みそ文

秋におもう

月を浴びる」:この星を選んで生まれてきた。
洗濯の鬼」:私自身もけっこう洗濯の鬼。
おとなもこどもも」:私の座右の銘。
種なしぶどう」:ひいばあちゃんの好物、だったのだろうか。     押し葉

励む日々

過去記事校正活動に、それなりに励む日々。日記内リンクした過去記事を、気概と根性豊かに、読んでくださる方々の存在に、おおいに励まされ、ありがたい。

本日の校正済み記事は、下記の三点。

まつげ」:近視矯正手術時に、まつげは抜きません。
ぶゆうでん」:妹夫婦が新婚さんだったころ。
麩まんじゅう」:祖母に買ったお土産。     押し葉

本日のおすすめ

昨日校正した日記のうち、「しずかに」は、今でも、自分の夫に対して、心底がっくりとした気持ちが、なんとも鮮明に蘇ってくるのだなあ、と、自分でも感心しながら読み返した。

本日の校正は、下記の三本。

嬉しい飴」:私の職場の小さなお客様ネタがお好きな方におすすめ。
」:みそ文には数少ない詩形式。
魔法と智慧」:この記憶を思い出すたびに涙が出て止まらなかったのが、この日記として書き出して以来、まったく涙することなく落ち着いて思い出せるようになった。     押し葉

製本への道

「みそ文」を読んでくれているおじやおばたち(母の兄や姉妹たち)が、「みそ文を本にしたらいいのに」と言ってくれるから、と、母が「お金は私が出すから、ブログを本にするには、何をどうしたらいいのか、いくらくらいかかるのか、調べてみてほしんだけど。で、手続きもしてほしい。きょうだいたちに配りたいから」と言う。これまでは、母がPC画面をプリンターで印刷したものを、一か月分ずつまとめては、母のきょうだいたちに郵送してくれていた。姪っ子(私)に甘いおじやおばたちは、そのたびに、「おもしろい! おもしろい!」と、母に伝えてきてくれる。それに気をよくした母がまた、翌月分も送りつける、という繰り返しであった。

たしかに、コピー用紙をクリップやステープラー(ホチキス)で留めたものを、一枚ずつ、べろりんべろりん、と、めくって読むよりは、本の形になっているもののほうが、ずいぶん読みやすいことだろう。製本かあ。どんなものなんだろうなあ。たしか、FC2ブログサービスのひとつとして「書籍化」というものが、あったような気がするなあ、と、それらしきページを訪ねてみる。その結果、過去ログ全てを一冊にまとめるには、少し量が多すぎるため、二冊に分ける必要がありそうであることと、一冊あたり3000円から5000円程度の代金が必要となるらしい、ということが判明した。

そうなのか。その値段が高いのか安いのかは、よくわからないのだけれども、どんなものなのだろうか、と、ブログ書籍化経験者の方に教えを請うてみたところ、その値段は適正相場価格であるらしいというところに辿り着いた。あとは、本人が、何にこだわってどう製本したいのか、によって、製本会社その他、選ぶべきものを選ぶ、というものであるようだ。そして、これは、至極当然のことなのだけれど、製本費用は、あくまでも、製本にかかる費用であって、本の内容となる文章等に対する報酬ではない。製本にかかる材料費や、細かい製本作業にかかる労力コストエネルギーを考えてみれば、それくらいはかかるだろう金額で、けっして高いわけではないように思える。けれど、これまで、そのための出費について、想定したことがなかった。たぶんそのせいで、なんとなく、予想外の臨時出費であるような気がしてしまうのかもしれない。

とはいえ、母が「お金は私が出すけん」と、言ってくれていることだし、製本申し込み作業くらい、親孝行の一部として、十分に実行可能だ。実際の製本作業は、製本屋さんがしてくれるから、私がすることといえば、「ここからここの範囲の記事を」「こういう文字の大きさと字体で」「こういう条件で編集して」「こういうデザインで」「製本して送ってください」と、PC上で指定して、申し込み作業を行うだけだ。もちろん支払い作業も行う。

しかし、それだけ、だとはいえ、やはり製本するのであれば、できることならば、過去記事の誤字脱字段落改行のチェックをしてからにしたいなあ、と、私の中の数多くはない「志」がうずく。それならば、年内いっぱいかけて少しずつ、過去記事の校正作業に勤しんで、来年になってから、製本の申し込みをすることにしよう。

そういうわけで、過去記事を、少しずつ校正してゆくのだけれど、一人で校正して、自分だけが読んで、保存して、とするよりは、校正したものを今一度公開してみることで、私自身の緊張感やチェックの眼力が高くなるかもしれないし、あわよくば、どなたかが、ここにもこんなまちがいがあるよ、と、お知らせくださるかもしれない。そういう効果を狙って、少しずつ校正したものを、日記内リンクの形でアップしていってみようと思う。

