といっても娘の家でして、私はこのへんのことがよくわからないものですから」
「まあ、それはたいへんたいへん。実は私もこのあたりの土地勘があまりないもので、五丁目の位置を車の地図で今すぐ確認してみますね。お急ぎでしょうが、ごめんなさいね、少しだけお待ちくださいね」
「すみません、お手数おかけします」
「いえいえ」

 駐車場の車に戻りエンジンをかけてナビゲーションシステムの起動を待つ。五丁目の位置を確認する。おばあさんと犬がいるところに戻り、いったん一緒に通り(道案内をしやすい通り)まで移動する。西側を指さして「この通りをあの信号があるところ見えますかね、そこまでまっすぐ歩いてあの信号をこえたところ、大きな街道の西側一帯が五丁目なんですが、五丁目に入ればおわかりになりそうですか?」と尋ねる。おばあさんは「よくわからないけど、ここをまっすぐなのであれば行ってみます」とおっしゃる。

「それはいけません、暗い中でよくわからないのに歩くのは危険です。そうだ。ご自宅のお電話番号がおわかりでしたら、もしよろしければ、私の携帯電話からご家族の方にお電話してご自宅の場所を確認しましょう」
「ええと、娘の家の番号は、たしか、**-****で合ってると思うんですが」
「では、市外局番を前につけて、****-**-****、この番号でしょうか(と携帯画面をお見せする)」
「はい。この番号です」
「どうしましょう、よかったらこの電話で直接ご家族の方とお話しなさいますか?」
「いいえ、私はもう耳が遠くて電話はよく聞こえないので、できたら代わりに聞いてください、お願いします」
「わかりました。では、すみませんが、お名前教えていただけますか」
「マミヤ、といいます」

 教えてもらった番号に電話をかける。電話に出られた方は娘さんとはまた別のようなご年配の女性だがご家族のようだ。突然のお電話で失礼いたします、実は四丁目の駐車場で迷っておいでのマミヤさまに五丁目までの道を尋ねられまして、そちらはマミヤさまのご家族のお宅でしょうか、ああ、よかったです、マミヤさまからご自宅は五丁目だとお聞きしたのですが、五丁目のどのあたりか教えていただけましたらご案内さしあげたいと思いまして、歯医者さんのお向かいですか、ええと街道の交差点の大久保歯科さんのことでしょうか、あらちがいますか、遠峰歯科さん、ですか、ごめんなさい、遠峰歯科さんをよく知らないものですから、それ以外に何か目印になるものは…、公園がふたつ並んであるところのお隣の敷地ですね…(どこだろう)、ええと、念のため番地もお知らせいただけましたら、はい、何番地の何番ですね、わかりました、では、ご本人様にお伝えしてご案内してみますね。

 おばあさんと犬に「ご自宅は遠峰歯科さんの近くで五丁目の何番地の何番だそうです。といっても私もよくわかりませんので、今一度車の地図で場所を確認してみますね。また少しだけここでお待ちいただけますか。寒いのにごめんなさいね」と声をかける。おばあさんは「すみません、ここで道をどう行ってどう行けばいいかを口で説明してもらえれば、一緒に歩いてもらわなくても帰れると思いますので」と言われる。私は取り急ぎ車に戻る。今にして思えばそのまま私の車まで一緒に歩いて来て乗ってもらい、私がナビに番地入力する間待ってもらったほうがおばあさんと犬にとっては寒くなくてよかったなあと思うけれど、初対面でいきなり知らない他人の車に乗るのには心づもりもいるだろうし、思わぬ展開で老女誘拐になってもいけないし、まず私はいったん車に乗りナビに五丁目のその番地を入力する。そしてさらに今になって考えれば、ご家族の方におばあさんと犬の現在地だけでなく私の名前と電話番号をお伝えして車でお送りすることを連絡しておいたほうがご家族の安心はより高かったのかもしれないなと思う。あるいは現在地を詳しく説明してご家族に迎えにきてもらう方向でお話してもよかったかもしれない。しかしその時には私も空腹の身体で、さてどうしましょう、と思いながらのことだから、まあ今回の方法でも迷い人と迷い犬のお手伝いとしては一応及第点ということにしよう。というわけでナビの案内を開始する。通りの手前にいるはずのおばあさんと犬のところまで車で行く。

