みそ文

化粧品は担当外

私が勤務する職場では、薬や健康食品だけではなく、介護用品、食品、飲料、酒類、雑貨、洗剤、家庭用品、シャンプー、ベビー用品、気軽なコスメなどなど以外にも、国内有名ブランドメーカーの上等な化粧品(「カウンセリング化粧品」や「制度化粧品」と呼ばれる商品)のコーナーがある。各部門には、各部門の担当者がいて、私は薬と健康食品と介護用品担当なわけだが、お客様にしてみれば、店員さんは店員さん、であるようで、担当部門以外のことを尋ねられることもある。

「○○ありますか?」「○○どこですか?」というような、簡単なことであれば、問題なく対応できるのだが、担当外部門商品の詳しいこととなるとそんなに詳しくなくなるし、その中でも特に「カウンセリング化粧品」のことは、どうにもこうにも、むにゃむにゃ、である。もちろん、基本的な分類や、それらが配置されている位置は記憶して、簡単なご案内なら可能である。けれども、「いついつ新発売予定のなになにを二個買うとおまけがついてくるらしいけど、そのおまけはもう見れますか?」だとか、「この口紅がリニューアルで新発売になったのは、どれですか?」と、使いかけの口紅を持参して見せてくださりながら尋ねてくださっても、その容器の色形だけで、どこのなんというシリーズ商品なのかは、私ではわからない。

でも「カウンセリング化粧品」担当者なら、当然とても詳しくて、ちまちまとした化粧品の、どれでも、どこからでも、すいすいと出してきて、とてもスムーズに、上手に、にこやかに、軽やかに、しかもたいへん美しく、お客様に説明するのだ。しかし彼女の契約時間は、夕方の五時までで、それを過ぎてしまってから、カウンセリング化粧品ご相談のお客様がいらっしゃると、もう、お手上げ、どきどき、だ。

いつだったかも、自分の部門の発注作業に勤しんでいたら、お若い女性のお客様が声をかけてくださった。「すみません。お薬の人に、化粧品のこと聞いてもいいですか?」「あ。はい。簡単なことであれば、大丈夫です。私ではわかりにくいことであれば、お時間いただいて調べさせてくださいね。」と言いながら、内心は「ひょえーん」と思いながら、お客様と一緒に歩いて、「カウンセリング化粧品」コーナーへ行く。結局は、私ではよくわからないことで、店長にお願いして対応してもらうことに。けれど、店長といえども、若造の兄ちゃんで、化粧には縁がなく、彼も「ひょええ」なのである。でも、彼は店長だから、一応店内全商品を把握している建前なのだ。結果的には、店長もお手上げであると判断して、すでに帰宅した「カウンセリング化粧品」担当者に電話して、対応方法の指令を受けていた。その間、私は、「店長ごめんねー」と思いながら、自分の部門の残り発注に集中。

いや、ほんと、「カウンセリング化粧品」の相談は、まいるのよ。と、帰宅後夫に話したら、「そんなもん、わし(私)の顔を見たら、化粧品に詳しいかどうかくらい、わかるじゃろうがあ! って言うて暴れるんか? 専門分野違いすぎやろ。客もちいたあ(少しは)考えよ。」と返してくれた。ああ、そんなことは言わないけど、暴れたりはしないけれど、本当に、そう言いたいよ、と思うことであるよ。     押し葉

うたた寝大王くん

夫はうたた寝が得意だ。うたた寝中にテレビを付けっ放しにしておくのも好きらしい。誰も見ていないテレビがついていることが、あまり得意でない私は、「見ていないなら消そうよ。」と提案してみたり、夫があまり得意でないアメリカのクライム(犯罪捜査)ドラマの再放送の六回目や七回目(私は何度でも見れる)に変えようとしたりする。

