みそ文

とめ、はね、とめはね

十月に、法事で帰省したときに、弟が「はい。ねえちゃん。これ」と、漫画を三冊貸してくれた。作品名は「とめはねっ! 鈴里高校書道部」。鈴里高校と書いて「すずりこうこう」と読む。書道で使う「硯(すずり)」にかけてあるんだろうな。この作品は、以前帰省したときにも貸してもらったことがあり、「私、何巻まで呼んでるんだろう」と記憶を手繰りよせていたら、弟が「そんなん、読みゃあ、わかるわいのう。まだ続きがあるけん」と言う。結局、その日は、早く寝て読む時間がなく、翌日は、法要と自宅への移動で忙しくて読む時間がなく、弟には「この三冊、借して。持って帰って読むけん」と頼み、他の荷物と一緒に送る。

自宅に荷物が届いてから、あらためて読んでみる。一巻二巻ともに読んだ記憶がある内容で、むむう、このまま三巻も読んだことがあるものだったらちょっと残念かしらねえ、と思いながら読み進める。結局三巻は初めて読む内容で、よかったよかった、借りてきた甲斐があったなあ、と安堵する。

夫は一巻も二巻も三巻も、初めて読む作品で、なおかつ気に入ったらしく、「おもしろい!」「今度、お正月に帰った時には、四巻以降を貸してもらえるよう、しめじくん(弟)に頼んどいて。最新刊まで買いそろえておくのもお願いしといて」と私に言う。わかった、じゃあ、頼んでおくね、と、そのとおりの内容で、弟にメールを送る。すると、弟はすぐに、「了解。最新刊の七巻まである。今度何か送るときに入れる」と返信を送ってきてくれる。夫に「七巻まで出てるんだって。今度何かの荷物と一緒に送ってきてくれるって」と伝えると、夫は「やったね」と喜ぶ。

夫がどれくらいこの作品を面白がっているかというと、「書道教室に通ってみようかな」と口走るくらい。私は小学校に入学して間もなくから高校を卒業する少し前まで、近所(徒歩二分くらい)の書道教室に通っていたから、書道は面白いよ、と話してみる。

それからしばらくしてから、実家からの小さな荷物が届く。メインの荷物の下に、「とめはねっ!」の四巻と五巻が入っている。夫に「しめじが、荷物と一緒に、とめはね、送ってきてくれたよ」と伝えると、「やったあ」と言ったものの、「あれ? 二冊だけ? 六巻と七巻は?」と探す。「今回は二冊だけだよ。荷物の箱の大きさでぴったり入るのが二冊がちょうどよかったんじゃろう」と話すと、夫は「六巻と七巻も送ってほしいなあ」と切望する。それで、その次に、母が「さつま芋送るけど、何か送ってほしいものがあれば言って」とメールで連絡をくれたときに、「しめじの漫画の、とめはねっ、の、六巻と七巻を貸してもらいたいから、それを一緒に入れてください」と返信する。

最新刊まで届いたのを見た夫は、たいへんに喜ぶ。特に最新刊の刊行が、ずいぶんと最近であることが、夫のうれしさをさらに増す。七巻までを、二人それぞれに、何度も何度も読み返しながら、「どのお話も面白いね」「どの登場人物も上手にキャラクター設定してあるね」と話し合う。

「とめはねっ!」をじっくりと読んで、我が家では、少し変わったことがある。それは、これまでは、旅先の資料館のようなところに入った時に、毛筆の展示物があっても、夫は殆ど素通りをしていたのが、最近は、私が毛筆展示物の前で、夫の袖をつんつんと軽く引っ張って、「とめ、はね、とめはね」と小さな声でささやくと、夫がおもむろに右手を上げて、展示物の筆文字を宙でなぞるようになったこと。夫はそうやって作品の文字をなぞりながら、「あ、ここは、とめてある。あ、ここは、はねだ」と納得する。

弟には「どうやらくんが、とめはねっ! すごく面白がってて、書道教室に行ってみようかな、って口走ったりするんだよ。貸してくれてありがとね」とメールでお礼を伝える。弟からは「むむぎーとみみがーも、まだあんまり漢字が読めないくせに、面白がって読みます」と返信が来る。漢字が読めなくたって、漫画の文章中の漢字には、殆ど全て振り仮名がつけてあるじゃん、弟も私も子どもの頃は、漫画の漢字の読み仮名を読んでいろんな漢字をおぼえたじゃん、と思い、あらためて「とめはねっ!」を見てみる。そうしたら、この作品中の漢字には、よほど難しい漢字や特殊な用語でない限り、振り仮名が付いていないことがわかる。そうだったのか。知らなかった。この作品が特別にそうなのか、最近の漫画は基本的にそうなのか、どうなんだろう。そのつもりで、しばらく、少し気をつけて、世の中を観察してみよう。

ところで、弟は、「とめはねっ!」の話をするとき、傍にみみがーがいると、おもむろに元気よく「とめはねっ!」と言う。するとみみがーが小さな声でぼそぼそと「スズリコウコウショドウブ」とつぶやく。弟としては、テレビドラマ「とめはねっ!」の構成を真似て、親子で元気よく「とめはねっ!」「鈴里高校書道部!!」と声に出す芸をしたいようであるのだが、みみがーのノリがもうひとつふたつみっつよっつ。みみがーは、一応、父に仕込まれた芸に付き合ってはいるのだけれど、どこか「父よ。君には付き合いきれないよ」と距離を置いている感がある。弟はみみがーに向かって「みみがー、もうちょっと、もっと元気よく、鈴里高校書道部!!! いうて言ええやあ」と言うけれど、娘の立場としては、父との芸をこなすことに、気が向く時と気が向かない時とあるのではないかしらねえ、と、父をあしらう娘の気持ちに少し思いをはせてみる。     押し葉

