みそ文

クセとコツ

 この世の中の多くのことは、エネルギーによって成り立ち、生き物の大半のことは、クセと意思で成り立っていると思うことがある。
 クセにはたぶん習慣のようなものも含まれる。クセや習慣には、便宜的に言って、よい習慣、よくない習慣、よくもよくなくもない習慣、よいこともよくないことも両方ある習慣、の四種類があるような気がする。
 たいていのことは、いったんクセや習慣になってしまえば、その継続や再現は容易になる。

 人がしあわせであるコツは、しあわせを感じるクセがあるかどうか、というところにあるのではないだろうか。

 クセや習慣は、本人の意思によらないものもあるけれど、意思や繰り返しや馴染みによって作り出されるものもある。
 最初はクセではなかったものが、意識しないで繰り返しているうちに、あるいは、意識して繰り返しているうちに、クセになるものもある。
 身体的に何かが上達する場合もあるだろう。精神的思考的なものや、態度として、クセになるものもあるだろう。
 嬉しいことを感じるクセ。他人に好意を感じるクセ。敵意を感じるクセ。感謝が湧くクセ。反省するクセ。精進するクセ。楽観するクセ。悲観するクセ。面白がるクセ。面倒くさがるクセ。不満を感じるクセ。不平を言うクセ。誰かに腹を立てるクセ。自分のしあわせを認めないクセ。何かを誰かのせいにするクセ。人生に保障を求めるクセ。

 自分の中の好ましいクセは、おおいに継続してゆきたい。が、意思によらずにクセになってしまったことで、それが自分の望むものでないのなら、あらたに、意志の力で、他のクセに置き換えることができるものもあるとしたら。
 自分の中にあるクセの中で、置き換えたいものがあるかどうか観察してみるだけでも、実際置き換えられるかどうか取り組んでみるだけでも、やってみるのも、この世のひとつの醍醐味だと思うのだけど。
 その結果、「ああ、うれしいなあ、しあわせだなあ。」と感じる頻度が増えるなら、悪くないというよりも、よかりけり、だと思うのだけど。

 ああ、そうか。しあわせは、誰もが、全ての人が、望むものなのではなくて、望む人が望むもの、なのかもしれない。
 誰もがしあわせを望んでいると思い込むことは、あどけなく、浅はかなのかもしれない。

 誰もがしあわせを望み、臨み、願うのかどうかはわからない。けれど、少なくとも自分は、しあわせであることに常に臨み、そして、挑む。
 しあわせになろうとするのではなく、既にしあわせであることを認識し続ける力と勇気を、力強く望む。
 力みがあればほぐしつつ、穏やかに、伸びやかに、そう望み、臨み、挑み続ける、そのことが、自分がしあわせであるコツであり、自分がしあわせであるために必要なクセであることを、私は知っている。     押し葉

ライオンを見習え

 何週間か前の夜、テレビを見ていたら、鬣(たてがみ)のない雄ライオンが出てきた。
 番組の説明によれば、そのライオンが住む地域は、あまりにも暑いために、少しでも風通しを良くする目的で、自然と鬣が抜け落ちた、あるいは、生えなくなった、とのこと。
 あまりにも暑いため、狩で得た獲物(草食動物)も、すぐには食べない。オスもメスも子どもたちも、しばらく獲物を放置して、木陰でじっとする。死んですぐの獲物は、まだ体温が高いからだ。しばらく置いて、血も肉も冷めたころに、ようやく食事を始める。
 しかし、いざ食べ始めても、一口二口食べて、咀嚼と消化を始めると、今度は彼らライオン自身の体温が上昇する。暑いところでの体温上昇はつらい。
 ライオンたちは、すうーっと、獲物から離れて、木陰の土を掘る。なんのために土を掘るかというと、地面の下の、少しでも温度の低い土に、お腹をあてるため。
 冷えた(というほどではないが、少なくとも太陽で熱くなっていない)土にお腹をあててしゃがみこむことで、全身の体温を下げるのだ。
 しばらく、そうして、じっとして、熱いのをやりすごしたら、また、獲物のところに近寄って、肉塊をひとかじり。そしてまた土を掘り、お腹をあててじっとする。
 暑い土地で、暑すぎる土地で、生きるということは、生きのびるということは、なにやら、たいへんそうだ。

 ところで、このテレビを一緒に見ていた夫が、「このライオンを見習え。」と私に言う。「ライオンは、自分の体を冷やすために、自分で地面を掘って、冷たい土に腹をあててるじゃないか。みそきちみたいに、人の体(夫の体)で涼をとろうとするような、姑息なことをしないのが偉い。」と。

 事情はどうあれ、妻のことを「姑息」呼ばわりするのは、いかがなものだろうか。     押し葉

パラダイスゆったり

 先週の土曜日に、広島から妹夫婦が遊びに来てくれた。
 私が仕事をしている間に、妹と義弟と夫は、三人で、近所の温泉銭湯に行った。義弟と妹は、大きなお風呂が好きで、広島でも、ときどき銭湯を利用している。
 去年の夏に、義弟が連れて行ってくれた銭湯(「パラダイス銭湯」「パラダイスサウナ」「パラダイス孔雀」参照)よりも、こちらの大衆銭湯は、ひとまわりか、ふたまわり、広めの施設。
 仕事が済んでから、合流した私に、「こっちのは広くてよかったよー。」と義弟と妹は満足げに報告してくれる。

 特に妹は、「何がいいって、みみがー(姪っ子)がおらん(いない)のがいいわー。ゆっくりできたわー。」と大絶賛だ。
 私が、「みみがーは、すぐに、『ねえ、まだなん?』、とか、『もうあがろう』、って言うもんね。」と思い出し笑いをする。
 妹は、「それがね、最近はみみがーに、すぐに、『あがろう』、って言う人は連れて行かん。一緒に行くんなら、『あがろう、はやくあがろう』、って言わんって約束せんにゃあ連れて行かん、って言うてあるけん、『あがろう』とは、言わんようになったんよ。」と教えてくれる。

