みそ文

焼きナスの皮を上手にむく

 本日の焼きナスとその追記を読んでくださった方が、焼きナスの皮をむくときのコツを教えてくださったので、おぼえがき。

 焼きナスの皮をむいてみて、むむっ、むきにくい、と感じたときには、爪楊枝か竹串を皮と実の間に挿して(皮と実の隙間に挟むようなかんじで入れて)、ナスの皮の内側を滑らせるようにして、皮と実を分離する。
 なるほどなー。
 次回焼きナスを焼き終えて、さあ、皮をむきましょう、という段階になったときに、手元には、爪楊枝か竹串を用意することを思い出したい。

 私はかたいものやスジっぽいものも噛んで飲むのが上手だから、義母スタイルの焼きナスでも、皮ごとおいしくいただく、もしくは、その場で自分でむいて食べるだろうとは思うけれど、すでに皮をむいて食べればよいだけにしてある焼きナス独特のあの気軽で滑らかな食感は、それはそれで快楽の一種で大好きだから、どうせ焼きナスを食べるのならば、皮はむきたい。
 そして、どちらにしても皮をむくのであれば、今日のように、あ、ちょっとむきにくいな、と思ったときにも、ええいっ、いいや、このままで私が食べちゃえ、という方向で解決するのではなくて、いや、それで解決したつもりなのに結果的に夫の口に入って解決にならない、というような解決の仕方(夫が口から上手に皮を出す、という形では解決したと思う)ではなくて、上手に皮をむくコツを求める方向に目を向けたい。

 ちなみに、ナスの皮の紫色の色素もナスのおいしさのうちだとは思うのだけど、それはまた焼きナス以外の別の時にたっぷり食べればいいと思う。     押し葉

焼きナスの追記

 本日の焼きナスは、約一時間の冷蔵で夕食に食べた。ひんやりとしていておいしかった。今日の冷やし時間はたまたま一時間くらいだったけれども、これくらいの冷え具合ならば、三十分も冷やせば充分かも、と思ったことを、またここを見れば思い出せるように、ここに書いておくことにした。
 今日、ナスの皮をむくときに、一部分、ナスの実とくっついていて、どうしてもうまくむけないところがあったけれど、もういいや、これくらい咀嚼して飲み込むよ、と思ってそのままにしていたら、その部分が夫にあたったらしく、夫は口から、しゅるるるーっ、と皮だけを上手に出していた。
 夫はかたいものやスジっぽいものを噛むのが苦手なだけあって、ちょっとしたかたいものやスジっぽいものを口の中で敏感に感知する。私はかたいものもスジっぽいものもおいしければ噛んで飲むし、むしろ好んでバリバリと食べるので、この種類の感知器が口内であまり発達していない。     押し葉

爪の先を紫に染めて焼きナスを

 中学生のときに習った沖縄の歌の中に「てぃんさぐぬ花や、ちみさちにすぃみて(ホウセンカの花の色が、爪の先を赤く染めて)」という歌詞がある。
 その後、大人になってから、韓国に旅行する機会があったときに、地元の大学生の女の子たちが、ホウセンカの花の色素で指先を赤く染めるおまじない文化を紹介してくれた。その色は数日のうちにだんだんと薄くなり、一週間もすれば取れて消えてしまうのだけど、わあ、ほんとうに、こんなに深い紅色に染まるんだあ、沖縄のあの歌のとおりだなあ、と思う。

 私が夫と結婚して、まだ間がない頃の秋の季節、今日は焼きナスを作って食べるぞ、と決めて、夫に「今日は焼きナスよっ」と、少し張り切って告げる。
 夫は、私の張り切り具合とは裏腹に、えっ、それはちょっと、というような表情をして、「焼きナスは面倒くさいから、あんまり得意じゃない」と言う。
 焼きナスが面倒くさい、という意味が私にはよくわからないけれども、私は焼きナスが好物であるし、その日は焼きナスが食べたかったから、「ふうん。何が面倒くさいんか、ようわからんけど、とりあえず私が食べたいけん作るね」と言って、焼きナスを作る。