これまで、みそ文の過去ログを、わざわざ遡って見に行くのは、あまりにも手間で、なかなかしなかったけれども、トップ画面からクリックひとつで見にいけるなら、読んでやるのもやぶさかではないよ、と思ってくださる方は、どうぞ、ご覧くださいませ。別に話の内容が変わるわけじゃないんじゃろ、それなら別に読まなくていい、と思われる方(古くからずっと読んでくださりありがとうございます)は、ぜひそのまま人生前向きに歩んでいってくださいますように。句読点の打ち方などに統一性や一貫性がないのは、書き手本人の、人生に対する迷いの現われに相違ない。人生の迷いは大いに結構だけれども、これじゃ意味がおかしくなるよ、というような、あまりにも目に余る部分については、極力訂正してゆきたい。「製本への道シリーズ」としてアップするか、その都度タイトルを変えるかどうかについては、まだ、考え中。どちらであっても、おおらかに、鷹揚に、読んだり読まなかったりしつつ見守っていただければ、たいへんうれしゅうございます。

では、本日は、下記の過去記事へ。気概と根性のある方は、どうぞお進みください。そして、後日も続々と、また、校正済み記事掲載が続く予定を、どんとこい!と受け止めてくださる方の存在に期待しつつ。

ぜんりょく
ぐらぐら
かんちょう
十人並み
ごあんない
ドライイースト
しずかに     押し葉

布団乾燥機の仕事

我が家の布団乾燥機は、たいへんに働き者だ。十五年近く前に、三千円弱で買ったものが、未だに現役で大活躍中。冬場吹雪が続いたり、花粉症の季節だったり、梅雨で雨がしとしと降ったり、いろんな理由で布団を外に干せなくても、布団乾燥機があれば、いつでも布団はふんわりかんわり。快眠求道者としては、これはもはや生活必需品と言っても過言ではないであろう。

数年前の冬、友人宅に一週間弱滞在することにしたとき、布団乾燥機も貸してもらっていいかな、と、事前に所望してみた。友人は、「うちのどこかにあるはずなんだけど、もうずっと使ってなくて、今のマンションに引っ越してきたときに、どこに片付けたのかわからない。捨ててはないはずなんだけど、もしかしたら置く場所がなくて、夫の実家に置かせてもらう荷物の仲間に入れたのかも。」と説明してくれる。そういうことなら、と、布団乾燥機はそんなに高いものではないし、この冬何度か泊めてもらう予定だし、新しく一台買って、友人宅に届くように手配することに。どうせ買って送るなら、加湿器もあったほうが肌も粘膜も喜ぶはず、と考えて、加湿器も一台一緒に手配する。

友人宅では、新しく買った布団乾燥機で、毎日布団はふわふわのぬくぬく。乾燥厳しい冬の瀬戸内でも、加湿器のおかげで喉も肌もしっとりすっきり。日々いそいそと、加湿器に水を足し、布団乾燥機を作動させる私を見て、友人が、「みそさんは、自分の心身の快適のための手間や工夫を惜しまんよねえ。」と、感心したようにつぶやく。私が、「ほら。私、エピキュリアン、快楽主義者、じゃけん。」と応えると、友人は、「うん、それは知ってる。でもね、ふつうは、みそさんみたいに手間暇をかけなくて、よそに泊まる時くらい、短期間だし、まあ、いいか、ちょっとくらい大丈夫やろ、にしちゃうのよ。でもね、自分の体との信頼関係を築く、というのは、そういう、まあ、いいか、ちょっとくらい大丈夫やろ、を極力控えて、自分の体が満足するように、こころが安心するように、いつでもどこでもできることをしてやるっていうことなんだと思う。その積み重ねが大事なんよ。そういうのって、一朝一夕にはいかなくて、ちょっとくらい大丈夫やろ、と、思ってたけど、実は大丈夫じゃなかったことが露見するようになってから、慌ててどうこうしようとしても、それまでに手間暇かけてやらんかった体は、いざというときになって、本人の希望に応えようとしても、なかなかそうそう簡単には応えることができんのんよ。」と、とうとうと語る。

私が布団乾燥機で布団を乾燥しているのを見た友人の子どもたちが、「うわーっ!すごいふくらんどる!みそさん、これ、なんなん?」と、興味深そうに質問する。「これはね、布団乾燥機、といってね、」と、私は、解説を行う。年中暑がりの二号くん(下の男の子)は、その解説だけで十分納得して去ったが、一号ちゃん(上の女の子)は、とても興味深そうに、乾燥中の布団の上や布団の中を触っている。「あとで、一号ちゃんのお布団も、乾燥機かけようね。」と、私が声をかけると、一号ちゃんは、「え?いい、いい。みそさん、お母さんのマッサージするので忙しいし。」と遠慮する。「うはは。大丈夫。布団乾燥機はね、ずっとついてお世話しなくても、セッティングだけしておけば、あとは、勝手に乾燥して温めて、時間がきたら止まるから。乾燥機が止まったときに、もしも私がお風呂に入ってたり、マッサージで手が油だらけだったりしたら、そのときには、一号ちゃんが自分でお片づけだけしてくれる?」と応える。それでも、一号ちゃんは、「じゃあ、お母さんに訊いてみて、お母さんがいいって言ったら・・・」と言うので、「じゃあ、さっそく訊きに行こうよ。」と背中を押して、友人が横になっている部屋に行く。当然ながら、友人は、そんなのいいに決まってるじゃん、という顔をして、「一号ちゃんが、したいことだったら、みそさんに頼んだらいいよ。」と言う。それを聞いて一号ちゃんは、やっと安心したみたいに、「じゃあ、みそさん、よろしくお願いします。」と、布団乾燥ごときで、律儀に挨拶してくれる。

