みそ文

フルート妖怪の参上と退散

 フルートの伴奏をピアノで弾きたい、という私の欲望のもともとのもともとは、実は前回書いた話よりももっとむかしにまでさかのぼる。

 結婚して間もない頃、私たちは奈良県の当麻町(當麻町たいまちょう)という町で暮らしていた。最寄りの公共交通機関は近鉄電車。
 
 その結婚して間もない頃、どういうわけか夫が、突如なにかにとりつかれたかのように「フルートを吹けるようになりたいなあ。フルート習おうかなあ」と言い出した。
 夫は小学校中学校の音楽の授業以外の音楽経験はなく、音符は読めないという。それでも何か音楽を、楽器演奏をしてみたいと思うのは実に素敵なことだと思うから、それはぜひぜひ習ったらいいよ、楽譜は慣れれば読めるようになるし、もしも難しい時には私が楽譜に読み仮名をつけてもいいしね、とすすめる。
 夫は「でもなあ、フルート買うの高いよなあ、うーん、中古を探したほうがいいかなあ、いきなり新品はなあ。習うところもどうやって探していいのかわからんしなあ」と迷い続ける。

 当時の私は現在よりももう少し「いらち(せっかち)」なところが若気の至りのひとつとしてあったのだろうと思う。夫に限らず誰に対しても、そんなふうになんとなく直感のような感覚が「やってみたいなあ」と感じることは、それが合法で適切な範疇のことであるならば、さっさとせんでどないすんの、四の五の言わんとさっさとやってみたらええやん、というような気持ちがふつふつと湧きあがるお年頃であったのだろう。

 うちの最寄り駅から近鉄電車で奈良側に二駅ほどいったところに少し大きな町があった。その町に何かの用事で行くたびに、この駅前にはこじんまりとしたよい楽器店があるなあ、と思っていた。そういえば、あの楽器店には通りに面したショーケースにフルートが置いてあったような気がする。フルートがどれくらいするものなのか、一度見に行ってみよう、と思う。私は一人で楽器店に入る。

 その楽器店にあるフルートは全て新品だったように思う。中古を取り寄せてもらうこともできるけれど、中古でそれくらいの値段で、新品でこれくらいの値段なら、新品で買ってもいいんじゃないかなあ。という情報を持ち帰って夫に情報提供するだけのつもりでいたのに、店頭でフルートを見ていたら、ああ、このフルートを夫が吹くようになって、別にそんなに難しい曲でなくてもいいから、簡単な曲であっても、夫がフルートを吹いて、私がピアノで伴奏できたら、夫婦で合奏ができたら、どんなにたのしいだろうか、とめくりめく妄想が広がる。

 夫は音楽に関しては、他人が演奏したり歌ったりするのを聴くことは好むけれど、自分では演奏しないし歌もうたわないのだと本人が言っていたから私もそのように認識していた。でも、それは、夫のそれまでの二十八年間がそうであっただけで、別にこれからいくらでも音楽を始めればいいよね、うんうん、それで夫がフルートを吹けるようになれば、私がピアノで伴奏して、老後や晩年は二人で合奏を楽しむの、くうっ、いいじゃん、いいじゃん、すてきじゃん。

 その日はとりあえず、あのフルートがいくらで、別のフルートはいくらで、初心者ならこれくらいからがいいのではないでしょうかねえ、とお店の人が説明してくださったことを記憶して、フルート教室のチラシをもらって、帰宅する。
 夫はあいかわらず「フルート吹きたいなあ。フルート習いたいなあ」と口走る。ああ、夫が今のフルート吹きたい意欲の勢いのどさくさにまぎれてフルートを習い始めさえすれば、私たち夫婦の老後の晩年の趣味の音楽生活の準備は万端なんだわ、と思う。

 その次の日もまた次の日も、夫は「フルート吹きたいなあ、フルート習いたいなあ」とうわ言のように口にする。よしよし。そこまで言うのであれば、これはもうフルート買っちゃおうよ、買って習おうよ、よーし、買っちゃおう、私が買っちゃう、秘密で買って夫にプレゼントしちゃうぞー。

 そして私は、自分にとって日常的に持ち歩くには少し大きな金額を自分の口座からおろして、となり町の楽器店に行く。こんにちは、先日見せていただいたフルートをください、と購入。
 ほくほくと、うきうきと、ケースに丁寧におさめられたフルートを抱えて帰る。いいなあ、フルートは、まあバイオリンもそうではあるのだけど、持ち運びが簡単なのがピアノに比べるとずいぶんと気軽でいいなあ、うふふふふ。