「へえ。それは、みみがーも偉くなったじゃん。それなら少しは、ゆっくり入れるようになったんじゃないん?」
「それがよ。ねーちゃん。みみがーいうたら、『もうあがろう』とは、言わんようになったけど、『わたし、もうあつくなった、やぎちゃん(妹)はあつくないん? あついとおもわん?』とか言うんよ。私が、『みみがー、あんた、もうあがりたいんね?』って訊いたら、『うんうんうんうん!』って。結局さっさとあがるのは、前と一緒よ。」
「まあ、約束どおり、あがろう、とは言ってなくて、本人は、約束守ってるつもりなんじゃろうね。」
「みみがーが急かすけん、いっつも、サウナもミストサウナも入れんけど、今日は香浴ミストサウナにもゆっくり入れたし、不感温度風呂(体温と同じくらいの温度のお湯で、熱くも冷たくもない)も気持ちよかったし。よかったわー。」

 そうか、そうか、それはよかった。     押し葉

他人の激似

 海の日をからめた連休を利用して、土曜日日曜日月曜日と、広島に住む妹と義弟(妹の夫)が、二人で遊びにきてくれた。

 広島を朝早く車で出発し、高速道路をひた走り、北陸の地に入るのはお昼前後。
 「今どこどこまで来たよ。」という妹からのメールを確認して、出勤する。妹夫婦には、「夜七時まで仕事じゃけん、七時半前に合流して、一緒に夕ご飯を食べに行こう。それまでは、観光したり、温泉銭湯に入りに行ったり、うちでお昼寝したり、好きに過ごしてね。玄関にタオルとバスタオルとお風呂道具は用意して置いてあるけん、持って行って使ってね。どうやらくんは、休みでうちにいてくれとるけん、必要に応じて連絡して、いいぐあいにしてもらってね。」と、伝えてある。

 そして私は、いつものように、職場で仕事をしていた。
 お客様を見かければ「いらっしゃいませ。」「こんにちは。」と声をかける。何か探し続けていらっしゃるようであれば、「お探しのものはありそうですか。」と声をかけてみる。
 私の職場では、十数列くらいの通路が並んでいて、その両脇に商品棚が置いてある。各通路の半分の長さのところには、各通路を横切るように中央通路が配置されている。私はその中央通路を歩きながら、お客様をご案内した売り場から、自分の担当売り場まで、歩いて帰る途中だった。右左と通路を見ては、お客様の姿を確認すると、挨拶の声をかける。

 四列目にさしかかって、ふと右側に目をやったときに、若い男性のお客様がいらしたので、「いらっしゃいませ。こんにちは。」と会釈をしてから直進した。
 次の列(五列目)で左右を見たときに、また右側に、先ほどの若い男性のお客様の姿が見え、今度はその人は、なんだかとてもにこやかに、私に向かって微笑んでくださる。常連のお客様だろうか。記憶にない方だけれども、義弟によく似た体格と顔の人だなあ。
 六列目で再び左右確認したときには、そのお若い男性のお客様は、明らかに私に向かって、片手をあげて、「きたよ!」という表情を投げかけてくださっている。どなただろう。リピーターさんだろうか。それにしても、つくづく義弟によく似ている。世の中にはよく似た人がいるものだ。他人の空似とはよく言うけれど、これはもう他人の激似だね、と思いながら、どなただろう、と記憶を手繰る。

 と、ここで、はたと、気づく。ちがう。他人の激似で似てるんじゃない。あれは義弟本人だ。
 今頃は、どこか観光に行っていると思い込んでいて、職場を訪ねてきてくれることを、迂闊にも、全く想定していなかった。

「うわあ。もっきゅん(義弟の呼び名)じゃん。来てくれたんじゃ。遠くから、長距離長時間運転お疲れ様でした。ようこそ、ようこそ、よくきてくれたねえ。」と、ようやく、声をかける。ふと気づくと、妹も、そこにいる。
 二人は、「職場の皆さんに食べてもろうて(食べてもらって)。」と、広島のお菓子を手渡してくれる。職場では、妹夫婦が来てくれることになったからと、もともとは出勤予定だった海の日(月曜日)を休みに変更してもらっていた。
「私ら(妹夫婦)が来るけんいうて、ねえちゃんが休みを取ってくれて、ねえちゃんがおらんようになるぶん、職場の他の人らが頑張ってくれてんじゃろうけん。」と、たぶんそう思い、だからと、手土産の菓子を届けてくれる、そういう大人らしい気配り心配り機能を搭載している妹夫婦のことが、私は、大好きで、自慢だ。     押し葉

馬油じゃなくてサニーナ

 入荷した商品たちの補充作業に励んでいたとき。
 同僚の薬種商のおじちゃんが私に、「どうやらさん。さっき接客したお客さんなんやけどな。」と、以下のようなやりとりを話してくださる。お客様から話しかけてきてくださり、それに対しておじちゃんが対応した会話。声をかけてくださったお客様はやや年配の女性の方で、その方のお嬢様であろうと思われるやや年若な女性との二人連れでのご来店。