私の布団乾燥を終えた乾燥機を携えて、子ども部屋の二段ベッドに向かう。一号ちゃんの寝床は上の段。「先に機械を持ち上げるね。」と言いながら、上の段のベッドにいる一号ちゃんに布団乾燥機を手渡す。事前に確認しておいたコンセントにプラグを挿す。そして、「それじゃあ、ちょっと、失礼しますよ。」と、私もベッドに上る。掛け布団を横に寄せておいて、布団乾燥機の袋状の乾燥シートを広げる。温風を注入するホースをシートの定位置にマジックテープで固定する。タイマーは、だいだい色の冬モードと、青色の夏モードとある。夏は温風乾燥のあと、冷風で布団をひんやりさせる工程がついている。「でも、今は、冬だから、だいだい色のほうね。30分か50分くらいかな。急ぐときには、15分くらい温めるだけでも、けっこうあったかくなるよ。」と、一号ちゃんに説明して、タイマーをぐるっと回す。ぶおーん、と、温風が吹き込まれ、シートがぼわん、と膨らむ。「で、この膨らんだところに、掛け布団をのせる、と。」と言いながら、掛け布団をのせてゆく。全体がバランスよくのったところで、「で、あとは待つだけ。乾燥が終わったら、機械が勝手に止まるから、そうしたら、今膨らんでるシートをホースから外して、折りたたんで、機械の蓋の中のここに入れるの。ホースも縮めて、かちっと、ここに留めれば、お片づけ完了。でも、今日は初めてだから、あとで、私が見に来るよ。機械も下ろさないと邪魔になるしね。」と言うと、一号ちゃんは、「大丈夫。大丈夫。終わったら、片付けてここにそのまま置いて寝るよ。」と言う。「それは、邪魔じゃろう。寝返り打ったら、ごつん、って、布団乾燥機にぶつかるじゃん。」と言っても、一号ちゃんは、「大丈夫。私、寝相いいから。」と言い張る。「じゃあ、もし、寝てみて邪魔だったら、一号ちゃん、一人で下ろせる?」と訊くと、やっぱり「大丈夫」と言う。「じゃあ、どちらにしても、一号ちゃんが寝やすいようにしてね。布団乾燥機は、今夜も明日も、この部屋に置いておけばいいからね。」と言うと、一号ちゃんは、ようやく「わかった」と言って、二段ベッドから下りる。そして、友人の部屋へ、おやすみの挨拶をしに向かう。「お母さん、みそさんに、布団乾燥機してもらった。乾燥が終わるまで、おばあちゃんの布団に入ってていいって、おばあちゃん言うけん、そうする。おやすみ。」と言ってから、襖を閉める。

私が、「この家の行方不明中布団乾燥機は、子どもたちのお布団で活躍したことがない人なの?」と、友人に尋ねると、友人は、「そうなんよ。一号を生んでから、一回も使ってない。だから、あの子にとっては、布団乾燥初体験なんよ。みそさん、ほんとにありがとね。」と言う。その「ありがとね」が、あまりにも丁寧なものだったから、私は少し驚いて、「布団乾燥機の布教活動ごときで、そんなにお礼を言わなくても。」と言う。すると、友人は、「みそさん、違うよ。一号の布団を乾燥してくれたことも、そりゃあ、ありがとうなんだけど、ほら、今、私がこんなんだから、私も、夫も、私の体のことでいっぱいいっぱいで、なかなか、子どもたちに目を掛けてやったり、何かしてやったりができなくなってるやろ。もちろん、お義母さんは、すごくよくしてくださってるけど、お義母さんも夫も、言葉の人じゃないから、言葉の人の一号としては、言葉のコミュニケーションがね、どうしても不足気味になるみたいで。でも、みそさんも、私の妹も、言葉が巧みな人たちだから、説明も上手だし、なんでもない言葉のキャッチボールがね、ぽんぽんってできるやろ。そういう意味で、何かしてもらったり、言ってもらえたりするのが、あの子、すごく嬉しいみたいで、なんかそういう意味で、久しぶりに、満たされた感じで笑ってたから。だから、ありがとう、なん。」

だから、ありがとう、なん。我が家で布団乾燥機を、ぶうんぶおんと作動させるたび、あのときの、彼女の言葉を思い出す。そして、ふんわりかんわりあったかなお布団にもぐりこみつつ、「私のほうこそ、ありがとうだよ。社会的な通念に疎い私にも理解できるように、いつだって、細かく丁寧に、具合がよくないときでさえなお、いろんなことを言葉にして、解説してくれるから、私は、本当に、とてつもなく助かっていた。だから、私が、ありがとう、なん。」と、天の友人に語る。     押し葉

お粥の場所

入荷した商品の補充作業中。医薬品ドリンク売り場にて、袋詰め作業をしていたら、8歳か9歳くらいだろうか、小さな女の子が近寄ってきて、私に話しかける。小さな人ではあるけれど、話し方はきちんとしていて、「すみません。このおみせには、おかゆはおいてありますか?」と、丁寧な言葉で質問してくださる。