 仕事から帰ってきた夫との夕食を終える。夫はやはり「フルート吹きたいなあ、フルート習いたいなあ」と言う。私は「あのね、プレゼントがあるの」と話す。夫にフルートを手渡す。夫はたいそうおどろく。「高かったんじゃないの?」「うん、高かったけど、ピアノよりはずっと安いと思う。どうやらくんがフルート吹けるようになったら、年をとってから二人で、フルートとピアノで合奏できたらいいなあ、と思って」

 ねえねえ、開けてみて、と私が言うと、夫はいそいそとフルートのケースを開く。おそらく初めて手にするフルートを「こうかな」と言いながら連結して組み立てる。夫は、ほう、ほほう、と言いながら、フルートに口を近づける。「フルートを吹くときの口の形って、ちょっと横長なかんじだよなあ」と言って、それから少し息を吐いて吹く。音は出ない。「あれ、うーん」と言いながら、夫は何度かフルートに息を吹き込む。ぴーっ。

 わあ、鳴ったよ、フルートの音が鳴ったね、フルートだね、きれいな音だね、とぱちぱちと手をたたく私に、夫は「うん。鳴った。フルートの音がした。満足した」と言う。そして、夫はフルートを分解して拭いて、ケースに片付ける。

「え? それだけ? それでおしまい?」
「うん。フルート吹きたかったのが吹けた、満足した」
「ええと、これでフルートを習いに行けると思うんだけど、フルート教室案内のチラシももらってきたよ」
「うん、でも、もう、いい、習わなくていい、満足した。あとは、このキラキラを眺められたら、それでいい」
「えーと、えーと、自分一人での練習では、なかなか、きらきら星レベルでも一曲演奏できるようになるのはたいへんだろうと思うから、誰かの指導を受けたほうが吹けるようになりやすいと思うよ」
「うん、でも、もうフルート吹いて満足したけん、いい。別に曲は吹けなくていい。ありがとう。このフルート、銀貨と一緒に大切に保存する」
「いや、銀貨は保存して眺めるものかもしれんけど、フルートは保存して眺めるためのものじゃなくて、吹いて音楽を演奏するためのものだから」
「うん、でも、このフルート、プレゼントしてもらったから、あとはおれにまかせて」

 ええと、ええと、ええと、ええと。なんなんだ、なんなんだ、なんなんだ。
 さっきまでの連日の「フルート吹きたい習いたい」のうわ言はなんだったんだ。フルートというのは、ただ単にぴーっと音が出たらそれでいいものではなくて、音階の出る楽器なのだから、音階を組み合わせた曲を吹いてこそのものなのではないのか。
 ぴーっと一吹きフルートの音が出ればそれで満足なのであれば、なにもフルートを「購入」しなくても、一時的にお借りするような、たとえばフルート教室に体験入学だけしてみてその教室のフルートを借りて音を出してみる、などでもよかったのではないのか。

 学習。夫に何かプレゼントをするときには、本人がほしいと所望したものであっても、本人がそれをどの程度真に必要としているか時間をかけてよくよくよくよく観察して見極めること。自分がフルートのピアノ伴奏したいからといってその欲望のおもむくままに高価な買い物をするようなことは今後自重すること。それから、夫とのフルートとピアノのコラボに関しては期待せずに生きていくこと。

 それから、夫は、毎晩、フルートのケースを開けては、フルートの銀色のキラキラをしばらく手にとって眺めて、ニヤリとして、片付ける。ときどきフルートを拭くものでフルートを拭いて、フルートのキラキラを保つ。

 しかし、その後、奈良から大阪に引越してしばらくした頃には、もう、そのフルートはケースを開けて眺めてもらうこともなくなった。さらにその後、大阪から熊本に引っ越し、熊本から福井に引っ越しても、フルートの境遇に変化はない。
 今でもときどき、あのときのあのフルート、どうなっているんだろう、と、三年か四年に一度くらい気になって、私はこっそりと夫の部屋に入りフルートのケースを開けて見る。フルートは順調にサビている、というのだろうか、手入れをしていない金属特有の変色変質が進行している。
 ああ、うう、贈り物というものは、贈る側の贈りたい「気持ち」をのせるものではあるけれど、「気持ち」を超えた個人的な「欲望」がこもることで、贈り物を受け取る側のその物に対する興味が消失することがあるのだなあ。そして贈り物その「もの」がその「もの」としての本来の役割を果たさなくなることがあるのだなあ。

 あのときのことと我が家に今もいるフルートのことを思い出すと、今でも、贈り物に関しては、ああ、うう、と、願いごとも贈り物もままならないものであるなあ、という深々とした気持ちになる。あのときの自分の、フルートとピアノの合奏に対する鼻息の荒い欲望を思い出すと、さように突っ走らずとももう少し落ち着いたらよかったのにねえ、と思う。