 ナスの首のところにぐるりと一周包丁で切れ目を入れておいてから焼き始める。焼きあがったナスの皮をむく時にはこの包丁の切れ目のところに爪をひっかけてすうーっとむく。当時は、私の実家でのやり方に習ってそのまま、コンロの上に焼き網を置いて、何度もナスをくるりくるりとひっくり返しながら、皮全体が少々焦げ気味になったかな、というくらいを目安に焼いていたのだけれども、その後はグリルで焼くようになったから、そんなにつきっきりでのお世話はしなくてよくなった。我が家のグリルは片面焼きだから、ナスの表側の皮がしんなりパリパリっと少し浮くかんじになるまで焼いたら、裏側にひっくり返す。裏側の皮もしんなりパリパリっとやや浮き気味かつちょっと焦げ感もあるかな、くらいになるまで焼いたら、今度は側面を同じ要領で焼く。

 焼きあがったナスはあつい。お皿の上に並べてしばらく冷ます。触ってもあつくないくらいになったら、両手を使って皮をむく。ほんの少しこげたかんじになった部分の皮をむくと、中のナスからちょっとだけ栗のような甘い香りが立ち上る。
 そのままお皿にのせて、箸でつかんで、べろーんとかぶりつくのもおいしいけれど、その日は、焼いて皮をむいたナスを包丁で一口大に切った。そこに花カツオを散らす。

 夫に「できたよ。食べよう」と声をかける。「お醤油か出汁醤油か、あとおろし生姜も、お好みでね」と説明する。夫は「あれ。焼きナスなのに、食べればいいだけになってる」と驚く。

「食べればいいだけ、って、焼きナスは、食べればいいだけの食べ物だと思うよ」
「いや。うちのかあさんが作ってた焼きナスは、食べればいいだけじゃなかったから」
「どういうこと?」
「皮のついたナスを丸ごと焼くじゃろ。それをそのままお皿にのせて、それぞれに出すから、焼きナスの皮は各自でむかんといけんかった。そのナスの紫色が指の先と爪の間につくけん、それが面倒くさいなあ、とずっと思っとった」
「そ、それは」
「皮むくのが面倒くさいと思って、皮ごと食べようとしても、焼きナスの皮って、他の時と違って、ちょっと焦げとったりして、なんかかたいじゃん、スジっぽいというか。それがまた食べにくくて面倒くさいなあ、と」
「焼きナスを焼いただけの段階で食卓にあげることは、思いつかんかった。うちの実家では、焼きナスは皮をむいてから出すものだったから、そういうものだと思い込んでた。家家によって、いろんなやり方があるんじゃね」
「でも、この焼きナスなら食べればいいだけじゃけん食べやすい。これならまた食べたい」
「うん。焼きナスおいしいじゃろ」

 義父はナスが好物だから、一度、この皮をむいてある焼きナスを作ってあげようと思うのに、帰省したときには、別のものを作ってつい、焼きナスのことを忘れる。今は義実家は家を建て替えて、キッチンのグリルもIHの両面焼きになって、簡単にできるはずだから、忘れずに作りたいなあ。
 いや、もしかしたら、実はもう何度か作っていて、おいしいと喜ばれたのに、そのことを私が忘れているのかもしれない。どっちなんだろう。

 そして、この夏は、実家の父が畑で作った夏野菜が豊作で立派で、いろんな野菜をたくさん分けて送ってもらった。送ってもらうたびに、大半のナスを揚げだしナスにして、ぱっくぱっくと食べる。
 今日、クール宅急便で実家野菜の詰め合わせが届いた。ナスはもうこの夏最後のナスになるだろうとのこと。では、と、なんとなく満を持したかんじで、焼きナスを焼く。
 久しぶりだけど、いつものように、グリル(片面焼き)でナスの片面がこんがりとなったら、ひっくり返して裏面を焼く。裏面もこんがりになったら、今度は側面を焼く。ナスの甘い香りが漂って、焼きナスの至福の時が流れる。

 いつもなら、この状態でそのままいただくのだけれども、今回は、焼きナスは冷蔵庫で冷やしてから食べたほうがおいしいものだということを習ったから、なるほど、そうか、たしかにそうだ、そのままでも充分おいしいけれど、残った焼きナスを一晩冷蔵庫で保存して翌日食べたのがおいしいのは、だからだったのかと納得して、早めに作って冷蔵庫で冷やす。
 冷やしたほうがおいしいのは、焼きナスだけではなくて、実はポテトサラダもそうだったらしい。それもたしかに、その夜のうちに食べきれなくて、一晩冷蔵庫で保存したポテトサラダのほうがおいしくて好きだなあ、とまえから思っていたから、そうかああっ、と気づいてからは、ポテトサラダも冷やしてから食べるようになった。おいしい。