「馬油(バーユ)がほしいんだけど、ある?」
「馬油、馬の油のバーユですね。置いてありますが、今回はどういう目的で馬油をお使いになられるんですかね?」
「よくわからないんだけど、病院で看護士さんから、買ってくるように言われたんや。」
「ほう。病院でですか。馬油を何にどのように使うかは、聞いておられますかね?」
「うん。なんでも、入院中の床ずれの防止で使うって。」
「床ずれ防止で馬油と言われましたか?」
「ううん。なんちゃらって言う油のようなものを買ってくるように言われたんやけど、油いうたら馬油やろう、思って。だから馬油を。」
「入院なさっているのは、ここの近くのあそこの総合病院ですかね?」
「うん。そう。」
「それやったら、あそこの病院は、最近、床ずれ予防で、患者さんに、サニーナっていう名前のものを買ってくるように言われてるはずなんやけど、もしかしてサニーナではなかったですか?」
「ああ! それそれ。サニーナ、いうて言ってはったわ。でも、油いうたら馬油やろう、思って、馬油を買うつもりやった。サニーナってなんなん?」
「サニーナは、もともとは、痔になった肛門を排便後に拭き取るときに、つるっと拭き易いように、汚れがとれやすいように、拭いても痛くないようにしてあるものなんですよ。ちょっと油っぽい液体で、スプレーのもあるし、ロールペーパーに染み込ませてあるのもありますね。最近は、そのサニーナで体を拭いておくと、長時間横になっていても床ずれができにくい、ということがわかってきたらしくて、そこの総合病院では、ここ最近熱心に、サニーナを使ってらっしゃるみたいですねえ。それで、入院患者さんのご家族が、サニーナを、って言って、よく買いに来てくださるんですよ。」
「そうだったんやー。知らんかったわー。うちの人が入院してるから病院に行ったら、看護士さんから、買ってきてって、言われて、買いに来たんやけど、勝手に馬油を買っていかんでよかったわ。サニーナよ。サニーナ。そう言うてはったわ。でも油いうたら馬油やろ?」
「どういう目的で、何に使うかにも、よりますねえ。床ずれとかじゃなしに、普通の肌を保護したり保湿したりするのには、馬油もいいんでしょうけどね。床ずれになる前やったら、サニーナがいいんやろうし、床ずれになった後やったら、皮膚を治すような化膿せんようにするような薬のほうがいいやろうし。サニーナは油といっても、さらっとしててべたつきがないのも、使いやすい理由のひとつみたいですねえ。」
「はあー。いろいろあるんやねー。よかったわー、訊いて。勝手に馬油買って行って、怒られるところやったわ。」

 というやりとり。
 おじちゃんは、「お客さんは、こうしてください、っていう指示があっても、思いもかけない展開で理解して、これや、いうて思い込むことが、あるなあ。」と感心しておられる。
 私は、「たしかに、ありますよねえ。でも、馬油所望のお客さんなのに、ご所望の馬油ではなく、本来必要なサニーナのところまで無事に辿り着けるように案内されたその接客技に感心します。看護士さんも、お客さんに馬油を買ってこられて、サニーナって言ったのに何故馬油を、って頭を抱えなくて済んで、大助かりのはず。」と絶賛賞賛。
 しかしおじちゃんは、「しかしなあ。なんか、ちょっと、ため息が出るなあ。なんかなあ。もっとちゃんと、人の言うこと、今回の場合は看護士さんの話やけど、聞いたらいいのになあ。自分や家族に必要のないことなら別に聞かんでもいいんかもしれんけど、必要な話は、みんなもっとちゃんと聞いたらいいのになあ。」と、とほほほほ、と、笑いながら、ため息つきながら、私よりも一時間早い定時に、仕事を終えて帰ってゆかれた。     押し葉

夏の夫婦のスキンシップ

 十日ちょっと前に、夫が「少し早めだけど、誕生日プレゼントに。」とサンダルを買ってくれ、そのあと、ちゃんこ屋さんで夕食をご馳走してくれた。
 サンダルはクレオパトラ風。ちゃんこ鍋はもちろんおいしかったが、別途単品で注文したレンコンの唐揚げがなんともいえずおいしかった。

 それだけでも、十分盛大にお祝いしてもらったのだけど、昨夜、世の中の暑さと、自分の体の熱さに疲れて、夫の体にくっついて涼をとろうとしたところ、あっけなくはねのけられたため、「誕生日前夜なのにー。お祝いのスキンシップもないなんてー。あんまりよー。昔はこんな人じゃなかったのにー。」と、文句を言った。
 夫は、「昔は、みそきち、こんなにアツアツじゃなかったじゃん(注※アツアツとはラブラブという意味ではない。身体表面温度が高いという意味)。地球温暖化に付き合わんでいいけん、むやみに体から熱を発するの、止めることはできんのん?」と言う。

 エアコンや扇風機や保冷剤で、世の中(室内空間)や体の一部を冷やすことはできても、私の体は無限に熱を生産し続ける。そのため、体の持ち主(私)と傍にいる人(夫)は、熱くて、暑い。
 夫は「夏場にくっつけん分(くっつくことができない分)、冬にいっぱいくっついてるじゃん。こういうものは季節モノじゃけん、仕方ないんよ。」と、夫婦のスキンシップの維持よりも、自分が暑くなく健康的に過ごすことのほうが大事であると主張する。 
 涼も、スキンシップも、一石二鳥で得るためには、どうしたらよいのだろう。

 少しでも涼を求めて、今日の夕食は「冷や汁風」にしてみた。
 「バースデーちゃんこ」で前祝いしてもらったが、当日は「バースデー冷や汁」。麦入りの五穀米を炊いたものを水洗いして、冷やした味噌汁をかける。味噌汁の具は油揚げ。四日前から味噌に漬けておいた真鯖を焼いて身をほぐしたものと、キュウリのぬかづけ、スイカの皮の浅漬け、生パセリのみじん切り、すりごま、を、のせていただく。
 すりごまは、夫に、すり鉢ですってもらう。ゴリゴリ、パチパチ、と、すればするほど、香ばしい胡麻の香りが漂ってきて、食欲が増してくる。夫が「もう、これくらいでええじゃろう。」と言うたびに、「そう言わず、もっとすってよー。いいにおいがおいしそうだよー。」と頼んで、たくさんすってもらった。
 最後に夫は、「これ以上すったら、すりごまじゃなくて、胡麻豆腐になる。」と断言して、すりこぎを置いたが、すっただけでは、胡麻豆腐はできない。
 食後には、夫が、会社帰りに買ってきてくれた生のブルーベリーを食べる。生ブルーベリーは、この時期限定の果物で、私の大好物である。ブルーベリーを食べたおかげで、今は世の中が、妙にぱっきりとよく見える。