 でも、若気の至り、というのは、だいたいそういうものなのだ。後年まで、ああ、うう、と思ってこその、若気の至り、なのだから。

 そういうわけで、我が家には、なぜか謎のフルートがある。誰もフルートを吹く人はいないにもかかわらずフルートがある。あのフルートは、夫に「フルート吹きたいよう、習いたいよう」と口走らせる「フルート妖怪」の参上によって我が家に仲間入りしたのち、その「フルート妖怪」のすみやかな退散とともに楽器ではなく置き物となった。

 思えば、あの頃、結婚した当初から、私の「フルートのピアノ伴奏をしたいです」の願いは、私の周りで浮遊し続けていたということなのかもしれない。
 当時からのその願いの強さと大きさ深さ以外にも、結婚十八年目という時間の長さもある程度なんらかのエネルギーを持っていて、だから、こうしていきなり三人ものフルート奏者の人たちと出会うような形として願いが叶いつつあるのだろうか。

 けれども、別に私はそんな三人もの大量のフルート奏者を求めていたわけではないのだ。転職せずに一人のフルート奏者と出会えるならそれで十分満足なつもりでいたのだけどなあ、と少し思う。
 いや、もちろん、今の職場で三人のフルート奏者の方々と出会えたことは大きな喜びではあるのだ。それは本当にうれしい。

 けれど、なんで三人もまとめてなんだろう、なんとなく出血大サービス過ぎるような、願いの叶い方が少々遅いわりにはやや激しすぎるような、どうだあっ、これくらい叶ったら満足いっぱいで嬉しいだろうっ、願いが叶うのにかかった時間のぶん喜びもひとしおだろう、と采配してもらえたのかもしれない微妙なさじ加減のようなものに若干の戸惑いを覚える。
 いやでも、もしかすると、出会ったフルート奏者が一人ではなく三人であるからこそのメリットというか実は私が特別強く意識することなく潜在的に願っていた何かが叶うからくりがそこにはあるのかもしれない。
 実際、現在の職場のフルート奏者の人たちは、三人三様に曲の好みが異なっている。だから、私が持っていった楽譜の中から選んでくれる曲目もそれぞれに異なり、そのぶん私が伴奏に取り組める曲の数は多くてわくわくする。それはたしかに、奏者が三人いるからこそのメリットでうれしいことではある。
 
 そう、きっと、おそらく私もどこかではもうわかってはいるのだ。願い事というのはこういう造りになっているということも、そこにはある種のしょっぱさのような駆け引きにも似たままならなさを伴っているということも。
 そして、愚痴や軽口で口にしただけのつもりでいたことが願いとして天に受けとめられ叶うことがあるくらいだから、本気の願い事として抱いたことが叶うときには、自分としては、私はこんなことを願っていたかしら記憶にあまりないのだけど、なぜこのタイミングでなのかしら、この願いが叶う過程として本当にどうしても自分がそれなりに気に入って馴染んでいる何かを手放す必要があるのかしら、なにかもっと別の願い方や叶い方が実はあるのに私はまだそれを知らないがために、ままならなさをままならなさとしてそのまま受け取るしかない境遇にあるのではないだろうか、と考えるわけだ。

 かみさま、そのあたりの、得るものの数や量やそれと引き換えのように手放すことになるものとの兼ね合いはどのような設定になっているのでございましょうか。
 ああ、それでも、本当は、きっともう、私は知っているしわかっているのだ。自分が気づいていない部分との兼ね合いも含めて、それはたしかにそれぞれがエネルギーの折り合いをつけてそういう形であるようになっていて、無駄なく安全で自分にとって適切な成り行きとなるように物事が展開しているということは。それが一見短期的には不本意や不安を伴うことであるように思えるとしても、不本意と本意はいつもある程度の一定数ずつ散りばめられているもので、自分が気づいた不本意を凌駕する本意のある場所に自分の身を置くかどうか、不本意がすでにあったことはなかったことにはならないけれど、それはそれとして、それとは別に実はすでに手にしているあるいは用意されている本意に気づいてそうなのかと自分がそう思うかどうか、どちらをより深く繰り返し味わい耽溺するか、それだけなのだというこは。

 それでも、願いごと研究家としては、思うがままに意のままに世界征服、とまではいかないとしても、せめてもう少し、自分で腑に落ちやすいような、少なくとも、ついとっさに天に向かって「ああ、うう、かみさま、これはもしかして、あのときのあれが叶って今のこれなのでしょうか。もっと私にとって都合よく感じられるタイミングや加減でというわけにはいかなかったのでしょうか」と少々物申し問い正したくなる気分の出現は控えめになるような、そんなやりようがもしかするとまだあるのではないかなあ、と、私にその余地と伸びしろがあるならそこも見てみたいなあ、と、さらなる高みを目指すのであった。     押し葉

