みそ文

「滝の修行」の予定

今日の校正。「パラダイス孔雀」

上記記事中、妹は、そういえば、ずいぶんと気持ちよさそうに、打たせ湯に打たれていたけれど、私は個人的には、打たせ湯よりも、水中(お湯の中)のジェットバスのジェット水流の水圧でコリをほぐしてもらうほうが好きだ。ジェットバスのほうが、たぶん、湯しぶきの飛び散りを気にしなくていいのが、私の好みに合っているのだと思う。飛び散りを気にするのは、打たせ湯の湯しぶきの形を気にしているのではなくて、しぶきが顔にかかったりするのがなんとなく気になる、というか、ちょっと快適が下がるという意味。ジェットバスは背中(肩甲骨あたり)と腰と足の裏を同時にしてもらうのが一番好きだけど、そのすべての条件を満たすジェットバスを持つ施設との出会いは少ない。背中腰足裏の三点ジェットバス付き湯船と、横になれるサウナ(これはさらになかなかない)と、露天風呂と、使い勝手のよい洗い場とが、すべてちゃんとそろっていて、私が行くときにはいつも必ず空いていて、でもそれなりに繁盛していて存続に安心感のある、そんなお風呂屋さんが近所にできたら、通う。

ところで私は、湯しぶきだけではなくて、水しぶきに関しても、別段得意というわけでも好みというわけでもない。ゆえに、これまでの人生でも、今後残りの人生でも、「滝の修行」の経験と予定はない。     押し葉

岩盤サウナと「おれ」と「ぼく」

今日の校正。「パラダイスサウナ」

岩盤浴なら二時間近く平気で入っていられる(間に外に出て休憩はとるけれど)私が、サウナには五分も入っていられないのは、体を横にできないからだと思う。熱いところで体を起こしているのは、けっこうエネルギーの要ることなのだ。

ところで、そういえば、小さい頃は自分のことを「ぼく」と言っていた甥っ子は、いつのころからか自分のことを「おれ」と言うようになったなあ。
夫は私や義実家メンバーに対しては「おれ」と言っている気がするけれど、私の実家の両親に対しては「ぼく」と言っている気がする。
「おれ」よりも「ぼく」のほうが、少し丁寧で謙譲効果のある一人称ということなのかな。     押し葉

久しぶりの校正

久しぶりの校正。「さんさい」

    押し葉

ぼくのわたしの豆ご飯

豆ご飯記事を書いたら、「うちの父も」「うちの父も」「うちの父も」豆ご飯が苦手、だという情報が寄せられた。その共通項は「父」であり、なるほど、だから、未父の夫や、あの人やあの人は、男子だけど豆ご飯が好きなんだわ、男子は父になると、豆が苦手になるんだわ、と、確信しそうになっていた。いや、今は謙虚に「確信しそう」と書いたけれど、実際は、ほぼ、確信に至っていた。

しかし、私が、確信の拳を握り締めて、「男子は父になると豆ご飯が苦手になる説」を振りかざそうとしたそのときに、一通のメールが舞い込む。そのメールの内容によれば、その女性は、幼少の頃より、あまり豆ご飯が好きではないとのこと。まずここで、「おお! 女性にも豆ご飯苦手な人がいるのか」と、自分の目の鱗を、いったん一枚はがす。続いて、幼い頃に、「父が豆ご飯大好き」という理由で、お母様が頻繁に豆ご飯を作成され、そのたびに、「豆ご飯あまり好きじゃないんだよなあ」と思いつつ、豆をよけてご飯だけを、もすもすと食べて大きくなったと語られる。現在は、「夫が豆ご飯大好き」という理由で、自ら豆ご飯を炊き、「でもやっぱりあんまり好きじゃないんだよなあ」と思いつつ、夫(二人の娘の父)に付き合ってそれなりに食べているらしい。ということは、父であっても、豆ご飯が好きな男子がいるということではないか。私の確信の拳は、しゅるしゅるとなりを潜める。

