みそ文

抱き合う関係

女性が男性と性交渉を持つことを「抱かれる」と表現する文化が、どうもあまり得意ではない。「抱かれる」女性の前に仁王立ちになり「抱かれるな。抱け」「抱けないなら、せめて抱き合え」と諭したくなってくる。いやいや、理屈や想像力では理解している。「抱かれる」と表現することに伴う抒情のような奥行きのような様々は。

それでも、なお、「彼に抱かれたい」と思うよりは、「彼と抱き合いたい」と思う、合意だけではなくそこに明確な自主性を認識する、そういう子に育ってほしいと願うのは、王様の仕事のひとつなのだろうな、きっと。     押し葉

王様の恋の思い出

昔、漫画や小説やドラマのお話の中で、たとえば男性が恋人である女性に向かって「君をしあわせにするよ」「君のことを必ずしあわせにすると誓う」などという趣旨の台詞を、細かい言い回しの差ははともかく、言葉にするのを見聞きするたびに、「わたしをしあわせにするだと? 何様のつもりじゃ。わたしはすでに常に相当しあわせじゃ。そしてわたしを今よりさらにしあわせにするのは、まずわたしじゃ。そなたにできるのは、わたしがしあわせであることを応援することと邪魔をしないことくらいじゃ。そなたはまずそなた自身がしあわせであるように努めよ。ええええいっ。ひかえおろう」と、脳内で架空の相手の胸倉をつかみ、背負い投げて床にたたきつけていたことを、なぜかふと思い出した。

そして、夫が、わたしのことを、「王様」だとか「大王様」と、ときどき呼びたくなる気持ちが、なんとなく、少しだけ、わかるような気がしてくるような気がするのは気のせいではないような気がする。

ちなみに、王様には、武道の経験は、ない。たぶん、王様が恋人や配偶者などに求めるのは、「自分をしあわせにしてくれること」ではなくて、「ともにしあわせであるように暮らすこと」なのだろうな。     押し葉

カボチャの役割

登録販売者の資格ができて以来、私の職場でもその資格を取得した人が増えた。そのおかげで、私が担当する医薬品コーナーの仕事を、登録販売者の資格を持つ同僚たちが、以前以上にサポートしてくれるようになり、私はずいぶんと気持ちの余裕が増えた気がしている。

資生堂という会社から、「ザ・コラーゲン」という美肌商品の秋の販促品として、ずいぶん前に届いていたPOP(商品案内表示物)があった。それを、先日、ようやく売り場に出すに至った。けれど、切ったり、貼り合わせたりしたPOPたちのうち、貼り合わせたものの売り場設置をしたところで、お客様に声をかけられて、接客していたら勤務時間が終わりになり、残りの小さなPOPたちを貼るのはまた後日の仕事にしましょう、ということにした。後日出勤したらすぐに作業できるように、「売り場の古い丸POPを外して捨てて、このPOPたちを見本のように貼る」とメモを書いて貼って、カウンターの上に置いて、その日は帰った。

そして今日、出勤してみたら、そのPOPたちの姿がカウンターの上にはなく、すでに売り場に貼られている。「わあ。私がいないうちに、誰かが貼ってくれたんだー。うれしいなあ」と独り言を言いながら小躍りして喜ぶ私に、登録販売者の資格を持つ同僚が「トウジのPOP、貼ったんですけど、こんなかんじでよかったですか?」と確認の声をかけてきてくれる。

「ああ、ありがとうございます。いいです、いいです、ばっちりです。助かります。やろうと思って残して帰った仕事が、出勤してきたときに片付いているのって、夢か魔法みたいで、すごくうれしいんです。このPOPたち、ハロウィンの模様だから、今月いっぱいで撤去になるんでしょうけど、あと十日ほどでも、設置できて、活躍してもらえてよかったー」
「ハロウィン! あああああ。なるほど。十月だからハロウィンなんですねえ。いやあ、私はてっきり、冬至のカボチャだとばかり」
「ああ。トウジって、冬至の、とうじ、ですか」
「はい。カボチャだから冬至だな、と。さすが資生堂さん、季節を先取りするなあ、それにしても、気が早くないか、って思ってたんですけど、ハロウィンなら、今ですよねえ。全然先取りしてないですよねえ。ああ、たしかに、魔女みたいな絵(魔法使いかな)も描いてあるし、ハロウィンですねえ。なのにカボチャと言えば冬至しか思いつかなかった私って、もしかして、ちょっと高齢者すぎますか?」
「いえ。だいじょうぶです。そういうことなら、十一月に入ったら、魔女の絵の部分を切り取って、冬至まで、このままいっきに、カボチャでいきましょう」
「いや、それは、ちょっと、無理があるんじゃないでしょうか」
「うーん。だめですかねえ。なんならアズキも飾りとして一緒に並べたら、冬至っぽくなりませんかね」
「その組み合わせの飾りが、美肌を目指すザ・コラーゲンの立場として、資生堂さんに受け容れてもらえるかどうか、というと、微妙な気がするんですけど。さっきまで、ずっと、冬至だと思ってたくせに、なんですけど」
「じゃあ、また、資生堂さんから、十一月バージョンの新しいPOPが来たら、それに貼り替えで、来なかったら、アズキを追加の方向で、考えておくことにしましょう。というか、資生堂さんも、ハロウィンをネタにするなら、冬至もきっちりとネタにして販促品作ってきてもらいたいと思いません?」
「うーん、でも、きっと、冬至は、クリスマスの存在感に負けるんですよ」
「ああ、だから、そもそも作ってもらえないのかもしれないですねえ」