 夫婦のスキンシップには、不自由伴う昨今であるが、食に関してはとても恵まれている日々だ。一朝一夕でなくてよいから、なんとかして、夏の食もスキンシップも一石二鳥で狙いたい。     押し葉

火の国の雀たち

 熊本に済んでいた頃、草木も虫も、むやみやたらに大きいのはどうにかならないものだろうか、と思っていたが、意外にも、鳥類や犬猫などは、全国標準サイズであった。人間も標準サイズだ。

 当時、日々の洗濯物は、ベランダに干していたのだが、日差しがとても強いので、一日に三回くらいは平気でぱりぱりと乾く。
 私たちが着るTシャツも、一日三回以上は、汗だくになって着替える。
 私は朝起きて着替えて、職場のお昼休みに着替えて、帰宅してから着替えて、お風呂上りに着替えて、夜寝る前にも着替えることもあり、さらには深夜睡眠中にも着替えたりする。だから洗濯物は多い。洗って乾かして着て、また洗って乾かして、の繰り返しだ。

 そうやって洗濯して、ベランダに干したTシャツやタオルは、お日様で、かりっかり。かんわりしてて気持ちいい。
 しかし、なぜか、ときどき、洗濯物の内側に、鳥の糞が付着している。洗濯物の外側に糞が落ちるというならわかる。干してるものの外側でなく、内側に糞が付くのはなぜなのだ。たとえうっかり、そのまま着て、肌に糞が付いたとしても、天日でかりかりになっているので、べちゃっとはしないけれど、それでも、ううっ、と、悲しくなる。

 そこで、いったい、いつ、何者が、どうやって、洗濯物に糞をつけていくのか、見届けてやりましょう、と、灼熱のベランダを見つめて観察することに。
 ベランダからは、海の向こうがわにある雲仙の普賢岳が、毎日かっこよく見える。あまりにもかっこいいので、ずっと見てても全然飽きない。一日中でも見ていられる。だからベランダ側で過ごすのは、私のお気に入りではあるのだが、なにぶんにも、暑い。それでも、なんとか、がんばって張り込みを続ける。

 すると、ぱぱぱぱぱぱ、ぽぽぽぽぽぽ、と、数羽の雀が、我が家のベランダをめがけて飛んでくる。まあ、それは、よくあることだ。ベランダの手すりに止まって、ぴぴぴぴちちちち鳴くことは。
 けれど、その雀たちは、我が家のベランダに来るなり、物干し竿にとまると、洗濯物を頭にかぶるようにして、Tシャツやバスタオルの布の下にもぐるのだ。そして、じっと、じっと、じっと、じっと、じっと、過ごして、たまに、ぴゅるぴゅるっ、と、糞を出す。
 糞の一部は、ベランダの床(コンクリート)に落下し、別の一部は、衣類にそのまま付着する。彼らにとって、排泄は、たぶん、随意でコントロールするものではないだろう。おそらく彼らとしてはただ、そこでくつろいでいるだけだ。けれども、くつろぐにしても、ここは熊本であるから、人間も雀も、日差しが、熱くて、痛い。だから、そこにある、手近にある、日よけになる布をかぶる。布をかぶって、陽を避けて、じっとひとときをやり過ごしているつもりで、ただそれだけのつもりで、でも、実際には、ぷりぷりっと脱糞して、自分がかぶっている布のどこかに自分の糞を付けてしまう。
 ああ、雀。

 糞の主が雀だとわかり、そのからくりもわかった。それからは、気がつくたびに、ベランダに出て、「はい、はい。またおいでですか。でも、涼むなら、うちの洗濯物のとこじゃなくて、北側の日陰のどこかにしてくださいね。」と声をかけて、ぱんっ、ぱんっ、と両手をたたいて、両足を踏み鳴らして、追い出す。
 そうやって、見かけるたびに、こまめに追い出していると、雀たちはあまり来なくなり、しかし、来なくなったと油断してると、またもややってきて脱糞する、という繰り返し。
 それでも、まあ、それで、もしも、また洗濯物が汚れても、洗ってすぐに乾くから、軽く「やれやれ」と思うだけで、それほど腹も立たない。
 熊本は暑いのだ。立腹すると、さらに熱くなる。だから、自分の身体の体温的恒常性を保つためには、むやみやたらに腹を立てない。それに、人間暑すぎると、暑いことをやり過ごすだけでエネルギーを消耗して、それ以外のことは、なんだかどうでもよくなるみたいだ。きっと、雀も暑くて、いろいろと、どうでもよくて、我が家の洗濯物の中に自由気ままに脱糞していたのだろうな。     押し葉

火の国の生き物たち

 以前暮らしていた熊本は、なんともいえず南国であった。
 一年の大半は半袖で過ごせるし、もっとも寒い真冬の一時期も、デニムシャツ一枚羽織れば十分に温かい。北欧から仕事で来てる人などは、年中タンクトップと短パン姿(真冬でも)であった。
 四月から十一月までの八ヶ月間は長い夏で、十二月と一月がなんとなく秋なかんじだ。ニ月に入ってわずかニ週間くらいだけ、これは冬かも、と感じる一瞬がある。けれども、すぐに温かくなり春が来て、三月いっぱい、春か、なあ、と感じているうちに、すぐ四月になり暑くなる。そしてまた長い夏になる。

 そんな気候の土地だから、生き物は皆のびのびとしている。お野菜はどれもお日様の味と香りがたっぷりだ。そして大量で安い。果物も年中充実している。植物性食生活に関しては、とても満足度が高い。
 動物性食生活に関して特筆すべきは「馬刺し」だ。肉屋といえば「馬刺し屋」である。スーパーの精肉コーナーにも、豚肉、鶏肉、牛肉と同じ広さの場所を確保して、毎日馬刺しが並ぶ。