そのメールの主によれば、「豆はご飯に混ぜて炊くと、青臭くなるから苦手」とのこと。しかし彼女は、「鯖寿司は毎日でも食べたい」ほどの鯖寿司好き。しめ鯖もしめ鯖なりに青臭い(青魚特有の生もの臭がある)と思うのだけれど、豆の青臭さというのは、植物特有の細胞臭、ということなのだろうな、と思う。

ちなみに私は、豆ご飯は物心ついたときから変わることなく好んでおり、鯖寿司やしめ鯖はずっと苦手だったのが、ずいぶん大人になってあるときからふとおいしいと感じるようになった。けれど、現在両方好物であるとはいえ、豆ご飯のときは豆ご飯に集中したいし、鯖寿司の時には鯖寿司に集中して取り組みたい。鯖寿司と豆ご飯を同時に食するということは、何かよほどの理由がない限りは、控えたままで生きてゆきたい。     押し葉

ワールドカップの仕事

職場のバックヤードから売り場作成の道具を持って扉を開けて出てきたら、ちょうど扉の正面にあるテーピングテープのコーナーにいる少年が振り向いて私を見る。少年の年のころは、やや大柄な小学二年生くらいだろうか、それとも小学五年生くらいというところだろうか。私はどのお客様に対してもいつもそうしているように、「いらっしゃいませ、こんにちは」と声をかける。すると少年は、「あんな、ぼくな、大きくなったらな、サッカー選手になる」と言う。

「そうですか。それは、がんばって大きくならないと、ですね」
「うん。大きくなって、ぜったい、プロのサッカー選手になる。こんどな、うちでな、サッカーボール買ってもらえる」
「わあ、それは、たのしみですね。練習もいっぱいできますね」
「うん。練習いっぱいして、大きくなって、サッカー選手になって、ワールドカップに出る」
「そうなんだあ。じゃあ、ほんとうに、ごはんをちゃんと食べて、しっかり寝て、たくさん練習して、体の手入れもして、がんばらないと、ですね」
「うん。がんばる。今日の夜、テレビでワールドカップ見る。日本の試合見る」
「ああ、そういえば」
「日本とオランダの試合見る。すっげえ応援する」
「じゃあ、すっごい応援に備えて、夕ご飯しっかり食べなくちゃ」
「うん!」

一薬剤師の立場では、少年のサッカー選手としての適性は、まったくわからないけれども、少なくとも、見知らぬ店員(私)に向かって、サッカーへの熱い思いを、つい語ってしまうくらいに、少年の気持ちを高揚させているワールドカップ南アフリカ大会は、そして、日本代表選手たちと関係者とこの世のサッカーにかかわる全ての人たちは、それぞれの立場において、極上の仕事をしている、ということなのだろうなあ。     押し葉

一族の豆ご飯

私の特徴のひとつとして、特筆すべきものをあげるときに、「豆ご飯をこよなく愛している」という一点は外せない。豆全般が好きではある。豆料理各種全般を好む傾向はある。しかし、中でも、ご飯と一緒に炊き上げたグリンピースや空豆は、豆だけで食べるときとはまた異なるおいしさがあり、白米とともに咀嚼することで得られる快楽をまとっているぶん、存在感が特別だ。

普段の私は、それほど大量の白米は食べない。食べられない、というほうが正しいかもしれない。発芽玄米や雑穀を混ぜて炊くと私好みになり、白米だけのときよりは、たのしく多く食べられるようになるけれど、それでも普段はせいぜいがんばって半合、これから仕事で力仕事を張り切るぞ、というときで一合弱(ただし食後少し気持ちがわるくなる)。けれど、それが、豆ご飯なら、一合は平気、頑張れば二合もいける、制止がなければ三合いっきに食べられるかもしれない。実際は二合前後の峠あたりで、家族からの制止が入るから、三合制覇を成し遂げたことはないのだけれども、豆ご飯はそれほどに、私の「適切な食事量」に関する「たが」をあっけなく外す。我が家では、夫婦ともに、豆ご飯を愛している。夫は私のように「たが」が外れることはないけれど、「おいしいなあ」と言いながら、ぱくぱくと食べる。同じものを一緒に「おいしいね」と言い合いながら食べる食事は、さらにおいしさが高まる。