なんとなく冬至を応援したい夜。     押し葉

しまったくんの活躍

夫は些細なことで、かなり頻繁に、「しまったー」と口走る。どんな過失があったのかと、以前は少しびくつきながら、「どうしたの」と訊いていたけれど、それを確認するたびに、あまりにもたいしたことでなさすぎて、場合によっては、かなりどうでもいいようなことだったから、最近では、「はいはいはいはい」と合の手を入れるにとどめている。

私にとっては「しまった」という表現は、夫が「しまった」を使うような状況よりも、もっとずっと、過失の度合いが高いときに用いるものだ。だからその使用頻度はかなり低い。けれど、私は、今日は、その「しまった」を仕事中に二度も使った。めずらしい。

一回目は、仕事中に、はっと、「しまったー。今日はいいお天気だから、出勤前に洗濯して、干してから出かけましょう、と思ったのに、洗濯機に脱水した洗濯ものを入れたままで出かけてきた」と気づいた時。しまったけれど、仕方がないから、帰宅してから、もう一度、今度はニオイ対策にクエン酸を入れてすすいでから、脱水して干すことにしましょう、と思いながら仕事をする。帰ったら洗濯しなおし、の気合を高めて帰宅する。なのに、洗濯機のところに来てみたら、洗濯機の中身がない。洗濯機の蓋が開けられており洗濯層を乾かしてある。あれれれれ。洗濯したのを干し忘れたと思っていたけど、もしかしたら、そもそもの洗濯そのものをしていなかったのかしら、といぶかしむ。それならそれでいいけれど、と思いながら、ベランダに面するカーテンを閉めようとしたところで、ベランダで乾いている洗濯ものの存在に気づく。私の知らない間に、いつの間に、いったい何者が勝手に干したのだろうか、と、その干し具合をじっと見る。そして、それは、まごうことなく自分の干し具合であることを思い知る。ああ、たしかに、そういえば、出勤前に、干したねえ、思い出したよ、いま、ようやく、と、自分の各種忘れぶりに感嘆する。帰宅した夫に、その話をしたところ、「逆じゃなくてよかったね。干したと思ったのに干してないより、干してないと思ったのに干してあるほうが、がっかりが少ないじゃん」と言う。

もうひとつの「しまった」は、店長との企画ミーティングを終えて、とある製薬メーカーの勉強会開催希望日(各店舗にて開催してもらえる)のファクスを送信し終えた時。送り先の担当営業さんの名前のあとに書いてある「行」を「様」に訂正するのを忘れたまま、送信したことに気づいて、「しまったー」。そのとき同じ事務室で作業をしていた店長が「どうしたんですか」と訊いてくれるから、「送り先の、行き、を、様に、訂正せずに、行き、のまま、送ってしまいました」と答える。店長は「まあ、勉強会開催希望日がちゃんと書いてあれば、いいんじゃないですか」と言ってくれる。「でも、勉強会開催希望日のあとの店名と電話番号のあとに、店長名を書くようになってたから、店長の名前を書いてるんです。だから、たぶん、ファクス送信責任者、店長ってことになると思うんです。ごめんなさい」と続けると、店長は「うう、それは、ちょっと」と言いかけて「いや、だいじょうぶです。だいじょうぶにします」と言い直す。とはいえ、やはり、気になるし、その製薬メーカーの担当営業さんあてに、今度はメールを書くことにする。「さきほど、送信したファクスの、送り先の、行き、を、様に、訂正しないまま送信しました。たいへん失礼いたしました」ということと、「当日は、有資格者のうち代表の数名が参加して習った内容を、後日店内勉強会にて他のスタッフに伝える予定にしております。もしも資料を用いての勉強会の場合には、当店の有資格者は七名おりますので、七名分分けていただけますと助かります。よろしくお願いいたします」という要望事項を書いて。送信者は、今度は、店長の名前と薬剤師の私の連名の形式にして。しかし、それなら、最初から、メールで希望日を連絡したらよかったなあ、だ。でも、まあ、二度手間にはなったけど、ファクスでもメールでも勉強会開催希望日を連絡したのだから、第一希望から第三希望のうちのどれかの日程で、勉強会は、きっと開催してもらえるから、いいよね。希望日の連絡自体をし忘れて、勉強会がないよりは、職場の仲間は喜ぶはず。     押し葉

「大五郎」と「ちゃん」と「あんさん」と

あんまり書くのも自慢みたいで嫌味かしら、という思いは少しあるのだけれども、誤解を恐れずに思い切って書くならば、私はどちらかというと、いろんな思い違いがかなり得意なほうだ。それは今なおそうなのだけど、小さい頃、特に保育園の年長さんか小学校の低学年のころ、日本語の語彙がまだあまり豊富でなかったときには、今よりももっとたくさんの思い違いを誇っていた。