 温泉はむやみやたらに湧いているので、公園の噴水も温泉で、涼しいはずの噴水傍が、妙に生温くやや蒸し暑い。温泉には入り放題(有料だが)。お湯は源泉かけ流しがあたりまえ。しかもそのかけ流し具合が、異様に太っ腹。「ちょろちょろ」ではなく、「どばどば」。

 温暖を超えた亜熱帯とも思える気候の土地では、草木もぐんぐん成長する。雑草の背丈は、大人の身長よりも高くなる。「草抜き」というよりは、「草との格闘」と呼ぶのがふさわしい。

 そうやって、植物たちがすくすく育つということは、他の生き物たち、虫たちも、すくすく伸び伸びと、成長なさる、ということだ。

 朝起きて、顔を洗いましょう、と、洗面台で顔を洗う。ぷはーっと、さっぱりして、タオルで顔を拭きながら、ふと、窓の外を見る。と、そこに、極彩色の巨大な「蜘蛛(クモ)」が。
 大きさは手のひらサイズ。脳みそが、ぎゅうううううっと絞られたように緊張する。内心では「うぎゃあっ」と叫んでいるのに、実際には声が出ない。窓の外とはいえ、窓は内側に引くタイプで半分くらいは開いている。いつでもご自由にお入りいただけるつくりだ。
 しかし、そんな巨大な蜘蛛を相手に、何かしようという気にはなれず、とにかく急いで窓を閉める。我が家の窓に飽きて、よそに移動してくれることを、じっと願う。

 当時住んでいた建物は、築数十年の古住宅ということもあり、いろんなところからいろんな虫が出入りなさる。その中で私がもっとも苦手だったのは、柿の葉サイズのゴキブリだ。小さなサイズももちろんいるが、大きな人も闊歩している。いろんなゴキブリ対策をして、出現頻度はだいぶん減ったが、それでも懲りずに出てくる輩がやはりいる。
 夏(といっても長いので、四月だったかもしれないし十月だったかもしれない)のある日、冷蔵庫から、麦茶ポットを取り出して、ガラスのコップに麦茶を注ぐ。夫も私も、ふつうに、ごくごくと、飲む。そして、麦茶ポットを冷蔵庫に片付けようとしたときに、麦茶ポットの麦茶の中に、柿の葉サイズの黒い浮遊物を見つける。入れた憶えは全くないけど、これは麦茶のティーバッグだよねっ、と思いこみたいところだが、どう見ても、足、どう見ても、触角、どう見ても、羽、が認識できる。ううっ。
「どうやらくん! 今の麦茶、中に、ゴキブリが、ゴキブリが、ゴキブリが、入ってたー!」
「ええええええーっ! どうしよう! もう、飲んでしもうたじゃんかー。」
「私だって、飲んでしもうたよー。」
「ひょえー。な、なんで、麦茶ポットの中に。」
「麦茶を沸かして冷ましたやつを、ポットに入れたときには、まだ中におらんかったと思うんよ。たぶん、麦茶ポットの蓋の内側に、私に見つからないようにこっそりと潜んでいたんじゃないかな。そんなところにそんなやつがいると思ってないから、ふつうに洗って乾かしたのをそのまま、まじまじと見ないで蓋してしまったんかも。今度からは、隅々まで見てから蓋をして冷やすことにしよう。」
「ううっ。しばらく麦茶飲みたくないかも。」
「うん。そうじゃね。しばらく何か飲むときには、ビールにしよう、か、ねえ。」
「うん。うん。そうしよう。」

 そんな出来事があったことを憶えてる? と、つい、今朝方、夫に尋ねてみたところ、「いや。まったく憶えてない。そういう忌まわしいことは、記憶から自動消去されることになってるから。」という答えが返ってきた。
「でも、ゴキブリのことは憶えてないけど、ムカデのことは忘れられん。」
「ああ。熊本のムカデは、大きかったよねえ。」
「しかも、勝手に家の中に入ってきて、普通にその辺歩くし。」
「そうそう。それで、その歩く足音が、畳の上だと、パリパリパリッ、ペリペリペリッ、って、スーパーのビニール袋を折りたたむときみたいな音なんだよねえ。」
「なんで、家の中で、ビニール袋をくしゃくしゃするときの音がしてるんやろう、と思ったら、たいていムカデ。」
「あれも大きかったよねえ。肘から手首くらいの長さはあったよね。」
「それに、あの色。ムカデの体の、あの色が忘れられん。緑とも黒とも黄色ともオレンジとも茶色とも、なんともいえないあの色。」
「迷彩色って言うんだっけ? アーミー色?」
「うん。なんかそんなの。殺虫剤かけてみたり、うちわでたたいてみたり、ガムテープでくっつけてまるめたり、いろいろしたよなあ。」
「いろいろ、したねえ。」

 火の国への移住や長期滞在を考えられる方は、お野菜果物馬刺しに温泉三昧の日々と、そして草木と虫たちとの共存共栄の心づもりを、どうぞ十分に、準備して、お出かけくださいますように。     押し葉

みずからがかけるもの

 自らの心身のすこやかさを護るために、かけてもいいのは、尊厳であって、健康や命ではない。

 自分の自尊心を損なうような作用を持つエネルギーには、様々な形がある。自分に対して否定的な言動、という形の場合もあれば、自らの美学や美意識や価値観とどうにもこうにも相容れない、という形もある。

 自分に対して否定的な言動、というのは、まあまあわかりやすく、その認定も対処も、どちらかというと、まだやりやすい。それでももちろん、消耗も疲弊もするものだから、必ずしっかり腹を括って、心づもりを整えて、ことにあたる必要がある。

