みそ文

小さな姉妹のお買い物

 小さな女の子二人連れのお客様。年上の女の子は六歳か七歳くらい。大人に質問することも何かをお願いすることもできる立派な面差しの約六歳児。年下の女の子はたぶん三歳か四歳くらい。歩行は自由にできるけれど、会話にはまだまだ不自由が伴う約三歳児。きっと、お姉ちゃんと妹だ。約六歳児のお客様は、片腕に少しだけお菓子が入った買い物篭をさげ、手には「すこやか堂(私の勤務先)」のお客様カードを持っている。反対側の手はしっかりと、妹の手を握り締めている。

「すみません。のみものは、ここだけですか?」と、約六歳児のお客様が、近くを通った私に向かって声をかけてくださる。ここだけ、の、ここ、とは、入り口近くのドリンクストッカーで、500mlペットボトル飲料ばかりが並んでいるところだ。

「はい。こちらは、この大きさのものばかりになっています。もっと大きな、2Lのものでしたら、お店の奥のほうにありますが、どのようなものをお探しですか?」
「ヨーグルトをさがしています。」
「ヨーグルトは、すぐ隣の、こちらのストッカーに入っていますが、食べるヨーグルトでしょうか。それとも飲むヨーグルトですか?」
「のむほうのヨーグルトです。」
「飲むほうですね。えーと、ここはプリンとゼリーで、こちらは食べるヨーグルト。ごめんなさい。あと上のほうにある飲み物は、紙パックの野菜ジュースと豆乳とピクニックのシリーズで、ヨーグルト味のピクニックはありますが、飲むヨーグルトはありませんでした。」
「そうですか。じゃあ、いいです。これだけ、かいます。」
「ありがとうございます。では、レジでお願いします。」

 お姉ちゃんのほうがレジに向かおうとし、私は作業に戻ろうとした、そのとき。約三歳児の妹が、「んがう。あれ。あれっ!」と上のほうを指差して、お不動さん(頑として、その場から動かない状態)になられる。お姉ちゃんは、「ここにはのむヨーグルトはないから、あとで、むこうのスーパーにいこう。あっちなら、のむヨーグルトもあるから。」と説明するが、約三歳児お不動さんは、「がう。あれ。あれっ!」と最上段のピクニックシリーズを指差す。

「これでいいの? ヨーグルトテイストってかいてあるけど、これはのむヨーグルトじゃないよ。カルピスみたいなぶんよ。ちゃっちゃん(妹の仮名)は、のむヨーグルトがほしいんやろ?」
「いやっ。これ。これっ!」
「ほんとうにこれでいいん?」
「いい。これ。これっ!」
「わかった。じゃあ、これかおう。」
「これっ。かうっ。これっ!」

 背伸びして、ストッカーの最上段の棚から、ピクニックヨーグルトテイストを取ろうとするお姉ちゃんのそばに近づき、ひとつ取って差し上げる。

「ひとつでよろしいですか?」
「はい。いっこでいいです。」

 お姉ちゃんがカゴの中に入れようとしたピクニックヨーグルトテイストを、妹が素早く横取りする。そしてそのままお店の外へと駆け出そうとする。

「こら。おかねはらわずにもってでたら、ぬすみよ。どろぼうよ!」

 妹は、お姉ちゃんの叱責の声に反応したのか、それとも「どろぼう」という怖い意味の言葉に怯えたのか、くるりときびすを返して駆け寄り、お姉ちゃんに抱きつく。でも、ピクニックヨーグルトテイストは、しっかりと握りしめたまま。

「あそこで、おかねはらったら、もってかえっていいんよ。」
「……。」

 お姉ちゃんは、黙って抱きついたままの妹と、二人で一緒にレジに向かう。レジ担当の同僚に、「お客様のお会計、お願いします。」と声をかける。小さなお客様は、背の高さがまだレジカウンターよりも少し大きいくらいだし、さらに小さなお客様は、レジカウンターの高さに全然及ばないちびっ子だ。
 レジ担当者は、少し背をかがめて、お姉ちゃんとも妹とも目線の合う高さになってから、「いらっしゃいませ。すこやか堂のカードはお持ちですか?」と尋ねる。お姉ちゃんが「はい。これです。」と、ずっと片手に持っていた会員カードを手渡してくれる。

「すみません。こっちの、この、これ(妹が握り締めているピクニックヨーグルトテイスト)だけ、シールをはってください。ほかのはふくろにいれてください。」
「はい。承知いたしました。では、レジを通しますので、手にお持ちのピクニックを、ちょっとだけ貸してくださいね。ピッってしたらすぐにお返ししますからね。」
「ほら。ぴって、してもらうよ。かして。」
「はい。ありがとうございました。ここにお店のシールをはっておきましたからね。このまま持って出てもらって大丈夫ですよ。では、他のものもお会計しますね。」

 お姉ちゃんは、その後ちゃんと、合計金額よりも少し多い金額のお金をレジに出し、おつりのお金とレシートを受け取り、きちんとお財布に片付ける。そして、体に斜めがけにしている紐の長いポーチのようなものの中に、会員カードとお財布を入れる。それから、片手に買い物袋を、もう片手に妹の手を、しっかり持って出口に向かう。妹は片手にピクニックヨーグルトテイストを握りしめて、もう片手はおねえちゃんの手を握りしめて、嬉しそうに、スキップ風の、でも全然スキップになってないステップで、出口に向かう。

 お買い物ひとつといえども、社会的な学習要素が、たくさんあるものなのだなあ、と、感心しつつ、お辞儀をしつつ、お見送りする。お気をつけてお帰りくださいね。ありがとうございました。     押し葉

大人用浣腸剤

 職場にて、高校生アルバイトの女の子が、小走りに私のところに近寄ってくる。

「どうやら先生。お客様が、浣腸剤をお探しなので、お願いしてもいいですか?」
「はいはい。もちろんです。どちらのお客様でしょう。」
「あ、はい。あちらでお待ちの、女性の方です。お呼びしてきます。」

 お客様は、ビールの冷蔵ストッカーの前に立っておられる。お待たせいたしました、と声をかけてから、お通じ関係のコーナー(下剤と浣腸の場所)へとご案内する。

「お使いになるのは、大人の方ですか?」
「え? はい。大人です。」
「通常の大人用ですと、2本入り、5本入り、10本入り、24本入り、とあります。」
「え? そんなに種類があるんですか?」
「はい。通常はこちらの30mlを使うのですが、さらに体格大きめの方や、症状が重い方向けには、量の多い40mlを使います。」
「あれ? これって、もしかして、浣腸ですか?」
「はい。浣腸です。」
「もしかして、聞き間違い?」
「え? もしかして、お求めのものは、浣腸ではありませんでしたか?」
「はい。さきほどの女の子に、タカラのカンチューハイはありますか、って訊いたつもりだったんですけど。」
「カンチューハイ、でしたか。それは、大人用ですよねえ。たいへん失礼いたしました。申し訳ないです。チューハイでしたら、先ほどのビールが入っているストッカーに。」
「はい。他のチューハイはあるんですが、タカラのが見つからなくて。」
「そうでしたか。そういえば、チューハイはプライベートブランドのだけになっていたかと。今一度確認してみますね。」

 さあーっと、ドリンクストッカーを一通り見渡して、やはりタカラ商品は見つからない。

「申し訳ないのですが、飲料担当の者にも確認してまいりますので、もう少しだけお待ちいただいてもよろしいでしょうか。」
「はいはい。待ってます。」

 事務所で仕事をしている飲料担当の同僚に、「すみません。お客様がお求めなんですけど、うちには、タカラのカンチューハイは、置いてないんでしたっけ?」と訊いてみる。「そうなんですよ。すみません。前回の棚替えから、チューハイはプライベートブランドのだけになりました。」

 すぐにお客様のところに戻り、お詫びして、その旨説明申し上げる。

「ああ。いいのいいの。ないならないで。前にはあったような気がしたから、あるかなあ、と思っただけなんで。」
「すみません。それにしても、カンチューハイなのに、浣腸のところにご案内するだなんて、大変失礼いたしました。」
「さっきの子、カンチューハイがカンチョーに聞こえたんかな。くすくす。」
「ああ。カンチューハイ。だから、浣腸ではなくて、わざわざ浣腸剤って言っていたのかも。ちょっと珍しい言い方だとは思ったんです。私もその場で確認するべきでした。本当にすみませんでした。バイトの者にも、以後、落ち着いて聞き取るように、よく指導しておきますので。」
「カンチューハイ。浣腸剤。くすくす。」

 店員の失態も面白がってくださるお客様でよかった。ありがたい。そうそう。「よく指導しておきますので。」と申し上げたからには、ちゃんと伝えておかなくては。アルバイトの女の子が、売り場に戻ってきたときに声をかける。

「先ほどの、浣腸のお客様なんですけど、お求めなのは、浣腸ではなく、タカラのカンチューハイでした。」
「え? カンチューハイ、浣腸剤。うわっ。すみません。私、聞き間違い。」
「大丈夫ですよ。未成年だと、お酒のことはわかりにくいですし。お客様には、お詫びして、タカラのカンチューハイの取り扱いがなくなったことも、ご説明さしあげましたから。」
「すみません。すみません。すみません。(ペコペコと頭を下げる。)」
「そんなに気にしなくても大丈夫ですよ。今度は、もうちょっとだけ落ち着いて、確認してみてくださいね。便秘のときに使うお薬の浣腸ですよね? ってかんじででも。そうしたら、きっとその場で、お客様も、いやいや、お酒のカンチューハイよー、もうー、って、言い直して教えてくださると思いますので。あと、浣腸のことは、ふつう浣腸とは言っても、あんまり浣腸剤とは言わないので、それもおぼえておいてくださいね。」
「はいっ。わかりました。気をつけます。本当にすみませんでした。すみません。(さらにペコペコペコペコ。)」
「そんなに気にしなくても大丈夫ですって。よかったら、お客様からお問い合わせがあったときには、気持ち一呼吸置いて、落ち着くように、してみてください。そうしたら、きっと余裕を持って、お客様の声が聞こえるようになりますよ。」
「はい!」

 だいじょうぶ。だいじょうぶ。そんな些細なミスくらいは、私が、私たちが、どうにでもカバーするから。落ち着いて仕事に取り組む練習を重ねていってね。そして、将来本格的に、社会で働くそのときには、丁寧に誠実に、いい仕事をする人になっていってくれますように。     押し葉

流刑饅頭

 数年前の新潟県佐渡島(さどがしま)旅行。

 自家用車ごとフェリーに乗って島に渡る。
 広くて見晴らしのよい快適な宿に連泊して、気ままに車で出かけてみたり、宿に戻って、そんなに大きくない大浴場のハーブ湯に浸かってから、お昼寝をしてみたり。
 今日はそうだなあ、島の周囲をぐうるりと、海岸線に沿ってゆっくり、車で走ってみようか。
 走り始めてしばらくして、途中から、路線バスの後ろを走る。バスの車体に貼り付けられた広告ポスターを眺めながら、ゆったりのんびり走行する。道路端には菜の花。どこまで走っても、珍しく明るく穏やかにさざなみ続ける日本海。

 バスの車体後部のポスターは、佐渡島名物のお饅頭の広告だ。あまりに捨て身なその菓子の名に、私は心打たれる。

「どうやらくん。見て。あのお饅頭の名前、すごいね。流刑饅頭だってよ。いくら佐渡島が、昔は流刑地だったからって、饅頭の名前に、流刑、を持ってくるだなんて。そこまで捨て身になるなんて。佐渡島の人たちの、観光業に対する並々ならぬ意気込みを感じるね。」
「はあ? みそきちどんさん、なに言ってるん? どこに流刑饅頭なんて、書いてあるん?」
「だから、ほら、目の前を走ってるバスの後ろ。ほら。あれ?」
「饅頭の広告はたしかにあるけど、どこにも、流刑、なんて書いてないぞ。」
「あれ? あれれれ? 流刑は、どこに行ったんだろう? それとも変身した? さっきまで饅頭の前に流刑の文字があったのに。」
「最初から、流刑、の文字は、どこにもいません。変身もしてません。」
「あれ? じゃあ、佐渡島の観光業への意気込みは?」
「それも、そんなに、いうほどじゃあないんちゃう? それなりには頑張ってはるとは思うけど。佐渡島って、なんか島全体の時間が妙に間延びしてるじゃん。まだ二日しかたってないのに、ずいぶん長く滞在してる気がするもん。くつろぎは感じるけど、意気込みは、感じんなあ。」

 おかしいなあ。流刑饅頭。意味はともかくとしても、「るけいまんじゅう」のその音は、つるりと滑らかで、とてもおいしそうだったのに。私の脳内では、やや光沢のある薄皮の、一口サイズのお饅頭が、すっかりイメージできていたのに。見つけたらすぐに買って食べてみようと思ってたのに。