私が子どもの頃には、私が豆ご飯だと大喜びをするから、母は定期的に豆ご飯を炊いてくれていた。祖母も豆ご飯は好物で、豆ご飯の日は、「おお! 豆ご飯じゃ。それじゃあ、お酒を一杯飲もうかのう」と、うれしそうに言う。祖母にとって好物のものや、祖母にとってお酒と相性がよいと認定されているもののときに、祖母はお猪口に一杯の日本酒をおいしそうに口にする。

豆ご飯はおいしいなあ、と、耽溺気味に食べながら、ふと、そういえば、母が豆ご飯を炊いてくれるのは、父が外食の時が多かったり、父がいるときには、なぜか別に白いご飯が炊いてあったりするなあ、と気づいて、母に、「とうちゃんは、豆ご飯が好きじゃないん?」と訊いてみた。すると、母は、「そうなんよ。苦手なんじゃって。それならそうと、最初に豆ご飯を炊いたときに、そう言うてくれればいいのにねえ。結婚してから、もう何回豆ご飯を炊いたかわからんくらい何回も炊いた頃になって、突然、おまえは嫌がらせをしようるんか、いうて言うんじゃけん。なんのことかと思ったら、豆ご飯は好きじゃないのに、何回も作って食べさせる、って。苦手なら苦手で、食べんとか、残すとかでもしてくれりゃあ、それもわかるけど、何も言わずに全部食べて、ごちそうさま、いうて言うけんねえ、豆ご飯もそれなりにおいしいんじゃね、と思うとったよ。けど、まあ、苦手なのがわかったんじゃったら、無理に食べんでもいいけんね、とうちゃんには豆ご飯は作らんのんよ」と説明してくれた。

すると、祖母が、「ありゃあ。おじいちゃんと同じじゃが。おじいちゃんもわしと結婚してから、ずうっと黙って豆ご飯食べようたのに、だいぶん経ってから、おまえはわしに嫌がらせをしょうるんか、いうて突然言うけん、なんのことか思うたら、豆ご飯は食べとうない、いうて。食べとうないなら、最初にそう言やあええのにねえ。おとうちゃん(私の父)も、へんなところで、おじいちゃん(私の祖父。父の父)に似たもんじゃ」と、おかしそうに笑いながら言う。

祖母と母は、それぞれ、各自の夫とともに、豆ご飯のおいしさを喜び合うことはできなかったかもしれないけれど、祖母と母が果たせなかった(というほど大袈裟なものではないけれど)思いは、私が今生で成就したから、一族の遺伝子たちは、安心するとよいと思う。豆ご飯が好きな人は食べ、豆ご飯が苦手な人は苦手であることを早期に表明し、自分の妻に「嫌がらせ」の嫌疑をかけたりする被害妄想は手放して、安らかな食生活を営むのがいいと思うよ。     押し葉

りららちゃんの指先

職場の同僚の一人は、五十歳前後の女性で、数年前に女児のお孫さんが生まれた。その後数週間にわたって、その同僚は、生まれたばかりのお孫さんの写真を数枚制服のポケットにしのばせ、仕事が忙しくないときには、同僚たちや取引先の人たちに、「見てもらってもいいですか」と、おずおずと取り出しては見せ、トイレから出てきて手を洗い、紙タオルで手を拭いたあとにも、ポケットから写真を出して眺めては、にこにことにやにやとしていた。そんな同僚の姿は、なんだかとてもかわいらしくて、彼女の姿を見るたびに、私もにこにこにやにやしていた。当時新生児だったお孫さんの名は、りららちゃん、という。りららちゃんは、その後数年の間に、すくすくと成長し、今では、立派な保育園児になっている。

先日、夕方に、休憩室で、別の同僚といっしょに休憩をとっていたら、りららちゃんの祖母である同僚が仕事を終えて帰りぎわに、売り場で売り物にならなくなった商品を休憩室用備品として使ってください、と、休憩室に持ってきてくれた。私と一緒に休憩をとっていた同僚が、「あ、昨日、夕方、りららちゃんとお嫁さんと息子さん、お店に来てくれてたよ」と話すと、りららちゃんの祖母である同僚は、「そうなんやあ。私は昨日休みで家にいたけど、りらら、ここに来たって言ってたわ。でも、あの子、人見知り大丈夫やった?」と心配そうに聞き返す。