 ところで、さきほど焼きナスを焼いたガスコンロのグリルを使い終えて洗っていたら、グリルの手前の引き出す取手が付いている小窓のある部分の周りのプラスチックに亀裂があることに気がついた。
 むむう。たしかに、もう十年以上使っているものだから、経年劣化もあるだろうなあ。この部分だけ部品として新しく買うか、それともガスコンロそのものを新しくしようか、迷うなあ。     押し葉

山頂に立つ三才児(推定)

 この夏の間に三大銘山三大霊山(富士山、白山、立山)に登りたいと希望していた夫が、今日、立山に登りに行った。

 事前の気象情報では週末は雨のようであったから、夫は「うーん、雨の中で立山に登るのは嫌だなあ。雨だったら行けないなあ。こんなに早く秋雨前線が来なくてもいいのになあ。でも今週末に登れたら登りたいなあ」と言い続けていた。その願いが天に通じたのか、世の中のあちこちでは、昨日今日と豪雨でびっくりした人々が多い中で、今日の北陸は劇的な快晴。
 週間天気予報では金土日と雨と曇りが続く予定であったのが、昨日の金曜の時点で既に快晴で、夫は仕事から帰宅するなり「天候が驚異的に回復した!」と私に言う。「ただいま」のあとが「天候が急激に回復した!」だったから、私は瞬時には夫が何を言っているのか聞き取れなくて、「えっ?」と聞き返す。「天候が、驚異的に、回復した」とゆっくり言い直してくれて、「ああ、今日はいいお天気だったね」と応えたら、「明日、立山、行ってくる」と言う。

 そうして今朝、夫は午前四時半に家を出発。高速道路を二時間半ほど運転して、立山のふもとの駐車場に車を置く。そこからケーブルカーとバスを乗り継いで山の中腹まで移動するのだけれども、ケーブルカーを利用するお客さんがあまりに多くて、夫が乗車券を購入できたケーブルカーの出発は、待ち時間一時間半ののち。仕方ないので、一時間半、駅で座ってじっと待つ。じっと待つけれど、持参の「富山の山」という本を取り出して、それを読みながら、ああ、ここの山もよさそうだなあ、ああ、今度はここにも行ってみたいなあ、いつかこんなレベルの高い山にも登れるようになるかなあ、などと考えていたら、一時間半はあっという間。

 ケーブルカーを利用するお客さんは、全員が登山の人というわけではなくて、半分以上は、ケーブルカーとバスで行けるところまでのみ訪れる立山観光の人々。
 ケーブルカーとバスを乗り継いでたどり着く「室堂(むろどう)」というところがすでに標高二千メートル以上ある。そこから眺める山の景色はたまらなく雄大だけど、ここまでなら普段着で、登山の装備必要なく見物に来ることができる。だから夫は私に何度も「あそこにはぜひ一度行ってあの景色を見たほうがいい。あそこならみそきちでも行けるから」と強く奨めてくれる。
 山登り以外の人々は、この室堂に来てその周辺の軽い散策のみで帰ってゆく。そして夫のような山登りの人たちは、ここから頂上を目指して本格的に斜面を歩く。

 ずっと天候に恵まれて順調に登る。しかし、夫が頂上に近づくにつれて山がガスに覆われる。夫が撮影した山の写真に写るガスはなんだかとても濃い乳白色。ああ、これで、景色が見えたらすごくきれいだろうになあ、と思いながら、山頂手前の神社でお祓いをしてもらう。お祓いは一人五百円。一組二十人くらいの人をまとめて、神主さんがお祓いをしてくれる。神主さんからお札をもらって、そこからまた少し登って、本当の真の山頂にたどり着く。
 周りにいる他の登山者の人に頼んで写真を撮ってもらう。背後にガスが煙る。
 お昼ごはんのおにぎりを三個食べてお茶を飲んでガスが晴れるのを待つけれど、ガスは晴れない。
 
 山頂にいるときに、夫がこれまで登ったすべての山で出会った人間のうち最年少と思われる小さな人物と出会う。夫の推定によるとその人の年齢は約三才。
 あくまでも夫の推定だから、なんとなく「三才、くらい?」なだけで、実際は三才十ヶ月かもしれないし、四歳になってるかもしれないし、五歳なのかもしれないし、もう六歳かもしれないし、実は小学校低学年かもしれない。いくら夫が小さな人の年齢推定に難がある人だとしても、小学校高学年の子を三才児と見間違うことはないだろう。