 お饅頭はたくさん食べ過ぎてしまうと、ああ、食べ過ぎてしまった、と、反省モードに入りがちだ。
 けれども、流刑饅頭は、なんといっても流刑だから、お饅頭を食べるのも、何かの罰のひとつなのだ。罰としてのお饅頭だもの。粛々と、その罰を受けなければならないのだ。
 ひとつ何かを反省するたびに、流刑饅頭をひとつ食べる。お饅頭を食べたいから反省するのか、反省したいからお饅頭を食べるのか、よくわからなくなるあたりも、流刑饅頭ならでは。
 ううむ。そのへんの遊び心まで、なかなかによくできた観光菓子だと思ったのに。その遊び心ゆえ、人気の土産菓子だと思ったのに。幻だったとは。
 佐渡島おそるべし。     押し葉

旅のおやつ(さざえ)

 数年前の新潟県佐渡島旅行。

 自家用車ごとフェリーに乗って島に渡る。
 島では毎日、「日本海の幸」三昧。ちょっとした土産物屋さんでも、お手軽な回転寿司屋さんでも、私の大好きな「さざえのつぼ焼き」を気軽な値段で食べられる。
 十時のおやつにさざえのつぼ焼き、お昼ご飯にさざえのつぼ焼き、三時のおやつにさざえのつぼ焼き、夕ご飯にもさざえのつぼ焼き。
 夫は「いくらなんでも食べ好きなんちゃう?」と心配してくれるけれど、大丈夫、大丈夫。一個一個はちっちゃいし。

 土産物屋の店先で、ちょろりとベンチに腰掛けて、はむはむほむほむと、さざえのつぼ焼きを頬張っていたとき。
 通りすがりに私の姿を見た小学生男子が、同行の両親に向けて、大きな声で訴える。「お父さん! ぼく、サザエ食べたい! サザエのつぼ焼き食べたい!」。
 しかし少年の父親は、「サザエなんて食べんでいい! あんなジャリジャリしたもん食うな。全然うまいことないやろ。こういうところでは、ソフトクリームを食っとけばええんや!」と豪語する。
 少年は「ソフトも好きやけど、サザエ……。」と意気消沈。

 ああ。少年よ。今はまだ、自分が一番ほしいものを、ほしいときに、手に入れることは、難しいかもしれないけれど、大きくなって、働いて、お金をためて、自力で旅行に行くようになれば、ある程度、好きなときに好きなものを、食べたり飲んだりできるからね。さざえもこうやって自由自在に頬張れるようになるからね。大人になるって素敵だよ。地道にこつこつがんばって、いろんなことが自分でちゃんとできるように、大きくなっていくんだよ。応援してるね。はむはむ。ほむほむ。     押し葉

まつげが焦げる

 私が働く職場には、季節ごとに現れては消える商品もあれば、季節を問わず定番にいる商品もある。中には、一応通年取り扱いはしているものの、特定の季節には展開面積が広くなり、その季節が終了すると、小さな面積で少ない在庫になるものもある。そのひとつに、「めぐリズム蒸気でホットアイマスク」という商品がある。わりと近年に発売されたものであり、眼精疲労対策用品に分類されるだろうか。
 仕組みとしては、使い捨てカイロの、温度がとても低いものを、目の上にのせるのにちょうどよい大きさと薄さにしてあるもの。両目を閉じて、ホットアイマスクをのせると、じんわりとあたたかくなって、目の疲れがとれて気持ちいいよ、という商品だ。
 ホットアイマスクの暖かさは、10分程度で自動終了するので、あまりの気持ちよさに、そのまま寝てしまっても大丈夫。もちろん低温火傷の心配もない。

 ある日のこと。
 売り場で、お客様(若い女性の方)が、その「蒸気でホットアイマスク」を手にとっては棚に戻し、また手にとっては眺めて、を繰り返しておられる。このシリーズは、無香料タイプと、ラベンダーの香り、と、カモミールの香り、の、三種類がある。どの香りにしようか迷っていらっしゃるのかしら。たしか香り見本のボトルがあったはずだから、ご案内してさしあげよう。そう思って、声をおかけしてみる。

「もし、よろしければ、こちらの香り見本で、ラベンダーとカモミールの、香りを確認してくださいね。」
「あ、いえ、香りは、要らないんです。無香料でいいんですけど。」
「何が気になることがありますか?」
「ええ。これって、まぶたの上にのせる、ってことですよね。」
「はい。そうです。目の上にのせると、じんわりあたたかくなって、とても気持ちがいいんですよ。」
「でも、これって、まぶたの上で熱くなりすぎて、まつげが焦げたりしませんか?」
「まつげ、ですか。いえ。焦げません。そんなに温度が高くはなりませんから。」
「でも、あたたかくなるんですよね。」
「はい。あたたかくはなりますが、熱くはなりません。せいぜい四十度前後の、お風呂のお湯の温度くらいまで、です。」
「そうですか。箱にもそうは書いてあるんですけど。どうしても心配なんです。まつげが焦げたら嫌なんです。」
「まつげが焦げるのは、嫌ですよねえ。でも、お客様、こちらの商品をご覧になってるということは、目の疲れ対策を何か考えておられるということですよね?」
「はい。まあ。できれば、何かちょっと、と思って。」
「もしも、こちらのホットアイマスクみたいに、勝手に暖かくなるものが怖い気がするようであれば、ご自宅にあるハンドタオルかなにかを少し熱めのおしぼりにして、まぶたの上にのせてくださってもいいんですよ。」
「え? 買わなくても、自分ちにあるものでできるんですか?」
「はい。もちろんです。好きな温度のお湯にハンドタオルを浸して絞ってもらってもいいですし、普通の水にぬらして絞ったものをビニール袋に入れて、電子レンジでお好みの暖かさに加熱してくださってもいいです。」
「ああ。そうか。そうですよね。」
「まぶたの上をあたためてやるだけでも、目の疲れは、ずいぶんラクになりますが、もしも、もうひと手間かけていただけるのであれば、冷たいおしぼりも同時に用意して、暖めて、冷やして、暖めて、冷やして、を繰り返すと、さらにすっきりと調子がよくなりますよ。」
「冷やすのは氷水でですか?」
「はい。氷水でも、水道水でも。冷や冷やにしたいときには、水にぬらして絞ったものを冷凍庫で冷やしておくのもお奨めです。」
「それなら、買わなくても、自分でできますね。」
「はい。ただ、おしぼりは、濡れていますから、そのまま眠ってしまったりすると、おしぼりがお布団に落ちて、お布団まで濡れます。その点、こちらのホットアイマスクだと、そういう心配はありませんね。あと、外出先でもどこでもすぐに使えるのが、こちらの商品のメリットです。」
「そうかあ。でも、とりあえず、自分ちのハンドタオルでやってみます。」
「そうですか。もしも、外出先で目の疲れが気になるときには、自分の両手を、ただ、こう、重ねて、まぶたの上に軽くのせてやるだけでも、ぐっと疲れがとれますから、それも試してくださいね。」

 そんな会話がお客様との間であったんですよー、と、花王(蒸気でホットアイマスクのメーカー)の営業の人に話したら、「まつげが焦げるとか、そんな怖い商品、作るわけないじゃないですか!」とのことだった。     押し葉

大切な春雨

 少し前に、リンク先の「みそ記」に書いた、「豚キャベツ春雨炒め」のレシピ紹介日記。我が家では、そのおいしさにすっかりハマり、いつでも再現できるように、これまでは常備していなかった春雨を、何個か買い置きするまでに。

 我が家以外のところからも、実際に作ってみたよ、の知らせがやってくる。
 ある友人は「私はこのままでおいしいと思ったけど、上の子は、お母さん、これは、コショウをかけて食べるほうがもっとおいしいと思う、と言ってコショウをかけ、お父さん(子どもたちにとっての父。友人にとっては夫。)は、ピリカラにしたらおいしいはず、と言って一味唐辛子をかけたけど、それぞれが各自の味に大満足して、ぱくぱく、いっきに食べたよ。また作るね。」とメールに書いてくれている。そうか、そうか。それはよかった。

 そしてまた、別の友人からのメールには、「みそさんがみそ記で教えてくれた豚肉とキャベツの炒め物を作ってみたら、本当にやみつきになるおいしさだったよ。これからはたびたびうちの食事に登場すること間違いなしです。本当はもっと早く作りたかったんだけど、しばらくキャベツが一個200円以上してて、なかなか買えなくて。でも昨日やっと、小さめだけど100円で手に入ったから作ってみました。これからもまた、簡単でおいしいメニューを教えてねー。」と書いてある。
 そうか、そうか、それはよかった。けれど、ん? ちょっと待てよ。「豚肉とキャベツの炒め物」って書いてあるなあ。あのメニューにおいて、かなり重要なのは、春雨の存在だと思うのだけど。春雨のことは、たまたま書き忘れただけなのか、それとも本当に入れ忘れたのか。気になる。気になる。これは、メールを返信がてら、質問してみよう。

「おいしく食べてもらえてよかったー。ところで、春雨もちゃんと入れたー? キャベツはできれば、一玉198円以内で購入したいよねー。」送信。

 友人から返ってきたメールは、「キャベツの許容価格が、みそさんと一緒でうれしいわ。あっ。春雨、忘れてたよー。まだ豚肉もキャベツも、春雨も、あるから、明日のお昼に作ってみようかな。ありがとう、春雨のこと、思い出させてくれて。また作ってみたら、報告するねー。」

 ああ。やはり。豚肉とキャベツだけを炒めて、醤油だけで味付けたのか。いくら、手順の少ない料理が好きな私でも、そのレシピを日記に掲載することは、なかなか思いつかないぞ。
 うーん、うーん、と、唸りながら、パソコンを見ていると、夫が「どうしたん?」と訊いてくる。

「あのね、みそ記に書いた、豚キャベツ春雨炒め、を作ってみたよ、おいしかったよ、って、メールもらったのはいいんじゃけど、肝心の春雨を入れてなかったらしくてねえ。」
「ええ? それって、豚肉とキャベツだけ炒めて醤油をかけただけ、ってこと?」
「うん。そういうことになると思う。醤油を全体に馴染ませてるとは思うけど。」
「それは、あんまりやろう。」
「いや、それはそれで、おいしいとは、思うんよ。」
「うまいかもしれんけど、俺が大学生で自炊してたときでさえ、豚肉とキャベツを炒めて醤油をかけただけ、なんてものは作ったことがないぞ。塩コショウするとか、ニンジンとモヤシも入れるとかしてしまうぞ。」
「たしかに、他のものは入れるな。味付けは醤油だけにしろ。とは、みそ記でも注意書きしたけど、春雨を抜け、とは書いてないんだけどなあ。」
「あのメニューで春雨がなかったら、あのメニューの意味ないじゃん。」
「うーん。不思議だよねえ。あ、あれかな。みそ記やみそ文を読んでくれるとき、パソコンからじゃなくて、携帯画面で見てくれてるから、内容が見にくいのかな。携帯だと、読み落とししやすいのかな。」
「そうなんかあ? 見たことないけんわからんけど。」
「私もわからんけど。あれ? でも。最初に、作ってみたよ、おいしかったよ、コショウや一味を入れた人もいたけどね、ってメールくれた人も、携帯でみそ文やみそ記を見てくれてるんよねえ。なんでじゃろうねえ。レシピを読むときには、春雨のこともちゃんと読んで、春雨も買ってきて用意したのに、作るときに、春雨だけが、頭の中から消滅したんかねえ。」

 なにはともあれ、次回は、ちゃんと、かなり大切な春雨も入れて、「豚キャベツ春雨炒め」を作ってもらえますように。     押し葉

口癖は、しまった!