「はい。お粥ですね。食品コーナーのレトルト食品の棚のところにございますので、ご案内いたしますね。」と、言いながら、小さなお客様を誘導する。途中の通路にさしかかったとき、小さなお客様は、通路から見える場所にいらっしゃる大人の女性にむかって、「おかあさん!こっちにおかゆ、あるって。おみせのひとにきいたら、やっぱり、ちゃんと、あったよ。」と、声をかける。

お母さん、と呼ばれた女性のお客様が近くにいらっしゃるのを待ってから、「お粥はこちらの棚になります。あ、上の段にも、箱入りで、お粥のシリーズがありますね。こちらは少し素材が上等な種類のようです。下の段はお粥といっても、西洋風のリゾットです。お好みに合わせてお選びください。」と説明する。お客様は、「あ、はい。ありがとうございました。」と言ってから、いくつか手にとって見比べていらっしゃる。

「ごゆっくりご覧くださいね。」と声をかけてから私が、自分の売り場の仕事に戻ろうと歩き始めると、小さな女の子もお母さんのいるところ(お粥の棚の前)から離れながら、お母さんに向かって言う。「じゃあ、わたし、まあちゃん(弟か妹か?)のめんどうみにいくからね。おかあさんも、わからないことあるときには、なんでもじぶんでさがそうとせずに、おみせのひとにきけばいいんだからね。じかんかけてうろうろしなくても、おみせのひとならすぐわかるんだから。わかった?」と言いながら、ぱたぱたぱた、と、速やかに、まあちゃん(さらに年齢の小さいかんじの人)の声がするほうに向かう。

まあちゃんの面倒を見たり、お母さんに買い物指南をしてみたり、物怖じすることなく店員に質問したり、この小さなお客様は、きっと、とても利発で、お世話上手な才能の持ち主なんだなあ。「おねえちゃん」であることを、存分に全うしていて素敵だなあ。と思いつつ、でも、えーとね、おねえちゃんでもね、甘えたり、誰かにお世話になったりも、上手にちゃんとしていこうね、と、こころの中で話しかけた。     押し葉

金と銀

夫の趣味のひとつに「コイン収集」がある。一口にコインといっても、夫の興味の対象は、もっぱら銀貨だ。過去に流通していた、そして、現在は通過として使用できない銀貨がお気に入りらしい。流通とは無関係の、一部の記念硬貨も対象となるようだ。それらの何がどう魅力的なのか、私にはよくわからないのだが、何かぐっとくるものがあるのだろう。コイン専用のアルバムに収めた銀貨たちを、自室でにやにやと眺めるのが、夫の、ゆっくりとした時間のおたのしみ、だ。

もうずいぶん前のこと。広島の夫の実家に帰省したときに、夫が、銀貨を集めている話をして、義父に、「とうさんが前に集めたやつ見せて。」と頼む。義父は、どうだ!というかんじで、義父コレクションを出してくれる。夫は、なにやら、鑑定士みたいな手つきで、一枚一枚眺めては、うんちくをたれる。義父のコレクションには、夫の好きな銀貨だけではなく、金貨も含まれている。夫が「俺は、銀貨にしか興味ないから。」と言うと、義父がなぜか、「じゃあ、金貨は、みそさんにあげよう。」と言い出す。

コイン収集にまったく興味のない私は、「そんな、もったいない、いいですよう。」と遠慮する。夫も、「そんなん、とうさんが自分で持っときんさいや(持っておきなさいよ)。俺、金貨はいらんし。」と言う。すると義父は、「お前にやるんじゃない、みそさんにあげるんじゃ。」と言う。隣にいる義母も、「そうよ。みそさんがもらやあええんじゃけん(もらえばよいのだから)。もろうときんさいや(もらっておきなさいよ)。」と後押ししてくれる。

そんなに言ってくださるなら、嫁といえども、親からのプレゼントをありがたく受け取るのも、親孝行のひとつかしらね、と、思い、「それじゃあ、ありがたく・・・」と受け取ろうと手を出そうとする。ところが、夫が、「だめだめだめだめー!これは、とうさんのもんなんじゃけん、とうさんが持っとるほうが絶対ええって(とうさんが持っているほうが絶対にいいから)。」と言い張り、強引に片付けるよう、義父に言い含めて促す。

コインに興味がないとはいえ、私にくださろうとしているものを、夫が勝手に要るだの要らないだの決めるのはいかがなものか、と、いう思いが、ふつふつと湧いてくる。夫と私が寝室として使う和室で、二人きりになったのを見計らって、夫を詰問してみる。

「ねえ、どうやらくん。おとうさんは、金貨を、私にくれるって言うちゃったのに(言われたのに)、どうして、どうやらくんが勝手に要らない、って言うの?」
「みそきち、金貨なんか、要らんじゃろ?」
「別に全然、ほしいわけじゃないけど、あればあるなりに、ありがたく、なんとかするよ。」
「その、なんとかする、って、大切にとっておくわけじゃないじゃろ?金券ショップで図書券(現在は図書カード)に変えて、本を買い込んで読むつもりじゃろ?」
「そうよ。それ以外に、金貨の使い道なんてないじゃん。間接的にでも、私の読書欲を満たすために活躍できたら、金貨もきっと喜ぶよ。」
「とうさんは、金貨を使ってほしくて、しかも、それで本を読んでほしくて、金貨をやる、って言ったわけじゃないんだから。そんな、すぐに横流しするようなやつには、金貨といえども、手渡すことは阻止する。それがコイン収集家としての俺の使命だ!」