私が幼いころにテレビ放映されていた「子連れ狼」という時代劇ドラマの主題歌を思い出せる人は思い出してみてほしい。「しとしとぴっちゃんしとぴっちゃん」のコーラスとともに歌われる歌詞の内容は、今にして思えば、厳しく壮絶なものだ。その歌の「ちゃんの仕事は刺客ぞな」という歌詞を、私は、「ちゃん(父)」の仕事は「しかくぞな」なのだと、長い間、思っていた。「ちゃん」が「父」を意味することまで理解していたかどうかはわからないが、少なくとも大五郎くんという小さな人は、いつも自分が乗っている乳母車(現在は主にベビーカーと呼ばれているものに用途は似ているが、形はベビーカーに比べるとずいぶんと箱型である)を押して世話してくれるこの男の人のことを「ちゃん」と呼ぶことにしているのだな、とは理解していた。お父さんであるようなないような謎の存在の男性は、決まった家に住んでいない「おさむらいさん」で、「しかくぞな」という五文字の名前の仕事をしている。「しかくぞな」というくらいだから、きっとたぶんなんとなく、四角に関係がありそうだ。というこは、積み木関係の仕事なのかもしれない、と思いながら見るけれど、積み木はなかなか出てこない。幼い大五郎が乗る乳母車に、ときどき、風車(かざぐるま)が立っている(あれは刺してあったのだろうか、それともくくりつけてあったのだろうか)ということは、この風車が四角と何か関係があるのか、とも思ってみるが、風車に関してはあまり多くが語られない。もしかすると、乳母車自体のその形の四角さが関係するのかもしれない、と思いながら「ちゃん」の仕事を理解しようとしてみると、四角い乳母車を押すことが「しかくぞな」という仕事なのか、と思ったり。しかし、はっきりとしたところは、なかなか明らかにならない。

それと同じ頃、実家のお向かいの家のおにいちゃんは、たぶん私より六つか七つか八つか九つくらい年上で、近所の年下の子どもたち、中でも特にそのおにいちゃんといとこ関係にある子どもたちが、彼のことを「あんちゃん」と親しげに呼んでいた。私はそのお向かいの家のおにいちゃんとは、殆ど言葉を交わすことはないのだけど、私なりに、もしも彼に声をかける機会があるときにはぜひとも正しい名前で呼びかけたいものだと思っていたから、自宅で、父にだったか、母にだったか、祖母にだったか、三人ともに対してだったか、に確認してみることにした。

「お向かいのおにいちゃんの名前は、あんきちなん? それとも、あんたろうなん?」
「向かいのおにいちゃん、いうて、たかよしくん、のことかいね?」
「え? お向かいのおにいちゃんの名前、たかよし、じゃないと思うよ。だって、みんな、あんちゃん、いうて呼びようるじゃん。ちゃんは、みそちゃんのちゃんじゃろ。それじゃったら、あんは、あんきちのあんか、あんたろうのあんか、それとも、もしかしたら、あん、いう短い名前なんかな。それなら、お向かいのおにいちゃんのことを呼ぶ時には、あんきちさん、いうたらええんかな。あんきちさんじゃないんじゃったら、あんたろうさんか、あんさん、かな」

そのときに、父だったか母だったか祖母だったか三人ともだったかは、大きく笑ったような気がする。

「ちがうようねえ。あんちゃん、いうたら、おにいさん、いう意味じゃ」
「なんで、おにいさんが、あんちゃん、なんよ?」
「お兄さんのことを、別の言い方で、兄(あに)いうて言うて、それに、さん、をつけて、あにさん、言うたり、ちゃん、をつけて、あんちゃん、言うたりするもんなんじゃけん。本当の兄弟でも本当の兄弟でなくても、お兄ちゃんやお兄さん、いうて言うみたいに、兄(あに)さん言うたり、兄(あん)ちゃん言うたりするもんなんじゃ」
「ええーっ。じゃあ、それじゃったら、しめじ(弟)はやぎ(妹)のおにいちゃんじゃけん、あに、なん? しめじはやぎのあんちゃんなん?」
「そうなるねえ」

いやあ。お向かいのおにいちゃんに向かって、敬意を込めてだとはいえ、「あんさん」と呼びかける前に確認してみて、本当によかったなあ。     押し葉

さつま芋ご飯とドクターフィッシュ

うちから車で三十分弱走ったところにある「道の駅」では、地元の野菜や果物が豊富に販売されている。そろそろサツマイモご飯が食べたいなあ、と思っていたから、サツマイモを買いたいのだけれども、店内で販売されているのは、どれも少し量が多い。バナナサイズで言うなら六本、モンキーバナナサイズで言うなら十本前後というところで、値段は二百円から三百円くらい。サツマイモはほしいけれど、こんなにたくさんは使いきれないなあ。ご飯に入れるだけだから、バナナサイズのものが一本あれば十分なのだけど、ばら売りは、ないなあ。