 夫は、ふとしたことで、「しまった!」と口走る。
 結婚して十年目くらいまでは、私もそのたびに、いちいち、「えっ。どうしたん? 何があったん?」と、少し驚いて問い返していた。しかし近年に至っては、「はいはい。今度は何ですか?」と言えばいうし、それも言わずに、次に彼がどう言うか、黙って待っていたりする。

 私にとって、「しまった!」という言葉は、かなりうっかりして、相当困った状況になったときに使う言葉だ。だから、「えっ。どうしたん? 何があったん?」と、少しどきどきしながら、以前は夫に訊いていた。
 けれども、夫の返答は、「今日は、カープの試合がテレビであったのに、見るの忘れとった!」だったり、「今日はカープが勝ったけん、スポーツニュースを見るつもりじゃったのに、うたた寝しとるうちに終わってしもうた!」だったりするのだ。もはや私には、いったい何が「しまった!」なのか、心の底からわからない。

 そんな夫の、最近の「しまった!」は、沖縄旅行から帰ってきてからのこと。
 夫が「ああっ、しまったー!」と言うのが聞こえて、しばらく、じっと、夫の姿を目で追う。夫は居間の隣の和室から、CDを持ってきて、「ほら、これ、見て。」と私に言う。彼の好きな「ケツメイシ」という音楽グループのCDだ。別にCDは壊れているふうでもないし、何が「しまった!」なのか、私には全く予想がつかない。

「ほら、これ。ここ。この場所。沖縄の首里城の階段の前じゃろ。ケツメイシのCDジャケットは、季節や着てるものは違っても、場所は毎回同じところで、首里城の階段のところじゃったんよ。かー。沖縄に行く前に、このことに気づいていれば、ケツメイシと同じ場所で写真撮っといたのにー。知らんかったー。」

 ケツメイシのCDジャケットと同じ場所で写真を撮ることの喜びも、私には、もうひとつふたつわからないが、ここは仲良し妻として、和やかに応えたい。

「そうか。じゃあ、また、一緒に沖縄に行こうよ。また、首里城、行こうよ。今回はどうやらくん、首里城に、ちゃんとカメラ持って行ったけど、フィルムがいっぱいになったやつを持って行ったけん、一枚も写真が撮れんかったじゃん。もしも、旅行前にCDジャケットのこと知ってても、フィルムがなかったら、やっぱり、撮れんかったじゃろ。むしろ、ケツメイシのCDジャケットの背景のこと、気づかずに行ったけんこそ、あのときにも、ああ、フィルムいっぱいじゃったー、だけで済んだんじゃん。よかったじゃん。長生きして、また今度のお楽しみにしようや。」
「そんなにフィルム、フィルム、言うなー。そんなん言うなら、今度こそ、デジカメ、買う!」
「そうなんやー。いいの買えるといいねー。そしたら今度は、充電を忘れんようにしたらいいねー。」
「人のこと、忘れん坊、みたいに言うなー!」

 うーん。なにやら、何を言っても、お気に召さないようである。しかし、かといって、「うわーん。残念。私も、ケツメイシと同じ場所で、写真撮ってほしかったのにー。」と言ったのでは、嘘過ぎるしなあ。なんて言えばいいんだろう。
 あ。そうか。あんまり多く語らずに、「そうか。それは残念じゃったね。また一緒に沖縄行こうね。今度はあそこで写真撮ろうね。」だけ言えばいいのか。やれやれ。しまったな。     押し葉

たますじ

 友人は、二人の息子を育てている。二人の男の子たちは、私と同じく、ズボンをはくときにジャンプする人たちだ(「ズボンでジャンプ」「ジャンプ遺伝子」参照)。
 特に上の男の子は、なにかというと、「僕とみそさんは、よく似てるけん。仲間じゃけん。」と言うのだそうだ。ズボンジャンプ以外に、何が似ているかというと、体が痒くなるところ。アレルギー体質による皮膚炎や痒みの症状が出るのだ。私の場合は、彼に比べると、ずっと、長年自分の体を研究してきていることもあり、最近では、そんなにひどい痒みに苦しむことはない。

 それでも、ときどき、ジャガリコ(スナック菓子)を食べるとたいてい痒くなる。そのときの体調にもよるのだけれど、食べれば、多かれ少なかれ、痒くなるのはわかっている。わかっているけど、どうしても食べたいときには食べる。
 昔はUFO(カップ焼きそば)を食べると、頭皮に炎症がおきて痒みが生じていたけれど、食べたいときには食べた。最近では、UFOはまったく欲しいと思わないから食べないけれど、ジャガリコはたまに欲しくなるので食べる。すると、痒くなる。そして、痒み止めの薬を飲んだり塗ったりする。

 体が痒くなると、体が全体的に熱くなる。炎症性発熱だろう。少しでもラクになりたくて、太ももの内側などを、夫の体の冷たい部分に、ぴたあっと、くっつけてみたりする。そうやって涼をとると(冷やすと)、痒みがマシになるのだ。
 夫は、そのたびに、とても嫌がる。「あついー。みそきちの熱で、こっちの細胞が壊れるー。やめてくれー。」と言いながら、体をよじらせて逃げてゆく。私は「これは夫婦のスキンシップよー。ちょっとくらい、冷い(ひやい)の分けてくれたっていいじゃん。私たち仲良しじゃろ?」と粘るが、夫は「スキンシップとか、嘘言うなー。痒くて熱いけん、涼をとりたいだけじゃろーがー。仲良しかどうかとこれは別。冷凍庫から保冷剤出して冷やせばいいじゃん!」と断言する。
 ちっ、ケチな男だぜ、と、心の中で舌打ちをする。

 という話を友人にしたら、「ああ。みそさん、ほんとに、うちの子も、そう。ジャガリコ食べると、痒いのがひどくなるのに、食べるん。痒くなっても、好きなんよ。皮膚科の先生も、自分で自分が痒くなるものを把握して、調整する力をつけていくしかないんですよ、って言うてんよ(おっしゃるのよ)。それなのに、これ食べたら痒くなるってわかってるものも食べてしまうんよ。それで、夜中に、体が痒い痒い、言うて、寝れなくなって、お母さん薬塗ってー、お母さん、熱いようー、って、裸ん坊になって、涼をとろうとするんよ。私の体に、ぴたあって、くっついて。」

「うん、うん。わかるよ、わかるよー。」
「でもね、うちの子は痒くなると、肛門とか陰嚢とかが、特にかゆくなるみたいなんよ。」
「あー。皮膚でも柔らかいとこや、粘膜に近いところは、特に痒くなりやすいかも。」
「そうなんや。だからなんや。ほんまに痒いんやね。でね、お母さん、痒いよう、熱いよう、って、肛門と陰嚢を、私の体に押し付けるん。」
「そ、それは。痒いんやろうし、熱いんやろうけど。」
「みそさんも、うちの子と仲間ってことは、どうやらくんの体に、肛門とか押し当てるん?」
「押し当てません! ちゃんとパンツ穿いてます!」
「そうなんやあ。うちの子は、痒い痒いって、素っ裸で、一晩中、私の体から涼をとってる。」
「まあ、それで、眠れるんなら、今のうちは、そうしながらでも、少しずつ、大きくなるまでに、自分で痒み対策できるようになるといいねー。」
「でもね、みそさん、私の体もね、もう、そんなに、ピチピチってわけじゃないけん。一晩中、肛門や陰嚢を押し付けられるとね、翌朝になっても、肌に肛門のしわとか、陰嚢のすじとか、痕(あと)が残るん。それがね、なかなか、消えんのん。でね、それは、ちょっと、勘弁してほしいん。」
「ええと、それは、なんというか、冷やしてもらえれば、痒いのは、すっごいラクなんじゃろうけど。まだ、今は、肛門のしわや、陰嚢のすじの痕を残すのが、母親の体じゃけんいいかもしれんけど。大きくなって、恋人や結婚相手と一緒に寝るようになったときには、その癖は、やめたほうが、いいと思う、ね。」
「じゃろ? みそさんも、やっぱり、そう思う?」

 私もそう思うけど、私でなくてもそう思う、と思う。     押し葉

新型マスクの提案

 今日も一日マスクなしの営業。医薬品コーナー前とマスクコーナーには、「ただいま品切れ中です。入荷予定も未定です。申し訳ございません。」の案内を貼ってある。それをぱっと見て、そのままお帰りになるお客様もいらっしゃれば、「やっぱり、ないんですか?」「いつになったら入るんですか?」と声をかけてくださるお客様もいらっしゃる。

 医薬品コーナーは、店内でも入り口から、一番離れたところにある。入り口から、てくてくと、さらにてくてくと、歩いて来てみたら、「マスクはありません。」と書いてある。それでは、マスクの有無だけ知りたい人にとっては、余計に腹が立つのではないだろうか。そう思って、店長に相談してみる。

「店長。今、マスク品切れです、のご案内を、医薬品コーナーとマスク売り場には掲示してあるんですけど、お店の入り口入ってすぐのところにも、目立つように掲示してみてはどうでしょうか。入り口で、マスクがないことがわかれば、奥まで探しに行く無駄な動きをしなくて済む分、お客様のがっかり感も、多少は少なくて済むのではないでしょうか。」
「入り口ですか。できることなら、とりあえず、店内に入っていただくだけでも入ってもらいたいのが本音ではあるんですが。一応お店に入ってもらって、マスクがあるかないか訊いてもらって、それでマスクはなくても、何か他のものを買ってもらえるかもしれませんし。」
「いえいえ、店長。マスクだけをお求めのお客様は、マスクがないと知ると、すぐに、他のお店に向かわれます。それに、ああ、そうか、店長は、一昨日お休みだったから、まだ報告してなくて、ご存じないんでしたね。実は、一昨日、マスクがないことに激怒したお客様が、売り場で延々と私に向かって怒鳴り続ける、という出来事があったんですよ。マスクが用意できないなら、お店をするのをやめてしまえ、って。非常にお怒りでした。」
「えっ、うわっ、そうなんですか。そんなことがあったんですか。全然知りませんでした。それはいけません。そういうことなら、すぐに作って掲示しましょう。」
「ありがとうございます。たぶんそれで、スタッフのマスク対応の仕事が減れば、みんなの通常業務も、もっと捗るかもしれません。今は何かしてても、すぐに、マスク対応で仕事が中断していますから。」
「わかりました。じゃあ、紙は一番大きいサイズで。じゃあ、マスク売り場の案内のサイズも、今の大きさから、一番大きいのに変更しましょう。」
「はい。了解です。では、両方に掲示しますね。」

 という経緯の後、お店入り口にも掲示。こころなしか、その後の、マスク問い合わせが減ったような気がする。今日は、新しい企画の売り場も、二ヶ所作成できたし、とても仕事が捗った。ああ、今日もよく働いた。よかった。
 そう思っていたら、「すみません。入り口にも、マスク売り場にも、マスクないです、って書いてあるけど、やっぱりないんですか?」と、お客様が声をかけてくださる。

「はい。そうなんです。すみません。」
「入荷予定も未定って書いてあるけど、そうなんですか?」
「はい、そうなんです。基本的には、薬関係の荷物は、火曜日の夜と金曜日の夜に入ってきますので、マスクもそのときに、入れば入るんです。でも、今は、マスクに関しては、こちらからは、いっさい注文が受け付けてもらえないので、入ってくるかどうかは、そのときそのときの、本部での在庫確保状況次第なんです。在庫が確保できれば、各店に少しずつ配分があるかもしれない、という状態です。」
「じゃあ、明日の夜、来たら、入ってる?」
「ええと、今日は、金曜日ですよね?」
「そう、そう、今日が金曜日。」
「では、今日の夜に入れば入ってきます。たとえ今夜少し入荷したとしても、売り場に出すと同時に、個数制限していても、数分以内に完売してしまうような状態なので、本当にタイミングよくご来店くださった方にしか、ご提供できないのもつらいところです。」
「どっちにしても、今日の夜は、もう来られんなあ。土曜日とか日曜日には、入ってこないの?」
「金曜日の次は、火曜日の入荷になりますねえ。」
「ああ、そんな、火曜日までに、罹ってしまったら、どうしたらいいんやろう?」
「ええ、もう、それは、罹ってしまったときには、ちゃんと養生して治しましょう。予防のためにも、治療のためにも、今は、ご飯をちゃんと食べて体力つけて、しっかり眠って気力を整えておきましょう。」
「はっ。そうかあ。そうよねえ。どうしようどうしようって思ってたら、なんか、それだけで、やられやすくなるよねえ。かかったら、かかったで治せばええやん、って思ったら、なんか力が湧いてきたわ。」
「そうですか。よかったです。でも、本当に、マスクをご用意できないのは、申し訳ないことです。ただ、お客様に、こんなこと、申し上げても仕方ないことなのですけれど、報道も、衛生の専門家の人たちも、もうそろそろ、マスクをしてください、っていう情報ではなくて、マスクが手に入らないときには、こういう対応をしてください、っていう別の提案をしてほしいなあ、と思います。」
「別の提案って? たとえば?」
「そうですねえ。たとえば、タオルや手ぬぐいの中央で鼻と口を覆ってから両端をぐるっとして頭の後ろで結んでマスク代わりにするとか。強盗みたいに、三角の布で鼻と口を覆って、三角の両端を頭の後ろで結ぶとか。イスラム教の女の人みたいに、スカーフをほっかむりして目以外を隠すようにする、とかでしょうか。」
「えー? あははははははー。おかしー。想像したらー。あー。笑ったー。そうよねえ。ないものを、ないない、どうしよう、と思っても仕方ない気になってきたわ。予防するにしても、治すにしても、やっぱりまずは体力気力よねー。ウイルスなんて吹っ飛ばすぞ、って、思うだけでも思うようにするわ。お互い、頑張ろうねー。」
「はい。頑張りましょう。ありがとうございます。」