魚の目玉の組分け

十月に、広島の祖母の十七回忌法要があり、帰省した。法要前日の夕食に、母がメバルの煮つけを作ってくれた。大きめのメバルだったから、一匹ずつ、それぞれに、上半身と下半身(魚だから前半身と後半身だろうか)の半分に切って煮込んである。魚を煮たあとの煮汁でさっと加熱した木綿豆腐も私の好物。食卓で、弟が、大皿から各自のお皿に取り分けてくれるとき、姪のみみがーに向かって「みみは魚の目が好きじゃけん、頭のほうがええんよの」と確認してとってやる。すると、甥のむむぎーが「おとうさん、おれは、しっぽのほうね。おれ、魚の目、苦手じゃけん」と言う。それを聞いた夫が、「わかるわかる。魚の目、俺も苦手。そういうことで、俺も、しっぽのほう入れてください」と、弟に向けて所望する。

私は魚の目も、目の周りのゼラチン質も、ほっぺたも、唇も、脳とその周辺も、とてもおいしいと思うから、「私は、頭ね」と、弟に頼む。弟は、みみがーと私にメバルの頭をとり、むむぎーと夫の器にメバルの尻尾を入れてから、自分のお皿にもメバルの頭を入れる。私が「しめじ(弟)も、魚の頭、好きよね」と言うと、「好きなのは好きじゃけど、わしは親じゃけん、魚の目は、最近は、みみがーにやるんじゃ。ほい、みみがー。これで、みみの魚の皿には、目玉が四個になったで。うれしいじゃろ」と言う。みみがーは、「ありがと」と、うれしそう。

「へえ、そうなんじゃ。みみがー、よかったねー。でも、悪いけど、私は、大人じゃけど、魚の目玉は譲れんけん。魚の目玉、おいしいもん」と私が言うと、みみがーが「うん。目、大好き。おいしいよね」と言う。

むむぎーが「おれは、魚の目の、あの、どぅるっ、としたところがダメ。卵の白身も、焼いたり煮たりしてないと、どぅるっ、てしてるけん、あんまり好きじゃない」と言う。夫が「わかるっ。そうそう、あの、どぅるっ、の、何がおいしいかがわからん」と続ける。

メバルの目玉を、どぅるどぅるっ、にょるにょるっ、と、おいしそうに食べるみみがーと私を見て、目玉以外のメバル頭部をおいしそうに食べる弟を見て、メバルの尻尾近くをおいしそうに食べる夫を見て、むむぎーが「わかった!」と、何かを見い出したかのように言う。

「みみがーとみそちゃんは仲間で、おれとじめいさん(夫)が仲間ね。おとうさんは中間(ちゅうかん)じゃ」
「魚の目玉好き組と、魚の目玉苦手組ってこと?」
「そうそう」
「中間、いうのは、なんなん?」
「おとうさんは、ほんとうは、魚の目玉が好きじゃけど、みみがーにあげて食べてないじゃろ。じゃけん、中間」

ははあ、ほほう、なるほどー。組分けの意義はよくわからんが、その調子で、いろんな「そうか!」や「わかった!」を繰り返すといいと思うよ。     押し葉

ポーズを決める仕事

昨年の、新型インフルエンザ騒動のときには、店頭のマスクが欠品して、仕入れ先からも入荷しない時期があった。マスクを求めてご来店くださったお客様が、マスクのなさに落胆して、「薬屋なのにマスクがないのはどういうことや。おかしいやろうっ。なんとかせいやっ」と怒鳴ったり暴れたりなさることもあった。

定番の仕入れ先からのマスク入荷が困難であると判断した本社バイヤーは、普段は取引のないマスクメーカーに連絡を取り、いろんなメーカーの使い捨て不織布マスクを大量に手配してくれた。が、その商品たちが全店舗に届いたころには、新型インフルエンザ騒動は終息を迎えており、人々のマスクに対する熱望も沈静化していた。そのため、そのとき入荷した大量のマスクたちは、その後、各店舗の死蔵在庫として、場所を取り続けることとなる。インフルエンザ関連用品として、「デッドストック」と呼ばれている死蔵在庫の仲間には、手指消毒アルコール剤とうがい薬もある。

店頭の商品陳列構成に関しては、本社で一括して配置が決められ、その配置図に従って、各店舗は指定された定番商品を棚に並べる。定番商品だけでも棚いっぱいで、なかなか場所のゆとりは多くはない。それでも、なんとか場所を作って(「フェイス調整」と呼ぶ作業をして)、定番商品以外の在庫も並べるようにしてみる。

どうしたものかと考えながらも、工夫を重ねて、店頭に場所を作っては、並べてきた甲斐が出てきたのか、大量にあった死蔵在庫たちが、少しずつ買って行ってもらえるようになり、減っていった。それに気をよくした私は、店長に申し出る。

「うちのデッドストックのうがい薬、バックヤードのが全部なくなったんですけれど、他のお店にはまだ在庫がたくさんあるんですよね。もしも会社として、売りさばいたほうがよくて、店間移動で分けてもらえるようであれば、うちの店頭で売りますよ」
「おお。どうやら先生、なんか、かっこいいですねえ。あのインフルエンザ商品に関しては、どこのお店もたくさん在庫を抱えて困っていますから、言えばいくらでも分けてくれますよ。とりあえず、同じエリア店舗の在庫を減らしてあげたほうがいいんで、ここのお店(全店在庫一覧表の中の近隣店舗のひとつ)に頼みましょう」