そうだ。建物の外のところに、焼き芋売りの人がいたから、あの人に、一本だけ生で売ってもらえないか、相談してみよう、と決める。焼き芋は、一本百円。香ばしくてほっくりとしたにおいが、あたたかく漂う。ひととおりのお客さんの波が途切れたところで、焼き芋売りのお兄さん(青年)に、「焼いてない生のサツマイモを、一本売っていただけないでしょうか」と、声をかけてみる。お兄さんは「生のサツマイモは、建物の中で売ってますよ」と教えてくれるけれど、「はい。売ってました。でも、量が多くて。一本だけほしいんです。芋ご飯を炊きたくて、ご飯二合に入れるのに、ここに置いてらっしゃるサツマイモ一本が、ちょうどいい量なんです」とくいさがる。

焼き芋屋の青年は「うーん。じゃ、いいですよ。好きなの一本、お好きな値段で、どうぞ」と言う。「お好きな値段と言われましても、いくらくらいが適正でしょう」と尋ねる私に、青年は「建物の中で売ってるのは、六本で三百円くらいですよねえ。でも、焼く燃料使ってないのに、一本百円もらうのは多すぎるし。あ、じゃあ、こうしませんか。うちの焼き芋一本買ってくださったら、焼いてないのを一本タダで差し上げます」と提案してくれる。

「わ。いいんですか。でも、それ、うれしいです。じゃあ、焼き芋一本ください」と百円玉を用意する。青年が私に「焼いてないほうは、どの芋がいいですか?」と訊いてくれるから、「プロの焼き芋屋さんの目で見て、芋ご飯にしておいしそうなのはどれですか?」と訊き返してみる。青年は「僕は焼いて売ってるだけで、このサツマイモ作ってるのは父なんです。父なら詳しいんでしょうけれど。うーん、どうかなあ。ご飯に入れるんだったら、少し丸みのあるほうがいいですね。じゃあ、これかな」と言いながら、カゴの中のサツマイモの山の中から一本選んでくれる。そして、焼き芋焼き器の中から、ホクホクあつあつの、こんがりとした焼き芋を、一本取り出して、紙袋に入れて「あついから、気をつけてくださいね。百円です」と言いながら、手渡してくれる。生のほうは、私の手持ちのビニール袋に入れて持ち帰り、焼き芋のほうは、熱いうちに、車の中で、ほふほふ食べようと決める。

なんとなく、この焼き芋は、アイスクリームと一緒に、あるいは、交互に食べるとおいしいような気がして、建物の隣の小屋で売ってるソフトクリームを買い求める。なんだか観光旅行みたいな、小旅行気分が盛り上がる。車の中で助手席に座って、ほふっとしたサツマイモと、ひんやりとしたソフトクリームを、はふんぺろんと食べる。思った通り、おいしい。サツマイモだけでもおいしいし、ソフトクリームだけでもおいしいけれど、両方を同時に口の中で合わせると、なんだろう、ちょっとパフェみたい。

そのあとで、港の近くにある小高い丘の上のホテルの温泉日帰り入浴を利用する。以前は五百円だったのが、今回は六百円になっていた。そして以前は大浴場の入り口を入った広いところにあった「ドクターフィッシュ」の水槽(浴槽)がなくなっていた。「ドクターフィッシュ」は別名「セラピーフィッシュ」ともいい、人間の素足を水の中に沈めると、その魚たちが寄ってきて、足の角質をついばんできれいにしてくれる、というもの。しかし、宿泊施設で多くの人の角質をケアするお仕事は、やはり激務が過ぎたのだろうか。それで、全員、引退なさったのだろうか。以前、この温泉で、ドクターフィッシュにお世話になったときに、人間の足の角質をついばむことは、彼らにとって、食事なのだろうか、それとも仕事なのだろうか、と、思ったけれど、どっちなんだろうなあ。     押し葉

胡椒大臣はゆく

我が家で消費の早い調味料として、すりごまとあらびき黒胡椒に関する記録を行ったところ、あらびき胡椒も使う時にミルで挽いたほうがおいしいですよ、というおすすめ情報をいただいた。五葷など食材に制限のある私にとって、使用可能な食材調味料に関しては、おいしさが深く大きいほうがありがたい。

粒胡椒に関しては、ずいぶん以前に買って、ミルで挽いて使おうとしたのだけれども、そのときには、ミルとのご縁がもうひとつで、粒の黒胡椒を上手に挽けなくて、残念無念のうちにあきらめた。それ以来、粒の胡椒は、スープを煮込む時に使うか、ピクルスの酢を一度煮立てるときに加えるのに使うくらいで、粗挽き黒胡椒は、もっぱら、すでに挽いてあるものの詰め替えを、買っては詰め、買っては詰め、を繰り返していた。

しかし、なにぶん、消費が早いものだから、粗挽き黒胡椒は、しょっちゅう、気がつくとなくなっている。けれど、大きな買い物ではないためか、買い物に出かけても、それを買わねば、という記憶の維持が難しい。その結果、必要なのに、何度も買い忘れて、夫と二人で「しまったー。また買い忘れたー」と、何度つぶやいたことか。買い忘れ大会が終了するまでは、黒胡椒がないから、代わりに白い胡椒を使う。パウダータイプのホワイトペッパー。しかし、あたりまえだけど、ホワイトペッパーとブラックペッパーは、風味が異なるのだ。やはり、黒を使いたい時には黒を、白を使いたいときに白を、使うのがよいような気がする。