 うーん。笑い話ではなくて、タオルも三角布もスカーフほっかむりも、けっこう本気で、考えているんだけどなあ。タオルなら、とりあえず、ほとんどの人が自宅に持ってるはずだし。バンダナくらいの大判のスカーフなら頭の後ろで結べるし。そのままでもそれなりに、両方とも内側に小型のハンカチか何かあて布をすれば、さらにしっかり、飛沫は防げるはずだし。悪くないと思うんだけどなあ。だめかなあ。     押し葉

暴れん坊マスク

 最近の私の主な仕事は、ご来店くださるお客様に、「マスクが完売していて、売り場に一枚もなくて、本当にごめんなさい。入荷予定も未定です。」というお詫びと説明の台詞を、数分おきに、リピート再生することだ。
 もちろん売り場には、その旨文書で表示してはあるのだが、認めたくないことは、なかなかご納得いただけないようで、なぜか今一度ご確認くださる方が多い。
 大半のお客様は、「ああ、やっぱりー。」「ここも、ないかー。」「いやいや、別に、あなたのせいじゃないから、気にしないで。」「いまさら来ても、遅いよねー。」と、どちらかというと、今回の騒動を、ともに乗り切る同志として、言葉を返してくださる。

 しかし、そのお詫びリピート再生の仕事も三日目になった昨日、ついに、予想していた事態が生じた。マスク売り場にて、マスクがないことに激怒したお客様が暴れる、という事態だ。
 お客様は少し年配の女性の方。しばらく私に怒鳴り散らした後、頭を下げる私に向けて、「ああっ、もうっ、腹が立つ!」との捨て台詞を残し、マスク売り場を立ち去られる。あまりの怒声の大きさに、マスク売り場裏側の健康食品売り場で仕事をしていた、同僚の薬種商のおじちゃんが、「どうしたんや? どうやらさん。なんかあったんか?」と声をかけてくださる。

「ええ、あのですね。マスクも用意できないなら、もう、お店なんてやめてしまえ! と、たいそうご立腹でした。」
「なんや、それ。そんな怒りの矛先を、どうやらさんに向けても、仕方なかろうに。」
「なんでも、近々どうしても、神戸旅行に行かないといけないとかで、絶対にマスクが必要なのに、なんでいつ来てもないんか、と。」
「知らんがな。神戸、行くんなら、勝手に行ったらええがな。」
「ご自宅に古いガーゼマスクはあるんだそうです。でも、洗ってないから使えなくて、今日も昨日も一昨日も、毎日ここに来てるのに、いつ来ても、マスクがない、って。」
「それは、まずは、その、家にあるマスクを、洗って乾かすべきやな。」
「ですよね。まあ、ガーゼマスクじゃなくて、不織布の、ノーズフィッター(鼻のラインにぴったり沿うようにするしかけ)付きのほうがいいなあ、と思われるんでしょうけれど。」
「そうはいうても、ないんやもんなあ。最後まで残ってたガーゼマスクも、ほんまに全部売れてしもうたしなあ。」
「これまでにない、ことですよね。」
「ほんまや。それにしても、そろそろ、そういう輩(やから)が現れる頃かなあ、とは、思っとったけど、やっぱりついに現れたか。」
「ええ、ついに、やはり、でしたね。そのつもりで、こころづもりもしてたんで、なるほど、こうきたかー、くらいの感じですけど、愉快ではないですねー。」
「そらそうや。でも、ほとんどのお客さんは、ないんですよ、すみませんね、って言うだけで、すぐに他の店に探しに出て行かれるんやけどなあ。」
「ほんと、みなさん、他に何にも買う気ないらしくて、あっさりと、じゃ、次、行ってみよう! ってかんじですよね。なんだか、まるで、今、うち、マスク専門店みたい。商品はないですけど。」
「そうやあ。で、たまに、どうにかならんのか、なんとかならんのか、いうて、食い下がって言う人には、毎週火曜と金曜の夜に、薬関係の荷物は入荷するんです。もしも、その荷物の中に、マスクが入っていれば、すぐに出すようにしていますので、よければ、そのころに、様子を見に来てもらえませんかね。ただ、現状では、定期入荷日にも、マスクが入るか入らないか、わからない状況なんで、来てもらってもあるかどうかは、まったく確約できないんですよ。それでもよければ。いうて教えてあげるんや。」
「私もです。今は、店舗からの発注は、まったく受け付けてもらえませんもんねえ。本部で在庫を確保できて、各店舗に直送配分してくれるのが、入ってくれば入ってくるだけ。入ってこなければ入ってこない。って、先ほどご立腹の方にも説明したんですけど、お客様は、じゃあ、金曜日の夜に来れば絶対買えるの? 絶対に要るんやから、とっておいてくれんと困る! って。」
「それもなあ、今、マスクの客注(お客様からの取り置き注文)受注は、本部からも厳重に禁止されてるからなあ。どこかの店舗は、その指示に反して、客注受けてしまったとかで、なんやたいそうなトラブルになって、もう絶対に客注受注したらいかん、って、書類だけじゃなく電話でも、再度指示が来てたもんなあ。」
「あれですかね。この人に売るマスクはあるのに、なんで私らにはないんや! いうて、他のお客さんが怒らはったんでしょうか。」
「そら、まずいやろう。」
「ですよねえ。」

 きっと、今なら、全品回収返品指示が出た、あの「きこり用マスク」であっても、誰も何も気にせずに、いっぱい買ってくれるはず。

 とりあえず、とにかく、体力気力を整えて、保健衛生をこころがけ、罹患しないよう気をつけて、それでも罹ったときにはちゃんと養生して治して治る。それ以上の心配や、それ以外の気苦労は、今しても仕方ない。まずはしっかりご飯を食べて、ぐっすり眠って、機嫌よくいる。健康の基本は、いつだってそういうことだ。


 追記解説。
 この年のこの時期は、当時「新型インフルエンザ」と呼ばれる病気が流行していて、マスクが異様な売れ行きを見せた。その後、月日の経過とともに、新型インフルエンザは新型ではなくなり、従来のインフルエンザと同等に扱われることとなった。     押し葉

一口ちょうだい

 夫と私は、ときどき、ひとつのものを二人で分け合う。けれど私は、言葉をやや字義どおり(辞書的な意味どおり)に捉える傾向が高い。そのため、何か分け合う過程で、言葉上イメージしていたこととは異なる事態が生じると、地味に激しく混乱する。

 たとえば何かを食べていて、夫が「一口ちょうだい。」と言ってきたとき。私は基本ケチではないので、「うん、いいよ。はい、どうぞ。」と、自分が食べているものを手渡す。すると夫は、「一口」ではなく、ぱく、ぱく、ぱく、と、三口くらい、場合によっては五口、六口、量としては全量の五分の二くらいを、あるときには半分以上を、いっきに食べる。

 そのたびに、私は夫に、「一口って言ったのにー。いっぱい食べたー!」と文句を言う。けれど夫にとって「一口」というのは、「少しちょうだい。」「ちょっと分けて。」の慣用句だと言うのだ。それならそれで「少しちょうだい。」「ちょっと分けて。」と最初から言えばいいものを、なにゆえわざわざ「一口」と言うのか。「半分くらい」食べるのであれば、「半分くらいちょうだい。」と言えばいいのに。

 夫の解説によれば、「一口」のほうが「ちょびっとだけ」「おたのしみ」な気分にもなるし、控えめな感じも醸し出せるし、交渉しやすい気もするし、彼なりに、いいこと尽くめで、しかも「わびさび」があるとまで言う。

 最近は、夫が「一口ちょうだい。」と言うと、私はすかさず、「それは少し、ということ? それとも半分くらいってこと? それとも本当に一口?」と聞き返す。自分の混乱防止のために、それなりに努力しているのだ。
 けれど、そうすると夫は、なぜか少し、すねたような様子になる。「だったら、要らない。」と言ってみたり、一口よりもずっと少ないひとかけらだけを食べてから、「ほら、一口以下しか食べてない。」と言いつつ返してきたりする。

 これまで観察したかんじでは、夫の「一口ちょうだい。」は、「とりあえず一口食べてみて、おいしかったらいっぱい食べるし、そうでもなかったらすぐに返すね。」という翻訳が正しいような気がしている。奥ゆかしくて、自称控えめな彼としては、そんなことをあからさまに言うのは、気が引けるのかもしれない。さらなる観察と研究を続けたい。

 もういくつか眠ると、私たちは、結婚16周年を迎える。けれども、夫婦のコミュニケーションとは、分け入っても分け入っても、分け入り続ける道のようだ。     押し葉

お尻のしあわせ

職場のトイレに置いてあるトイレットペーパーの話「トイレットペーパーの活躍」を書いたところ、いつにない反応をいただく。

「お店にそんな気配りがあったとは。」
「今度から、そのつもりで、ドラッグストアのトイレを借りてみる!」
「一度激安粗雑品に懲りて以来、安物トイレットペーパーには手を出さないことにしている。」
「その、少しだけ高いけど気持ちいい紙の銘柄を知りたい。」

などといった声をいただき、私も、今一度いろいろ考えてみることとなる。

まず、「そんな気配り」については、私も話を聞くまで、紙担当者と店長が、密かに(?)そんな気配りをしていたとは、まったく知らなかった。あなどれない同僚たちだ。外出先でなんとなく借りるトイレにも、実は、そんな気配り、兼、ちょっとした策略、が、しかけられているのかもしれない。

先の日記に登場のお客様がお買い上げくださった商品は、「nepinepi(ネピネピ)」という銘柄。私の勤務先では、販売しているトイレットペーパーの価格帯は4ランクある。12巻き入りで比較すると、安いほうから、通常価格は、298円、358円、398円、448円、となっている(チラシ特売価格はまた別途)。そして「nepinepi」は358円。一番安い298円のものと比べると、一巻きあたり5円の差しかないにもかかわらず、お尻の満足感は、5円をはるかに超える。

紙担当の同僚は、自分で全種類買って使い比べてみている。彼女の感想によれば、「298円と358円の差の感動は大きいけど、それより高いのに関しては、それほどの感動はない。だから私は毎回ネピネピにしている。十分満足する。」のだそうだ。

そして実際「nepinepi」は、職場のトイレで毎日毎日、頑張って営業活動しているだけのことはあり、今では、従業員のほぼ全員が、トイレットペーパーを買うときには、「nepinepi」を選ぶほどになっている。シングルタイプを選ぶか、ダブルタイプを選ぶかは、各自や各家庭の好みによるが、シングルなら肌色オレンジ色っぽい模様が、ダブルならピンク色っぽい模様が、「nepinepi」の目印だ。模様は、一瞬水玉に見えるのだけど、実は菱形のような形。パッケージの色合いはやわらかで、売り場でも、なかなかに、かわいらしい佇まいだ。

みなさまもよろしければ、まだお試しでなければ、「nepinepi」に出会ったときには、ぜひどうぞ。お尻がちょっとしあわせになること、うけあい。     押し葉

トイレットペーパーの活躍

 私が働く職場では、ティッシュペーパーやトイレットペーパーの販売も行っている。
 紙関係に限らず、すべての売り場の定番商品品目は、年に数回見直される。見直しは、各店で行うわけではなく、本部が一括して行う。各店舗では、本部の見直しにしたがって、新しい品揃えで新しい棚作りをする。長年定番商品としてがんばっている品物もあれば、リニューアルや製造中止でお店から姿を消す商品もある。

 ある日のこと。バックヤードのロッカールーム入り口に、トイレットペーパーが数袋置いてあり、「ご自由にどうぞ」のメモがつけてある。「ご自由にどうぞ(従業員ならば)」の場所に、トイレットペーパーが置いてあるのは珍しいことだ。
 まじまじと見てみても、どこも破損していないし、販売上何も問題はなさそうなのに、どうしたんだろう。もらえるのは嬉しいけれど、気になるなあ。気になったときには訊いてみよう、ということで、紙コーナー担当の同僚に「すみませんー。教えてくださいー。」と声をかける。

「はい、はい。なんですか?」
「バックヤードのロッカールームに置いてあるトイレットペーパー、私ももらって帰っていいんですか?」
「はい。ぜひ、持って帰ってください。」
「見たところ、破損してるふうではないんですけど、何か問題があったんですか?」
「ああ。どこも破損はしてないんですよ。ただ、今回の棚替えで棚落ち(定番ラインナップから外れること)して、売り場に場所がなくなったんです。現品限りで売ってもいいんですけど、本部からの送り込み商品があまりにもたくさんあって、もう出す場所がないんです。それで、店長指示で、在庫計上上廃棄処分にして、無きものにすることになったんです。」
「そうだったんですか。でも、お店のトイレで使えば、トイレ用の紙を経費処理しなくていい、っていうわけにはいかないものなんですか?」
「それがですね。お客様って、お店のトイレを使われた後、今、トイレで使った紙がよかったから、同じのを買いたい、と、お求め下さることが多いんです。せっかく、これいい! と感じてお求め下さっても、その商品がない、というのではまずいので、トイレに置く商品は、少し上等で、在庫も十分にあって、会社としても売りたい種類のものを置くようにしてるんですよ。」
「あらあ。そうだったんですか。私、何も知らなくて、お店のトイレでトイレットペーパーの補充しなくちゃ、と思ったときには、適当に、たくさんあるもので、手に取りやすい場所のものを選んで、経費処理していました。」
「いいんですよ。それはそれで、問題ないんです。ただ、店頭にないものは、置かないようにしてるだけなんで。」
「そういうことなら、安心して、ひとついただいて帰ります。なんか、うれしい。」
「でしょ。私ももらって帰るつもりです。やったー、と思ってます。」