 けれども、自分とはどうにも相容れないものについては、ついうっかり、気づき損ねてしまうことがある。
 間違いなく瞬時に「これは自分にとっては十分に不愉快である」とせっかく感知したとしても、「みんな仲良く」だとか、「多様な価値観」だとか、「異文化共生」だとか、自分の中で勝手に自己主張している、そういう「人類こうでありたい(かもしれない)」スローガンのようなものに、ついうっかり惑わされる。
 その結果、本来相容れないエネルギーを持つものが、自分の自尊心を損なうことを、あるいは、既に自分の自尊心を十分に損なっていることを、認定することに遅れをとる。
 遅れるだけならまだしも、うっかりした上に弱ったりまでしてしまうと、相容れないものが自分に対して持つ攻撃力を認定する機会を逃してしまうことすらある。

 この世に、自分と異なる価値観が存在するのは当たり前のことである。
 けれども、自分にとって心地よくない価値観や、自分にとって美しくない価値観を基準とした言動が、ただそこに存在しているだけなのか、それとも、必要以上に自分と近い距離にいて、場合によっては自分を攻撃するエネルギーを発したり、自分の健康や自尊心を損なう力になっているかどうか、そのことを見極めることは、おそらく、間違いなく、重要で大切。

 そうして見極めた結果、その価値観を基準とした言動が、少しでも、自分の健康や自尊心を損ねる力を持っていると認定したなら、そのときは、ただちに、すみやかに、自らが、その言動を行う存在との距離を置くよう努める。
 身体的な距離が変わらない場合でも、目に見えないしっかりとした防御壁を建設する。
 それだけではなく、その言動を行う存在の、その言動、そのエネルギーが、自分から遥か彼方に遠ざかるよう、正しく真剣に願うべきだ。

 その存在、多くの場合は人物であるのだろうが、その存在がこの世から消滅することやその存在の健康の低下を願うわけではない。
 その存在の、その価値観を基準とした、その言動、そのエネルギーが、かわることなくこの世に存在するとしても、少なくとも、自分の目の前、自分の身の周りには、立ち入ることがないように、立ち入ることが極めて少なくなるように、自らを防御するだけではなく、自ら離れるだけではなく、そのエネルギーが遠ざかることを、そのエネルギーの現れ方が弱くなることを、正しく真摯に願うべきだ。

 その存在、多くの場合は人物であるのだろうが、その人物がその言動を行うことが不可能で、かつ、その人物にとって不健康で不本意な状況を、願ったり念じたりするわけでは、決して、ない。

 ただ、その存在の、その価値観が、その言動が、そのエネルギーが、自分の身辺から離れること、自分の身辺に立ち入ることを控えること、姿をあらわにしないこと、その結果、自分が穏やかですこやかであること、そのことを、ひたすらに、静かに正しく熱心に願うのだ。

 その存在の、その価値観が、その言動が、そのエネルギーが、もしも離れてゆくときには、その背景に関しても、その状況に関しても、自分は関知しないし、関知する必要もない。その背景や状況が、その存在にとって、本意な場合もあれば、不本意な場合もあるだろう。この世的に、望ましい場合もあれば、望ましくない場合もあるだろう。
 けれど、それは、自分のあずかり知るところではない。そのエネルギーが、自分から離れるにあたり、より速やかであるとともに、その人物にとってもより適切であるように、なにかしら采配するのは、天の仕事であって、自分の仕事ではないのだ。

 だから、いつでも、安心して、きちんと願うべきなのだ。それは、まったく、「恨み」ではなく、「呪い」ではなく、純粋で、正当で、必要な、「願い」であり、「祈り」なのだから。

 自らの自尊心を損なう力を持つものであることを、速やかに認定したならば、すぐに「願い」を開始する。瞬時に「祈り」を発動する。去るべきものに「去れ」と。離れるべきものに「離れろ」と。「ゆけ」と。「控えろ」と。
 決して頼むのではなく、懇願するのでもなく、エネルギーという単純な存在が、正しくその意味を理解するように、すべてにおいて肯定形で、すべてにおいて命令形で、静かに正しく指示を出す。

 直接、その存在、その人物、に向かって、声に出して言わなくてもいい。ただ、たしかに、いつも必ずしっかりと、強く確実に「思う」のだ。
 その結果、その人物が、かわらずそこにいたとしても、その言動が、そのエネルギーが、目の前に現れる頻度が、少なくなるかもしれない。
 その結果、その人物は、かわらずそこにいたとしても、そして、その人物の言動もエネルギーも、かわらずそこにあったとしても、自分の視点や波長が、そのエネルギーの存在と、もはや全く接することがないほどに、遥か彼方に移行するかもしれない。

 どういう形で、どうなるか、それはその場ではわからない。けれども、まずは必ず願うところから、まずは指示を出すところから、きちんと正しく始めたい。
 自分の自尊心を損なうものを見誤ることなく見極めて、そうであることを認定する。認定したら、指示を出す。それだけのことなのだ。

 誰かの不幸を願うのではなく、誰かの不本意を願うのではなく、その人から発せられる、特定の種類のエネルギーが、自分の周りからきちんとちゃんと離れることを、静かに正しく願うだけだ。

 自らの自尊心を護るためには、その手間暇を惜しんではならない。見極めて、認定して、指示を出す。その繰り返しを、怠ってはならない。
 自尊心の損失は、いともいとも簡単に、肉体を、こころを、健康を、生命を、損ない奪いうるものだから。

 特定のエネルギーの、その姿を薄めるために、そのエネルギーを飲み込んで、そのエネルギーを放置して、自らの肉体を、自らのこころを、自らの健康を、自らの生命を、ひきかえに損なってはならない。

 それでも、もしも、うっかりと、うっかりしなくてもなんらかのいきさつで、自らの肉体を、こころを、健康を、生命を、損なったそのときには、命を懸けて、誠心誠意、すべての力を込めて、修復に精を出す。
 けれども、いったん損なってから修復しようとするよりも、損なう前に気づいて対処するほうが、本当はおそらくずっと簡単で、安全性も高くて、きっとさらに省エネ。