「何才ですか、って、本人にでも親にでも、訊かんかったん?」
「ほんまやなあ。訊けばよかったなあ。子どもがあまりに小さくて、一応一人で歩くのは歩けるけど山登りは無理やろうなかんじじゃったけん、おれがびっくりして、『ええええ、室堂からここまで自分で登ってきたんですか』って親の人に訊いたら、『まあ、全部ではないんですけど、ところどころは抱きかかえながら、でも一応自分で歩いて登って来たんですよ』って言ってた」
「はああ、それは、三才で立山に登る、というか、登らされる子どものほうもたいへんじゃろうけど、そんな小さい子どもをお世話しながらそんな高いところに登る大人もたいへんじゃろうねえ。まあ、大人の方は好きだからそんなことしようと思うんだろうけど」
「うん、あの推定三才の人、ぜったい、三才本人が立山登頂を希望したわけじゃないと思うわ。むっちゃぐずってはったもん」
「ぐずるよねえ。山岳民族でもないのに、三才でそんな標高三千メートル超えるところにいる必要ないもんねえ。私くらい大きいと『自分は行きません』って拒めるけど、三才じゃあねえ、親が連れて行くって決めたら行くしかないよね。いやでも、その親のところに生まれてきたということは、ちっちゃいときから山に連れて行かれまくるのを狙ってきたんかもしれんけど。三才だったら、どうだろ、オムツはしてるんかな」
「それはしといたほうがいいと思う。ふだんはしてなくても、山ではトイレが自由なわけじゃないし」
「そうだよね。そういえば、今回の立山はトイレは有料だったん? 無料だったん?」
「あれ? そういえば、どうなんやろ。今回一回も山でトイレに行ってないからわからんなあ。室堂では行ったけど、そこは無料やった。そう思ったら五時間以上トイレに行ってないんやなあ」
「どうやらくんは、普段の外出や旅行でもそうじゃん。排尿回数少ない」
「そうやなあ、それに山に登ると汗が出るから、よけいに少なくなる」
「そのへんが、どうやらくんは山登りにむいてるよね。私はあらゆる個体特性が山登りにむいていないけれど、頻尿なのも登山向きじゃないと思うわあ」

 山を降りるときの道は、登ってきた道とは別の道。「縦走(じゅうそう)」という登り方(歩き方)で、出発地点から山頂を経由して、そこから連なる他の山を通り抜けて、ぐるりとまわるようなコースでもとの登山口に戻る。
 夫が山を降り始めてまもなく、山頂のガスがすうーっと晴れる。夫は「本当に、おれが山頂にいたあのときだけが、ちょうどガスがかかるタイミングだったらしい」とくやしそうだ。
 登山口まで下りてきたら、みくりが池温泉で入浴。お風呂上りに椅子に座ってお茶を飲んでいるところに、年配のおじさんが声をかけてこられる。
 そのおじさんは、元は立山の登山ガイドをしておられた方らしい。今でも自分一人で登ることに関してはまったく問題はなく、かなり素早く登り降りできるのだけど、ガイドとしていろんな人のお世話をしながら、他人の安全を確保しながら、複数の人に気配りをし続けながら、お客さん各自のペースに合わせて案内をしながら登るのが、年をとって難しく感じるようになったから引退したんです、とのこと。

「え? じゃあ、今日は、仕事じゃなしに、老後の趣味で来られたんかな」
「うん、今日は、天気がよくなったから、ちょっと山の景色を見ようと思って、室堂まで散歩に来たんやって」
「ひょええ。山が好きな人は、老後の散歩で山に来るんやあ」
「うん。山の仕事は、特にガイドなんて、山が好きじゃないとできんって」
「だよねえ。でも、夏山のガイドだけで生計立てるのは難しいだろうから、何か別の職業もしてはったんやろうねえ。何の仕事だろう。業種にもよるだろうけれど、どうやらくんみたいなサラリーマンでは、登山ガイドをするのは無理だと思うのよねえ」
「ああ、無理やろうなあ。自分が勝手に登るのはともかく、ガイドはしたいとも思わんけど」
「農業は山登りの時期と農産物のお世話の時期が重なるしなあ」
「あれじゃないかな、スキー民宿の経営。冬はスキー民宿で忙しいけど、夏場はスキーは閑散期じゃん」
「冬はスキー民宿で、夏は登山民宿で、冬も夏も忙しいってことはないのかな」
「登山民宿は少ないやろう。おれらがスキー場の温泉宿に春や夏や秋に泊まったときなんかでも、いっつも、お客さん、おれらくらいしかおらんかったじゃん。スキー人口と登山人口とでは、圧倒的にスキー人口が多いはず」
「そうかあ、じゃあ、そうかもねえ、それならできるかもね。そのおじちゃんとせっかくお話ししたんじゃったら、そのへんも流れで訊いたらいいのに。なにか面白い展開があるかもしれんじゃん」
「ほんまやなあ。訊いたらよかったなあ」