そうか。義父も夫も、コインは保管しておきたい人たちなのか。なるほど。と納得する。夫は、ときどき、「俺のコインアルバムは、ちょっとした一財産だから、何かあったときには、それなりの金額で買い取ってくれるところで、売るといいよ。」と言う。けれど、「何かあったとき」というのは、私が「本を買いたくなったとき」という意味ではないのだな。けれど、私には、「それなりの金額」というのが、いくらなのかがわからない。それぞれのコインの、あるいはアルバム全部まとめての、「それなりの値段」を書き記しておいてもらえるよう、夫に頼んでおいたほうがいいかな。その金額によっては、どの本をどれくらい買って読むか、計画も違ってくるしね。     押し葉

将棋の道

将棋は、夫の趣味のひとつである。先月お彼岸の帰省時にも、私の実家の母の部屋で、夫は、母のPCを借りて、ネット将棋に勤しんでいた。

あともう少しで夕ご飯ができそうだねえ、という話を、母や妹と居間でしていたら、甥っ子のむむぎー(弟の子)が、「じめいさん(夫)、どこにおるん(どこにいるの)?」と訊いてきた。私が「ばあちゃん(むむぎーにとっての祖母)の部屋でインターネットの将棋をしょうるよ(将棋をしているよ)。」と応えると、むむぎーは、「おれ、じめいさん、呼びに行ってくる!呼びに行って、一緒に将棋見てくる!」と言いながら、疾風のように去っていく。

食事の仕度が完全にできあがっても、夫とむむぎーは戻ってこない。それでは、私が呼びに行きましょう、と、てくてくと、母の部屋へ向かう。

PCの前では、夫が、のめりこみ気味に座っていて、その右側の椅子に座ったむむぎーも、横から、やはりのめりこむように、覗き込んでいる。

「ごはん、できたんじゃけど。なんか、もしかして、佳境?すぐに終われそうにないかんじじゃね。皆には、先に食べ始めるよう言おうか?」と訊く私に、夫は、「うん。この一番だけ終わったら、すぐ行くけん。」と応える。むむぎーが、私の方を向き、「今ね、勝つ可能性が高いけん、やめられんのんよ。」と教えてくれる。「へえ、そうなんじゃ。そりゃあ、やめられんね。まあ、がんばってね。終わったら、二人とも来てね。」と私が言うと、むむぎーは、「みそちゃん。勝つ可能性が高いのは、相手の人じゃけんね。でも、おれ、じめいさんの応援しょうるけん(応援してるから)!」と、椅子の上でほんの少し跳ねながら言う。

自分方(夫)の情勢(負けそう)を伝えるのではなく、相手方に視点を置いた表現は、情報伝達としては、やや混乱を招きやすいかもしれない。けれども、自分方が負けそうなときや負けているときでも、「負けそうだ」と言うのではなく、「勝ちそうだ(相手が)」と言うと、過剰ながっかり感に苛まれることもなく、不思議と勢いが鼓舞される。言霊(ことだま)遣いとしては、意外と上級編かもしれない。

私一人が居間に戻り、食卓で待つ父と弟と妹と義弟(妹の夫)と、姪っ子(弟の子)と、あと少し作業をしている母と義妹(弟の妻)に、「どうも、佳境に入ってるみたいで、将棋が済んだらすぐに来るけん、先に食べてて、だって。勝ちそうじゃけん、やめられんのんだって。」と報告する。皆が口々に「へえ。勝ちそうなんじゃ。よかったね。そりゃあ、がんばらんにゃあね。」と言う。私が「うん。でもね。むむぎーがそう言うて説明してくれたんじゃけど、勝ちそうなのは、相手のほう、らしいんよ。」と解説すると、皆が「うははは」「だははは」と笑う。それじゃあ、まあ、先に少しずつ食べ始めようや、と、「いただきます」と手を合わせる。

それから七分も経たないうちに、夫と甥っ子が並んで居間に入ってきた。「はあーっ」と溜息をつく夫とは対照的に、むむぎーは「勝ったー、勝ったー!」と小躍り中。「誰が勝ったん?」と一応確認すると、むむぎーは元気よく「相手の人!」と教えてくれる。

将棋未経験のむむぎーにとっては、そこに勝ち負けがあることよりも、一定の規則に従って、攻めたり守ったりする駒たちの存在が、たまらなく魅力的だったらしい。食事が済むと、「お父さん!将棋盤ってあるん?おれ、やってみたい!」とリクエストする。弟は、普段は押入れに片付けてある将棋盤(大きな木の塊に四本の脚が付いている)を出してくる。むむぎーはさっそく、「誰か相手をしてください!」と所望するが、私の父が、「相手をしてもらおうと思うなら、まず、駒を全部並べてから、お願いします、言うもんじゃ。」と教育的指導をする。むむぎーは、「そうか!」と合点し、自分側にも相手側にも、全ての駒を並べる。そして、「じいちゃん!お願いします!」と声をかける。