けれど夫は、「自分が見たいものを見たいのに眠くて見れないけれど、うっすらとその番組の音だけ聞こえているのが至福なんだから、このままがいい。」と主張する。「この快楽のために、他でエコを頑張ってるんだから。」とも。彼がごそごそごそ、と、体をコタツに深くもぐりこませて、枕にしている座布団を整えだしたら、うたた寝の時は近い。「はいはい。至福なのね。至福の時間をどうぞ。」と、彼の好きなニュース番組をつけたまま、数分過ごす。体勢を整えてからほんのちょっとの間は、薄目を開けたり閉じたりしているけれども、次第にその動きもなくなる。そして、私がチャンネルを変えても、テレビの中のアメリカで犯罪捜査が延々と続いても、彼は気づかず眠り続ける。居眠りしながら、うっすらと音を聴くのは、なかなかに難しいらしい。私がドラマを三本ほど見る間、彼は延々眠り続ける。

彼が、はっとした様子で、「今何時?」と声を出したら、うたた寝終了の合図だ。手のひらをパタパタさせて、手のひらマッサージを要求するのも、うたた寝から生還するときの特徴だ。うたた寝のつもりが三時間前後熟睡してしまった夫は、「ああ。よく寝た。」と伸びをして起きるが、同時に、私に向かって「眠りののろいをかけられた。」と文句を言う。眠りが足りてご満足なのか、テレビのことを忘れて眠りこけたことがご不満なのか、毎回、謎である。     押し葉

膝の痛みに絵の力

とっても年配の男性のお客様。ビタミン剤のコーナーで、あれを見たり、これを見たりと、迷っておられるご様子。「何かお探しでしょうか?」と、声をかけて差し上げてみる。「うーん。膝が痛いのには、どれがいいかと思って見てるんや。」

年の頃は、八十歳前後だろうか。数週間前から、膝の痛みが気になりだした、とのことである。それまでの八十年間(想定)、膝に痛みがなかったというのもおそるべし、であるのだが、とにかく、そのお客様は、数週間前から痛くなって、病院で湿布はもらっている、写真で骨には異常はなかった、何か飲んだら、もっと早く楽になるのではないか、と考えて来てみた、とのこと。ビタミン剤がいいだろうか、コンドロイチンがいいだろうか、いろいろ考えておられるようだが、それはそれで考えるとして、とりあえず、今の痛みをどうにかできるものはないか、とのお言葉に、それでは、コンドロイチンなどが効いてくるまでの間の繋ぎとして、一時的に、「痛み止め」(鎮痛剤)も飲んでみられてはどうでしょうか、と、提案してみることにした。

鎮痛剤コーナーは別にあるのだが、お客様と並んで立つビタミン剤と腰痛神経痛関節痛関連コーナーの並びに、「アンメルシン鎮痛錠」という商品を置いている。成分は、イブプロフェン、という鎮痛成分。頭痛生理痛のときに使う「イブ」(イブAじゃないほう)とまったく同成分同容量である。特別強力な鎮痛成分というわけでもないが、一応成人(十五歳以上)限定成分で、市販品の中では、まあまあ鎮痛効果がしっかりしている方かな、というかんじだろうか。この「アンメルシン鎮痛錠」、有効成分としてはイブプロフェンだけなのであるが、添加物としての表記にグルコサミンとコンドロイチンが入っているのが、「イブ」とは異なるところだろうか。しかし、グルコサミンにしても、コンドロイチンにしても、たった一回や二回飲んだだけで、その効果が劇的に現れるものではなく、しかも、有効成分ではなく、添加物である。お客様にお奨めするには、心もとない気がして、なかなか推売に至らずにいた。パッケージには、人間の膝の絵が大きく描かれており、目立つ字体の文字で「膝の痛みに!」と書いてある。しかし有効成分は、ただのイブプロフェンだけ。箱側面の効能効果の欄には、ごくごく普通の鎮痛効果として、神経痛、腰痛、頭痛、生理痛、咽頭痛、歯痛、関節痛、などなどが記載されている。どう考えても、ごくごく普通の鎮痛薬だ。

けれども、じーちゃんのこころには、このパッケージデザインが、ぐぐぐっ、と来たらしい。「これで様子見てみるわ。」と、なんだかえらく乗り気である。「ビタミンやコンドロイチンは、これを飲んでから考えるわ。」そしてこうも言われるのだ。「病院でも飲み薬が出てるんやけど、全然効かんから、ここに来てみたんや。」