 ところがさっき道案内をした場所におばあさんと犬がいない。もしやこの道をまっすぐ行って信号をこえたところが五丁目だと説明したから待ちきれなくて歩き始められたのかしら。街道に向けて少し走るが老女と犬の姿は見えない。三十メートルくらい走っていくらなんでもこの短時間でここまでは歩いていないはずと思いすぐに引き返す。先ほど道案内をした場所から街道側(西の信号がある方向)に十メートルほどの場所にある建物の前のくぼんだ場所でしゃがむおばあさんと犬を見つける。少しでも自分で歩いてみようと思ったもののやっぱり私を待つことにしようと判断されたようなそんな微妙な位置。そして老人特有の着衣の濃い色合いが暗闇での目視確認を阻む。それでもそこで見つけることができて一安心。おばあさんと犬の前で車を停める。運転席から降りて左側の後部座席を開ける。「お待たせいたしました。見知らぬ者の車でご不安でしょうが、こちらにお乗りください。ご自宅までお送りします。犬は膝に抱いていただいて。おふたりとも大丈夫そうですか。では扉を閉めますね」。運転席に戻る。

「先程ご家族の方に教えていただいた五丁目の何番地何番まで車の地図が案内してくれますので、そこまで一緒に行ってみましょう。それで見覚えがある場所でしたら、もしも見覚えがなくても、そこでまたご家族にお電話しましょう」
「うわああ、こんなにしてもらって申し訳ないです。お忙しいのに、すみません、助かります」
「いえいえ、ちょうど仕事から帰ってきたところでしたから」
「ああ、それならよけいにお疲れのところなのにすみません」
「いえいえ。暗い中長く歩かれて、それこそお疲れでしょう」
「私よりも犬がですね、もう、歩きたくないみたいで全然動かなくなりまして、年寄りが抱いて歩くには重たくて、でもカバンもお金も何も持たずに出てきたもので、五丁目以外のことがわからなくて」
「まあ、それは、犬もいくら散歩が好きでももう十分に満足したんでしょうねえ。長いお散歩になりましたねえ。寒くて暗い中不慣れな場所だとよけいにどっちがどっちだかわからなくなりますよねえ」
「何度かいろんな人に尋ねてはみたんですが、どの人も五丁目はあのへんだけどそれ以上のことがわからないとわからないねえと言われまして、それはまあそうですよねえ、そうこうしているうちにこんなに遅い時間になって暗くなって、犬は歩きたくないといいますし」
「私も五丁目とうかがってもとっさにどのあたりなのかわからなくて随分お待たせしてお寒かったでしょう。長く待ってくださってありがとうございました。とりあえず行ってみましょうね」

 車の暖房の温度を少し高めに設定する。車の中でおばあさんは犬に「よかったねえ、よかったねえ」と何度も声をかける。待て待て、よかったねえ、は自宅を発見するまで待て待て、と思いつつナビの案内に従って運転する。しばらくするとおばあさんは「うわあ、車でこんなに走ってもらうくらいそんな遠くだったんですか」と驚かれる。私は「本当にずいぶん遠くまで歩かれたんですねえ。ここの信号を超えたら五丁目ですから、あと少しみたいですよ」とナビの地図をささっと見てお伝えする。ナビの案内に従って走行ししばらくすると左手前方に遠峰歯科の看板が見える。右側には公園がふたつ。遠峰歯科の前で車を停める。後部座席のおばあさんに「左のこの明るい建物が遠峰歯科さんで、右側が公園ですが、見覚えはありますか?」と確認する。

「ああ、遠峰歯科さんがここですか。ああ、それでしたら、もう少しだけまっすぐ行ったところの街灯の下の家が娘の家です」
「青い灯りで飾り付けがしてあるお家でしょうか」
「それよりも少し手前なんですが」

 そろりそろりと前進すると、右手の家の前に私よりも少し年上くらいの中年の女性と高齢の女性が何かか誰かをさがすように立っておられる。

「もしかして、今の右側のお家に立っておられる方たちがご家族でしょうか」
「ああーっ、そうです、その家です」
「ではではここの道を左に入ってすぐに、車の来ないところで車を停めますね。ドアを開けるまでもう少しだけお待ちくださいね」