少し忘れた頃に叶う願い

 最近、といってもここ数年から十数年にかけてのことだけれども、自分が強く願ったことが叶うときというのは、自分が願ったことを少し忘れかけた頃やちょっとすっかり忘れたような頃になって、ということが少なくないような気がすることが多くなってきた気がしている。

 たとえば、私の個人的なことに関して最近特にそうだなあ、と感じていることを書いてみる。

 今年の初夏まで勤務していた「すこやか堂」で働くことを私は私なりに気に入っていた。広い店内をてくてくとたくさん歩くのも好きだったし、同僚やお客様の動向をネタとして拾うのもたのしい。この調子で老婆になってもここで働けるといいなあ、働きたいなあ、と思っていた。
 それが、以前はなかった定年制が「すこやか堂」全社全店に導入されることになり、老婆になっても働き続けるのは無理そうになった。
 他にも、個人的な契約内容のことだけでなく、なんでもないような社内規のいくつかの改訂があり、それらはほんとうに些細なことなのだけれども、私の体質上特性としてはその新しい規則に自分を合わせるのには少々手間がかかるなあ、となると私としては退職することになるのかなあ、退職することにするのかなあ、というような、そういう方向へ方向へといろんな出来事が展開する。
 ううむ。退職したいわけでも転職したいわけでもないのだけどなあ、これはどうしたことだろうか。

 どうしたことなのかの理由はもうひとつふたつみっつよくはわからないままではあるけれど、とりあえずいったん退職し、しばしの夏休みを満喫し、転職活動を始めたところ、なんというか、あっけなく、最初に面接した会社で採用が決まる。
 その会社の仕事では、これまでのように店舗面積が広いわけではないからてくてく歩くことはないし、新しい環境に慣れてその職場職場特有の仕事の仕方に馴染んでいくことにエネルギーがたくさん必要で、ネタをネタとして拾って面白がることができるようになるまでにはまだもう少し時間がかかりそうだなあと感じる。
 ううむ。この職場に自分が流れ着いたのには、何かからくりがありそうな気配はあるのだけれど、それはいったいなんなんだろう。

 そんなふうに思いながら、黙々と淡々と転職先への順応に励む。黙々と淡々とそうしていたところ、ある日ふとしたことで、とある先輩薬剤師の人が趣味でフルートを吹く人であることがわかる。
 うわー、うわー、私、ずっと、フルートを吹ける人と出会いたかったんです、私ピアノを弾くんですけれど、フルートのピアノ伴奏をしたくてしたくて、五年か六年かくらい前にフルートとピアノの合奏用楽譜を買ってピアノ伴奏部分の練習をしてきたんです、でもなかなかフルートを吹ける人と知り合う機会がなくて、どうすればフルートのピアノ伴奏ができるようになるんだろうかと考えていたんです。

 するとその先輩薬剤師の人は別の事務職の人に「ちょっとー、聞いて聞いてー、どうやらさんね、ピアノ弾くんだってよー、フルートの伴奏してくれるんだってー、なんかすっごいたのしみねー」と声をかけられる。事務の人は「わー、そうなんですかー、伴奏してもらえると嬉しいですよねえ、練習にも張り合いが出ますねー」と言われる。なんと、事務の人もフルート奏者であったとは。
 その二人からの情報によると、その日はそこの職場には出勤していないけれども、さらにもう一人別の薬剤師の人もフルート奏者であるとのこと。
 な、なにゆえ、ここの職場には、フルート奏者が三人もいるのだ。

 その翌日、私は自分の持っている「フルートと演奏するピアノ」の楽譜二冊と、主旋律を別の楽器に演奏してもらってピアノ伴奏するタイプのビートルズ曲の楽譜を一冊、職場に持っていく。
 私がぜひともフルートを吹いてもらって伴奏をしたいのはグノーとカッチーニそれぞれのアヴェ・マリアなんですけど、それ以外のものでもこれなら吹いてみてもいいなーと思われる曲があったら付箋をつけておいてもらえたら、ピアノで弾く練習をしたいので、選んでもらってもいいですか、とお願いする。
 フルート奏者の同僚たちは、それぞれに、「うわあ、たのしそうー。順番に見て選びますねー。楽譜コピーして練習してみますね」と楽譜を持ち帰ってくれる。
 三人目のフルート奏者である人も「わあ、すてきすてき、コラボたのしみー」と言ってくださる。