 自らの心身のすこやかさを護るために、尊厳をかけてことにあたるのはかまわない。けれども、自分の健康や命をかけたり引き換えにしたりしてはならない。ぜったいに。     押し葉

ドクターフィッシュ

 職場でともに働く薬種商(新薬事法により資格名称は登録販売者へと移行する予定)のおじちゃんと、休日の過ごし方について、ときどき話をする。
 おじちゃんも私も、温泉の日帰り入浴利用が好きなので、あそこはどんなだ、ここはこんなだ、と、情報交換をしては、新しい温泉開拓にいそしむ。
 おじちゃんが「結局、うちの近所の観光ホテルの日帰り入浴が、利用するの一番多いなあ。昼間は人が少ないというか殆どいないし、露天もあるし。」と奨めてくださったので、それでは私も一度は、と、平日休日を利用して、張り切って行ってみた。

 うちからは、車で片道三十分強で少し遠いけれど、海辺をドライブしながら、高台に上がってゆくのは、気持ちいい。
 日帰り入浴利用料金は六百円。タオルは一枚もらえるが、それで足りない分は持参するか、三百円払ってバスタオルも借りるか。夕方五時過ぎると、宿泊のお客さんでにわかに混みだすが、それまではほぼ貸しきり状態。

 脱衣所で裸ん坊になったら、浴場入り口にある給水器で、紙コップに水を入れて、ごくごくと飲む。
 扉を開けて浴場に入ると、目の前はガラス張りの壁。その向こうがわに、よく手入れされた庭が見える。右手にはサウナルーム。左手奥に入っていくと大浴場。大浴場は、天井の高いドームのような明るい造りで、洗い場も半円状に並んでいる。
 素材は全体的にタイルなかんじ。さらに奥に向かうと、ヒノキ風呂の部屋がある。ヒノキ風呂の周りは、このホテル自慢の「畳」。お湯で温まった体で、裸のまま畳の上に寝転んで、うたた寝気分でくつろぐのが人気なのだろうか。枕も何個か用意してある。この畳の部屋の壁際にも、洗い場が並んでいる。どんなふうに畳でくつろげばよいのか、初心者の私にはよくわからない。今度いつか誰かのお手本を見る機会があるといいなあ。

 ドーム型の大浴場から中庭に出る扉を開けると、露天風呂へと繋がる。屋根の付いた石造りのお風呂で、庭の木々や葉や花たちと日の光が絡まる様子を、ぼんやりと眺めながら、体をもんだり伸ばしたりする。

 浴場の入り口に入ってすぐ正面にあるガラス張りの壁の前に、足湯のような設備が整えてある。造りは足湯なのだけど、足をつけるところは、温泉ではない。ぬるめの水の水槽で、中にはドクターフィッシュという魚がたくさん泳いでいる。
 ドクターフィッシュはセラピーフィッシュとも呼ばれるが、歯のない口で人間の角質をついばんで食べてくれる。あちこちで見かけたことはあったのだが、どこもだいたい、利用料金が十五分で五百円くらいはかかるので、なんとなく利用しないままだった。
 だが今回は、六百円の入浴料金で、ドクターフィッシュの利用も込み。それでは、と、初体験してみることに。
 両足を同時に水槽に沈める。わらわらわらわら、と、ワカサギに似た姿のドクターフィッシュたちが、足の周りに群がってくる。が、なぜか、群がってくれるのは、私の左足ばかりだ。なぜだろう。左足に洗い残しの垢が多いのだろうか。それとも、何か身体的に気をつけたほうがいいところが、左足のそのあたりに集中しているのだろうか。
 ドクターフィッシュの体は、そんなに大きくも小さくもなくて、そのまま唐揚げにして丸ごと食べるとおいしそうな魚だ。
 それにしても、くすぐったい。ふしゅふしゅ、ほしゅほしゅ、と、ついばまれるのは、もういいです、満足しました、と、三分もしないうちに、両足とも出してしまう。水槽の中の人たち(ドクターフィッシュたち)に、どうもお世話になりました、と挨拶してから、ドライサウナであったまる。

 それから、また、大浴場に戻り、ドームの真下の大きな湯船で、しっかりと体を伸ばしてから、入浴を終える。お風呂上りにもう一度水を飲んで、着替えて、ホテルの人に声をかけて、駐車場へと向かう。高台に吹く風が、髪に空気をはらませてくれるのが、心地いい。

 翌日、職場でおじちゃんに、行って来ました、の報告をする。
「どうやった?」
「人がいなくて、快適でした。」
「そうやろ。泊まりのお客さんが入ってくるまで、殆ど貸切なのがええやろ。」
「はい。露天ものんびりできました。ただ畳の上でのくつろぎ方が、もうひとつよくわからなくて、なんとなく触っただけで帰ってきました。」
「ああ、あの畳、ホテルのポスターなんかには、ご好評いただいております! って書いてあるんやけど、実際寝転んでくつろいでる人を、僕もまだ見たことないし、自分もわざわざ寝転んでみよう、と、思ったこともないなあ。」
「あと、ドクターフィッシュも初体験したんですよ。」
「おお。ドクターフィッシュ、いるやろ。」
「はい。いっぱいいて、いっぱいつついてついばんでもらいました。でも、あんまりくすぐったくて、数分もお世話にならず、出ちゃいましたけど。」
「そうかあ。あのドクターフィッシュ、前は、もっとたくさんおったんや。それが、どんどんどんどん、数が少なくなって、今の数になってそのままなんや。」
「ええっ、そうなんですか。けっこうたくさんいるなあ、と思ったんですけど。あれですかね。ドクターフィッシュの皆さん、過労で退職されたんでしょうか。」
「うん。たぶん、そうやろう。土日とか、連休とか、泊まりのお客さんが続くと、激務なんちゃうんかな。」
「それにしても、いいところを紹介してくださって、ありがとうございました。うちからはちょっとだけ遠いですけど、あの快適さなら、ぜひまた、ゆっくり通いたいと思いました。」
「そうか、そうか。それはよかった。うちからだと車で五分かそんなもんなんやけど。どうやらさんちからだと、たしかにちょっと距離あるなあ。」
「いいんです。休日のお出かけにちょうどいいくらいの距離でした。」