 そんな会話をしてしばらくして。別の同僚が、売り場からトイレットペーパーを抱えて、ぱたぱたと、レジに駆け寄ってきた。そして、「お客様。ただいまトイレに置いてるのと同じものでしたら、こちらのタイプになります。こちらのものでよろしいですか?」と確認作業を始めた。

「そうなんや。それなんやね。トイレの個室の中に置いてあるぶんを、じっくり眺めてみたんやけど、どうしても、売り場で同じものがわからんでねー。この模様の袋に入ってるんやね。今度から、この袋のを買うわ。」
「ありがとうございます。こちらの商品は、肌触りが柔らかいので、とても人気があるんです。」
「そうやろう? そうやと思うわ。さっき、トイレで使ってみて、うわっ、何これ、うちでお尻拭いてる紙とは、全然違うわ、って思ったもん。あんまり高いんなら買われんけど、売り場で一通り見てみても、高いいうても、一番高いのでも、一番安いのより少し高いだけやったし。これくらいなら、ちょっとだけご飯食べるの我慢して節約してでも、気持ちいい紙でお尻拭きたい、って思ったわ。」
「あはははは。いやいや、ご飯は食べてください。でも、たしかに、こちらの紙だと、すごく気持ちいいですよね。特に痔のある方なんかだと、紙が違うとお尻の調子も違うらしいですし。」
「そうやろうなあ。わかるわあ。」

 という会話の後、お客様はそのトイレットペーパーをお買い上げくださった。その接客をした同僚も、「話には聞いていましたけど、本当に、トイレで使ったのと同じのを欲しがるお客様がいらっしゃるんですねえ。」と感心しつつ納得する。

 そうなのか。お店のトイレで使うトイレットペーパー数十センチといえども、お店での大きな営業活動を担っていたとは。今度からは、トイレに入るたび、トイレットペーパーにも、仕事仲間としての「お疲れ様です。」の気持ちを込めてみよう。     押し葉

酋長の首飾り

 旅先の沖縄で着るために持ってきた花柄のコットンのシャツ。シャツ、かなあ。袖のない、上半身に着る衣類。涼しい衣類。そのシャツを着たときに、前側の首の下、つまり胸元があまりにも殺風景で淋しい。何か首飾りのようなものをつけたほうがいいかも、と、夫が助言をしてくれる。
 では、首飾りを買いましょう、と、あちこちで見てみる。でも、なかなか、これと思うものがない。金属がついていると痒くなるから、ついてないものがいいなあ。首にかかるところの素材が、紐か石か植物だといいなあ。ぶらさがっている飾りも、あんまり重くないといいなあ。

 店先で、「これはどうかな」と、いくつか胸元にあててみる。そのたびに、夫が「酋長! みそきち酋長さま」と言う。「却下」という意味だ。「どうかなあ?」「酋長!」というやりとりを何度か繰り返した数日後。
 とある売店で見つけた「とんぼだま」。琉球製のガラス細工を黒い紐に通したもの。この首飾りは、デザインも、長さも、色合いも、重さも、そして、金属が使われていないところも、すばらしく希望通りだ。夫に「これなら、酋長じゃないかな? だいじょうぶかな?」と見てもらう。「酋長はだいじょうぶだけど、値段は?」「350円。」「おお、いいじゃん。」というやりとりの後、購入。そしてその首飾りは、旅の間、毎日活躍。

 この夏は、この首飾りに、たくさんお世話になろう。     押し葉

池にふりむく

 穏やかな日差しの日。父と弟と一緒に、釣りに出かける。私は五歳くらい。弟は三歳くらい。祖母と母と、まだ赤ちゃんの妹は、お留守番だ。
 家から歩いて、大人なら五分強くらい、子どもの足だと十五分くらいのところに、その池はある。
 当時「釣りに行く」ということは、この池に行くことを意味していた。釣りに出かける前には、畑でミミズを捕まえておく。池に着いたら、父が釣り針に、そのミミズをつけてくれる。エサ(ミミズ)をつけた釣竿を持って、池の縁の土手に腰掛ける。釣り針を、池の中の少し遠くに沈める。水面には、浮(ウキ)が浮く。ときどき鮒が糸を引く。浮がぴょこぴょこと上下に動く。釣れるのは鮒ばかり。釣れた鮒は、池の水を入れたバケツの中で泳がせる。バケツの中で泳ぐ鮒を、弟と二人でしゃがんで眺める。池の水の匂いと、鮒独特の魚のにおいを感じながら、鮒の体を指先で触って、ぬるぬるしていることを確かめる。帰るときには、水も鮒も、池に返す。

 父は釣竿を垂らしてじっと座っていることがそんなに苦痛じゃないようで、むしろなんだか、少しのどかで楽しそうだ。けれども、弟と私は、座って釣竿を持ってみたり、釣竿を父に手渡して、草むらの草や虫に見入ってみたり、草笛を吹いてみたり、かわいい石やカッコイイ石を拾ってみたり、立ったりしゃがんだり、あんまりじっとしていない。

 私が立って何かしている、そのときに、弟の「おねえちゃん、こっちむいて。」という声が、背後から聞こえる。それは弟の「作戦」で、弟は、私が「なあに?」と振り向いたら、私のほっぺに弟の人差し指が食い込むように、いたずらするつもりでいたのだ。人差し指を突き出して、構えていた弟。だけど、私が実際に、「ん? なんなん? しめじ。」と、ぐるんと、振り向いたそのとき。私が振り向いたその勢いと、私のほっぺたの力に押されて、弟は、私の頬を指差した姿勢のまま、背中側に倒れる。背中側の池の中に。ばっちゃーん。水しぶきが飛び散る。弟は水の中から天を見る。私を指差した人差し指を、水面から天に向けて突き出して。

 すぐに父が、弟の腕と洋服をつかんで、池から引き上げる。全身びっしょり濡れた弟は、「おねえちゃんがー、おねえちゃんがー。」と泣き叫ぶ。父は「おねえちゃんがー、じゃないじゃろう。しめじがみそにちょっかい出しょうたじゃろうが。」と弟に言い、弟は「でもー、おねーちゃんがー、おねーちゃんがー。」と泣き続ける。

 ええと、ええと、この場合、私は悪くはないはずだけど、なんだかとても悲しい気持ちだ。今にして思えば、あれは「過失の悲しさ」だろうか。それとも「事故の悲しさ」だろうか。父がすぐそばにいてくれて、すぐに助けてくれたから、大丈夫だったけど、もしも、弟と二人きりで、こんなことになっていたら、私の力では、きっと助けることができない。溺れてゆく弟を、どうすることもできなくて、もしもあのまま池におぼれて、弟が死んでしまったりしていたら、もっともっと悲しくて、大きくなるまで、大きくなっても、自分が死ぬまできっとずっと、悲しかったにちがいない。そうやって、目の前の小さな悲しい気持ちが、勝手に、やみくもに、際限なく、巨大化する。

「うわーん。うわーん。」
「うわ。なんで、みそまで泣くんな。」
「おねーちゃんがー、おねーちゃんがー、うわーん、うわーん。」弟はずぶぬれのまま泣き続ける。
「二人とも、泣かんでええけん。帰るで。帰って着替えんにゃあの。」

 父は釣り道具を片付けて、弟と私の手を引いて、家に帰る。五右衛門風呂に水をためて、薪をくべてお湯が沸くのを待つ。それからやっと、お風呂に入る。
 五右衛門風呂の底は熱くて、そのままでは入れない。風呂底サイズの丸いスノコに乗って、それを沈めて入るのだけど、幼児の体重では思うように沈まない。父が先に入って、スノコをうまい具合に沈めてくれる。そこに、父の膝に乗るような形で、弟と私が湯船に入る。

 お湯で体が温まると、悲しい気持ちもやわらぐ。弟が、だいじょうぶで、よかった。今度、また、弟や、今はまだ小さな赤ちゃんの妹が、大きくなってもっと上手に喋るようになって、「おねえちゃん、こっち見て。」と言ったときには、もっとゆっくりと振り向くことにしよう。それだけは気をつけよう。悲しいのはイヤだし、もっと悲しいのはもっとイヤだ。小さな私は、お風呂の中で、決意する。記憶の中の映像は、そこまでで途切れている。

 とにかく、「振り向く時はゆっくりと」、そう決意したはずで、その決意と実行の甲斐あって、順調に安全に、私も弟も妹も、大きくなったと思っていた。
 それなのに、大学生のとき、ポニーテールのような髪型の私が振り向くと、ともに実験している同級生や研究室の先輩が、「ひょえー」「痛いー」と叫ぶことがあった。私が「え? 何がどうして痛いの?」と問うと、彼らはその都度、「みそさんの髪の毛が、振り向いたときの勢いで、鞭みたいになって、ぺしーん、ぱしーんって、ほっぺたをたたくねん。」と説明してくれる。
 髪の毛が鞭になるほどの勢いで振り向いていただなんて。あんなに、あれほど、ぜったいに、ゆっくりと振り向こうと、決意していたはずなのに。これでは、またもや「過失」だし、今度は明らかな「加害」ではないか。振り向く、という行動は、自分が思う以上に、もっともっとゆっくりと、するべきものなのか。

 教訓。振り向く時は、スローモーションを意識する。     押し葉

秘密の暗号

 我が家に友人が遊びに来ると、食卓の上に置いてあるサプリメント入れの篭を見て、「あんたら夫婦、ファンケルの回し者か?」と言う。
 それは、まあ、濡れ衣で、回し者でもなんでもなく、単なる愛用者なのだけど、回し者を疑われるほどに、いろんな種類のサプリメントを常備しているということなのだろう。そのサプリメントのどれかが、ああ、もうそろそろなくなるな、と思うと、通信販売の注文を行う。夫と私とでは常用サプリの内容が異なるのだが、注文は二人の分を私がまとめて行っている。

 先日の夜、夫が、「そろそろサプリ注文してほしいんじゃけど。」と言う。

「何と何が要りそう?」
「えーと、マルチミネラルとビタミンC、かな。」
「他は大丈夫?イチョウやDHAは?」
「それは、まだある。」
「わかった。じゃあ、念のために、メモに書いておいてくれる?」
「わかった。」

 という会話の後、夫は、使い終えたカレンダーを切って置いてある裏紙に、所望のものをメモして、「先に寝るね。」とお布団に入っていく。私がお風呂で洗った髪の毛をドライヤーで乾かし終えるには、少しばかり時間がかかる。
 ようやく髪を乾かし終えて、夫が書いたメモを確認する。そして、すこしぎょっとする。
 マルチミネラルとビタミンC、と、書いてあるとばかり思って覗き込んだのに、そこには、「まるちビたみん」と書いてあるのだ。
 な、な、なんなのだ。この文字は。音だけとれば「マルチビタミン」ではあるが、彼が求めていたのは「マルチミネラル」と「ビタミンC」だったはず。いつのまに、ミネラルがビタミンになったのか、それとも「マルチミネラル」と「ビタミンC」を合わせて省略したのか。「これはなんなんだー!」という思いが止まらず、お布団の中ですでに眠りの世界に旅立とうとしている夫に、近寄り声をかける。

「ねえ、ねえ。なんで、ビだけカタカナで、あとは平仮名なん?」
「えーとね、秘密の暗号。」

 夫は、そのまま、眠りの世界へと、旅立つ。秘密の暗号、って、さらに、「なんなんだー!」だ。
 夫がもともと書字に関して、なんらかの不自由がある人だというのであれば、こんなことで驚いたりはしない。これはもしかして、脳の血管のどこがかどうにかなったのか? 心配だよう。仕事に差し支えはないのか。会社でちゃんと仕事はできているのか。仕事に問題はないとしても、「まるち、ビ、たみん」は気持ち悪いよう。

 翌日、二人ともが仕事から帰ってきて、あらためて「まるち、ビ、たみん」とはなんぞや、と聞いてみる。

「どうやらくん、今回サプリでほしいの、マルチミネラル、じゃなかったっけ? マルチビタミンは私は飲んでるけど、どうやらくん飲んでないじゃん。マルチミネラルは飲んでるけど。」
「ああ。まちがい、まちがい。うっかりー。」
「で、なんで、まるちビたみん、の、ビ、だけ、カタカナにしたん?」
「見慣れない文字の組み合わせにしといたら、みそきちが、忘れずに注文しやすいかと思って。」
「見慣れた文字の組み合わせでも、ちゃんと忘れず注文するし、注文する内容は、文字も内容も、正しく書いてほしい。」
「やったね。」