店長は、そのままその店舗に電話をかけてくれ、うがい薬の移動手配は終了した。そして届いたうがい薬たちは、無名メーカー商品であるにもかかわらず、順調に売れている。その後、うがい薬に続いて順調な売れ行きを見せ始めたのが、マスク。定番の箱入りマスクは値段が少し高いのだけれど、死蔵在庫のマスクたちはその半額程度。これまでと少し並べ方を変えてみたのがよかったのか、寒くなり風邪やインフルエンザや食中毒警戒の季節になったからなのか、大人用の箱入りマスクの安いほうが着々と売れ始めた。それに気をよくした私は、再び店長に申し出る。

「おかげさまで、大人用の不織布マスクの箱入りの、バック在庫がなくなって、あとは店頭にある数個だけになりました。」
「え? あの、大量にあったのが、全部売れたんですか。何ケースもあったのに」
「はい。今の場所にしてみてから、特によく売れるようになって、まあ、季節も重なってるんでしょうけど」
「それは、すごい、優秀です」
「でですね。お客様としても、使い捨てマスクは、五百円以下で安く手に入るほうがお買い求めいだたきやすいみたいなんです。それで今、全店舗の在庫一覧見てみたら、持ってるところは、まだ、何十個や何百個の単位で在庫があるので、それを分けてもらって売ってもよければ、引き取ろうかと思うんですが、いいでしょうか」
「それは、もちろん、そうしてください。うがい薬に続いてマスクまでとは、どうやら先生、かっこいいですねえ」
「最近、ちょっとかっこいいですよね」
「ちょっとじゃなくて、すごくかっこいいです」

店長がそう言ってくれるから、私は両足を肩の幅に広げて立ち、両手をいったん腰にあててから、右腕を天に突き上げてみる。そうしていたら、マミー青年が事務所に入ってきて、私の姿を見て少し驚き、「ど、どうしたんですか?」と訊いてくる。「かっこいい、のポーズをしてたところです」と応えると、「たしかに、かっこいいかも、ですが、何がかっこよかったんですか」と再び訊く。店長が「ほら。バックヤードに、ずっと、インフル騒動のときのデッドストックがあるやつ。あのうがい薬と大人用箱入りマスク、うちの店、もうなくなったんやって」と説明する。

「ええっ。あの、ケースで大量にあったやつがですか。どこのお店も取り扱いに困ってひたすら保存してるあれですか」
「そうそう。店長会議でも、あれ、どうしたらいいんやろう、って、毎回話題になるんやけど。表に出さずにバックに置いてたら売れなくても、がんばって場所作って出せば、こつこつ売れるもんなんやなあ」
「でも、あれ、まだ、持ってるところは、数百とかの単位で在庫抱えてますよね」
「そうなんや。それがうちはもう、店頭の数個だけなんやって。ぼくらが知らんうちに、どうやら先生が地道に売ってくれてたらしい」
「わあ。それは、すごいですわ。どうやら先生、それは、かっこいいですわ」

マミー青年がそう言うから、私は再び、両足を肩の幅に開き直して、両手をぴしりと腰にあて、右手の拳を握りしめてから、天に向かって突き上げる。そうしていたら、毎時零分に店内放送で流れる「すこやか堂(私の勤務先の名前)」のテーマソングが聞こえてくる。

「では、時間になりましたので、わたしはこれにて失礼いたします。この箱入りマスクは、わたしが自宅に帰る途中にあるここのお店(全店在庫一覧表の中の近隣店舗のひとつ。うがい薬をもらったところとは別のお店)で三十個もらって、明日出勤のときに持ってきます」
「よろしくお願いします。お疲れさまでした」
「お疲れさまでした。お先に失礼します」

手をかけてやった品物たちが、誰かの手元で活躍できる機会を得るのは、うれしい。この日の私の最後の五分の仕事は、ひたすらポーズを決めることであったけれど、それもまたよしということにしよう。     押し葉

カレーライスと眼精疲労

新人二年目くんのおとといのお弁当はカレーライスだった。ロッカールームのすみっこに置いてある彼の通勤カゴの中に、そのカレーライスはあった。大きめのお皿に、半分ずつ、ご飯とカレーが盛ってあり、それにラップがかけてある。休憩室の電子レンジで温めて食べるんだろうな。

その日の夕方、店内にたくさんの若者が来店した。いらっしゃいませ、こんにちは、と声をかけると、彼らはにっこりと会釈をする。男女合わせあて八名くらいのグループだろうか。お菓子や飲料を買ってくださっている様子ではあるのだけれど、なにやら妙に同業者っぽい。何がどう同業者っぽいのだろう、と考えながらバックヤードで作業をしていたら、新人二年目くんがバックヤードにやってきた。そして「どうやら先生。なんか今日、眼精疲労がひどいみたいで、妙に目が見えづらい気がするんですけど」と言う。