そうか、黒も白も、粒を用意して、ちゃんと相性の良いミルを使えば、胡椒に関する買い忘れ大会の開催は激減するのではないだろうか。そういえば、我が家で現在、塩用として使っているミルは、塩用であると同時にスパイス用でもあるのだ。本体部分はガラスで、蓋部分はプラスチック、そして、刃の部分はセラミック。挽き具合を「粗い」から「細かい」の間で微調整できるダイヤルもついている。このミルなら、胡椒の粒も、きっと上手に挽いてくれそう。

よーし。胡椒を求めて大航海には行けなくても、ミルと胡椒を扱っているスーパーになら私でも行ける。歯科検診を終えたその足で、以前、塩用にミルを購入したお店へと向かう。お店では、我が家にあるのと同じミルたちが、売り場で私を待ってくれていた。しかも、以前買った時には、ひとつ千円くらいしたのだけど、お店の感謝祭特別価格で一個八百八十円。これはご縁とタイミングが整っているということなのではないか、と、にんまり。

ミルは先に買うと重いから、あとからもう一度来ることにして、先に胡椒を求める。食品売り場のスパイスコーナーで、黒と白の粒胡椒を、それぞれ一瓶ずつ買う。安い袋入りもあったのだけど、ここは、このたびの、気概と気合を込めて、少し上等な瓶入りを選択。ほんとうは、山椒の実もあれば買うつもりでいたけれど、山椒の扱いは粉末のみだったから、今回は、胡椒のみで撤収。

粒胡椒を入手したところで、ふたたび、ミル売り場へ。塩スパイス用ミルをふたつ手にとってレジでお金を支払う。うっふふっふふー。これで我が家の、胡椒は、今後、いつだって、自由自在。気持ちはスキップ、見た目はふつうに歩きながらお店を出て、車に乗って帰宅する。

その日の夕食でさっそく、新しい胡椒を使ってみる。黒と白を別々のミルに入れて、別々に挽いてみる。ああ、挽きたての爽やかでスパイシーな香りが脳に心地よくしみわたる。白と黒の個性の差も、これまで以上に鮮やかで、単品なら各自の個性が楽しく、両方合わせると、その両方の香りが奏でるハーモニーが私を酔わす。ああ、これは、おいしいねえ、と、うっとりしながら、夕ご飯の目玉焼きを、じっくりと咀嚼する。口の中で噛んでいるときと飲みこむ時まで続く口の奥から鼻に抜ける胡椒の香りが、また爽快。食卓に、塩のミルとともにならべた、黒胡椒のミルと白胡椒のミルが、おそろいなのも、なんだかうれしい。

こうして、我が家の胡椒レベルは、格段に向上した。これまでは、ただの「胡椒使用者」だったけれど、これからはもう「胡椒大臣」と呼んでよいような気がするからそうする。胡椒大臣は、今後、胡椒の品種による風味の差などについても、研究の幅を広げる予定。ゆけ、ゆけ、ぼくらの、胡椒大臣。     押し葉

道場を求めてさすらう修行人

数日前の夜、夫が居間の敷き物の上にうつぶせて、ふうーっと大きな息を吐いて、なにやら「ぐったりなかんじ」を表現していた。どうしたのかな、と思いながら、しばらく見守っていたら、夫は体はうつぶせたままで「もう、世の中では、携帯電話でメールをせんやつは、受け容れてもらえんようになっとるんじゃろうか」とつぶやく。

我が家では、夫婦ともに、携帯電話でのメールのやりとりは行わない。二人とも各自携帯電話は持っている。しかし、携帯電話用のメールアドレスは持っていない。携帯電話でのメール送受信を含むweb接続はまったくしないという前提にしている。メールはPCを用いてのやり取りのみで、なんら不便を感じない。ちなみに、メールアドレス宛てでは携帯からのメールのやりとりはできないけれど、同じ携帯電話会社の携帯電話同士で行う電話番号あての短いメッセージのやりとりは問題なく行える。夫婦間や義母との間で小さなメッセージを送り合う時には、この機能で十二分にことたりる。

それなのに、これまで、携帯電話のメール機能の必要性に関して、なんら言及したことのない夫が、そんなことを言いだすのは、どうしたことなのかしら。携帯メール以前に、ふつうの通話に関してすら、夫の携帯電話は充電が切れたままになっていることがちょくちょくあるから、夫には、携帯電話という道具そのものの必要性が低いのではないか、と、思っていたくらいなのに。そんな夫がわざわざ携帯メールの必要性に触れた発言をするということは、何かよほどの事情なのかな。もしかしたら、会社の仕事で何か、個人の携帯メールアドレスを要求されることでもあったのかしら。いやいや、仕事の出張等で必要な連絡用には、随時会社の携帯電話が貸し出されるから、それはないな、と思いなおす。だとしたら、考えられるのは、夫の個人的な事情か。

夫に「ねえ、もしかして、ネットの囲碁道場の対戦相手の人が、携帯アドレス教えてください、いうて言うてきちゃったん? 携帯メールのやりとりをしてくれる人とだけ対戦したいんです、いうて言うてん?」と尋ねてみる。夫は、すぐさま、むくりと起き上がって「それはないわ」と答える。「それはないけど。それはないけど、よ」と夫は話を続ける。