 夫と会話していると、本当にたまにだけど、ぎゅうっと、首をしめたくなる。     押し葉

男遊び

 私が働く職場では、営業時間中は、常時店内放送が流れている。音楽だったり、お奨め商品のご案内だったり、メーカー商品のCMだったり。CMもテレビで画像とともに見れば難なく理解できることも、音声だけだと、聞き取りがうまくできなくて、意味を正しく受け取れないことが、ときどきある。

 最近は、ベビー用(および敏感肌用)の日焼け止め用品「ままはぐ」の案内が日に何回か流れる。売り場で現物を見ているので、「ままはぐ」が日焼け止めであることは、きちんと理解しているのだけれど、テーマソングの歌詞の内容が、どうしても腑に落ちなくて困っていた。歌声は可愛らしい子ども風の声なのに、内容が子どもらしくないのだ。

 ぎんぎらぎん。ぎんぎらぎん。男はぎんぎらぎん。ぎんぎらぎん。ぎんぎらぎん。お出かけ前に、まっまはぐ。男遊びに、まっまはぐ。

 仕事しながら、このCM音楽が流れるたびに、聞き耳を立てて歌詞を聞き取ろうとするのだが、一度脳内で定着した、全身が脂ぎってギンギラギンな男性映像はなかなか消えないし、お出かけ前に日焼け止めを塗った後、男遊びに元気よく出かけて行くきらきらとした女性の姿も消えてくれない。

 きっと私がイメージしている歌詞は正しくない、とは思うものの、何度聞いても、イメージ修正がうまくゆかない。ああ、これはもう、ベビー用品担当の同僚に相談して、正しい歌詞を教えてもらおう、と、そう決める。バックヤードで、その同僚とすれ違ったときに、「店内放送の、ままはぐの歌詞、って、本当は、なんて言ってるんでしょう?」と尋ねてみる。

「え? ままはぐ、ですか? えーっと。きんきらきん、とか、いうやつですよね?」
「そうです。そうです。ぎんぎらぎん、ぎんぎらぎん、って始まるぶんです。」
「そうか。ぎんぎらぎん、でしたね。えーと、ぎんぎらぎん、ぎんぎらぎん、そのあと、なんでしたっけ?」
「それが、私、男はぎんぎらぎん、に聞こえるんですけど、おかしいですよねえ。」
「はっ。思い出した。どうやら先生、もう、おかしい! お外です。おそと。お外はぎんぎらぎん。」
「はっ。お外(おそと)でしたか。ああ、それなら意味が大丈夫になります。でも、じゃあ、そのあとは?」
「えーと。お外はぎんぎらぎん。ぎんぎらぎん、ぎんぎらぎん」
「そのあとは、お出かけ前にままはぐ、で、合ってると思うんですよ。」
「はい、はい。そうです。お出かけ前です。お出かけ前にまっまはぐ、で、お出かけ前に、ままはぐの日焼け止めを塗ってほしいんです。」
「そのあとが、どうしても、おかしいと思うんですよ。お出かけ前にままはぐ、男遊びにままはぐ、って、ありえないでしょう?」
「男遊び、って、どうやら先生、ベビーコーナーの商品ですから。でも、私も、最後の歌詞、思い出せないなあ。えー、なんやったんやろう。」
「男遊びはありえないとして、なんでしょうねえ。あっ。お掃除後(おそうじあと)、でしょうか?」
「ぎんぎらぎん、ぎんぎらぎん、お掃除後(おそうじあと)にまっまはぐ。あ、いけるかも? え? でも、掃除後?」
「庭掃除なら、日焼け止めも必要かもしれないけど、家の中の掃除だったら、関係ないかー。掃除前ならともかく、掃除の後に、っていうのもおかしいですよねえ。」
「うーん。うーん。また店内放送で流れたときに、気をつけて聞いてみます。」
「はい。お願いします。私も気をつけてみます。」

 そして、しばらくして、件のCMが再び店内放送で流れる。ぎんぎらした男の人も、日焼け止めを塗って男遊びに行くきらきらした女の人も、脳内から追い出して、無の境地で歌詞を聴く。ああ。わかった。ベビー用品担当の同僚に報告しよう。

「わかりました。男遊びでもなく、お掃除後でもなく、お外遊びにまっまはぐ。でした。」
「ああ。今、流れてましたよね。すみません。作業に没頭してて聞きそびれました。でも、そうです。お外遊びです。そうでした。」
「ああ。やっと、意味もイメージも大丈夫になりました。ありがとうございました。男がお外だとわかった時点で、男遊びじゃなくてお外遊びだと気づくべきでした。すみません。」
「いえいえ。結局どうやら先生、自分で解決されたし。私は何も。」

 というわけで、お外がぎんぎらぎん(日差しが強い)、だから、お出かけ前にままはぐの日焼け止めを塗って、お外遊びに出かけましょう、海でも、山でも、ということだ。解決。これで落ち着いて仕事ができる。よかった。


 追記:今回の日記は、CM歌詞に触れているという点で、著作権侵害の問題が生じるかどうかが気になるところだ。もしかすると法的手続きが必要なのかもしれないし、場合によっては削除や非公開化が必要になるかもしれない。そこで、メーカー(ロート製薬)様に、問い合わせのメールを送ってみることにした。その結果はまた追ってご報告したい。問題なければ放置してくださるようにお願いはしたものの、メーカー様には、余計な仕事が増えてしまうことになり、申し訳ないことである。しかし、今回のこの確認作業が、私が今後も日記を書き続けて行く上での後学のためになればと思う。

 さらに追記。
 結局、ロート製薬お客様問い合わせ窓口からは、なにも返事がなかったので、この手のものは特別商用に流用するわけでないのであれば、きっと問題ないのね、ということにて、解決したということで。     押し葉

夜のお楽しみ

 ほぼ毎日、夕食の後、しばらくして、ヨーグルトを冷蔵庫から出して少しだけ室温に戻し、少しぬるくして食べるのは、私の夜のお楽しみだ。お楽しみであると同時に、腸活動への投資でもある。だから、自宅にいるときにはもちろん、旅先でも、できるだけ、ヨーグルト(食べるタイプでも飲むタイプでも)を買って摂取するようにしている。

 先日、旅先の沖縄でも、ヨーグルトを買ってきて、宿の冷蔵庫に保管しておいて、食べた。夫の分と私の分と二個買ってきて、私はその日のうちに食べたけれど、夫は食べずにそのまま寝る。翌日のホテル朝食には、ヨーグルトもついているので、結局夫は、部屋の冷蔵庫のヨーグルトは食べないまま、その日は出かけることになった。この日はもう一泊、このホテルに泊まるので、部屋はそのままで、出かける。

 出かけて、少し遊んで、お昼ご飯を食べてから、さてこれからどうしましょう、と話したときに、夫が「どこでも、みそきちの行きたい所、好きなところに、行こう。」と提案してくれる。「やったー、じゃあね、カフェに行って、お茶飲みながら、ゆっくり何か読んだり景色を見たりして過ごしたい。」と希望を述べる。すると夫は「えー、カフェは、さっきランチについてたコーヒー飲んだから、もう、いいや。」と言う。

「私の行きたい好きなところどこでも、じゃないの?」
「じゃあ、カフェ以外で、どこでも。」
「うーん。じゃあ、ホテルに帰って、部屋でお茶飲んで、バルコニーから海眺める。」
「それ、いいねー。お昼寝もできるし。」
「お昼寝したいんなら、そう言えばいいじゃん。」
「いやいや。みそきちの希望を叶えておかないと。今夜もライブに付き合ってもらうし。」
「えー? またライブに行くのー? 私、今日はいいよー。一人で行って来てー。」
「まあまあ、そう言わんと。ライブ、たのしいよー。うちなー音楽、たのしいよー。ライブ見ながら聞きながら夕ご飯、おいしいよー。」

 などと話しながら、ホテルを目指して運転する。途中で、ふと、ヨーグルトのことを思い出す。

「あ。私、ホテルに帰る前に寄りたいところがある。」
「どこ?」
「スーパー。」
「何買うの?」
「ヨーグルト。今夜のぶんの私のヨーグルト。それにこっちのスーパーの品揃えがどんなのかも見たいし。」
「ヨーグルトなら、部屋の冷蔵庫に残ってる俺の分、食べていいよ。買わなくても。お店の品揃え観察は、今日でなくても、また明日でも明後日でも、ゆっくり立ち寄ったときにすれば?」
「え? ヨーグルトくれるん? いいの? ありがとう。じゃあ、そうする。」

 そしてホテルに辿り着き、部屋でゆっくりお茶を飲み、ソファに腰掛けて本を少し読み、風吹きすさぶ海を眺める。しばらくすると眠気が訪れ、ベッドにもぐりこみ、眠る。どれくらい寝たんだろう。目が覚めると、日差しが少し夕方っぽくなっている。まどろみながら、少しずつ、眠りの世界から自分の体に戻ってくる。私が起き出したのを見て、夫が私に声をかけてくる。

「昨日買ったヨーグルトのスプーンって、どこに置いてあるん?」
「え? ヨーグルトのスプーン? えーっと、冷蔵庫の上の、ティーバッグとか入れてるポーチの中にまとめて入れてあるけど、なんで?」
「冷蔵庫のヨーグルト、食べようかと思って。」
「あれ? え? なんで? ヨーグルト、私にくれるんじゃなかったっけ? あれ、夢? 私、昼寝で、寝ぼけてる?」
「うん、あげるって言ったよ。あげる、って言ったけど、やっぱり自分で食べようと思って。」

 わかった。夫は、お昼ご飯の後、きっと、とにかく、すぐにホテルに戻って、お昼寝がしたかったのだ。どこにも行かず、どこにも寄らず。でも、自分の希望としてではなく、私の希望としてそうすることで、「自分もみそきちがホテルでゆっくりお昼寝したい希望に付き合ったんだから、夜のライブに行きたい自分の希望にも付き合ってよね。」という展開にしたかったのだ。お昼寝もしたいし、妻の意向を受け容れた実績も積みたいし、夜のお楽しみであるライブにも行きたいし、彼もいろいろたいへんなのだ。

 私が食べるヨーグルトはどうなったかというと、ライブの帰りにコンビニでちゃんと買って帰ったからだいじょうぶ。     押し葉

水虫と新妻

 水虫薬の相談をしてくださったのは、若い女性のお客様。
 どこがどんなふうなのか、痒みや痛みはどの程度なのか、初めての水虫なのか、何回目かの再発なのか、ことこまかにうかがってゆく。
 その結果、お薬の使用者は、この女性の方ご本人ではなく、配偶者の方であることが判明。仕事中はずっと革靴を履いているので、ある程度仕方ないかとは思うんですが、とのこと。靴下をせめて五本指タイプにするだけでも、足の蒸れ具合はずいぶんと違いますから、よかったらお試しくださいね、と提案。