 道の端に車を停める。通りの向かいで立っておられる方たちに「マミヤさまのご家族の方でいらっしゃいますか」と声をかける。おふたりがわわあーっというかんじで道を横切ってこられる。後部座席のドアを開ける。「どうぞ足元お気をつけて降りてください」

 ご家族の方々はおばあさんと犬に大急ぎで手を触れてから私に向かって「ああ、ありがとうございます、ずっと家族総出で四方八方捜しまわっていたんです。でもどうしても見つけられなくて、少し前に警察に連絡して協力をお願いしたところだったんです。他の家族も車で捜しに出ていて。あああああ、本当によかったー、ありがとうございました、母はこのへんの土地勘がなくて、本当にご迷惑をおかけしました」と何度も丁寧にお礼を言われる。

「無事にご案内できてよかったです。私も県外から来た者ですから、すぐにどこがどこかわからなくて、お電話したあとのご案内に時間がかかってご心配をおかけしてすみません。身体が冷えておいでのようですから、どうかすぐに暖かくしてさし上げてください」
「ああ、もう、本当にありがとうございました。母はどのあたりにいたんでしょうか」
「ええとですね、四丁目の運動場の南側のマンションの駐車場のところでお目にかかったんです」
「まああ、そんな遠くまで」
「ええ、ご年配の方の散歩としてはずいぶん遠くまで歩かれたみたいですねえ、お疲れのことと思います」
「あの、お名前とご自宅の場所を教えていただけますか、後日またお礼に伺いますので」
「いえいえ、それはどうぞ何もお気遣いなく。ご無事でなによりでしたから」
「でも、お名前だけでもお願いします」

 それはまあご家族としてはどこの誰ともわからない不審者よりは名を知るほうがこころ安らかであろうなと判断し「どうやら、と申します」と名を名乗る。「ど、どど?」ととっさに聞き取ってもらえないのはいつものことだから、宿泊の電話予約をする時と同じように漢字を一文字ずつ説明する。さらに娘さんはすかさず携帯電話を取り出し「電話番号もお願いします」と言われる。ええ、ええ、お気持ちはわかります、私が不審者じゃないのがわかれば安心ですものね、と内心で腹をくくり、「先程ご自宅に電話した時の携帯番号でもかまいませんか」と自分の携帯電話番号をお伝えする。娘さんは素早く携帯電話にその番号を入力する。「でももう本当にどうか何もお気になさいませんように」と再度お伝えする。

 私は「では、これで失礼いたします」と速やかに運転席に。先程まで抱いていた犬をご家族に託したおばあさんが私の車の横で「ほんとうにありがとうございました」とお辞儀しておられる。私は車の窓を開けて「わざわざありがとうございます、ご自宅が見つかってよかったです。どうか温かくしてお休みくださいね、失礼いたします」と頭を下げて挨拶する。娘さんともう一人のおばあさんは私の車に向かって会釈し見送りつつ捜索に協力してもらったのであろう近隣各方面に無事を知らせる活動に移られるようなご様子。

 帰宅してから夫に「うちの車にナビくんがいてくれて、今日は本当に助かったんだよ」と上記の経緯を話す。「それでね、後日お礼に伺いたいって言われてそれはいいですからって断ったけど、もしも万が一私がいない時に、おばあさんと犬と、いや犬までは来んか、その娘さん風あるいはご家族風の人がうちに来られておもむろにお礼を言われたらそういういきさつだから、そのときは対応よろしくお願いね」と頼む。

 老体に寒空はさぞかし堪えたことだろうと思う。犬はまったく鳴くことなくずっとじっとおとなしかったけれども、おばあさんは車の後部座席で何度か咳をしておられたことが少しばかり気がかりだ。暖かくしてぐっすり休んで今日の疲労と混乱から回復し、またお元気に、今度はしっかりと陽のある時間帯に、ご自宅住所とお名前と電話番号を書いたものを持ち歩きつつ、そして衣服は明るく見つけやすい色合いのものを着て、五丁目と四丁目とその周辺を探検し、いつでもどこでも思い通りの場所に行けるくらいにこのあたりについて詳しくなってくださるといいなあ。これから少しずつ日が長くなる。散歩の安心も今日よりはきっとずっと多くなる。     押し葉

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どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

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