「たしかに、この時間帯になると、いろいろ見えづらくなりますよね。帰りの運転大丈夫そうですか?」
「運転は大丈夫です」
「運転のときは眼鏡かけるんですか?」
「いいえ。このまま。裸眼です」
「そんな、よく見えないのに、裸眼運転で大丈夫なんですか?」
「運転は大丈夫なんですけど、人の顔が見分けがつかないというか。さっき、同期のやつらと先輩何人かが来てて、そのうちのたぶんひとつ先輩の女の人が、おーい、二年目くん、元気にしてるー、って声をかけてくれたんですけど、顔がよく見えなくて、誰なのかよくわからなかったんです」
「どれくらいの距離でですか?」
「最初はこれくらい(七メートルくらい)で、そのあとこれくらい(二メートルくらい)まで近づいたんですけど」
「それで、顔の見分けがつかなくて、本当に、運転、裸眼で大丈夫なんですか?」
「それは大丈夫なんです。でも、顔を見分けようとすると、こう近づいて目を細めたほうがラクなかんじなんです」
「それは、そんなに目を細めずに、普通にもう少し近づいたらどうでしょう。一メートルくらいまで近づいてみたらどうですか」
「普段なら、そんなに近寄らなくてもわかるのに、今日はわからなかったから、目が疲れてるのかなあ、と思って」
「二年目さん、目薬も、ちゃんと使ってますよね」
「はい。一番高い、ロートV11を使ってます」
「最近は、ナボリンS(神経を修復するような薬で神経痛筋肉痛の他に眼精疲労にも用いる)も飲み始めて、実感があるって言ってましたよね」
「そうなんです。ずいぶん目の疲れ方がラクになったと思ってたんですけど。あれ、気のせいだったのかな」
「うーん。今日は、何か特別、目がひどく疲れるような作業でもあったんでしょうか」
「それが心当たりがないんですよねえ」

というような話をしてから、三十分くらい経過後に、また、バックヤードで、新人二年目くんが声をかけてくる。

「あれから、なんで、あの人のことが、誰なのかよくわからなかったんだろうか、って考えながら仕事してたんですけど、よく考えたら、顔がよく見えてなくて誰なのかわからなかったんじゃなくて、その人の名前をおぼえてなくて誰なのかわからなかったことに気づきました」
「ああ、そうですか。それなら、よかったですね。目としても、記憶機能を期待されても困るでしょうから、見え具合は目のほうに、名前の記憶に関しては脳の方に、がんばってもらいましょう」
「はい。今度、あの人誰なのか、同期のやつに訊いてみます」
「そうですね。でも、あの人誰、じゃなくて、あのときの先輩の名前なんていう人だったっけ、って訊くんですよ」
「あ、そうか、そうします。あれ誰、じゃ、失礼ですよね。でも、相手はぼくの名前おぼえてくれてるのに、おぼえてなくて悪いなあ、と思うんですけど」
「そういうこともありますよ。というよりは、そういうことは、わりとよくありますよ。その都度確認でいきましょ。私なんか、おぼえてる気満々で相手の名前を呼んでるつもりが、全然違う名前で呼んでるってことが、ときどきあるんですよ。それよりも、誰だったっけなあ、と思って、あとから確認するほうがいいくらいじゃないですかね」
「ええっ。違う名前で呼ぶのはまずいですよね」
「そうですよ。だから、それはまずいですよ、って話をしてるんです」
「そうか。じゃあ、見えないときは近寄ってみて、それでもわからないときは、あとから確認するようにします」
「そうしてください。よかったよかった。見えてるけど思い出せなかっただけなら、裸眼運転も安心です」

そうか、そうか。あのときの若者たちは、彼の同期と先輩の人たちだったのか。それはたしかにまごうかたなき同業者だわ。     押し葉

へこむのが正解なとき

先月他店へ異動した新人三年目くんが、まだ、私の勤務先店舗にいた頃のある日。「僕、今日、すっごく、へこんでるんです。むっちゃおちこんでるんです」と言う。その理由は、その日の三日前に、三年目くんは店長から頼まれた用事があり、「わかりました。明日連絡しておきます」と請け負ったにもかかわらず、翌日にその連絡をするのをすっかりと忘れて、さらにその翌日の休日もその件について何一つ思い出すことなく過ごし、そして「今日」になって外部業者さんが店内作業しているのを見て、ようやく、自分が業者さんへの電話連絡をし忘れていたことと、自分が休んでいる間に店長が代わりに連絡してくれていたことと、本来であれば自分の休日中に済んでいたであろう作業が今日になって行われていることに気づいたから。業者さんの店内作業日が予定より遅くなったこと自体には、店舗として重大な損失があるわけではないけれど、自分が請け負った仕事をすっかりうっかりし忘れて、それを今日になるまで思い出さなかったということが、彼にとっては大きめの衝撃のある出来事であったようす。

「三年目さん。それはへこむのが正解です。そこはちゃんとおちこみましょうよ。それでへこまず、何も気にせず、まあいいか、へらへらへららと通り過ぎていくようでは、社会人として、仕事人として、いかんと思いますよ」
「ありがとうございます。でもなんか、全然、慰められた気持ちがしません」
「それは、慰めてはいないからです。ここで慰めてどうするんですか。別に責めもしないですけど。でも、忘れたのが店内のことで、店長と三年目さんとの間のことで、よかったです。お客様から承った何かを忘れ去って放置したわけではなかったのはさいわいです」
「それは、たしかに、そうか、な」
「今回のうっかりに関しては、しっかりへこんで落ち込んで、自分は本当はどうしたかったのかどうありたかったのかのイメージを脳に強く残しましょうよ。そして、次回、類似の出来事の時には、今度はうまくやれるように、力を養っておきましょう」
「そうか。そうします。へこむのも落ち込むのもがんばります。今度はうまくやります」
「そうしてください。応援はしてますから」
「はい。うう」

彼がいつか、部下を持つ身になったときに、部下を持つ身になるまでの日々に、あの日へこんでおちこんだことと、あの日以外のいろんなことが、大きな力と小さなたくさんの力として、きっとよき働きをするはず。     押し葉