え? 貼り薬だけではなかったのか?
「病院では、湿布だけではなくて、飲み薬も出てるんですか?」
「そうなんや。飲んでみたけど全然効かんから、売薬買って飲んでみようと思って。」
「えーと、ですね、病院のお薬は、痛み止めや炎症を和らげるお薬が出ているのではないですか?」
「そうや。そう言うてはったわ。」
「では、ですね、このアンメルシン鎮痛錠の成分と、病院の痛み止めの成分が、全く同じではないにしても、働きとして、重複する可能性が高いです。胃や肝臓のことを考えると、併せて飲むのはよくないです。」
「ああ、それなら、だいじょうぶや。病院の薬は、二回くらい飲んでみて、全然効かんから、もう飲んでないんや。」
「え? 何日分くらい出てましたか?」
「んー、二週間分やったかな。」
「お客様。それはですね、膝の痛みというものは、長年の使い痛みや、軟骨の擦り減りや、いろんな背景がありますので、薬を飲んで、すぐすぐに、痛みがなくなる、というのは、難しいことなんですよ。」
「そうはいうても、今まで長年痛んだことがないからなあ。」
「それはすばらしいことなんですが、いったん痛くなったときには、お薬も一回や二回飲んだだけで、すぐに痛みがなくなるとは思われないで、気長にじっくり取り組んでみていただけませんか。」
「薬なんて、一二回飲んで効かん薬は、薬じゃないやろう。」
「いえいえ。症状や目的にもよりますが、その人の体が十分に反応するまでに、何日か、何週間か、あるいはもっと、かかることもあるんですよ。」
「そんなもんは薬とちゃうやろ。」
「とにかくですね、病院のお薬を飲まれるのであれば、このアンメルシン鎮痛錠は飲まないでいただけますか。」
「それは、だいじょうぶや。病院の薬は効かんから、もう飲んでないし。これからも飲めへんから。」
「成分的なことを考えると、こちらのアンメルシン鎮痛錠よりも、おそらく病院の痛み止めのほうが、痛み止めとしてのランクは上だと思うんですが。」
「いやいや、あれは効かん薬や。心配せんでも一緒に飲んだりせんから。これをもらっていくわ。」
「そうですか。ではですね、一回に飲む量と、一日に飲む量は、箱の横に書いてあるこれです。痛みがある程度落ち着かれたら、一日三回と書いてあっても、無理に三回飲まなくてもいいです。一日最高三回まで、と思って、一日一回でも二回でもいいですから、調整してみてくださいね。」
「わかった。わかった。」
「あの、くれぐれも病院の薬とは」
「わかっとる、わかっとる。病院のほうのは飲まんから、だいじょうぶやって。」

そうかあ。病院で処方される薬の何割かは、こうやって飲まれないまま、効かないことになるのねえ。

そしてその翌日。高いところの作業をするため、脚立にのぼっていた私の側を、年配男性が通りすぎられたので、いつものように声をかける。「いらっしゃいませー。」するとそのお客様が、とてもにこやかに軽やかに、「おお、こんちは。」と声を返してくださった。なんだかとても親しげだ。えーっと、誰だっけ?知ってるお客様だっけ?考えながら作業を続けていたら、そのお客様が、ビタミン腰痛関節痛関連コーナーでなにやら探しておられる様子が、高いところから見えたので、脚立を降りて行ってみる。