夫がこれまでずっと囲碁の修行を続けてきたネット上の囲碁道場が、このたび閉鎖されることになった。「みなさまにこれまで以上のサービスを提供するため」という名目で、引き続き囲碁対戦サービスを利用したい人は、「モバゲー」という携帯端末ゲームサービスを利用してね、という連絡付きで。モバゲーのモバはモバイル(携帯)のモバで、ゲーはゲームのゲーなのではないかな、と予想する。そういう事情で、夫がその「モバゲー」の囲碁道場に移行手続きをしようとしたところ、仮登録に「携帯メールアドレス」が必要ということが判明。携帯メールアドレスを入力して仮登録を終えると、そのアドレス宛てに「認証コード」のようなものが送られてきて、その認証コードを本登録画面で入力することで、その道場に入門可能となるシステムなのだそうだ。

夫は携帯アドレスを持っていないから、自分のGmailアドレスを入力してみるなど、それなりに努力はしてみたものの、どうやっても相手は頑なに「携帯アドレスじゃないとダメだよーん」と門を守る。それで夫は「携帯アドレスのない俺は、もう、どこにも相手にしてもらえんのんじゃ」とぐったりとしていたということらしい。

これまで馴染んできて使い慣れた道場がなくなるのは、残念ではあるだろうけれど、他にも無料で利用できるオンライン囲碁道場はいろいろとあることだろうし、そんなにぐったりしなくても、少しさすらって、新しい道場との出会いを求めてみたらどうかしら、と提案する。

夫は、だから、もうすでに、これまでの道場は利用できなくなっているから、今日は、別の道場で対戦してみたのだけれども、「最初に相手をしてくれた人は、むちゃくちゃ強くて話にならんし、次に相手をした人はめちゃくちゃ弱くて話にならんかった」と言う。これまでの道場ならば、だいたいどのくらいのレベルなのかがクラスごとにわかるようになっていて、そんなにひどくレベルが違う人とあたって、ボロボロになることはなかったのに、使い勝手がよくないよう、と、なげく。

いい道場との出会いは、きっとご縁じゃけん、時間をかけて求めんと。それにね、実際のところはよくわからんけど、なんとなく、携帯アドレスを取得して維持するための金額を出せば、有料の使い勝手のいいオンライン道場に入会できるんじゃないかなあ。どうやらくんが、どうしても、その「モバゲー」でのサービスを利用したいというならば、自分で携帯電話会社に手続きして、本登録に必要な期間だけ、一時的に携帯アドレスを取得するのもいいかもしれないけどねえ。

夫は「それは、それで、面倒くさい」と言う。

自分の携帯アドレスを持たないままで、「モバゲー」の登録、どうしてもしたいってことなら、やぎ(妹)にでも頼んでみようか。どうやらくんの囲碁道場仮登録のためだけに、やぎの携帯アドレス貸して、って。それで、モバゲーから認証コードが届いたら、転送して、って。それだけで済めばそれでいいし、その後なんかお知らせが届いたときには、教えてもらうか、放っておいてもらうか。でも、モバゲーっていうのは、モバゲーというくらいだから、モバイル、つまりは携帯端末を携帯してちょくちょく使っているような人をお客さんにしたいんじゃないかなあ。

夫は「そんな、やぎちゃんに頼んだり、いちいち連絡してもらったりするほうが、もっと面倒くさいし、気兼ねじゃん」と言う。それはまあ、そうだろうな。

そういうわけで、夫は、現在、さすらいの道場探し人だ。さすらい人のわりには、一度使ってみて「使い勝手がよくない」と、なげいていた道場に入り浸っているけれど。ここで慣れてゆくもよし、また再びさすらって他に辿り着くもよし。     押し葉

胡椒を求めて大航海

我が家で順調に消費する食材は、あらびき黒胡椒、と、いりごま。いりごまのほうは、すりごま容器に入れておいて、食事の時にいろんなものに、すりりすりりとかける。少し前に、少し上等な、セラミックすりごま容器を購入してみたら、手軽にかつ上手に香り高くておいしい「すり胡麻」が出てくるようになって、至福度向上。あらびき黒胡椒のほうは、すでに挽いてあるものの詰め替え用小袋を買ってきて、専用の容器に入れておき、使う時に振りかけるだけ。

黒胡椒は、市販の一袋あたりの容量が小さいせいもあり、なんとなくずいぶんと頻繁に買い足しているような気がする。夫と食事をしながら、「うちは、胡椒の消費が早いよねえ」と話す。夫が「胡椒はスパイスの王様なんだろうなあ。大航海時代には大航海してでも遠くまで買い付けに行ったくらいだもんなあ」と言う。