 ああ、そうだったのか。そうなのか。私の「ピアノでフルートの伴奏をしたいです」「フルートを演奏できる人と個人的に出会って合奏したいです」というあの願いが叶うためには、私がこうしてこの職場に就職する必要があったというか、私が転職してここにくるのが手っ取り早い方法だったということなのか。たしかに、「すこやか堂」にいたままでは、この人たちと個人的に知り合うのは難しかっただろうなあ。すこやか堂の同僚にフルートを吹く人は一人もいなかったからなあ。しかし、いきなり三人ものフルート奏者に恵まれるだなんて。

 それにしても、フルートのピアノ伴奏に関して願って練習していたのはもうずいぶんと前のことで、当時願ってはみたもののそう簡単には思いどおりにすんなりとフルート奏者に出会えなくて、私のピアノの先生は「ごめんなさいねえ、私がフルートを吹ければ、どうやらさんのピアノに合わせてフルートを吹いてあげられるのに、私ピアノしか弾けなくて」とおっしゃるし、「いやいや、先生はピアノの先生なんですから、ピアノのご指導をお願いします」と応えたものの、フルートの主旋律がない伴奏部分ばかりを練習してるのもなんなので、ちょっと趣向を変えてビートルズのジャズバージョンを弾きたいです弾きましょう、とジャズ独特のリズムのとり方に取り組んでいるうちにフルートとの合奏に関する欲望は意識から薄れていた。
 が、欲望が意識から薄れたからといって、フルート演奏のピアノ伴奏がしたいという希望がなくなったわけではなかったから、その希望は自分でも意識しないところで願いとして念としていつもそのあたりを浮遊していたのだろうと思う。
 
 ああ、かみさま。たしかに私はピアノでフルートの伴奏をすることを強く大きく深く願っておりました。しかし、だからといって以前の職場であるすこやか堂を辞めたかったわけではないのです。けれども、すこやか堂を辞めることが、フルートと合奏するという願いを叶えるそのために都合がよかったということならば、それはそれでそれもわたくしの希望であったことにございますれば、いたしかたないことと存じます。
 
 そうして浮遊していた願いがこうして叶う。
 実際には、まだフルートとの合奏は実現してはいないけれど、いま回覧して曲を選んでもらっている楽譜が手元に戻ってきたら、選んでもらった曲目を中心にピアノの練習を重ねてゆこう。たのしみ、たのしみ。

 新しい仕事には少しずつ慣れてきて、ずいぶんと呼吸がらくになってまいりました。もう少し新しい職場独特の動線に慣れてくれば、不用意に体や頭をどこかにぶつけて「いてっ」「ううっ」と思ったり言ったりすることも減ってゆくことにございましょう。
 引き続き、自分が選んだ新しい環境への順応がんばるぞ、おー。     押し葉

歯磨きのあとのうがいは

 アメリカのテレビドラマを見ていて、登場人物が歯磨きをするシーンが出てくる。歯ブラシに練り歯磨きをつけた状態でブラッシングして、それから、口の中の泡をぺっと洗面台に吐き出して、ほんの一口の水で口をすすぐ。歯ブラシは簡単にすすいで歯ブラシスタンドに立てる。タオルで口の周りを拭く。えっ、それでおしまい?

 私はどこでそうするように習ってそうしているのかわからないけれど、歯磨きをするときには、練り歯磨きで歯と歯茎を磨いたあと、口をいったん水でゆすいで、歯ブラシを水洗いしてから、今度は練り歯磨きのついていな状態の歯ブラシて素磨きをする。それが終わったら、歯ブラシは再び水洗いして歯ブラシスタンドに戻してから、今度は手の指の腹で歯と歯茎をマッサージする。ときどき舌も手の指を使って洗う。水を何度か口に含んではうがいを繰り返し、最後には口全体と喉までしっかりうがいでゆすいでさっぱりとする。歯も歯茎も指でこするときゅきゅっと音がするほどさっぱり。

 アメリカドラマの登場人物は、歯磨きのあとのうがいを、どうしてあんなに簡単に済ませるのかしら。放映時間の都合上、一応歯磨きした場面ですよ、というのがわかればそれでよし、ということで省略しているのかな。それともあのうがいの仕方が、アメリカでは歯磨きのあとのうがいの仕方として一般的なのかな。でも、あんなにちょびっとしか口を水でゆすがなかったら、口の中に歯磨きの成分や味がたくさん残って気持ち悪くないのかな。

 ここ数年、ドラマの中で歯磨き場面を見るたびに、ずっとそう思っていた。それが、先日、日本のテレビ番組を見ていた時の、とあるコマーシャルの中で、歯科医の人が「歯磨きのあとのうがいは一回か二回でじゅうぶんです」と話す場面に遭遇した。むむ、それはどういうことかしら、とじっとそのコマーシャルに見入る。
 歯科医の先生は「練り歯磨きの成分の中には歯を丈夫に保つ成分が入っています。それをすすぎ過ぎてすべて洗い流したのでは、せっかく歯につけた有用な成分が流れてなくなってしまいます。ですから、歯磨きのあとのうがいは一回か二回簡単にするだけにしましょう」と言われる。

 ええええっ。そうなん? いつからそんなことになっていたのだ? じゃあアメリカドラマの中の人たちが歯磨きのあとでしてたあのうがいが足りないように見えるうがいの仕方が歯科業界的には正しいということなのか?