 みくりが池温泉を出たら、またバスとケーブルカーとを乗り継いで下界に戻る。山の上は雪が残っていて寒いくらいだったけど、ふもとはずいぶんと温かい。
 
 夕方四時半になる前に夫が私に電話をかけてくる。夫は「今さっきケーブルカーをおりたところで、これから高速で帰るから、七時半か七時すぎくらいには帰れそう」と言う。

 帰宅した夫は「やっぱり三千メートル級の山は違うなあ。あれでガスがなくて景色が見えたらなあ。また登りたいなあ、来月の早いうちにまた行きたいなあ。でも、今週行って来週も行くのは許してほしいからやめとく。ああ、でも、今度は紅葉の時期の白山にも登りたいんだよなあ。山は十月になるとぐっと寒くなって冬の装備が必要になるからなあ。両方とも九月のうちにと思うと、ああ、忙しいなあ、くうっ」と、なにやらひとりで興奮している。

 今回も、無事に登頂して、無事に下山して、無事に帰宅して、よかったな。     押し葉

山の上の郵便局

 今週の月曜日の夜、夫が仕事から帰宅した時に、いつものように郵便受けから郵便物をまとめて持ち帰ってくれた。「ありがとう」と受け取って、夫とわたしそれぞれの宛先に分類し、不要なものは捨てる。
 そのとき夫が「明日は、みそきちどんさん、郵便受けを見たほうがいいよ」と言う。

「見たほうがよいとはどういうことだ。よからぬ知らせの予定があるのか。もしや、ここのマンションの退去勧告でも出るのか」 
「いや、それはない」
「だったら、どういうことなのだ。早く知ったほうがよいことなら、これからすぐに郵便受けを見に行くが」
「今は、郵便受けにあるのは、全部持って帰ったから、郵便受け、からっぽ」
「うわー。郵便受けで何を見つけろと言うのだ。もったいぶらずに、どういうことなのか教えたほうがいいと思う」
「土日に登った白山で、山頂の郵便局から出した絵葉書が、たぶん明日届くから」
「はあーっ。なんだー。そうかー。それならたのしみに待てばいいけん、よかったー」

 火曜日の午後、我が家の郵便受けの中に、白山山頂郵便局(季節限定出張所と思われる)の「白山山頂」という消印が押された絵葉書を見つける。
 消印なのに、スタンプのように巨大だ。丸の中に白山と思われる山と、その手前に高山植物と、そのとなりに登山者の全身が描かれ、日付と「石川白山山頂」の文字が入っているから、円の直径は約3.5センチ。
 葉書そのものが長方形ではなく白山の山の形をしていて、白山の山の風景がそのまま写真として印刷されている。だから葉書の上側は、山の稜線の波形を描いている。
 山の写真の左下に「白山 大汝峰より御前峰・剣ヶ峰・翠ヶ池を望む」と印刷されている。山の写真の右下が宛先欄。切手は定形外の120円。
 裏側には罫線が引いてあるが、夫が記入した文字は「本日(8月6日)は、7:00出発、13:00山頂着でした。」のみ。朝七時に出発したのは自宅だから、我が家から白山はわりと近い。
 あとは、広大な余白に、国立公園白山登山記念のスタンプが二種類ぽんぽんと。右側のスタンプには「霊峰白山山頂より暑中御見舞い申し上げます」と書かれている。
 葉書裏側の右下には、ユリのような花の絵(細密画のようなイラスト)が印刷されている。表の山の写真はカラーだが、こちらの花の絵は白黒なので、何色なのかがわからない。