 自宅でも、夫に、私のドクターフィッシュ初体験談を語る。
「ドクターフィッシュが、人間の角質をついばんでくれるのって、彼らにとっては、食事かなあ、お仕事かなあ? どっちだと思う?」
「えー? そんなん知らん。」
「そんなー。どうやらくん、なんでも聞いてくれ、って言ってたじゃん。ドクターフィッシュのことも教えてよー。」
「あーあ。この人、また、なんか記憶違いしとってじゃわ。何でも聞いて、って言ったのは、お酒のことなら、っていう条件付きであって、それ以外のことは知りません。」
「えー、そうなん? おかしいなー。どうやらくんは物知り博士だと思ったのになあ。」
「おかしいのは、そっちじゃろう。人のことを勝手に、何でも物知り博士にして。」
「まあ、今度は一緒に、行こうよ。どうやらくんもドクターフィッシュのくすぐったさを体験してみてよ。ね。」

 というわけで、次回は、右足も左足も、同じくらいにきれいに洗い上げてから、ドクターフィッシュの水槽の中に、浸けてみよう。     押し葉

点の記感想

 平日休日を利用して映画館に観に行った「劔岳(点の記)」。お客さんは五人。途中から入ってきて次回も観る人三人。

 山も草木も空も雲も、よくあれほどの美しさを見せてくれたことであるよ、と感心する。
 風景にしても存在物にしても、世の中の美しいものたちは、見ようとする眼を持つ人たちや、その姿を何らかの形におさめようと努力する人たちに、その姿を見せてくれる性質がある。そういう人たちの手を通して、こうやって、その美しさを享受できることは、ありがたくて嬉しいなあ、と、しみじみしながら鑑賞する。

 先週だったか、先々週だったか、この映画を、既に見終えている夫(「夫の感想(剣岳)」参照)は、「東映は、いつもあれくらいの作品をコンスタントに作れば、もっと儲かるのに。」と言っていたが、ああいう作品をコンスタントに作り続けるのは、かなりたいへんなことだろう。
 あの作品の製作現場は、相当に危険で命がけだったはずだ。人間そんなに再々しょっちゅう、命をかけなくていいし、かけないほうがいいし、かけてはならないように思う。
 めったにできないことだからこそ、深くなる味わいや感慨は、「コンスタント」という概念とは、おそらくきっとあんまり、相容れないものなのだ。

 明治時代のお話なので、装束も明治時代だ。登山姿も登山道具も現代とは異なる。
 ゴアテック(防寒衣類)もサラファイン(吸湿速乾性衣類)もダウンジャケットも、リュックサックもUVカットサングラスもない(もしかすると俳優さんたちはゴアテックを下に着ていたかもしれないけれど、実際の明治時代の人たちは着ていなかったはず)。
 あんな苛酷な環境に身をおくだけもたいへんなのに、地道に測量の準備と作業と記録を重ねてくださった先人の方たちの力と勇気に感服する。
 測量の仕事というものは、世の中に大いに役立つ割には、誰かから直接絶大な感謝を受けることは少ない仕事だ。少なくとも私はこれまで、測量士さんやその関係者の方たちに「いつもお世話になっております。ありがとうございます。」と、直接挨拶をしたことがない。
 けれど、誰かからの「ありがとう」が、あってもなくても、こつこつときちんと丁寧に、仕事を積み重ねてくれる人たちの力で、この世は成り立っているのだ。
 どこかで何かに、「うわあ!」と、「じわっ」と、思わず感動することがある。「かみさま」とちいさくつぶやいて呼びかけたくなるような、有形無形の大いなる何かに、感謝があふれてとまらないとき、その思いは、そういう先人の方々へ、そして現在そういう仕事を日々地味に担っている人たちのもとへ、向かっているにちがいない。

 そしてやはり明治時代のお話なので、むやみやたらな外来語の使用がなく、テントは「天幕」、テントサイトは「天幕場」と、呼ばれることが好ましい。

 大人にとって、幼い人(小さな子ども)が何かを喜んだり嬉しそうにする姿を見ることは、快楽のひとつであることが多いが、人にとって、仲のよい夫婦の姿を見ることも、心が和むものである。
 主人公(浅野忠信さん)とその妻(宮崎あおいさん)の夫婦仲のよい様子は、たいへんに微笑ましく、「新婚さんっていいなあ。」と思ったが、新婚さんでも旧婚さんでも、夫婦仲良い姿というのは、気持ち安らぐものなのだ。夫婦本人たちだけでなく、二人の姿を見る者の気持ちまでほぐす力がなにかある。

 宮崎あおいさん演じる「柴崎葉津よ」より、鈴木砂羽さん演じる「宇治佐和」様宛に送った手紙には、どんなことが書いてあったのだろう。手紙好きの私としては、この映画の中で、もっとも気になる部分だ。読んでみたいなあ。原作には載っているかなあ。

 そうそう。この映画は音楽も好ましい。なにひとつ邪魔することなく、何かを煽ることもなく、ちょうどよく美しい存在感であった。     押し葉

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どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

ときどき、思い出したように、いただいたメッセージへのお礼やお返事をリンク先の「みそ語り」に書いています。よろしければ、いつでも、どうぞ、どなたでも、ご覧ください。「みそ語り」では、メッセージをくださった方のお名前は書いておりませんので、内容から、これは自分宛かしら、と推理推察しながら読んでいただければうれしいです。手の形の拍手ボタンからメッセージをくださる場合は五百文字以内、文字の方の押し葉ボタンからメッセージをくださる場合は千文字以内となっております。文字数制限なくお便りくださる場合には、下のメールフォームをご利用ください。

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