 ええと、ええと、そうなのか? そうであるというのであればそういうこともあるのかもしれないなあ。
 とはいえ、そのように簡単にうがいをするのがいいのだと教えてもらったからといって、これまでの自分の歯磨き習慣をいきなりその指導どおりに変更できるかな、というと、習慣化しているものを変更するのはすこしばかり難しいような気がするなあ。

 歯磨きのあとの自分のうがいの仕方を変えるのは少し難しいかもしれないけれど、とりあえず、アメリカドラマの登場人物が歯磨きのあとにうがいをするシーンで、いちいち「それではうがいのゆすぎが足りないのではないか」と問いただしたい気分になっていたのがこれからは、「いやいやあれはあれで歯に有用な成分を流し過ぎないように気をつけてうがいの仕方なのよ、うんうん」と、少し納得した気分で落ち着いて視聴できるようになるかも。

 しかし、歯科医の先生が歯磨き後のうがいの仕方を指導してくださるそのコマーシャルをあれから一度も見ていないのが少々気になる。あのコマーシャルは本当に現実に放映されたものなのだろうか。それとも私の夢の中で独自に放映されたものなのか。夢の中独自のコマーシャルや夢の中オリジナル豆知識番組が私の脳内ではわりと頻繁に放映されるからなあ。うーん、あやしい。
 それでもまあ、アメリカドラマを見る時に歯磨きのシーンでつまづくことなくドラマの本題の流れを追えるのはありがたいことだから、現実の歯磨きメーカーさんだとしても架空の私の脳内オリジナル歯磨きメーカーさんだとしても、どちらであってもどうもありがとう。     押し葉

柿の実豊作アジフライ

 夫と一緒に海沿いの食堂にアジフライを食べに出かける。ここの食堂のアジフライは、衣はサクサクカラリとしていて、アジの身はふんわりしっとり。
 冷凍アジフライも好きだからたまにうちでも揚げて食べるけれど、生の新鮮なアジをフライにしてもらうとこんなにふわふわなんだねえ、と、感心しながらおいしくいただく。

 うちからその食堂までの道中にある民家の庭の柿の木が、どのおうちのも実がたわわで、今年は柿豊作だったよねえ、と話す。
 柿があまりならない年には、山から熊が里におりてきて、畑の農作物を食べるなどのニュースを見かけることがあるけれど、今年は熊被害ニュースに一度も遭遇していないということは、熊も山でお腹いっぱいになるくらい食べ物に恵まれたということかしらねえ、と安堵する。

 夫に「そうそう、職場でね、同僚の人たちが話してたんだけど、柿の実がたくさんなって、カメムシが多い年には、大雪になるんだって」と話す。

「柿とカメムシと雪とがどういうふうに関係しているんやろうなあ」
「そこまではよくわからんけど、仕事しながら、その話を小耳に挟んで、このまえの小谷(おたり)でのカメムシのことを思い出して、またもやカメムシめー、って思った」
「宿がくさいのも雪がふるのも、カメムシ、おまえのせいじゃー、いうこと?」
「うん、そう」
「カメムシがくさいのはたしかに宿なんかだと営業妨害だけど、雪のことまで言われても、カメムシはどうしようもないんじゃないかなあ」
「まあ、カメムシにもカメムシの事情はあるんじゃろうけど、くさいのも雪が多いのも私としては求めてないけん」
「雪と言えば、昨日言ってたスノーシューの教室が、今年もあるといいなあ」
「今年も、ということは、去年はどこかであったん?」
「うん。去年は県内のスキー場でスノーシュー教室があった、って、スキー場のホームページに載ってた」
「へえ。じゃあ早めに電話して訊いてみたらいいんじゃないかな。そういう問い合わせが早い時期からたくさんあれば、今年もまたスノーシュー教室開催しようっていう企画が動きやすいじゃろうし」
「あるかなあ。やってくれるかなあ」
「だからー、やってもらえるといいなー、と思いつつそういう口ぶりで問い合わせするんじゃん。何も言わずにホームページ見てるだけで、ある日突然スノーシュー教室やりますの案内が出てくるのを待つよりは希望に近づきやすい気がするけど」
「スノーシューって、あれ、けっこう高いんだよなあ」
「あのかんじきそのものの値段のこと?」
「うん。ちょっといきなり買うには高いから、教室があればそこで貸し出しのやつを試し履きして、これはやっぱりスノーシュー本格的にやってみたいな、と思ったら買うようにしようかなあ、と思って」
「それはきっとそのほうがいいね。ねえねえ、山登りの時には熊よけの鈴つけて行くじゃん。でもスノーシューのときには、一応山の熊たちは眠ってる時期だから、熊よけの鈴要らんのんかなあ」
「たぶんつけなくていいと思うんやけど、どうなんやろうなあ」
「それも教室で習えるといいね」     押し葉