「りららちゃん、最初は、お嫁さんの後ろに隠れて固まっとったよ」
「あああああ。やっぱりー。もうねえ。人見知りが激しくて、どうしたものかと思ってるんやけど」
「でもね、私が、りららちゃん、ばーば(りららちゃんの祖母)は? って訊いたら、ばーばはおうち、って言って、ちょっと前に出てきて、消臭剤のにおい見本に興味があるみたいやったから、りららちゃんも匂いかいでみるか? って、棚から見本を外して、ここを指の先っちょですりすりしてにおってみね、ってやって見せてあげたら、おんなじようにすりすりして、指を自分の鼻に持って行って、わあいいにおい、って、嬉しそうにしてたよ」
「ああ。そういうことやったんや。昨日の夜、りららが、ばーば、りららのゆびいいにおいよ、って、何回も何回も私の鼻にりららの指を持ってきては、すこやか堂(私たちの職場の名前)に行った、って言うから、そうかそうか、とは言ってやったけど、指のにおいとお店のにおい見本との関連まではわからんかったわあ。あの子、お店でよくしてもらって嬉しかったことが言いたかったんやねえ。そうやったんやあ。ありがとう」
「りららちゃん、ずいぶんしっかりしゃべるようになったよねえ。この前まで、なんかもっと、赤ちゃんな気がしてたのに、すっかりおねえちゃんになってたわあ」
「もう少ししたら、本当にお姉ちゃんになるし(弟が生まれてくる予定)、本人も、ずいぶん、お姉ちゃんになる気合は入ってるみたいなんやけど、まだ、もうちょっと、会話に、通訳が要るときが多いなあ」
「まあ、ぼちぼちいきねってー。人見知りも大丈夫やって。昨日もりららちゃん最後には、ちゃんとお辞儀して、ありがとう、って言ってたし、帰るときも、ばいばい、ってしてたし」
「そうかあ。それなら、まあ、いいかあ、いいよねえ。いいことにする。じゃ。お先に。お疲れ様でした」
「お疲れ様でしたー」

りららちゃんの祖母である同僚には、りららちゃんが弟くんを抱っこしている写真などを、リクエストしてみようと思う。


*「におってみね」=「におってごらん」。「ぼちぼちいきねってー」=「ぼちぼちいきなさいよ」「ぼちぼちいきなさいってば」。上記文中にはないが、「はやくしね」「はよしね」=「早くしなさい(急ぎなさい)」。「ね」のあとに「ってー」が続くときは、前の動詞を促す気持ちをより強調して表すとき。     押し葉

顔面と頭皮の確定

私は、人物の顔や名前を記憶したり再現したりすることがあまり得意ではない。過去も現在も変わることなく得意でないその有様には、ある種安定感の高さがあるとすら言えるかもしれない。人物顔面形状の見分けが難しい私にとって、形状以上の印象情報、たとえば、「やさしそう」だとか「気が利きそう」だとか「人がよさそう」というレベルの話になると、顔面形状のどの部分を根拠にどのように推測してそういう予想がなされるのか、「教えを請う! たのもう! ドドドドドドドド」と、入門のための門を拳で強く叩きたい気分になる。

それが、少し前に、夫と話をしていて、突如気がついたのだけれども、「やさしそう」や「気が利きそう」や「人がよさそう」などについては皆目見当がつかなくても、「頭皮がやわらかそう」かどうかは、上手に予想ができるようなのだ。頭皮がやわらかそう、というのは、髪の毛が生えている地肌の部分をマッサージするときに地肌が柔軟に前後斜め左右に動くかどうか、ということで、この可動域が大きく動きに柔軟性が高い頭は、髪の毛が薄くなりにくいのと同時に、やや剛毛傾向にある。そして実際触らせてもらうことが可能な場合に確認してみると、私が「頭皮がやわからそう」と予想した人はちゃんと頭皮が柔らかくて、「頭皮かたそう」と思った人はそのとおりなのだ。