 火曜日の夜、帰宅した夫に、「葉書ありがとう。届いたよ。山の形だったよ」と伝えて、実物を見せる。
 夫は「へえ、切手の消印、ちゃんと白山山頂って書いてあるんやあ」と感心してから、裏側に描かれているユリのような花を指さして「これがクロユリ。いっぱい咲いてる。富士山とちがって白山は高山植物を眺めながら歩けるのがたのしい。クロユリはあまり背は高くなくて、低いところに咲いていて、おお、いっぱい咲いてるなあ、と思いながら見てるのに、そばにいたおばちゃん(登山者。推定六十才代)がおれに向かって『ほら、ほら、ちゃんと見て、これがクロユリよ。ほらもっとちゃんと見て』いうて何回も言うてた」と話す。

 自分が旅先から家族に宛てて送った郵便物は、やはり自分ではなくて、家族に郵便受けの中に見つけて受け取ってもらいたいものだよな、と思う。
 それから、夫が白山で撮影してきたデジタルカメラの画像十枚くらい(一泊二日だがそれが全て)を何度か見て、クロユリのおばちゃんが夫にしつこくクロユリを見ろと言っていたのは、夫が白山自慢のクロユリをちっとも写真に撮っていないからだったのかもしれないなあ、と思った。     押し葉

押し葉のおしらせ

 みそ文の文末に付けていた「拍手ボタン」の「拍手」という文言が、以前からどうもしっくりこなくて、なにかいい他の言葉がないかしら、と、ずっと考えあぐねていた。
 みそ文の記事を読んだからといって、そうそう実際に拍手することはないと思う。まあ、たまには、面白おかしくて、つい両手をぱちぱち叩いて(拍手して)笑うこともあるかもしれないが、それはそんなに頻繁ではないはずで、みそ文を読んだあとの読後感として、「拍手」という文言が、もうひとつぴったりでない。
 「うなずく」ような種類のものではないし、軽やかに「読んだよ」というには軽やかさを売りにしておらず、「いいね」と言うようなよさとは少しちがう(みそ文がよくないわけではなく、よさの種類が異なる)。
 かといって、「こころに深く残りました」なものかというと、それもみそ文の芸風のようなものとしても現実の感想としても、少しちがう気がするし、なにかのランキングに関係するボタンでもない。
 気軽に押してもらえると、お名前やメッセージはいただかなくても、それはそれで、わーい、読んでもらえてさらに応援もしてもらっちゃった、な気分が盛り上がってうれしいのだけれども(もちろんお名前やメッセージをいただくと小躍り度合いは上昇するが)、わたしが抱く「拍手」という概念のイメージで押してもらうのは、便宜上とはいえ、なんだか、こう、むにゃむにゃ、だったのだ。

 そんな試行錯誤と切磋琢磨の結果、このたび、これまでの「拍手ボタン」の文字を「押し葉」に変えてみることにした。
 「拍手」というほどではないけれど、なんとなく「押し葉」なら「押し葉」だけに、ぎゅっと圧をかけて押しちゃえ、な気分になるかな、ならないかな。
 葉っぱの葉の字が、ひとひらな、かけらなかんじで、ちょっとつまみたくなるような、ボタンに相通ずるような気分でいるのだけど、どうだろう。
 読んだページにそっと押し葉の栞をはさんで閉じるイメージならば、みそ文の読後の感覚として、それ以上でもそれ以下でもない域に近いような気がする。
 いいの、とりあえず、「拍手」よりも「押し葉」のほうが、自分が自分の画面で見た時に気持ちがいいから、しばらくこれでいってみる。

 手の形の拍手ボタンのほうは、この形か、そうでなければ数字が表示される馬の形か、あるいは付けるのをやめるか、しか、たぶん選びようがないのだけど、携帯画面で見てくださる方によっては、こちらのボタンしか表示されないらしいので、ブログ屋さんの気分が変わって他になにかよい表示方法の選択肢が用意されるようになるまれは、これはこれでこのまま付けておこうと思う。

 そういうわけで、今日から「押し葉」を、なにとぞよしなに。     押し葉

山に登っておりる

「仮病とお粥」

「ともに老齢化を目指して」


 夫は無事に白山から戻ってきた。
 富士山に比べると、ずいぶんと登りやすかったらしく、また、夫の登山力が富士山のときよりも向上しているだろうこともあり、山頂には昨日の午後と今朝と二回登ってきたのだという。山ではやはり、山に登るかおりるかちょっと休憩するくらいしか、することがなくて暇なのだろうか。
 昨日は山を登る道中で雨に降られはしたものの、無事に山頂にたどり着き、山頂から少し(一時間弱くらいだろうか)おりたところにある山小屋(事前予約してある)で一泊。
 今朝は日の出前に山小屋を出発する。やはり山では「ご来光」というのが、特に人気が高いようで、山頂までの山道は「ご来光渋滞」と呼ばれる状態。
 それでも無事に日の出前に山頂にたどり着き、朝日が登ってくるのを眺めて、満足して山をおりる。