実際に将棋を開始してみると、むむぎーは、まだまだ、全ての駒の動きの規則を把握しておらず、父が何度も、「それは、そこには行かれん。」と教える。そのたびに、「あ、そうじゃった。」とつぶやいては、「じゃあ、こっちにはいける?ここは?」と、質問を繰り返す。父は、「むむぎー。お前は、まずは、自分一人で勉強して、どの駒がどの方向に動いてええんかおぼええや(動いていいのかおぼえなさい)。」と重ねて指導する。

しかし、母が、「みんな、小さいときには、年上の、できる人に相手してもらいながら、おぼえるもんじゃったじゃないね(おぼえるものだったではないですか)。私らだって、みんな昔そうやって、教えてもろうたんじゃけん(教えてもらったのだから)、こういうのは持ち回りじゃけん、まだようできん(まだ上手にできない)小さい人の相手もしてやらんにゃあいけんようね(相手もしてあげなくてはならないでしょう)。」と、別の視点を提供する。

駒の動きすら把握していないむむぎーとの勝負は、数十秒から数分で終了する。一試合終わってもすぐに、むむぎーは、「もう一回やって!」と言い出す。父は、「そんなに何回もはできん。自分で自分の相手をして勉強せえ。」と、練習方法を伝授する。「わかった!」と、むむぎーは言い、自分側の駒と相手側の駒と、両方順番に動かしてみる。が、わからないものは、やはりわからない。

食前の試合の負けの痛手から立ち直った様子の夫が、「じゃあ、俺とする?」と、むむぎーに声をかける。むむぎーは、「うん!やったー!お願いします!!」と、それはそれは嬉しそうに、全ての駒を、元通りに並べ直す。その日の夜も、次の日の昼間も、むむぎーは、将棋盤に駒を並べては、夫に相手をしてもらう。夫はとても根気よく、「その駒はそっちにはいけん」「ここと、ここなら、いける」と解説を繰り返す。

今度の、お正月に帰省したときにも、むむぎーの、将棋の道の歩みは、続いているかなあ。     押し葉

がんばるスキン

今日の話は、少し「大人の話」をする。だから「自分はお子様なの」という自覚のある方は、ここまででお引取り願いたい。「自分は十分大人だよ」という方のみ、これより先にお進みくだされ。

私が勤務する職場では、スキン(コンドーム)も売っている。妊娠検査薬も売っている。排卵検査薬に関しては、六月一日の薬事法改正以降、医療用医薬品として、系列店の調剤薬局部門のみの取り扱いとなった。

ところで、先月の下旬から、医薬品売り場担当者が、私一人となった。それまでは、薬種商のおじちゃんと私の二人体制で、華麗な連係プレーを繰り広げ、仕事をこなしていたのだが、おじちゃんが他のお店に異動となり、おじちゃんも私も、それぞれに、各店の売り場を、一人で切り盛りしなくてはならない立場となった。「お互い、一人でなんでもかんでもしてしまおうと無理せずに、社員さんたちや、パートさんや、アルバイトさんたちに、お願いできることはお願いして、ぼちぼちやっていきましょうね。」と、異動前のおじちゃんと語り合った。

その語り合いを活かすべく、入荷商品の売り場への補充を、同僚たちにお願いしてみている。同僚たちの何人かは、登録販売者の資格を保有していたり、最近試験に合格して、近々資格保有者になる予定だ。そんな同僚たちにとって、補充しながら、医薬品や健康食品や介護用品の場所をおぼえたり、商品特徴を確認したりすれば、勉強にもなるはず。そう思って、安心して、お任せすることにしている。たまには、「これ、こことは、ちゃいますわー」ということもあるけれど、それはその都度お知らせして、おぼえていってもらえれば、それはそれで問題ない。同僚たちも、登録販売者の受験勉強をするまでは、気にも留めずにいた薬の成分などについて、ちょくちょく質問したり確認したりしてくれるようになってきた。うれしい傾向だ。おかげで、私も、数年前に一人で売り場担当していた頃のような、きりきり舞い、な感覚はなく、それなりに、いっぱいいっぱいではあるものの、穏やかに、和やかに、仕事に取り組むことができている。

先日入荷した商品の中には、あるメーカーのコンドームの三個パックがみっつと、二個パックがひとつ、あった。三個パックのほうは欠品していた商品なので、速やかに注文したものだ。入荷の翌日、私が出勤したときには、全ての入荷商品が、既に各売り場に補充されていて、まあ、ありがたい、助かるなあ、としみじみしながら、事務所に向かう。

自分のボックスに入っている連絡書類や指示書類を確認しようとしたときに、ボックスに小さなメモが貼ってあるのを発見する。新人二年目の社員くんの字で、「どうやら先生、すみません。」と書いてある。はて、何が、すみません、なのかしら、と思いつつ、続きを読む。「コンドームの三個パックみっつと、二個パックひとつを、補充中に、うっかり開封してしまいました。売り物にならなくなったので、買い取りました。売り場欠品のままですので、再度注文をお願いします。」