「こんにちは。何かお探しですか?」
「ああ。昨日買った、アンメルシンの痛み止めが、すごーくよく効いたんや。一回飲んだら、そのとたんに、ぴたあーっと、痛みが止まったんや。やから、同じものを買いに来た。もう、これがあれば安心や、思うてな。」
ああ!昨日のあのじーちゃんだ。
「まあ。それは、よかったです。そんなにぴたっと効くなんて、よほど体との相性がよかったんでしょうか。」
「そうなんやろう。やっぱり病院の薬は効かんけど、売薬はよう効くわ。」
「昨日お買い上げくださった、アンメルシン鎮痛錠は、一番上の段のここに置いてあります。」
「おお。これこれ。」
「もしも、ここにないときには、こちらの(てくてくてくてく)、痛み止めのコーナーの、下から二段目のここにも、同じものが置いてありますので、こちらもご覧くださいね。」
「おお。ここにもあるんか。じゃあ、もう一個もらっとくわ。」
「え、でも、昨日買ってくださったばかりで、また二箱も買ってくださって、だいじょうぶですか?」
「心配せんでも、決められた数より、多く飲んだりせえへんから。再々買いに来るのは面倒やろ。これがあれば、もう病院にも、行かんでええくらいや。」
「そうですか。薬が効いていて痛みがなくても、立ち方や歩き方、体重のかけ方など、膝の負担を考えてやる工夫は続けてくださいね。」
「わかっとる、わかっとる。」

痛みがなくなったからなのか、昨日のじーちゃんに比べると、本当ににこやかで軽やかだ。しかし、成分は、ただのイブプロフェンなのに、一回飲んだそのとたんに、効果が現れたということは、それはきっと、おそらく、外箱に描かれている「膝の絵」と、「膝の痛みに!」というコピーが効果を発揮したのであろう。同じ成分の「イブ」を奨めて、飲んでみてもらったとしても、あのシンプルな白い外箱では、同じようには効かなかったのではないかと予想する。

お薬を使うときに、それがどこにどのように効くかを、自分の中でイメージを持つことは、とてもとても重要だ。その点、たしかに、病院で処方される薬には、イメージを促すようなイラストもついてないし、治癒力を喚起するような、魅惑的なコピーも書かれていない。痛み止め、は、いろいろな部位を対象に使うものではあるけれど、患者さんの訴えに応じて、気になる患部のイラストをつけて、ここに効いていくんですよ、と説明をするのも、効果を高めるひとつの手法かもしれない。効能効果の説明文も、淡々と「痛みと炎症をおさえます。」と印刷するだけではなくて、その人が、喉の痛みでかかられたなら、手書きで大文字で色ペンで「喉の痛みに!」と書き加えてみる。膝の痛みでかかられたなら、「膝の痛みに!」と書いてみる。あるいは、「膝シール」「喉シール」など貼ってみる。同じ鎮痛剤だとしても、あえてそうしてみることで、イメージの喚起が促され、より効果が現れるなら、それもそれで、薬効のうち、なのかもしれない。イメージ喚起。医療用医薬品も、一般用医薬品も、まだまだ展開の余地ありかも、と思った出来事であった。     押し葉

胃の調子

熊本の調剤薬局に勤務していた頃のこと。同僚で先輩の薬剤師の人が、多少沈んだ声で、「どうやら先生。私、なんか、最近、胃の調子がもうひとつよくないかんじがする。」と声をかけてこられた。私は、「ええ? そうなんですか? 何か胃薬、少し続けて飲んでみますか? 症状は、いつ頃から、どんなかんじなんですか?」と、続けざまに質問した。

「んー。いつ頃からかなあ。ここ二三週間か、一ヶ月くらいは経つかなあ。」
「結構、長いじゃないですか。痛みやもたれ感はどうなんですか?」
「んー。痛くはない、か、なあ。もたれる、って、どんなかんじなんだろうなあ。ちょっとなんか重たい感じがするような気がするのは、もたれ? 薬剤師だから、患者さんには、『もたれたかんじを改善します』とかって説明するけど、実際は、もたれ、って、ようわからんたい。」
「え? じゃあ、じゃあ、胃の調子がよくないって、具体的にはどんなときに感じるんですか?」
「それったい。とにかく、最近、カレーライスが、二杯しか食べられんと。」
「ええ? カレー二杯も食べれるんですか?それはむしろ好調なんじゃ。」
「どうやら先生、何言ってるん?カレーは最低三杯以上食べるやろ。」
「いいえ。一杯で十分ですが。えーっと、三杯も食べられる、ということは、もしかして、カレー用のお皿じゃなくて、ご飯茶碗でカレーライス食べてるんですか?」
「もう、どうやら先生、おもしろいことばっかり言うー。カレーは広いカレー皿で食べるに決まっとるったい。」
「うううう。じゃあ、カレーが三杯食べられないから、胃が不調なんですか?」
「そうよー。気になって気になって。」
「えっと、それは、ですね、不調じゃなくて、普通の調子だと思います。」
「そんなことない。絶対に不調と思う。医療事務の○○さんも、カレーは絶対三杯以上食べるって言ってたし。」
「そうですか、すごいですね、じゃあ、とりあえず、何か健胃薬少し飲みますか?それとも胃粘膜保護薬にしますか?」
「んー。そうやねー。心配やし、両方飲んだ方がいいかなー。」