「水虫の薬の種類が、こんなにたくさんあるとは思っていませんでした。どれが一番効くんでしょうか?」
「はい。一応、お薬のランク的なものはあるんですが、それよりも、その人その人の、水虫との相性みたいなもののほうが、お薬の効き具合には重要みたいなんです。」
「そうなんですか。では、どれを選べばいいんでしょう?」
「痒みがひどければ、痒み止め成分がしっかりと入っているもので、まずは痒みが引くのを実感してもらうのがいいですね。」
「じゃあ、この、かゆみに! って書いてあるのとかがいいですか?」
「はい。このシリーズは、痒み止め成分しっかりしてます。ただ、スースーする成分もたっぷり入っていますから、患部に沁みてつらそうであれば、刺激の少ない内容の、こちらなどのほうがいいと思いますよ。」
「あ。それは大丈夫です。薬を塗って沁みそうなかんじではなかったです。」
「そうですか。では、お薬のメインの成分の説明をしますね。水虫の元となるカビをやっつけるお薬を抗真菌薬と言うんですが、そのランクとしては、こちらの棚の段のものが、わりと昔ながらの成分で値段も安めです。こちらの段のは少し新しい成分で値段も少し高くなります。そしてこちらの段になると、かなり最新グループの成分で、値段もさらに高くなるかんじですね。でも、大切なのは、値段よりも、ランクよりも、きちんと毎日、数ヶ月以上、塗り続けてもらうことなんです。」
「じゃあ、今回は、これにします。でも、このシリーズ、クリームと液体とスプレーとだったら、どれが一番いいんですか?」
「それも基本は、その方にとって、続けやすい形、です。患部の症状にもよるんですが、面倒でなければ、チューブから絞り出して、丁寧に塗りこむのが、お薬の定着性や浸透性としては優れています。でも、その作業も、毎日のこととなると、けっこう面倒くさいものなんです。お薬を塗った後の指先を洗ったりぬぐったりすることも考えたりすると、手が汚れなくて済む液体やスプレーは、使いやすさと続けやすさの点で、人気が高いです。」
「そうなんだー。主人は今も水虫を放置してるくらいですから、自分でまじめに薬を塗り続けるのは、たぶん無理です。」
「そうですか。どうしましょう。」
「だいじょうぶです。主人が布団に入って寝たあとで、私が毎日塗ります。」
「まあ。それは、すばらしいです。水虫治療のために、ご家族の方が、そこまで協力してくださるのは、なかなかないことです。」
「まだ結婚したばかりなので、今のうちだけでも。」
「そうなんですかー。いいですねー。ではですね、水虫再発組とのことですから、患部だけでなく、少し広めに、お薬を塗るようにしてみてください。お風呂上りが効果的ですが、足が清潔にしてあれば、お布団に入ってからでも大丈夫です。」
「どれくらい続けないといけないですか?」
「三ヶ月以上が目安でしょうか。これから夏が本番になって、終盤になって、秋になる頃までは最低でも、ですね。お薬塗ってしばらくすると、見た目には治ったように見えるかもしれませんが、そこで塗り止めずに、涼しく寒くなる頃まで、じっくりと気長に、塗り続けてください。それが、水虫をしっかり治して、再発しにくくするコツです。今回選んでくださったお薬は、お値段も上等な部類のものですが、症状が落ち着かれて、涼しくなってからも念のために続ける段階になったときには、このあたりの、少しランクも値段も低めのものに替えてゆかれても十分に効くはずです。とにかく、気長に続けてくださいね。」
「わかりました。がんばります。五本指ソックスも買います。」
「あと、できれば、外から帰って来られて、手を洗ってうがいをするときに、足も洗ってよく拭いて乾かしてもらうようにすると、水虫の治りがとても早くなります。そのへんも声をかけて差し上げられそうだったら、ぜひよろしくお願いします。」
「はい。やってみます。ちゃんと治ってくれるといいなあ。」

 新婚の力って、すごいなあ。     押し葉

がっかり博物館

 友人の妹さん夫婦は、博物館巡り(資料館も含む)を趣味としている。しかも、ただの博物館巡りではなく、狙いは「がっかり博物館」。
 「がっかり博物館」とは、展示物たちの品揃えもやる気も、いまひとつ、どころか、いまむっつ、くらいなのに入館料はそこそこの値段がするところ。入館料無料でも、内容のがっかり度合が十分に高ければ、「がっかり博物館」として認定されることもある。

 通常であれば、旅先で、「面白いかも」と入ってみた博物館や資料館が、その入館料金に見合わないしょぼさだったときには、若干のボラれた感が生じるものだ。たとえ無料でも、立ち寄った時間を返せ、と思いそうになることもある。
 しかし、友人の妹さん夫婦は、館内構成や展示内容が、がっかりであればあるほど、「よっしゃー。ここは、かなり、がっかり度高いぞー!」と拳を握る。がっかりであればあるほど、二人にとっての「がっかりランキング」と「高揚感」は、ぐんぐん上昇するのだ。

 友人からその話を聞いたときには、なんと素晴らしい思いつきだろう、と感心した。展示内容ががっかりのときは、そのがっかり度合を喜び、展示内容がまっとうに面白いときには、その面白さを喜べるのだ。当たってもはずれても「あたり」になるこの愉しみ方に、私はいたく感心した。

 ちょうど去年の今頃、友人の妹さんに、直接会う機会があった。私はすかさず賞賛の言葉を伝える。
「がっかり博物館巡りって、素晴らしいと思う。私も何かでがっかりしたときには、自分の中の、がっかりランキング、に書き込んで、ほくそえむことにしようと思った。」

 すると友人の妹さんは、「みそさん、それがですね、まあ、最近は主人が忙しいのもあって、巡ること自体があんまりできないのもあるんですけど、世の中には、実に絶妙に微妙な博物館や資料館があるんですよ。面白いなら面白いで楽しめるし、やる気のないしょぼくれた内容だったら、それはそれで、ちゃんとがっかりできるのに、そのどっちでもない、中途半端ーな、なんともいえないかんじのところに入ってしまった日には、面白くないのにがっかりもできない、という、とてつもない不発なかんじが、二人を無口にさせるんです。」と神妙な顔で話してくれる。

「そ、そうなんだ。それは、不発博物館ランキング、とか、だめ、かな。」
「はい。私達も、それ考えたんですけど、あまりにも不発すぎると、その意欲も気力も萎えることがわかりました。」
「そうなんだ。博物館や資料館の世界って、けっこう、なかなか手強い(てごわい)んやね。」
「はい。手強いです。」
「がっかりするのも、一筋縄じゃいかないもんなんやね。」
「はい。意外と、縄筋、多いです。」

 友人はいつも、妹さんの、ものごとの愉しみ方を、流麗な日本語を、そして妹さんの存在を、誇らしく語り、こよなく深く愛している。     押し葉

夫の感想(レッドクリフPartⅡ)

 土曜日、私が仕事に行っている間に、映画を観に行った休日の夫。映画は「レッドクリフPartⅡ」。一作目も夫は映画館で観ているし、自宅でも、「二作目を観るための復習だ。」とかで、テレビ放映を見ていたが、途中でうたた寝した。今度こそは、と、BSだかケーブルテレビだかで放映していたものを再度見て、「寝んかった。がんばった。」と万全の復習態勢を整えた。
 一作目を観に行く少し前から、夫は三国志の入門書的な書籍を購入して、三国志の勉強を重ねてきた。夫はなかなかに勉強好きの頑張り屋さんなのだ。

 仕事から帰宅して、夫に、「映画、どうだった?」とたずねてみる。

「うーん。話がなあ、なんかなあ。どうもなあ、もうひとつなあ。」
「話が、一作目と繋がってなかったん?」
「それはいかんやろう。Ⅱと銘打っておきながら、前作と話が繋がらんかったら、いかんやろう。」
「話が繋がってたんなら、よかったじゃん。復習がんばってた甲斐があるじゃん。」
「でもなあ。異様に戦闘シーンが多い。」
「それは、戦乱の世のお話じゃけんじゃないん(だからではないの)?」
「にしてもよ。多過ぎ。」
「戦闘シーンの俳優さんたち、がんばって、いっぱい練習して演技したし、撮る方の人たちもいっぱいがんばったけん、見る人にもいっぱい見てほしかったんじゃない?」
「にしても、見てるほうが、もうええけん(いいから)! になるほど多いのは、ちょっとなあ。それに、映画として面白くするためかなんかしらんけど、本来の三国志にはないエピソードが入れてあって、そのエピソードを膨らませすぎて時間とりすぎてて、そんなクサいネタはもうええけん、はよ、本題に戻れ、いうて言いたくなった。おまえは三国志だろう、と。三国志なら三国志の話をせえよ、と。」
「映画を作った人たちからしてみたら、これはこれですけん、じゃないの?」
「いいや。三国志の話なんだから、当然三国志ベースで展開するやろうと、三国志を知ってる人は期待する。」
「そうかなあ。だけど、映画のタイトルは、レッドクリフ、なんじゃろう? 三国志、じゃなくて。一応三国志を原作というかモチーフとして作ってるんかもしれんし、広報上はそういう謳い文句にしてるのかもしれんけど、同じタイトルのときでさえ、原作と映画の関係って、だいたい、そうじゃん。別の作品と思ったほうがいいことのほうが多いじゃん。レッドクリフのメインタイトルのあとに、これは三国志をきっちり再現したものです、ってサブタイトルかなにかで書いてあれば、だけど、そうでないなら、やっぱり、創作側の自由采配じゃないかなあ。」
「は! まさか。三国志だと思って見させておいて、ちょっとお客さん、うち、三国志やなんて、別に言うてないやないですか。そっちでどういうて宣伝したかは知りませんけどね。あらあ、三国志好きで、三国志やと思って見てくださったんですか。でもねえ、うちとしては、そんなん勝手に三国志を期待されても困るんですわ。ちゃんとレッドクリフいう名前で商売してますし。って言うことか? そういえば、映画本体には、どこにも三国志、とは、書いてない、か、ええっ、そういうことなんか? でも、そんなん詐欺じゃん。」
「でも一応、合法的に営業しとってんじゃろ(していらっしゃるのでしょう)?」
「それは、そうじゃけど、うわ、なんか、ええっ」

 夫の休日が充実したものだったみたいで、よかった。     押し葉

みそ語り

 これまで「みそ文」を書いてきて、いろんな方が拍手をくださり、拍手コメントをくださる方もいらして、そのたびに、わーいわーい、と、ひとり小躍り大喜びしてきた。

 拍手コメントをくださった方がどちらのどなた様なのかある程度特定ができて、個人的に連絡さしあげることが可能な場合は、ときどき、お礼のメールをさしあげてみたりもする。
 けれども、わーいわーいと小躍りしたものの、どちらのどなた様なのかもわからず、当然連絡先も知らず、だけど、その方がくださった拍手コメントが自分の中で、もにょもにょと、面白く転がり始めたりすると、あああああ、お礼を伝えたい、この転がりを発露したい、という欲求に身悶える。

 お礼をお伝えしたい欲求と転がりを発露したい欲求、その両方を満たしてやる何かよい方法はないものだろうか、と、うにゃうにゃうにょうにょ、と、ずーっと考えてはいたのだが、このたび、とある方法を思いついたような気がするので、それをやってみることにした。

 左側のプロフィール欄に説明文を書き足して、「拍手コメントへのお礼とコメント返しを、ときどき、気ままにですが、綴ったり語ったりしてみます。こちらをご覧ください。」のご案内をする。ご覧いただきたいリンク先は、「みそ語り」という新ページ。とりあえずは、「リンク」のところからプチっと飛んでもらえるように。本当は、プロフィール欄のところに書いた「みそ語り」の文字からも飛べるようにしたいのだが、それは電脳技術に応じておいおいと。と思ったのだが、できた、みたい。

 これまでにいろんな方から拍手コメントをいただいてはいるのだが、当面は、五月になって再開以降に拍手コメントくださった方の分から、始めてみる。

 そういうわけで、以上、拍手コメントへのお礼屋として細々営業予定の新店舗「みそ語り」のご案内でした。


 追記。その後、プロフィール欄に何度か手を入れるなどいたしまして、「みそ語り」へのリンクは「リンク」からのみとなりましてございます。     押し葉

おひなさま

 私のお雛様たちは、ガラスケースに入っている。たしか私が一歳半と少しの頃に、両親が買い与えてくれたものだ。

 ガラスケースの大きさは、前面が電子レンジくらいで、奥行きはオーブントースターくらい。前面の扉部分は木枠で囲って、つまみに房がつけてある。
 ガラスケースの内側は、ガラスの棚で何段かに区切られており、お内裏様とお雛様の席、三人官女の席、五人囃子の席、左大臣と右大臣の席、高砂と住吉の席、が設えられている。お一人ずつ専用の座布団(下々の方用は木の黒い板状のもの。新郎新婦用には畳み付きの上等な板状のもの。)を、そのガラス棚に置いて席とする。
 ケース内の床部分と背景は和紙貼りのようなかんじ。
 一人一人の人形は、全身が鶏卵くらいの大きさで、お顔もみんな下膨れの幼児顔。
 金屏風も菱餅も、桃の木も橘の木も、お囃子の楽器も勢揃い。

 私は、このお雛様たちを、当時たいそう気に入っていたし、今も気に入っている。
 だから結婚したときも、お雛様たちは連れてゆこう、と決めていた。新しく暮らすところは、ピアノを置くには狭いけれど、お雛様を置く場所くらいならある。
 そうして、結婚後の棲家において玄関の下駄箱の上に、お雛様は何度も登場なさった。私の気が向いたときに。なので数年登場がないこともある。でも、お雛様たちは、不満も言わず、ぐれもせず、少し色あせた着物をまとって、にこやかに微笑んでおられる。
 一度出すと、名残惜しくて、いつまでも片付けない。三月四日になると同時に、夫は「もう片付けないと。まだ片付けないの。いつ片付けるの。」と私を問い詰めるのだが、「母の実家がある島根では、お雛様はこれからが本番なんよ。どうやらくんは、そんなに私を早くにお嫁に行かせたいの?」と言って彼の声を封じ込めて、お雛様を飾り続ける。
 それでもさすがに、春になり、初夏になり、夏になる頃には、お雛様たちが「あつうございます。あせもになるでございます。」と訴えてくる気がして、粛々とお片づけする。