遺影の写真

日本舞踊をしなくなってからずいぶん経ち、最近では、もう、めったに、着物を着ることがなくなった。けれど、着物姿を見るのは好きだし、反物や帯を見るのも、帯締めや色襟などの着物関連小物を見るのも大好き。だから、職場の同僚の誰かが、着物を着たり、子の成人式に振袖を着せたり、孫の七五三で着物を着せたり、という機会があるときには、ぜひともその写真を見せてほしいとねだっておく。すると、しばらくした頃に、同僚が、「写真できたんで、見てもらえますか」と、わざわざ持ってきてくれる。「やったー、やったー」と喜んで、休憩時間にじっくりと見せてもらう。

先日は、姪御さんの結婚式に出席した同僚が、この機会にと家族写真を撮影したものを見せてくれた。同僚は留め袖を、娘さん二人は振袖を、ご主人は礼服に白いネクタイで、家族四人で写真館(ブライダル屋さんの写真部門)で撮影したもの。色鮮やかな振袖も、二十代の娘さんたちのぴちぴちとした若さも、もちろん華やかなのだけど、その写真に写る同僚の姿があまりにも美しくて、私は感嘆の声をあげる。「なんでこんなにきれいなんですか」と問い詰める私に、同僚は「そりゃあ、前の日の晩、顔のマッサージ、すっごく頑張りましたもん」と、えへん、のポーズをする。

「ああ。たしかに、マッサージ効果は素晴らしいですねえ。血色もきれいだし。でも、なんていうんでしょう、このきれいさは、神々しい、に近いような、菩薩様のようなマリア様のような、すっごくいいお顔」
「んもう。どうやら先生ってばー、何かあげなきゃいけないじゃないですか。でも制服のポケット探っても、あげられるものは、今週のチラシくらいしかないですねえ」
「それは要りません。私も同じの持ってますから。いや、でも、本当に、この写真、すっごくいいです。二十代の娘さんたちよりも、誰よりも一番きれい。そうだ。縁起でもないですけど、この写真、遺影写真の候補にどうですか」
「あ、それ、いいですねえ。そういえば、最近は、そうやって、本人が気に入った写真を遺影用に準備しておくんですよね。私も自分の遺影の写真、これだったら、機嫌良く逝けそうな気がする」
「とはいっても、今の写真では、実際おばあさんになって死んだ時には、子や孫たちが、ちょっと、おばあちゃん、いくらなんでも、この写真は若い時すぎるやろう、って、葬式がツッコミ大会になるでしょうねえ」
「じゃあ、十年前後以内で死んだ時にはこの写真をこのまま使うようにして、それよりも長生きしたときには、また新しく気に入る写真を撮って、遺影候補を更新しておくか、この写真をベースに年を重ねた感じに加工してもらうかします」
「なるほど。更新もいいし、加工もいいですね。その写真ができあがったときには、また、私にも見せてください」

そのあとは、娘さんたちの振袖姿のスナップ写真をたくさん見せてもらう。着物が好きだからという私のために、私のリクエストに応えて、前から、後ろから、右から、左から、帯や帯締めや色襟がよく見える近さから、襟元や髪形や髪飾りがよく見える形で、草履や鞄もよく見えるように、と、いろんな写真を撮ってくれているから、うわうわ言いながらうっとりと写真をめくる。振袖を着た娘さんたちを、おじいちゃんおばあちゃん(同僚にとってはご両親)の家に連れて行って、祖父母と孫娘が並んだ状態で撮影された写真も感慨深い。他人の私ですらこんなに感慨深さを感じるのだから、おじいちゃんやおばあちゃんは、こんなに娘さんらしくきれいにあでやかな姿になった孫娘の、小さいときからこの日までのいくつもの時が思い返されて、さぞかしうっとりなことだろうなあ。

ああ。満足。

    押し葉

煮込みラーメンのご案内

職場のドリンクストッカー(冷やした栄養ドリンクを販売するための冷蔵庫)の前にしゃがんでの作業中。しゃがんだその高さに視線をぎゅうっと感じる。どんな作業をしていても、お客様の気配があれば、いらっしゃいませ、と、こんにちは、の声をおかけできるように常にセンサーを作動させているのだけれども、そのセンサーにかかるものとは別の種類の強い視線。

視線の主は、私のすぐ隣に立つ小さな女の子。三歳か四歳か五歳になっているかどうか、小学生にはなっていない、そんな年頃だと思う。

「いらっしゃいませ。こんにちは。なにか、か、どなたか、お探しですか」
「にこみらあめん、どこ」
「にこみらあめん、煮込みラーメンですね。ご案内いたします。お家の方もどなたか一緒にいらっしゃっていますか」
「うん。おかあさん」
「そうですか。では、煮込みラーメンのところで、お母さんをお待ちしましょう」

煮込みラーメンは、今の季節の商品だから、季節商品の売り場に、たくさん並べてある。「こちらです」と言いながら、小さなお客様をご案内し、煮込みラーメンの前に来たところに、お母さんと思われる女性が現れ、「あ、いた。あ、あった」と声を出す。

「いらっしゃいませ。お母さまでいらっしゃいますか」と尋ねると、その女性は「はい。ああ、よかった。どこではぐれたかと思ったよー。ほらほら、ここに煮込みラーメンあったよ」と小さな女の子に向けて言う。「おりこうさんなお子様でいらっしゃいますね。煮込みラーメンの場所を尋ねてくださったんですよ」とお伝えすると、「うわあ、そうやったん? ちょっとー、えらすぎるー。お母さんなんか、だーれにも、なーんにも、訊かずに、一人でずーっとうろうろして、ようやく見つけたところなのに、ちゃんとお店の人に訊いて、ほしいものの場所に来るなんて、えらいねー」と我が子を大絶賛。