胃腸の調子の健康基準は、人それぞれ、なんだなあ。とりあえず、胃の検査は、奨めてなくもだいじょうぶ、だったはず。     押し葉

気概必要力説不要

「痔」や「水虫」の薬について相談してくださるお客様によくあること、なのであるが、「私じゃないんです! 家族に頼まれて買いに来たんです!」と、なぜか力説してくださる。

こちらとしては、力説してくださらずとも、十五歳以上か未満か、妊娠中か、授乳中か、その他治療中の病気があるか、使用中のお薬は何か、が、わかれば、誰でもいい。誰でもいいから、とにかく、症状を明確に詳しく教えてもらいたい。どこの部分が、どのようになっているのか。「痔」であれば、切れているのか、イボになっているのか、それは肛門の外なのか中なのか両方なのか。痛みや痒みや出血の有無や程度はどうなのか。それによって、選ぶお薬の成分も剤型も異なってくるから。頼まれものであればなおのこと、ぜひとも、そのへんをよく確認した上で、ご来店願いたい。「自分のことじゃないからわからない。」などと言っている場合ではないぞ。自分のことでなくても、風邪や胃腸の不調なら、どこがどんなふうなのか症状をよく観察確認してから、症状に応じた薬を選ぼうとするではないか。お尻のことも、足の事も、丁寧に観察確認して、適切なお薬を選択する気概を、ご本人も「おつかい」の人も、もっと持とうではないか。

「おつかい」の人、がんばれ。実は自分のことならば、なおのこと、もっとがんばれ。     押し葉

新年のお告げ(後編)

「九年に一度のチャンス到来」のお告げから一年が経った。実家に帰省する道すがら、車中で夫に、「で、結局、九年に一度のチャンスって、いったいなんだったんだろう?」と訊いてみる。夫は、「うーん。これといって思い当たらんけど、何かあったことにしたいなあ。そうだ。今年は、カレーを作るときに、ホールトマトの缶詰を入れて作ると美味しいことに気付いたから、それにしよう。」と言う。いいのか? それで?

年末、夫の実家でゆっくりしながら、義母と話してみる。「おかあさん。じめいさんが、今年の最初にもらったお告げの、九年に一度のチャンスっていうのが、結局なんじゃったんか、わからんのんですが、私は何か見落としとるんでしょうか。」と尋ねる私に、母は心底諭すように、「一年間、何事もなく、元気に過ごせたいうことが、チャンスだったんじゃないんかねえ。」と言ってくれる。そうなんですか? チャンスって、チャンスって、そういうものだったのですか?

多少クラクラしながらも、九年に一度のチャンスに、一年の無事に感謝して、年越しそばを味わう。そしてまた、あらたな新年元旦。あけましておめでとう。初詣から戻った両親は、去年よりさらに嬉しそうだ。「今年は、みそさんも、じめいも、ふたりとも、すっごいすっごい、いいんじゃけん。」と母。

さあ。どれどれ。録音機の周りに集まる。「ごおーん、ごおーん、ちーん。どうやら みそー。どうやら みそー。ほっぷ、すてっぷ、じゃんぷー。ほっぷ、すてっぷ、じゃんぷー。花束を抱えている姿が見えまするー。花束を抱えている姿が見えまするー。ほっぷ、すてっぷ、じゃんぷー。」

「ねえ! ねえ! すごいいいじゃろ?」興奮気味の母。父はなぜかもう一度、同じところ再生してくれる。父もこころなしか、ほんの少し嬉しそうだ。「ほっぷ、すてっぷ、じゃんぷー」