 母の思い出話によれば、幼い私は、このお雛様を買ってもらってしばらくの間、来る日も来る日も一日中、いつまでも、いつまでも、飽きることなく、このお雛様たちを見つめていたのだそうだ。実際には、お昼寝もしただろうし、食事や散歩もしただろうけど、母が「一日中」と比喩するほどに、熱心だったということだろう。
 たとえ比喩でも、ひがな一日お雛様を眺めて暮らせただなんて、恵まれたお子様だ。けれども、ほんとうに、私のお雛様たちは、いつまでも、いつまでも、見つめ続けるに値すると、そう私に信じ込ませて、見続けさせる力を持つ。
 今でも出せば、出している期間中、ほぼ毎日、「ああ、もう仕事に行かなくちゃ。」と思いながらも、見入ってしまう。見入る気持ちをふりきるように「いってきます」と声をかける。なんとなく、お雛様たちご一同様が、「はい、いってらっしゃい、気をつけて。」と見送ってくれてるような気がして、うれしい気持ちで出かける。

 きっと、私のお雛様たちは、ただのお雛様ではないのだ。私という存在が、間違いなく、この世に歓迎されていたことの、証であり、象徴なのだ。
 そして、今なお、何があろうとなかろうと、私は、やはり、たしかに、この世に慈しまれている。そのことを、忘れないための、たとえ忘れたとしても、ちゃんと思い出すための、そのための装置として、私のお雛様たちは、数十年前のある日に、私のところに来てくださった。

 私のお雛様に限らず、本来、お雛様とは、誰にとっても、そういう力を持つものなのだ。そしてお雛様に限らず、実在するもの、実在しないもの、さまざまなものたちが、私達それぞれの一生を、いつも必ず、静かに丁寧に、見守ってくれている。私達が、気づいても気づかなくても。     押し葉

白髪の所有

 去年のお盆だったか、今年のお正月だったか、実家に帰省したときに、居間に座り込んでくつろいでいたとき。姪っ子のみみがーが、いつの間にか背後にいて、「みそちゃん! きらきら光る赤い髪の毛があるよ。なんで? なんでこんなきれいなのがあるん?」と問うてくる。

「みみがー。それはね、白髪よ。髪の毛をヘナっていう薬草で染めるとね、白髪は赤いようなオレンジ色のような茶色のような色になるんよ。黒い髪は少しだけ茶色っぽい黒色になるんじゃけどね。」
「ええー、そうなん? すごいねー。きれいじゃねー。いいなー。みそちゃん、赤くしたシラガがあって、いいなー。」
「そ、そう?」
「シラガなら、おじいちゃんやおばあちゃんにもいっぱいあるし、おとうさんやおかあさんにもときどきあるけど、こんなきれいな赤い髪の毛はないよ。」
「この色はね、ヘナで染めた時独特なんじゃろうね。みんなはヘナ使いようらんけん、こんな色じゃないんじゃろう。」

 そこに甥っ子のむむぎーが、やはり背後にやってきて、「ほんまじゃ! みそちゃん、ここにも、ここにも、あ、ここにも、赤い髪の毛があるよ。ぼく、これほしい!」と言って、引っぱって抜こうとする。

「おにいちゃん! 抜いたらダメよ! これは私が見つけたんじゃけん、わたしのなんよ。」
「じゃあ、みみがーは、そっちがわ半分ね。ぼくがこっちがわ半分で、半分こならええじゃろ?」
「えー、半分こずつならー、まあ、いいけどー。」
「じゃ、ぼくのほうの分を一本。みそちゃん、一本もらっても、ええ?」
「うん。まあいいけど。抜くのを痛くないように上手に抜いてよ。」
「あ、おにいちゃん、おにいちゃんのほうの分でも、抜くのはだめ! みそちゃんがいいって言うてもダメ。せっかくきれいなんじゃけん。抜いたらいけん。」
「きれいなけん、抜いて持っとくんじゃん。みみは自分のところのを抜かずに置いといたらええじゃん。ぼくの分はぼくが好きなようにするけん。」
「だめよ、だめ。おにいちゃん。そんなこと言うんなら、そっち半分もあげんよ。全部私のにするよ。」

 君たちに告ぐ。私の頭に生えてる髪の毛は、全て私のものだ。     押し葉

所望を叶えるということ

 「ホットチリソースのピザが食べたい」と所望しておきながら、出てきたホットチリソースピザを食べるなり、「ホワイトクリームチーズソースピザなのに、辛いトマトみたいな味がする。」と、謎の発言をする夫。「ホワイトクリームチーズ」と「ホットチリ」の「ホ」と「チ」が同じだから勘違いしたのだ、という言い訳はさらに謎だ。(「夫の誕生日」参照)

 そんな夫が、昔、まだ、大学生だった頃、初めての外国旅行に出かけた。その話を、結婚後、私に聞かせてくれたことがある。男子三人(夫も含めて合計三人)アメリカ合衆国の旅。当時の男子大学生御一行三名様は、そろいも揃って、英語が不自由な方々で、なのに、ツアーに参加するでもなく、三人でレンタカーを借りて、交替で運転し、道端で見つけたモーテルのツインルームに逗留しては、ジャンケンで勝った人がベッドで一人のびのびと眠り、残り男性二人は、一つのベッドに二人で寄り添って寝る、という苦行を重ねたのだそうだ。

 心身ともに疲れの溜まったある日のこと。食事のために立ち寄ったハンバーガー屋さんで、夫は、ハンバーガーと牛乳を注文した。だけど、出てきたのは、ハンバーガーとコーラ。明らかに牛乳とは異なる色合いの液体を目視確認した夫は、出してくれた店員さんに「This is not milk.Milk,please.(これは牛乳じゃないです。牛乳をください。)」と伝えるも、店員さんはにこやかに「It's coke,ok.(だいじょうぶよ。これはコーラよ。)」と言い、コーク(コーラ)をミルクと交換してくれるそぶりはない。

 「あのときは悲しかったなあ。飲みたいのは牛乳なのに、コーラを飲むしかないんや。」とつぶやく夫。「たぶん、ミルクのクの音しかお店の人には聞こえなくて、同じクの音がつくコーク(コーラ)を出してくれたんやろうなあ。」「まあ、こっちの発音にもおおいに問題があったんやろうけど。アメリカでミルクがほしかったら、ミゥッ、とか、ミルッ、とか、ミュゥッ、ってかんじで発音せんと地元の人には通じにくい、ということは、とりあえず勉強した。」

 慣れない英語使用に疲れ果てていたのではあろうが、当時の夫よ、そこで挫けるな。紙とペンを取り出して、m,i,l,k,milkと書いて指し示せ。cokeと書いて×をつけ、milkを○で囲むくらいの、コミュニケーション努力はせんかい! と、妻は厳しく説教するのだが、「あのときはそんなことすら思いつかない状態だったんだってばー。疲れ果ててたんだよー。学生で貧乏だとはいえ、あんなにケチケチせずに、モーテルでちゃんとお金を出して、もう一部屋借りて、一人にベッド一つずつにすればよかったよぅ。」と、夫は我が身の若気の至りを振り返る。

 で、何が言いたいかというと、「ホワイトクリームチーズ」と「ホットチリ」に比べたら、「コーク」と「ミルク」は双子みたいなもんだよね、ということだ。ホワイトクリームチーズを食べるつもりなのに、ホットチリを選ぶ人だ。当時学生だった夫も、脳内では「牛乳=ミルク=白い液体」を思い浮かべつつ、「コーク」と口走っていてもおかしくない。

 そういえば、夫はよく「右」と「左」も言い間違える。助手席でナビ(道案内)をしてくれるときに、右方向を指差しながら「そこ左ね。」と言ったりする。「右なの? 左なの?」と聞き返しても、右方向を指差しながら「だからこっち! 左!」と言ったりするのだ。
 あるいは直進運転中の私に「そこ、次の交差点、右ね。」と指示を出してくれるので、指示通り右折すると、「右って言ったのに、なんでそっちに行くんだ!」と私を責める。私が「右って言ったから右折したんだけど。」と言うと、「あ、違ってた。左のつもりだったのに、口が右って言ってた」と言うことのある人なのだ。
 本物のナビゲーションシステムくんが我が家の車においでになってからは、この手のトラブルは激減して、安寧なドライブ生活がやってきた。そんな記憶が蘇るにつれ、夫への疑惑は深まる。

 ということは、アメリカのハンバーガー屋の店員さんが「ミルクをコークと聞き間違えた(夫の発音が現地風ではなかった)説」よりも、実は夫が「ミルクをコークと言い間違えていた説」のほうが有力なのではないか。

 当時のことは、今更どうしようもない。としても、もしも将来夫が、なんらかの事情で寝たきり等になったときには、水を飲ませてほしいのか、オムツを替えてほしいのか、「水」と「オムツ」を言い間違えずに、ちゃんと私に(あるいは他の介護を担ってくれる誰かに)伝えてくれるといいなあ。
 もしも私がそうなったときにも、私が「ホットチリソースのビザが食べたいの。」と伝えたら、ちゃんとホットチリソースのピザを買って来てくれるといいなあ。ホワイトクリームチーズソースのピザと間違えたりせずに。(ホワイトクリームチーズソースも好きではあるのだけど。)
 他にも、お茶ならお茶、オムツならオムツ、望むものを、ちゃんと正しく、提供してくれるといいなあ。
 所望を正しく伝えることも、所望を正しく聞き取り実行することも、とても大切なことだ。そしてそれが叶うことは、きっと、とてもしあわせなことだ。     押し葉

夫の誕生日

 ひと月ほど前の話。毎年四月になると、夫は誕生日を迎える。今年はその誕生日前日に、「夕ご飯は、前夜祭のお祝いをしよう。」ということになる。「何が食べたい?」「ピザがいい!」というやりとりの後、ピザ屋さんへと出向く。店内飲食用のメニューをじっくりと見て、「どれにしようか?」「これにしよう!」と、主に夫が食べたい気分のものを選ぶ。レジで注文と会計を済ませて、テーブルにつく。雑誌などを眺めながら、水をちびちび飲みながら、なんでもないことをぽつぽつと話しながら、ピザの焼きあがりを待つ。ほどなく、注文したピザがテーブルにやってくる。「いただきます。」「お誕生日おめでとう。大きくなってよかったね。」「やったね。ありがと。よかったね。」もぐもぐはむはむ、と、ピザをおいしくいただきながら、夫が、ふと、つぶやく。

「あれ、なんか、このピザ、ホワイトクリームチーズソース、なのに、辛いトマトソースみたいな味がするなあ。」

 夫よ。きみがメニューの写真と説明文を見て、「これがいい。これ注文して。」と言ったから、このピザを注文したのだよ。そしてこのピザについての情報は、メニューにも「ホットチリソース」と書いてあったし、写真もそのような画像であったし、実物もそのとおりのような味がしてるよ。

「あれ? そういえば、そうだなあ。あ、そうか。ホットチリソースとホワイトクリームチーズソースの、ホ、と、チ、が同じだから勘違いしたのかな。」

 「ホワイトクリームチーズソース」。「ホットチリソース」。音も文字も見た目も味も似ていないと思う。百歩か二百歩譲って、どちらもカタカナなのは仲間だね、ということにしても、それでメニューを混同されては、情報提供を担うカタカナも文字としての立つ瀬がなかろう。
 せっかくの誕生日(前夜祭だけど)祝いには、誕生日を祝われるその人は、自分が求めるものを、もっと、正確に把握する務めがあると思う。
 祝いとは、祝いを受け取るその人がそのときに求めるものかそれに近いものを贈り贈られることで、寿ぎも喜びもしあわせな気分も、互いに大きく味わい深いものとなるのだから。「ホットチリ」を食べたいと所望しておきながら、「あれ? ホワイトクリームチーズの味がしない。」と期待はずれを表明されては、祝う気満々で寿ぎの舞を踊っていた私とピザの「心意気」が行き場を失うではないか。

 誕生日の主役なのに、説教される夫も気の毒ではあるが、私もピザも少し気の毒だ。それでも、ピザはちゃんとおいしくて、お腹もくちくなり、機嫌よく「ご馳走様でした。」を唱えて帰路につく。おいしい食べ物の力は偉大だ。そういうわけで、なかなかによい誕生日(前夜だけど)であった。めでたしめでたし。     押し葉

 | HOME | 

文字サイズの変更

プロフィール

どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

ときどき、思い出したように、いただいたメッセージへのお礼やお返事をリンク先の「みそ語り」に書いています。よろしければ、いつでも、どうぞ、どなたでも、ご覧ください。「みそ語り」では、メッセージをくださった方のお名前は書いておりませんので、内容から、これは自分宛かしら、と推理推察しながら読んでいただければうれしいです。手の形の拍手ボタンからメッセージをくださる場合は五百文字以内、文字の方の押し葉ボタンからメッセージをくださる場合は千文字以内となっております。文字数制限なくお便りくださる場合には、下のメールフォームをご利用ください。

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

最新記事

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (0)
暮らし (110)
仕事 (161)
家族 (300)
想 (23)
友 (47)
学習 (79)
旅 (16)
心身 (8)

FC2カウンター

検索フォーム

FC2Ad

Template by たけやん