お母さんの高いテンションとはうらはらに、女の子は、私をじっと見て「ありがとう」とひとこと言うと、煮込みラーメンの前にしゃがんで、「おかあさん。これ」と、商品の箱を手に取り、そして手渡す。お母さんは「ええー、それ、黒い箱のほうじゃん。赤い箱のほうにしようよ。味が違うんだよ」と言うけれど、女の子は黒い箱を手にしたまま「これ」と断言。

自分のほしいものを明確に具体的にイメージして、求めるものを手にすべく、着実に行動を重ねる。それができる、それをする、そうできるときにはそうする。それはとても大切なこと。     押し葉

ちぇりちゃんの単独任務

職場で売り場の整理整頓作業をしていたところに、親子連れのお客様が「すみません。トイレ貸してください」と声をかけてくださる。上のお子さんは自分で歩いてトイレを目指し、下のお子さんはきっとまだ一才くらいで、お店の幼児用椅子付きのカートに乗った状態。カートの上には買い物かごが置いてあり、中にはいくつかのお買い上げ予定商品が入っている。

「はい。どうぞ。扉の中の、トイレマークのところです」
「はい。あの、商品は、ここに置いたままでいいですか」
「はい。もちろん。貴重品だけは、お持ちくださいね」
「はい。わかりました。行ってきます。じゃ、ちぇりちゃん(カートに乗ってる一才くらいのお客様の名前)、カゴの中のもの、見ててね」

お客様は、そう言うと素早く、トイレへと駆けてゆかれる。売り場に残された私と、カートと品物と、一才のちぇりちゃん。私とカートと品物はともかく、お子様まで置いていかれるとは、予想していなかったから、内心「ええええええ?」と思いつつも、ちぇりちゃんには落ち着いて微笑みかける。「では、ここで、少しの間、一緒に待っていましょうね」と静かに声もかけておく。

そうしていたら、バックヤードから、新人二年目くんが店内に入ってきて、そこに私がいるのはともかく、お客様のお買いもの道具があるのもともかく、あまりにも小さい人がおもむろにそこにいることにひどくおどろく。

「うわあっ。びっくりしたー。な、な、なんで、こんな赤ちゃんが一人でいるんですか」
「今、トイレに入っていらっしゃるお客様のお子様なんです。お母さんが上のお子様をトイレに連れてゆかれて、こちらの小さなお客様は、それを待っていらっしゃるんです」
「そうなんですか。でも、この人(一才の人)、むっちゃ、暇そうじゃないですか?」
「それが、こんなに小さいのに、カートのカゴの中の商品を見ておくように、お母さんから言われてるんですよ。だから、このかた、こう見えて、実は、大忙しなんです。すごいでしょ」
「そんな、それはすごいけど、でも、見ておいて、って、言われても、この子はカゴの商品を見て、何をすればいいんでしょう」
「それは、うちのお母さんはこれ買うんだなあ、とか、大切なものなのかなあ、とか、わしにどないせいっちゅうねんっ、とか、そういういろいろ思いつつ待つ、ってことなんじゃないですかね」
「ええええ。そうでしょうか。どうやら先生が一緒にいらっしゃるから、まあまだ、ですけど、この人、一人でここにいたら危ないですよね」

というような話をしていたら、トイレからお客様が戻ってこられて、「すみません。やっぱりこの子も連れて行きます。上の子、トイレに入れてきたんで。カートと品物だけ、ここに置かせておいてください」とおっしゃる。「はい。ごゆっくりどうぞ。そのほうが安心ですよね」とお応えして再び見送る。

それから新人二年目くんと、顔を見合わせて安堵する。

「よかったですね、これで一安心ですね」
「一才の子が品物を見張っていなくても大丈夫なくらいには、うちのお店、治安がよくてよかったですね」
「いや、でも、プロの窃盗団が巡回万引きに来ることはあるんですから、小さな人は一人でいないほうがいいですよ。何かの拍子でカートから落ちても危ないし」
「ですよね。でも、まあ、お客様も複数の小さな人を連れて、緊急トイレのお世話をしながら、さらに小さい人のお世話もするのは、大慌てでうひゃあ、になることが、きっと、あるんですよ」
「そうなんでしょうねえ、きっと」

とりあえず、いろいろと無事でよかった。
    押し葉

新人二年目くん

先月の後半に、これまで一緒に働いていた「新人三年目くん」が、他のお店に異動になり、代わりに別のお店から「新人二年目くん」が赴任してきた。新人二年目くんの特徴は、通勤かばんが買い物カゴである、ということだろうか。従業員は、ロッカールームのロッカーに、各自私物を片づけて、仕事をするのだけれども、二年目くんは貴重品のみロッカーに入れて鍵をかけ、それ以外のものは、通勤用買い物カゴに入れた状態で、ロッカールームのすみっこに置いている。

買い物カゴというのは、あの、スーパー等で買い物をするときに使う、あのカゴだ。どこかのスーパーの、レジ精算済み商品を入れてもらってそのまま持って帰ることができるタイプの、お客様が自分用に購入しておくカゴのような気がする。

二年目くんは、そのカゴの中に、時間があったら勉強しようと思って持ち歩いている商品に関する資料たくさんと、休憩時間に血糖値を上昇させるためのチョコレートなどを入れている。それと、お昼ご飯用のお弁当。お弁当箱は、ふだんは、プラスチックケースをふたつ。縦横二十センチくらいの正方形のケースの、ひとつにはご飯と梅干しが(チャーハンのこともある)、もうひとつにはおかずが詰め込まれている。先日は、おかずが入っているのが、お弁当箱のプラケースではなく、陶器のお皿だった。お皿の中にお肉と野菜の炒め物がたっぷりと入れてあり、ラップがかけてあった。職場の休憩室には、電子レンジが用意されているから、食べるときに温めて食べるとおいしいんだろうな。