 山をおりたら、温泉。昨日の日記には白峰温泉と書いたけれど、実際に入浴したのは、山をおりてすぐのところにある白山温泉にしたのだそうだ。
 なにはともあれ、山も温泉も満喫して帰宅した夫は、たいへんよく陽にやけている。
 ずいぶんと疲れたのか、巻尺でお腹まわりを計測することもなく、居間のい草ラグの上に横たわり、扇風機の風を浴びながら、寝息を立てている。

 山登りの世界では、日本三大銘山、三大霊山、と呼ばれているものがあり、富士山、白山、立山、が、そのみっつにあたるらしい。
 夫は、先月まず富士山に、そして今回白山に登った。
 幸運なのは、三大銘山三大霊山のうち、白山と立山が、長距離運転を好むわけではない夫が自力で自宅から車を運転していってこようと思うくらい近いところにあるということ。登山日直前までバスツアーが催行されるかどうかでドキドキする必要もなく、自分の体調とお天気とだけ相談すればよいのはずいぶん気楽そうだ。
 八月の後半には、立山に行ってこよう、これで三つの山制覇だ、と、夫は意気込んでいる。     押し葉

走ってわかって世界平和

 妹夫婦が我が家に遊びに来る前に、義弟が電話をかけてきて、今回の北陸旅行では「金沢の兼六園」と「北陸の温泉」をできればコースに入れたいので、その方向でよろしく、と連絡をしてきた。がってん承知で快諾する。
 そのときに義弟が「おにいさんは、富士山に行くのに、何かトレーニングをしているのか」と訊くから、「うん。週に何回か、家の周りを十五分かな二十分かな、それくらいジョギングしてるよ」と話す。
 義弟が「おれも、ほとんど毎晩、サウナスーツを着て走りようるんじゃ」と言うから、「そうなんじゃ。でもなんでまたサウナスーツ?」と訊いたけれど、義弟は「まあ、詳しくは、そっちに行ってから話すよ」と言うから、「うん、わかった」と電話を切る。

 まだ富士山に出発する前の夫に、「もっきゅんね、毎晩、サウナスーツを着て走ってるんだって」と話すと、夫は「へえ、そうなんや。なんでやろ。もりおかくん、ダイエット目的やったら、走るよりも山に登ったほうがええぞ、いうて言うといてあげて」とわたしに言う。
 
 夫は富士山登頂に向けてのトレーニングとして、夜間のジョギングだけでなく、ほぼ毎週末のように近場の山に登っていた。そして、山から降りてきて帰宅すると、巻尺を取り出して、必ず腹囲を測る。
 毎回計測しては、「山に登ると、腹回りがどんどん痩せるなあ」と、たいそう満足そう。
 そして、「もしもメタボ対策だとかダイエット目的ならば、下手に走るとか、食事制限するとか、スポーツジムに通うとか、そんなことをするよりも、頻繁に山に登ったら、それで痩せられるから、みんなそうしたらいいのになあ」と言う。

 その後、夫は元気よく富士山に登っていったわけであるが、妹夫婦が我が家に到着してから、おもむろに義弟が「おにいさんは、ずるい」と言い出した。
 義弟の説明によると、お正月に会った時に、夫が富士山登山を視野に入れて計画している話を義弟にしたらしく、そのときに義弟が「もし富士山に行くことになったときには、ぼくにも声をかけてください」と頼んだところ、夫は「わかった」と応えたにもかかわらず、夫は今回の富士山登山に関して、義弟に対し、なんらいっさいの連絡をくれなかった、だから義弟は夫に対して責めごころを抱いている、という趣旨のようである。