西洋かんじきスノーシュー

 土曜日の仕事を終えて帰宅したら、休日で家にいた夫が「この冬、ついに、ウィンタースポーツにデビューするかもしれん」と言う。

「ウィンタースポーツいうたら、なんじゃろう。スキーするん?」
「スキーはせん」
「じゃあ、どこかスケートリンクに行くん?」
「行かん」
「うーん、他に冬ならではスポーツいうたらなんじゃろう。羽子板とか凧揚げはウィンター(冬)というよりは正月じゃしねえ」
「いいもの、見つけたんじゃ。スノーシュー」
「あ、それ、スノーシューって、わたし、聞いたことある」
「え? なんで知っとるん?」
「なんでじゃろう。でも、あれじゃろ、こう、かんじき、みたなものを履いて雪道を歩くぶんじゃろ?」
「そうそのとおり」
「ノルディック複合で雪道を歩きようてんのの仲間じゃろ?」
「それはちがう。あれはスキー」
「そうなん? でも、短いスキー板みたいなのを履いて歩きようてじゃん」
「あれは歩きようるように見えるかもしれんけど、実は滑ってる」
「そうなんじゃ。普通のスキーはだいたい両脚をそろえて滑るけど、ノルディックは左右の足を前後にしてるだけで、やっぱりスキーじゃけん滑ってるのは滑ってるんじゃ」
「うん。でもスノーシューは、ほんとうに、かんじき、じゃけん。西洋かんじき。ちゃんと裏には滑り止めがついてて滑らんようになってるし。滑るんじゃなくて歩く」
「で、それは、どこでするもんなん? スキー場?」
「スキー場じゃあ邪魔になるじゃろうけん、まあ、スキー場の近くのスキー客の邪魔にならんようなところの山道、なんかなあ」
「スノーシューをするような、っていうんじゃろうか、スノーシューで歩くような雪山があるん?」
「うん。そのへんの近くの低い山に雪が降ったら、そこの低めのところで」

 夫は「冬の間は山に雪が積もっていて登れない(厳密に言えば登ろうと思えば登れるが、雪山登山をするほどにはまだ自分は登山上級者ではないと自覚しているのと、冬山登山の装備一式揃えるほどの投資はする気になっていないため、冬は登らないことにしているらしい)から、山が雪に覆われる間は、近所でジョギングしてトレーニングしながら春の雪解けを待つしかないなあ」と以前は言っていたのだけど、冬の間も登山初心者なりに山で遊ぶ方法を求めていたのであるなあ、となんとなく感心する。

 スノーシュー(snowshoe)とは、直訳すると雪靴。スノーが雪で、シューはシューズ(靴)のシュー。
 そう思って見てみると、夏の富士山登山ツアーが旅行会社で催行されるように、「スノーシューツアー」なるものが世の中にはあちこちにあるらしいことを知る。登山ほどには登り下りのない「雪山散歩」というかんじだろうか。ちゃんとスノーシューツアー用のコースというのも整備されているようだ。
 実際のスノーシューの客層がどういう構成になっているのかはまだよくわからないけれど、登山人口の半数以上がリタイア年代の中高年者であるという夫の話から想像すると、やはりその世代のアウトドア嗜好の人々が主なお客さんなのかな。
 そういうコースやツアーが用意されているということは、スキーがしたいわけではないしスノーボードもしたいわけではない、が、雪道を歩きつつ雄大な雪景色を眺めるような活動ならしたい、という人たちが一定数以上いるということで、それなりの市場になっているということなんだろうなあ。