私は一応言ってみる。「あれですかね。去年の、口は災いにこの一年、気をつけたのがよかったんですかね。」
なぜだ。誰も何も返してくれない。

続けて夫のお告げである。「ごおーん、ごおーん、ちーん。どうやら じめい。どうやら じめい。十年に一度のチャンス到来ー。十年に一度のチャンス到来ー。こころしてすごせよー。こころしてすごせよー。十年に一度のチャンス到来ー。」

今年もかい! 毎年かい! 来年は十一年に一度のチャンスか? 今度はなんや? ホールトマト缶の次はなんや?

母はにこにこと、「よかったねー。ありがたいねー。」と言いながら、絵馬やらお守りやらを出している。父、悠然と、茶をすする。     押し葉

新年のお告げ(前編)

夫の実家の両親は、毎年元旦になると、ちょっと遠くのお寺まで、初詣に出かけてゆく。義父が信頼する尼さんのお経を聞いて、新しい一年を占ってもらい、そのお告げを持ち帰る。義父は張り切って、毎年小さな録音機に、お経とお告げを録音して、お昼過ぎに戻ってくる。

何年前のことだろうか。初詣から帰ってきた義母が嬉しそうにこう言う。「じめい(夫の名)の今年の運勢、すごいいいんじゃけん!」義父が録音機を再生する。何がそんなによかったのか。どれどれ。と聴いてみる。

「(お経が流れる)。ごおーん、ごおーん、ちーん(ここまで鳴り物の音)。どうやら じめい(夫のフルネーム)どうやら じめい。九年に一度のチャンス到来ー。九年に一度のチャンス到来ー。こころしてすごせよー。こころしてすごせよー。」

おおおおお! 九年に一度のチャンスってなんだー?

母はとても嬉しそうだ。「ねー。すごいいいじゃろー。なんかええことがあるんかもしれん。」

そうかなー。たのしみだねー。夫もちょびっと嬉しげだ。

父が「わしらのはきれいに録れんで、何を言いようてか(言っておられるか)わからんが、みそさんのはきれいに録れた。」と録音の続きを流してくれた。

「(お経)ごおーん、ちーん(鳴り物)。どうやら みそー。どうやら みそー。口は災いの元ー。口は災いの元ー。こころしてすごせよー。こころしてすごせよー。」

あっけにとられる私。笑いをかみ殺す夫。父と母に問うてみる。「このお告げの申し込みは、備考欄に、こいつは口うるさいです、とか書くんですか?」「いいや、いいや。なんも、なんも。名前と生年月日だけよ。」と母。

悠然と茶をすする父。うーん。腑に落ちん。     押し葉

大切な心構え

金曜日の夜。夕食に回転寿司屋さんに出かけよう、五パーセント割引ハガキもあるしね、そうしよう、ということになった。

ところで、私は少し「頭が弱い」らしい。空腹や疲労などが一定量を超えると、体が私の弱いところに症状を示して、私に警告を伝えてきてくれるのだが、そのときにも、真っ先に症状が出るのは「頭」だ。頭痛は私にとって、「何か食べなさい。」「何か飲みなさい。」「深く呼吸をしなさい。」「活動量を低下させなさい。」などの指令としても機能している。

で、回転寿司屋さんへ出かけるときも、頭が痛かったので、助手席でじっと静かにしてたほうがいいかも、と、思い、夫に、「私、頭が痛いから、運転してもらえるかな。」と聞いてみた。夫は一瞬立ち止まり、その後黙って助手席に乗り込んだ。「ど、どういうことなの? 免許証持ってきてないの?」と、尋ねながら運転席に乗り込む。夫の返答は、「免許証は持ってきたけど、運転の心構えを家に置いてきたから、今日はもう運転できない。運転するなら、(心構えを)家まで取りに帰らないと。」であった。