「どうやらくん! すごいよ、私。人の顔の見分けはつきにくいし、やさしそうも、気が利きそうも、人がよさそうも、全然わからないけども、頭皮が柔らかそうかどうかは、かなりの確率で確定できるよ!」
「よかったね(この上ない棒読み)」

夫の返答に躍動感がないのが少々残念ではある。と、ここまで書いて突如ひらめいたのだが、「やさしそう」という言葉は、「恋愛感情ではないけれど、好意に似た肯定感をおぼえていますよ」という意味を示しているのではないだろうか。誰かが「やさしそう」かどうかはわからなくても、「やさしそう」という言葉を用いる人の心情を紐解くことはできそうな気がする。その心情の真意を、私にとって明らかな表現に置き換えることができたら、会話時の、私の中の、「皆目見当がつかなくて入門の戸を叩く気分」が、「その表現の意味なら、わたくし既に知っていてよ。なんなら教えてさしあげてもよろしくてよ。おほほ」な気分に変身するかもしれない。     押し葉

「君しかいない!」今宵に

「だけ」「のみ」「しか」という語彙そのものよりも、そのあとに続く言い回しが、肯定的なものであるか、否定的なものであるかによって、人の心身のすこやかさに影響を与えるものが異なってくるのではないだろうか、というあたりまで、現在辿り着いている。

同じことを行ったときに、例えばそれを行った自分を、「これだけしかできなかった(自分ってなんかだめなのかも)」と捉えるか、「これだけできた(やったー。がんばったー)」と捉えるか。同じ「だけ」が入っていても、「できなかった」と捉えるか、「できた」と捉えるかでは、同じ出来事の見え方が違ってくるような気さえする。

何かを上手にたくさん行う過程において、「できなかった→くやしい→がんばる→できるようになる」という流れと、「できた→うれしい→もっとできるようになりたい→がんばる→できるようになる→うれしい」の流れがあるとする。両方ともありえる流れであるし、必要な流れであるけれど、「うれしい」のほうは、より循環性が高いような気がする。「できた」「うれしい」の循環エネルギーを意図的に狙って、場合によっては、自分が行うことはすべて、とりあえず、「できた」「うれしい」の型にはめてみるのもひとつの手かもしれない。

拍手コメントをくださった方が例として書いてくださっていて、なるほどなあ、と思ったのが、「君しかいない!」についての取り扱い方。恋愛や婚姻を含むパートナーシップ形成場面等において、「君しかいない!」という台詞が出てきた場合、実際には、相互の関係性や文脈で、その背景や根拠を把握できるだろうけれど、「君しかいない」真の理由が、「どこをどないして探しても他に選択肢も候補もないねん。選ぼうにも選ばれへんねん。選択肢が、君、だけしかいてないねん。ほんまに仕方ないねん。かなんわ」というものなのか、「君が誰よりも魅力的で適任だから」というものなのか、かんぐっても仕方ないときにはもう、「そっかー。わたしが一番いいのねー。おっけー」という自動思考が働く脳みそにしておくほうが、機嫌よく生きやすかろう、というもの。どちらにしても、そのメンバーでパートナーシップを形成してなんらかの任務を遂行するのであれば、勘繰り合って不信感満載でやっていくよりも、機嫌よく「よーし、パートナーも任務も、がんばろー」と思いながらやっていくほうが、より円滑に運ぶというものであろう。

今宵は、「できた」「うれしい」「君しかいない!」を就寝前の睡眠学習として実践してみようかと思う。「できた」「うれしい」は、自分がやりたいヨガのポーズをして、体液や気が、ぐぐぐぐーん、と流れるとすぐにその循環が形成されるだろうけれど、二人家族において、「君しかいない!」を用いる場面は、いったい何があるだろう。私が鼻を寄せて夫の耳のにおい(好き)をくんくんと嗅ぐ→夫嫌がって逃げようとする→「耳のにおいをかがせてもらえるのはどうやらくんしかいないんだから! 好きなだけかがせてよ」と説得する→「俺は別にかいでほしくないー。できればかがないでほしいー。みそきちの鼻息が耳の穴に入ってきて気持ち悪くて怖いー」と訴える、という流れも、「君しかいない!」に含まれるだろうか。     押し葉