お昼ご飯をしっかりと食べているということは、朝も夜も、食生活全般が整った家庭生活を営んでいるのだろうと予想できる。食が整っているからなのか、新人二年目くんは、仕事の手際が良い。売り場のいろんなことがよく見えて、いろんなことを落ち着いて考えて、必要な作業を重ねることができているなあ、と、傍目で観ていてもよくわかる。そして、同僚に対しても、お客様に対しても、常に精神的に安定した話し方をするなあ、とも感じる。けれど、なにぶん、まだ新人二年目くんだから、それに今の職場には赴任してまだ間がないから、知らないことがいろいろとある。たとえば、二年目くんがてきぱきと作ってくれた売り場の商品たちが、ばたんどさん、と、床に落ちてきて、なぜかしら、と見てみる。本来ならば「エス字フック」という名前の金具を使って、ネット面につりさげて固定しておくべきものを、普通のセロテープで軽くとめてあったがための商品転落であることがわかる。

「二年目さんが作ってくださった売り場の商品が、床に落ちてきたんですけれど、もしかして、台紙の紐の固定を、エス字フックじゃなくて、セロテープでされましたか」
「はい。テープで一か所止めただけなんで、弱いかなあ、とは思ったんですが」
「この商品、けっこう重量がありますからね。そういうとき用に、ここの引き出しのこの段に、エス字フックがありますから、必要な時には、使ってくださいね」
「ああ。エス字フックがあったんですか。わあ、たくさんありますね。じゃあ、これ使って固定します」
「はい。よろしくお願いします」

そんなふうに、少しずつ、仕事の手際の良さに加えて、確実さを強化するべく、連絡事項を伝える手間を惜しまないのが、私の立場の仕事だと思う。彼はきちんとご飯を食べて、きちんと仕事を重ねて、きっとよい仕事人に成長してゆくことだろう。

とりあえず、次回の記事に備えて、新人二年目くんの紹介まで。     押し葉

植物のラテン名

あたたかな日曜日。ひろーい芝生の広場と展望台と屋外遊具施設などがある植物中心の公園に行く。おいしいパン屋さんでお昼ご飯用のパンを買って持って行く。夫はフィッシュバーガーのようなパンとバターロールにカツが挟んであるもの。私はアズキクリームが入ったパイ生地のパンとシュークリーム。

池のほとりのベンチに腰掛けて、「立派な公園だね」「はじめてきたね」と話しながら、お昼を食べる。陽のあたる芝生の上では、子ども連れの人たちがいろんなことをして遊んでいたり、ひなたぼっこをしながらうつぶせてお昼寝をする人がいたり。私たちが座るベンチの後ろを通った親子(父、母、子の三人組)の小さな子どもが池を見て指差しながら、「おとうさん! おかあさん! みて! みず! すごいねー!」と言い、にっこりと膝をかがめる。池も海も湖も水たまりも雨も貯水池も「水」に大分類されて感極まるお年頃のかたなのね。

パンを食べ終え、ごちそうさまと手を合わせたら、芝生の広場を囲む形で配置されている遊歩道を散歩する。遊歩道の両脇には、いろんな木が植えられている。紅葉しているものもあれば、緑のままのものもあり。「この人の紅葉は、なんだか、やる気満々だね」「この人のやる気はそこそこかな」と、葉っぱの色具合について語りながら歩く。それぞれの木に名前の札がついているから、目につくとその名を確認する。夫がカタカナの名前を読んだら、私がその下に書いてあるラテン名(学術名)を音読する。

私は植物のラテン名が好きだ。薬学部在学中に薬用植物学を勉強するときも、それぞれの植物のラテン名を知ることが、たまらなくたのしかった。当時はたくさん暗記していたけれど、今は記憶の彼方だ。それでも、公園の札に書いてある木々の名前を読むときに、「この綴りが入っているってことは、芳香性が高い、けっこうしっかりとしたにおいがするよ、ってことなんじゃないかな」「これは樹脂が出てくるよ、っていう意味の綴りだったような気がする」と、あやふやなうんちくを、夫に向かって語るくらいには彼方の記憶が活躍する。

たくさん植わっている木々の中には、私が好きだけど近所には自主生息していない種類の木もいくつかあった。その木たちの芽や花が見れる頃には、きっと、また、来てみよう。     押し葉

アクセント自由地帯

私が現在暮らす地方は、「崩壊アクセント」と呼ばれる方言文化を持つ。「アクセント崩壊地域」と呼ぶ場合もある。「崩壊」というと、「ほんとうは崩れないほうがよいにもかかわらず」であるとか、「壊れないようにしたほうがよいのではないか」などというイメージが伴われがちかもしれないけれども、そうじゃないんだよ、という気持ちを込めて、別の呼び方をするならば、「アクセント自由地帯」あるいは「アクセントフリーダムエリア」と言えるのではないかと思う。

語彙のアクセントには、各地方の方言ごとに各地域独特の「規則性」が存在することが多いが、ここではその「規則性」が存在しない。たとえば、「飴」と「雨」、「橋」と「箸」、「熊」と「クマ(目の下にできる)」などのアクセントを特別言い分けることはない。

一応学校教育の中では、日本語使用地帯のうち、わりと多くの地域において、そういうアクセントによる言い分けが存在するんですよ、具体的にはこういう例がありますよ、という趣旨のことは、国語の授業で習うらしい。が、地元の人同士が話すときには、単語は前後の文脈や状況によって殆ど理解できるものであるから、アクセントによる弁別の必要性は低い、と、認識されている様子。