あらまあ。買い取る、と、言っても、一箱に12個ずつ入っているものが、合計11箱ということは、132個もあるというのに。いいのだろうか。いいのかな。うーん、まあ、本人がいいと言うのなら、いいのだろう。

私も、日々の売り場を整えつつ、余裕を持って接客するよう、頑張るし、新人二年目くんもぜひ、落ち着いて、仕事して、開けてはいけない商品は開けないように気をつけよう。そして、彼に買い取ってもらった大量のコンドームたちも、彼と彼の周辺のどこかで、新鮮なうちに、その使命をまっとうに果たせるよう、がんばってくれたまえ。     押し葉

原付の条件

たぶん、十五年くらい前のこと。大阪南部の社宅に住んでいた私は、大学時代の友人と会うために、大阪駅のあたりまで出かけた。南海電車で「なんば」の駅まで40分弱、なんばからは地下鉄御堂筋線に乗って「梅田」まで15分くらいだろうか。

この日は、福岡に住む友人(以下、福岡友人)が、私の家に泊りがけで遊びに来ることになっていた。彼女は、うちに来る前の数日間、京都に住む友人(以下、京都友人)宅に滞在していた。京都の友人宅にも、我が家にも、彼女はわりとゆっくりめの予定で、というよりも、特に予定を立てずに、居候っぽいかんじで、過ごしていたような気がする。そのとき彼女は、前の職場を退職して、転職前の充電期間中だったのかもしれない。

三人で、梅田の、たぶん地下街の、お店を眺めながら歩く。福岡友人は、妹さんたちと弟さんへのお土産を何にしようかなあ、自分用には何を買おうかなあ、と、楽しそうにお店を見ている。とある小さな靴屋さんの前に来たところで、ふと、京都友人が、「あ、そうや。私、靴買いたいねんけど、ちょっと寄ってもええかな?」と言う。私も福岡友人も、「もちろん!」と快諾する。福岡友人は靴を見るのが好きなので、一番先にさくさくと、お店の奥のほうに入ってゆき、あれこれ手にとって見ている。通路沿いにはみ出しそうな店先に、季節の商品なのだろうか、涼しげなサンダル(最近ではミュールと呼ぶのかもしれない)が、にぎやかに並べられている。そのサンダルを前にして、京都友人が、「これ、ええなあ。私、これにしようかなあ。」と言う。「うん。いいんじゃない?涼しそうだし。なんか、似合いそうな気がするよ。履いてみて、歩くのもラクかどうか試してみたら?」と私が言うと、彼女は「うん、そうしてみるわ。」と言いながら、自分の足のサイズに合ったものを試し履きし始める。そうしながら、京都友人は、「私な、原付の免許取ったしな、原付用のサンダルを買いたいねん。」と言う。

私はびっくり驚いて、「ちょっと。原付用サンダルって、それはないやろ。原付乗るときに、サンダルは、いかんやろ。」と指摘する。京都友人は、「え?そうなん?でも、テスト問題に、原付に乗るときには、下駄やサンダルがいい、って書いてあってんで。」と言う。私が、「違うよー。それは、×をつけなさいの問題やん。正誤だったら、誤、を選ぶのが正解の。サンダルや下駄は、運転するには、危険で不向きな履物やん。」と解説するも、彼女は、「えー?そうなん?でも、私、それに○付けたけど、ちゃんと合格したで。それに夏は、暑いやん。」と、なにやら腑に落ちない様子。

けれども、京都友人は、基本構造が「素直」なので、「でも、みそさんがそう言うなら、きっと、そうやわ。」と、あっさり言い、そして、「でも、このサンダルは気に入ったしな、原付乗るとき以外の、普段に履く用にするわ。」と言いながら、レジにお金を払いに行く。そうなのだ。彼女は、人の言葉も素直に受け止める人だけれども、自分の思いにも、とても素直に、従う人なのだ。

梅田で別れて、京都友人は京都の自宅へと帰り、福岡友人と私は、大阪南部の私の自宅へと向かう。南海電車の中では、福岡友人と二人で何度も、「京都友人は、間違いなく、あのサンダルで、原付、乗るね!」と、京都の町を、サンダル履きの原付で、軽やかに疾走する、京都友人の姿を、鮮明に想像した。     押し葉

帰省の挨拶

今回お彼岸に帰省したとき。実家に到着して、まずは、荷物を二階に持って上がる。実家滞在中に寝泊りする部屋は二階だから。部屋の窓を開けて、空気を通す。

二階の部屋の窓から見える洗濯物を干す場所に、むむぎー(甥っ子)の姿が見える。小学校の制服を着たままで、洗濯物の取り込み作業をしている。私は窓から体を乗り出し、「むむぎー。やっほー。ただいまー。こんにちはー。」と声をかける。むむぎーは、「あれ?こんにちは。え?みそちゃん?なんで?なんで、みそちゃんがおるん(いるの?)」と、にっこりと、洗濯物を抱えたまま驚いている。「お彼岸じゃけん、お墓参りに帰って来た。」と言うと、「ええ?そうなんじゃ。じめいさん(夫のこと)もおるん?」と言う。「そうよ。どうやらくんも一緒よ。」と言うと、「わあ、そうなんじゃあ。」と言いながら、洗濯物を抱えて、離れ(弟家族が暮らす棟)の建物に入って行きつつ、「おかあさーん!みそちゃんがおるよー。どうやらくんも、あ、じめいさんじゃった、も、いっしょじゃってー。」と報告する。離れの中からは、「そうよー。今日、みそちゃんと、じめいさん、帰ってきてんじゃったんよ。」と、ゆなさん(義妹。弟の妻。むむぎーとみみがー(姪っ子)の母。)の声が聞こえる。