 うん。いいんじゃないかな。これまでは雪が降り積もると、夫も私も「あー、雪下ろしがー、雪かきがー」と、どちらかというとあまり歓迎ではない心情になることが多かったけれど、スノーシューで遊ぶとなれば、雪が降れば「やったー」と思い、たくさん積もればさらにワクワクするかもしれないのであれば、それはなんだかお得な気分になれそう。
 もちろん私はスノーシューにまったく興味はないし、雪山散歩には同行しないけれども、夫が上機嫌でうれしそうであるならば、吹雪でも豪雪でもなければ、山間部中心にちょうどよく降ってくれるといいね、という穏やかな気分で降雪積雪を見守れるようになるかもしれない。
 冬将軍さまには今季もまた引き続き、雪の量は市街地は極力少なめでの調整をお願いするけれど、夫が雪が積もる山に行くそのときには、気持ちのよい雪景色に見とれて脳内に嬉しいの汁がいっぱいジュパジュパジョパジョパ出るようなお天気加減にしてもらえるとなお嬉しゅうございます、とお話ししてみることにしよう。

 ところで、夫は普段に山に登る時には熊よけの鈴をつけていくけれど、スノーシューで山に行く時には熊よけ鈴は要らないのかな。クマは冬眠中だろうか。     押し葉

バイバイの理由

 数週間前の日曜日。週に一度の食材買い出しに近くのスーパーに出向く。買い物を終えて、買い物袋を夫と私で一袋ずつ肩にかけ、出入り口に向かう。

 スーパーの自動扉の外側で小さな女の子がジャンプする。女の子は同行のご家族よりも早くかけってドアの前に来て自分で扉を開けようとしたけれど、彼女の身体が小さいからなのか、自動扉のセンサーが彼女の存在を感知しないようで、いくら跳んでもドアが開かない。
 私が同じドアの内側から外に出ようとしたところでその女の子の様子を見て、今日の自動扉は開きにくいのかしら、と少し思い、自動扉が開きやすいように、片手を少し高い位置でひらひらとセンサーにかざす。
 自動扉はすぐに開く。
 小さな女の子が私に向かって何かを言う。
 その後ろから、女の子のお母様と思われる女性が「すみません。ありがとうございます」と言われる。
 私は「いえいえー」と軽やかに会釈して去る。

 駐車場に置いている車まで歩く間に、夫が私に「さっきの子、なんて言ったん?」と訊いてくる。

「あ、あれね、あの子が小さくて自動ドアが開かんかったけん、私が高い所で手をひらひらっとセンサーにかざしたらそれを見て、『なんでバイバイすんの?』ってあの子が言ってね、それを聞いたお母さんが私に『すみません。ありがとうございます』って言わはって、それで、いえいえー、って言ったの。それからおかあさんはあの子に『今のはバイバイとちがうよ。自動ドアが開きやすいように助けてくれはったんよ』って説明してた」
「なんでバイバイ、って、どういうことやろう」
「私が自動扉のセンサーに手のひらをひらひらとかざしたのがバイバイの形に見えたんじゃろうねえ。でもあの子にとっては、私は面識のない初対面の相手で、しかも今出会ったばかりで、バイバイするような間柄でも状況でもないのになんでやろ、と思ったんじゃないかな」
「小さくてもとっさにそういう状況や関係性の把握ができるあたりに脳の成長が感じられるなあ」
「そうだねえ、ほんとうにねえ」
「それにしても、『なんでバイバイすんの?』って、初対面の相手をいきなり問い詰めるのは、ええツッコミやなあ」
「疑問に思ったことはとりあえず訊く、というのは、大切なことよね。あれがもう少し大きくなると、訊く相手やタイミングや言い方を社会的に微調整するようになっていくんじゃろうね。私も小さい頃といっても、小学校高学年かな、それくらいのときに、町の眼科に通うのにバスに乗って行ってたんだけど、当時は車に酔いやすくて、そのバスで酔ってねえ、うう気持ち悪いと思いながらうずくまるかんじで眼科の玄関に立ったときに眼科の自動ドアが開かなくて、体重を感知してないから開かないのかな、と思って、ドアマットの上でぴょんぴょん跳んだことがある。バスに酔って気持ち悪くて吐きそうなところで跳ぶとその振動でさらに吐きそうでもっと気持ち悪くなってつらくて。そしたら眼科の受付の人が、自動ドアが開かないときには少し高いところに手をかざしたら開くって教えてくれて、それ以来、自動ドアが開かない時には、ささっと手を上にあげるようになった」
「ああ、自動ドアはなあ、センサーに反応するからくりは、小さい頃は知らんもんなあ。当時は田舎には自動ドアなかったしなあ」
「うん。自動ドア、昔は今ほど多くなかった、というか、商業施設や医療機関や今なら自動ドアがついているような建物自体が少なかったもんねえ」

 大きくなるということは、いろんな町のいろんな施設のいろんな自動ドアやいろんな形式の扉に馴染むということでもあるのだなあ。     押し葉

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どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

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