だけのみしか考

前記事の続編の考察。

「だけ」「のみ」「しか」を用いる場面の例として、自分が何かをしたこと、あるいはしていないこと、を強調して、相手に正しい認識を促したい場合があるように思う。

「おうおう。てめえが犯人だっていう調べはあがってるんだ。あの日のあの時間にあそこにいたのを見てる人がたっくさんいるんだ。さっさと白状しちまいな」
「ちがうんです。本当に私じゃありません。私は、ただ、ああ、きれいな反物がたくさんあるなあ、と、通りすがりに見惚れていただけで、盗ったりなんてしていません」
「じゃあ、なにかい? あんたがしたのは、ウィンドウショッピングのみ、ってことかい?」
「そうです。そのとおりです」
「じゃあ、なんでまた、ウィンドウショッピングしかしてないあんたが、犯人と間違われるようなことになるんだい?」
「私だって、そんなことわかりませんよ。あ、でも、もしかしたら」

というような流れの場合の「だけ」「のみ」「しか」は、事実の強調であり、それに含まれる心情は「正しい認識の要求および確認」であって、謙遜や、自己過小評価や、意欲や向上心の存在の披露や、自分や誰かに対する責め心とは、あまり関係がないようである。     押し葉

表現に包含される心情

少し深く掘り下げて考えてみたいことの覚え書き。なんとなく似ているけれど、ほんとうはたぶんちがうもの。

謙遜の文化習慣の中に身をおくことと、自分(や誰か)を過小評価する思考や言葉のくせ。
意欲や向上心を携えることと、自分(や誰か)がすることやしたことに「だけ」「のみ」「しか」を添付して、行ったことよりも行わなかったことを強調すること。ほんとうはもっとあれもこれもしたいのに(してほしいのに)できていない、あるいは、ほんとうはもっと多くのことができるはずなのにしないでいるできないでいる、という心情は、うっかりすると、容易に、自分や他人に対する「責め心」に変容するのではないだろうか。「なんでできないんだ」「なんでしないんだ」というような。「しないことやできないことは劣っていることだ」というような。そして、その「責め心」は、そのベクトルが自分に向かっているものであれ、他人に向かっているものであれ、人の心身のすこやかさを蝕む力や回復を阻む力を持つことがあるのではないだろうか。

個人の行動や体験の事実の列挙や記述において、「だけ」「のみ」「しか」の添付が必要な場面があるとしたら、どういう場面なのだろう。商業におけるサービス期間等の条件提示場面では、「何月何日から何月何日の何日間のみのご提供です」という言い回しが必要なことはあるだろうし、個人の事情においても、「いつからいつまでしかいられないから、その間に会いたいなあ」「あとこれだけなら食べられる」というような「可能な条件」を説明するときには便利な言い回しだ。

条件提示以外の場面で、個人の行動について、「のみ」「だけ」「しか」を添付した表現に包含される心情は、「自分は(誰かは)ほんとうはもっとたくさんのことが上手に円滑にできるけれど、今日のところはとりあえず、これくらいでゆるしといたるわ」というものであるということにして、しばらくいろんなものを見聞きして様子を観察することにする。     押し葉

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どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

ときどき、思い出したように、いただいたメッセージへのお礼やお返事をリンク先の「みそ語り」に書いています。よろしければ、いつでも、どうぞ、どなたでも、ご覧ください。「みそ語り」では、メッセージをくださった方のお名前は書いておりませんので、内容から、これは自分宛かしら、と推理推察しながら読んでいただければうれしいです。手の形の拍手ボタンからメッセージをくださる場合は五百文字以内、文字の方の押し葉ボタンからメッセージをくださる場合は千文字以内となっております。文字数制限なくお便りくださる場合には、下のメールフォームをご利用ください。

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