二階の部屋で荷物をほどいて、一階に降り、トイレに行く。洗面台に移動して、手を洗ってうがいをする。それから、仏間にて、お仏壇の前に座り、両手を合わせる。ご先祖様、おかげさまで、無事に長距離運転してくることができました。ありがとうございます。広島の人たちも皆、元気にしていて嬉しいです。

それだけ済ませて居間に行くと、夫と、母と、ゆなさんと、むむぎーと、みみがーがいて、なにやら、わらわら、笑っている。「なに?なに?どうしたん?」と、一拍遅れてその場にやってきた私が訊くと、母が、「むむぎーとみみがーにとって、みそちゃんはおばちゃんで、じめいさんはおじちゃんじゃ、いう話をしょうたんよ(していたのよ)。」と教えてくれる。

そういえば、以前書いた「縁戚関係」の頃には、むむぎーもみみがーも、私と夫の関係が、夫婦なのか、親子なのか、わかりかねる様子だった。あの頃よりも二人とも、ずいぶん大きくなっているはずなのだけど。「むむぎーとみみがーには、まだもう少し、縁戚関係は難しいのかな?」と、私が言うと、夫が、「いやいや。大丈夫。むむぎー、ちゃんと自分で考えて、ちゃんとわかっとった(わかっていた)。」と応える。

私がいない間に、居間で繰り広げられた会話は、だいたい次のようなものだったらしい。
むむぎー:「おれ、二階の洗濯物干すところで、みそちゃんにおうた(会った)。」
母:「むむぎー、あんた、ちゃんと挨拶したんね?」
むむぎー:「ちゃんとしたよ、こんにちは、言うたもん。」
母:「むむぎー。みそちゃんには、こんにちは、じゃなくて、おかえり、じゃろ。」
むむぎー:「えー?なんで?」
母:「なんでじゃと思う?」
むむぎー、しばらく考える。
むむぎー:「あ!おれ、わかった!みそちゃんは、おれのお父さんのお姉さんじゃろ?ということは、この家で生まれて大きくなった、いうことじゃろ?みそちゃんが子どものときに住んどった(住んでいた)家に帰って来たけん、みそちゃんは、ただいま、って言うたんじゃ。じゃけん、おれはのほうは、おかえり、なんじゃ!わかった!」

「この家で生まれた」というところだけ、若干の誤りがあるものの、大意としては問題がない。その話を聞いた私は、「へえ。すごいじゃん。むむぎー。よくわかるようになったねえ。」と、おおいに感嘆する。しかし、むむぎーの母であるゆなさんは、「いや、いくらなんでも、もう、小4じゃし、いい加減、それくらいわからんにゃあいけんじゃろう(わからなくてはならないでしょう)。」と、冷静に言いつつ、豪快に笑う。

いやいや、でも、ほら、なんていうのか、そういう一連の繋がりを、自分で考えて、自力で理解に至れるようになっただなんて、なんだかすごい成長じゃん。洗濯物を取り込むお手伝いも、できるようになってるし。たまにしか会わない伯母の立場としては、そういうひとつひとつの全てが、非常に感慨深いのだ。常日頃、そして、帰省の折にはよりいっそう、ご先祖様に向かって密かに、むむぎーとみみがーの成長サポートをお願いしている立場としては、祈った甲斐も感じるし。伯母は、今後も引き続き、絶賛、お祈りするよ!と、内心熱く、拳を握り、天に突き上げるのであった。     押し葉

時期尚早

レーシック(近視矯正手術)しようかどうしようか迷い中のめいちゃん。テレビなどで、日本各地の地震速報を見るたびに、「やっぱり、今、レーシックをするのは、時期尚早なのではないか!」と思ってしまう、と教えてくれた。

えーっと、こういうのも、「時期尚早」で合ってるんだっけ、と思いつつ、いやいや、そうではなくて、いくら待っても、たぶん、きっと、私たちが生きている間には、日本からも地球からも地震はなくならない気がするよ、めいちゃん!と思い直す。私たちが生きてる間どころか、たぶん、人類が始まる遥か以前から、地球はずっとそうしてきたのであろうから、そう簡単に、その路線を変えるとは思えない。

地震は、地球にも地球なりに、いろいろ事情があって、地殻活動していてのことだろうし。地球が地震を諦める日を気長に待つのも、それはそれで、かなりしぶくてカッコイイとは思うけど。めいちゃんが、そのしぶい路線で生き抜くと言うのなら、私もそのつもりで応援する気はあるけれど。何もそこまで、人生しぶく生きなくても。

なんだかよくわからないけれど、めいちゃんも、地球も、それぞれに、がんばれ。おー!     押し葉

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どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

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