例えば、先日、夫の実家の親戚から、大量の柿が送られてきて、その量が二人家族では途方に暮れる量だったから、私の職場に持参して、同僚たちに持って帰ってもらうことにした。顔を合わせた同僚に、「広島の柿、よかったら、持って帰って食べてください」と伝えるのだが、店長は「ありがとうございます。僕、カキフライ好きなんですよ」と返答してきた。

「店長。牡蠣ではなくて、柿なので、フライにはせずに、そのまま素直に皮を向いて食べるのがいいと思います」
「え。でも、広島の柿といえば、貝の柿が有名ですよね。広島は果物の柿も有名なんですか」
「いいえ。果物の柿は、特別有名ではないです。ふつうだと思います。だから、ふつうの柿だなあ、と思って食べてください」
「そうなんですか。いただきます」

上記の会話中、店長が「柿」と発音しているもののうち、「広島の柿」「貝の柿」の部分の「かき」の意味は「牡蠣」だ。しかし、アクセントは「柿」の「かき」なのだ。

いわゆる「共通語」風に発音する場合、便宜的にドレミの音階を流用するなら、「柿」は「ドミ」、「牡蠣」は「ミド」。「雨」は「ミド」で、「飴」は「ドミ」。「熊」は「ミド」(熊出没のニュース報道では「ドミ」の音階で発音されるが、「クマのプーさん」にならってここでは「ミド」とする)で、「クマ」は「ドミ」。けれど、この近辺では、いちいち「ドミ」と「ミド」を意識して使い分けたりはしない。

いや、一応、私のような「外部から来た人」に対しては、使い分けてあげた方が、会話が円滑なことが多いからね、と意識的無意識的に気を遣って、気がつけば使い分けてみてくれたりもするけれど、地元人同士で話すときには、その使い分けは全く必要ないことであり、それくらいの文脈把握は人間簡単にできるもので、把握が難しいときには確認すれば済むことで、たとえ把握を間違えたとしてもそれはたいした問題じゃなく、「ドミ」だとどっちで「ミド」だとどっちだ、などということにエネルギーを消費するのは、なんというかナンセンスじゃないかしら、というような、おおらかーな、ゆるやかーな、感覚がそこには存在している。

以前の職場で、雨の日に、その日は喉が痛かったか何かで、喉飴をなめながら、窓の外の雨を眺めながら、薬局の窓ふきなどをしていたら、同僚が「どうやらさん、雨が好きなんですか」と訊いてきた。雨好きの私としては、よくぞ訊いてくれたことであるよと少々意気込んで、「そうなんですよ。よくわかりましたね。私、雨が降るのを見るのも、雨が降る音を訊くのも、すごく好きで、雨が降ると、見なくっちゃ、聴かなくちゃ、と思うんです」と応える。すると同僚が「え?」と言うから、私も「え?」と訊き返す。少し考えてから同僚が「どうやらさん、今日、たくさんキャンディを食べているから、好きなのかと思って。好きなのは、キャンディじゃなくてレインなんですか。ああ、なるほど。今みたいな状況はめったにないとは思いますが、こういうときには、アクセントで、雨と雨を言い分けたほうが便利なんですね」と言うから、「それ、雨と雨じゃなくて、雨と飴、です」と一応指摘する。同僚は、「アクセントで言い分けるのは、面倒くさいから、食べるあめ、と、降るあめ、って言い分けますね」と言うが、「食べる」や「降る」を添付するエネルギーを節約するための工夫として、アクセントでの言い分けがあるのではないかと思うのだけど、ま、いいか、本人がラクならそれで、ということにする。

このように発音の規則がないから、雨のことを「あめ(ミド)」と言うこともあれば「あめ(ドミ)」と言うこともある。一人の発話者の中でも、継続して「雨」について話していても、文中のあるところでは「あめ(ミド)」と言い、別のあるところでは「あめ(ドミ)」と言う。ときには「ドド」や「ミミ」のこともある。それでも、意味がほぼ問題なく通じ合い、必要であれば、「ああ、降るほうね」「食べるほうね」と小さな確認を入れるだけ。

なんとおおらかで自由奔放なのだろう。私自身の脳みそは、すでに、アクセントによる語彙の使い分け文化に洗脳されすぎているから、その自由奔放さを真似る力量はないけれど、彼ら彼女らのそのこだわりのなさと鷹揚さに、うっとりする力量なら万全。

たしかに、公に、大勢の人たちを相手にして、瞬時に理解を得るための話法としては、アクセントによる語彙の使い分けを行うほうが便利なことがあるだろう。でもそれは、「便利」なだけであって、「正しい」わけではないのだ。

一応、地元テレビ等のアナウンサーをする人たちは、放送上は、アクセントによる語彙の使い分けをしている。たまに、使い分けが逆になっていたり混同されたりすることもありはするけれど、それを特別誰も気にしないところが、私はけっこう好きだ。

こういう文化の中にいると、どの地方では特定の語彙のアクセントをどこに置いて発音することが多いのね、というような観察や文化比較等を興味を持って愉しむのであればともかく、誰かの発音やアクセントを「正しい」だとか「まちがっている」だとか、そういう観点で捉えることは、ある意味何かに毒されている、と思えてくる。人が話す言葉の発音の細かなことについて、指摘することも言い募ることもなく、必要であれば自分の方が文脈や状況を想像して把握や確認の手間をかける、そんな心意気をごく普通に抱いている、この地方の人々の、豊穣な柔軟さを、私はときどき、全国に布教したくなる。     押し葉

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どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

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