 義弟に「どうやらくんは、いろんなことを忘れるのが上手だから、妻のわたしと話したことも大半忘れているくらいだから、義理の弟のもっきゅんの話は、間違いなく忘れてると思うよ。もっきゅんに対する意地悪や悪意なんかは全然なくて、本気で忘れてるんだと思う。だってね、もっきゅんがサウナスーツ着て走ってる話をしたときにも、どうやらくんね、もっきゅんに、痩せる目的やったら、走るより山に登ったほうがええぞ、いうて言うといてあげて、って言ってたくらいだから、もっきゅんと富士山の話をしたことは、すっかりきれいに忘れてるんだと思うよ」と伝える。

 結局、義弟がサウナスーツを着て走っているのは、最近趣味で始めたとある格闘技のためのトレーニングであることがわかる。
 富士山から帰宅した夫に、「もっきゅんのサウナスーツジョギングは、格闘技のトレーニングなんだって」と話すと、夫は「へえ、そうやったんや」と感心する。

み「どうやらくん。やっぱり、お正月にもっきゅんと富士山の話をしたことは、全然おぼえてないんじゃろ?」
ど「え? 正月? なに、それ」
み「ほらね。もっきゅん。どうやらくん、おぼえてないじゃろ。見事じゃろ」
も「おにいさん、ほんまにおぼえてないん? 富士山に行く時にはおれにも声かけていうて頼んだら、わかった、言うたのに」
ど「うーん、そんな話、したんかなあ。それは、なにがわかったんやったんやろうなあ。もりおかくんも富士山に興味を持っているらしいということはわかった、とりあえずその気持ちはわかった、いう返事やったんかなあ、なんやろうなあ(と言いながら、腕を組んで首を傾げる)」
も「もう、首を傾げたいのは、こっちじゃん」

 わたしが話したことに対して、夫が「うん、わかった」と答えたとしても、その「うん、わかった」は、「みそきちどんさんは、何か言いたいことがあるらしい」というわたしの状態全体に対する「わかった」であって、わたしが話した内容に対する「わかった」ではない、ということは、ほんとうによくあることだ。
 だから、特別なにか確実に伝えたいことがあるときには、大切な業務連絡であることを前置きして、やや事務的に仕事上の連絡をするような口調で話をしたり、書いたものを手渡したりする。
 まあ、それは、わたしもある程度はそうで、夫が継続摂取しているサプリを、わたしが利用する通販会社に注文してほしいと言ってきたときには、「メモに書いてわたしの目につくところに置いておいてください」と頼む。

 まあ、そういうあれこれを経過して、妻として、夫の「わかった」に関して、ある種諦観する域に至るまでに、結婚後十五年以上の時がかかったような気がするから、義弟もその他の実家の人々も、世の中にはいろんな「わかった」があるんだな、と、夫のようななんだかはかない「わかった」もあるんだな、と、少しずつ慣れていってもらえたら、お互い世界平和かな。     押し葉

今度は白山

「白髪の理由」

「地震と眠り」

「先の見えない安心」


 夫は今朝から「白山(はくさん)」に出かけた。
 午前中のうちに登り始めて、途中でお昼ごはんにおにぎりを食べ、お昼すぎまで登って、白山の山小屋に泊まる。
 富士山とは違って、山小屋から山頂まではそんなに距離がないし、富士山に行ったときよりも日の出の時間が遅くなっているから、ご来光に合わせて山頂に登るにしても、夜中三時過ぎに出れば充分間に合う。
 明日の朝、朝日を見物したら、今度はひたすら山をおりる。麓までおりてきて、白峰温泉につかる。
 それから車を運転して、二時間弱で帰宅する予定。

 夫は山に登るようになってから、山にのぼるたびにウエストのサイズが落ちるのをたいそうたのしみにしている。
 健康診断では、ぎりぎりメタボではないけれど、いつでもメタボになれるぜ、なくらい、お腹まわりだけが積極的に成長傾向にあったから、お腹まわりがすっきりしてきて、本人も身軽で快適であるようだ。
 よかった、よかった。     押し葉

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プロフィール

どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

ときどき、思い出したように、いただいたメッセージへのお礼やお返事をリンク先の「みそ語り」に書いています。よろしければ、いつでも、どうぞ、どなたでも、ご覧ください。「みそ語り」では、メッセージをくださった方のお名前は書いておりませんので、内容から、これは自分宛かしら、と推理推察しながら読んでいただければうれしいです。手の形の拍手ボタンからメッセージをくださる場合は五百文字以内、文字の方の押し葉ボタンからメッセージをくださる場合は千文字以内となっております。文字数制限なくお便りくださる場合には、下のメールフォームをご利用ください。

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