「ほんとうにねえ、すごいよねえ。果てしなく遠いところまで、胡椒を求めて旅するなんて、胡椒を食べたい欲望が、船乗りさんや冒険家の人や商いをする人を突き動かしたんだね、きっと」
「みそきちどんさん、何か勘違いしてるみたいだから、一応言っておくけど、船乗りさんや冒険家や商人たちを突き動かしたのは、胡椒を食べたい欲じゃなくて、胡椒を持って帰って売りさばいた結果得られる利益のほうだから」
「え? そうなの? 胡椒好きの人たちが、胡椒を食べ放題に食べたくて、胡椒がたくさんあるところまで行こうと思ったんじゃないの? そこで手に入れた胡椒を、自分たちが思う存分に食べてから、ああ満足したって思って、あとこれくらいは手元に残しておこうと思って、それでもまだ余ったぶんを、市場で売ったんじゃないの?」
「ちがうよ。それは、商いの基本を、何かまちがっとるじゃろ」
「だって、大航海、だよ。命をかけて船酔いしてまで手に入れようとするのは、自分が存分に食べたいものだから、じゃないの? 私は、ずっと、てっきり、そうだとばかり。世界史もそれで理解してたけど、別段問題なかったし」
「よかったね。でも、それ、違うから」

自分が食べ放題に食べたいわけではないのに、船に乗って、遠くまで、難破するかもしれないのに、胡椒を求めて(胡椒だけではないんだろうけど)旅するなんて、船乗りさんや冒険家や商人という人たちは、奇特な人たちだったんだなあ。     押し葉

埋まらない夫婦の溝

八月の終わりごろ、職場の同僚が、家族旅行で、三重県の「ナガシマスパーランド」に行った。同僚と、同僚の夫と、同僚の息子(小学三年生)の三人。三重県は、北陸よりも、ずっとずっと日差しが強くて、まぶしくて、暑くて、同僚は「へとへとになった」と言う。

一泊二日の旅行で、一日目は遊園地三昧。夜は提携ホテルに泊まって、翌日朝ごはんを食べたら、二日目はプール。同僚の夫と息子は、旅行に出発する何日も前から、プールをそれは楽しみにしていて、当日は朝の九時からプールで泳ぎ始める。同僚は、プールも日焼けも苦手だから、最初から泳ぐつもりは全然なく、一人でアウトレットモールで時間を過ごす。

「それなのに、だんなから、携帯に、何回も、電話がかかってくるんですよ。おまえプールにはいつ来るんや? だとか、もうモールで水着は買ったのか? だとか、他の女の人たちは水着の上にティーシャツ着てるから、おまえも大丈夫やって、だとか。だから、最初から、プールには行かないって、旅行前から何回も言ってるのに、水着なんか買う気ないって言ってるのに、他の人が水着にティーシャツ着てるからって、何が大丈夫なのか、わけわかりません」
「ああ、それは、だんなさん、きっと、家族三人そろって、プールを愉しみたかったんじゃないでしょうか」
「家族三人そろっては、遊園地とホテルで、もういいのに。なんで、あんなに、私が何回も同じことを言ってるのに、だんなはわかってくれないんでしょうか。私はインドア派だって、結婚する前からずーっと言ってて、インドアでゆっくりと過ごしたいって、何度も何度も言ってるのに、だんなはもともとアウトドア派で、おまえは外で体力づくりしないから、そんなインドアが好きとか言うんや、外で体力つけたら、アウトドアが好きになるはずや、って、もう、本当にわけわかんないことばっかり言うんです」
「大丈夫ですよ。安心してください。うちの夫も、何度も何度も私に、なあ、一回はUSJ(ユニバーサルスタジオジャパン)行きたいよなあ? って言いますから。私が何度も繰り返し、私はUSJには興味ないからねー、行きたくないよー、って言ってるのに、未だに年に二回くらいはおんなじこと言います。USJができてから、毎年毎年、ずっと同じこと言ってて、この人私の言うことちゃんと聞いてないのかな、って思うけど、むこうはむこうで、いい加減気が変わって行きたくなるんじゃないか、と思ってるみたいで。うちが今年結婚十七年目なんですけど、この夫婦の溝は全然埋まる気配なくて、けっこうしっかりと固定してるんですよ。まだ結婚十年くらいでしょ? そんな十年くらいじゃ、夫婦の溝は埋まりませんって。インドア派とアウトドア派の溝はもしかすると一生埋まらないかもしれないな、って、心底安心してたらいいですよ」
「いーやーでーすー。でも、どうやら先生のとこもそうなんですか? なんで夫は妻の話をちゃんと聞かないんでしょう」
「それは向こうも同じこと思ってると思いますよ。俺はアウトドア派やって、結婚前から言うてるやろ。いい加減おぼえて、少しはこっちに合わせたらいいのに、何回言っても、人の言うこと聞けへんやつやなあ、って。ね。夫婦の溝、ばっちり、でしょ?」
「うわー、ますます、いやー」
「でも、ほら、そこに溝があるって、普段から思っていたら、そこに溝があることは、大前提として、その溝が明るみに出てくるたびに、はいはい、いつもの溝ね、どんとこいだわ、ということにできて、ときどき溝が出現しても、その溝を、こう、そうっと、のぞいて見て、わあ、いつ見ても立派な溝だわー、って、笑ってすませられたりしますよ」
「いやです。無理です」
「まあ、夫婦には、それくらいの、わかり合おうという意気込みも必要ですよね。がんばれー」
「うわーん。なんかいろいろ、いやー」

そして、ナガシマスパーランドのプールで、朝九時から午後三時まで泳ぎ続けた同僚の夫と息子は、プールからあがって、三時過ぎにモールにやってくる。息子が「おかあさん、ぼく、なんか気持ちわるい」と言うから、「どうしたん? お昼に何食べた?」と訊くと、「お昼食べてない」と答える。男子二人は、昼食のことも忘れて、プールに熱中していたらしい。同僚は夫に「大人なんだから、子どものお昼ご飯の世話くらい、ちゃんとしてよー」と苦言を呈する。同僚の夫は「俺も食ってないのに。おまえが来んからやないか」と、理由にならない理由を述べる。モールのレストランで遅いお昼ご飯を夫と息子が食べるのを、そして空腹がおさまるにつれて顔色がよくなる息子を、いろんな思いを巡らせながら見守る同僚。

「だんなとは、結婚前から合わせると、全部で三回、ナガシマスパーランドに行ってるんですけど、行くたびに、だんなと私の違いを痛感する、というか」
「夫婦は基本他人ですからねえ。その忘れちゃならない初心を毎回思い出させてくれるナガシマスパーランドは、ある意味、かなりいい仕事をする縁結びの場所なのかも」
「なんかやっぱり、いろいろ、いやー」
「でも、ほら、いやがっても仕方のないことは、腹をくくって引き受けた者勝ち、だったりしますよ」
「いやいやいやいやー」

夫婦の溝は、埋めようとすると、その存在が気になりやすいかもしれないけれど、その溝を、自らさらに掘り進めてみようかな、と、ショベルカーを操縦するくらいの気概を持って臨んでみると、意外となかなか思うほどには、それ以上深くはならない。     押し葉

がんばるおじさん

十代の最後か二十代になって間もない頃かに、テレビを見ていたら、各地の「がんばるおじさん」たちにインタビューする番組が放映されていた。その日取り上げられていた地域は、同級生の友人の故郷の住所と同じで(その頃私たちは各自の故郷から離れた地域の大学に集っていた)、その「がんばるおじさん」の名前が、友人と同じ名字であることに気づく。その友人の名字はたいへんに珍しくて、その名字を持つ人を、私は、彼女の家族親族以外に知らない。その友人が以前見せてくれたことがあるような記憶の中の家族写真のお父さんに、その「がんばるおじさん」はなんとなく似ている気もする。

後日、学校で、その友人に会ったときに「ねえねえ。このまえ、テレビに出とっちゃったの、お父さん?」と話しかけると、友人は「えええええっ。どうしようっ。うちのお父さん、何で、何で捕まったん?」と真顔で訊いてくる。私の方が驚いて「ちがうよ、ちがうよ。がんばるおじさんとしてインタビューを受けようちゃったんよ。地域で活躍しようてん人を取り上げる番組じゃったんよ」と言うと、友人は「あああああ。よかったあ。うちのお父さん、何しでかすかわからんけん」と、ほんとうに大きく胸をなでおろす。

後日、その友人が「みそさん。ほんとじゃった。うちのお父さん、テレビの取材受けたんだって。みそさんが見たって言っとったのが、その日だったらしいわ。よかった。お父さんが捕まってなくて。お母さんも、大丈夫よ、お父さん捕まってないよ、って電話で言いようたけん、ほんとうに大丈夫と思う」と、確認事項を教えてくれる。

ある種の、地域や町の名士的な存在として活躍を成す人というのは、どこか「何をしでかすかわからない」ような部分が、その活動と活躍の原動力になっているものなのかもしれないなあ、と、乙女心に、あのときに、ちょびっと小さく、確信した。


本日の広島弁講座。
「何何しとっちゃった」「何何しようちゃった」は、両方とも「何何していらっしゃった」を表す敬語表現である。「しとっちゃった」のほうは過去完了の意味合いがやや強く、「しようちゃった」のほうは過去進行のイメージを伴う、か。
現在形で敬意を表す場合は、「何何しとって」「何何しようて」と言い、動詞の活用の後に「て」をつけることで敬語とし、「何何していらっしゃる」の意味を持たせる。ただし、同じ「何何しとって」「何何しようて」でも、敬語ではなく、自分が「何何していて」と理由やいきさつを表す場合もあるが、それは登場人物の格や前後の文脈で判断する。
敬語の「て」の前の部分の「しとる」「しようる」は、敬語ではない一般表現として自分や目下の人や親しい人の行動を表す場合に用いる。「しとる」「しようる」どちらとも現在進行のようではあるものの、「しとる」のほうは広義の「何何している」であり、対象として捉える時制の期間がやや広く長めな場合が若干多いだろうか。一方「しようる」のほうは、「何何している」という意味を表現しつつも「今まさに何かをしつつある」ことの躍動感や刻一刻と変化する様子を伴ったイメージを想起させる面がある、か。
関西地方で用いる「何何してはる」の「はる」によって、広く、場合によっては浅く、敬意を表現する言語文化に比べると、広島弁における「しとっちゃった」「しようちゃった」「しとって」「しようて」は敬語としての厳格性が高く、目上の人(身内ではない場合が多い)の行動に限定して用いる。     押し葉

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Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

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