そういうわけで、私が往復運転したが、回転寿司屋さんでほうじ茶を飲み、いろいろ食べて、帰宅後鎮痛剤を飲んだが、まだやや頭が痛い。無理せず、夫の「運転の心構え」を家まで取りに帰って、運転してもらえばよかった。体の声に従うことは大切だなあ、と、あらためて思うことである。     押し葉

和蝋燭

友人が旅先から送ってきてくれた和蝋燭。蝋燭(ろうそく)本体は、細い朱と太い白がゆるやかならせんを描く縞模様。蝋燭の芯は、和紙と真綿。蝋は、ハゼの木の実からとれたもの。

この蝋燭に火を灯すと、木の存在を深く感じる。その灯りは、柔らかく、そして、力強く、その炎を眺めているだけで、自分の内の、何かが、太く、丈夫に、なってゆく。

世の中には、「拝火教」、というものがあるらしいけれど、火を、炎を、信仰の対象とする、その気持ちが、わかる気がするような気持ちになる。玄関で、ほんの数十秒、その灯火(ともしび)を眺めるだけで、ともすれば、泣き出しそうになる気持ちも、やもすれば、叫びだしそうになる気持ちも、静かに整い、呼吸整い、生命(いのち)整い、力と勇気は、信頼に足るものなのだと、思い出して、安堵する。     押し葉

大丈夫だいじょうぶ

お盆に幼馴染のめいちゃんと会ったときの話。めいちゃんちは近いけど、車に乗って会いに行く。それから二人で私の車に乗って、モスバーガーへ夕ご飯を食べに行く計画。車に乗り込もうとするめいちゃんに、めいちゃんちの家の二階の窓から、めいちゃんの姪っ子たち二人が顔をのぞかせる。

「めいちゃーん。どこいくんー?」
「みそちゃんと一緒にモスバーガー。行って来るねー。」
「えー。いっしょにいくー。」「いっしょにいきたいー。」
「今日はだめー。また今度ねー。」
「えー。ずるいー。」「えー。ずるいー。」

車を発進させてから、車中で話す。
「姪っ子さんたち、不本意そうだったねー。連れて行ってくれないんなら、モスバーガーなんて言うなー、な気分だろうなあ。」
「あー、いいのいいの。あの子達さっきまで、焼肉ー焼肉ー、って、歌って踊ってたんだから。それで今、母と妹は、肉買いに行ってるの。」
「焼肉食べるなら、モスバーガー行ってる場合じゃないよねえ。」
「うん。場合じゃない。」
「あ。そうか。お盆で妹さんたち家族が来てるから、宴なんだ?」
「父の誕生日が十八日でね、その前祝いという名目で、焼肉とケーキなんだって。」
「え? お父さんの誕生日のお祝いなのに、めいちゃん一緒に食べなくていいの?私とモスバーガーでいいの?」
「うん。いいのいいの。この年で、焼肉とケーキは、ちょっときつい。」

無事に、予定通り、モスバーガー到着。それぞれに食べたい物を注文する。ふと、めいちゃんが、一枚の葉書のような物を取り出す。「スタンプがいっぱいになったから、無料で一個もらえるんだー。姪っ子たちに持って帰ってやろうと思って。」そうか。そうか。お土産か。きっと喜ぶね。

お店の中で、お喋りしながら、美味しく夕食をいただいて、続きのお喋りは、めいちゃんの部屋でしましょ、ということで、再びめいちゃん宅へ。駐車場に到着すると、めいちゃんの妹のなおちゃんが歩いてて、めいちゃんがお土産のモスバーガーを手渡す。

「これ、あの子達に、お土産。一個しかないんだけど、大丈夫かなあ。二人でケンカしないかなあ。」と、心配するめいちゃんに、なおちゃんはとっても元気に応える。「ありがとー。だいじょうぶよ。だいじょうぶ。あの子達に見つかるより先に私が食べるけん、だいじょうぶ。安心して。」

大丈夫、には、いろんな、だいじょうぶ、が、あるんだなあ。     押し葉

間違い電話

我が家では、基本的には、登録電話番号以外の番号からかかってきた電話には、留守番電話対応することにしている。商いをしているわけではないし、用事のある人は限られている。メッセージを聞いて、出るべき相手であれば出るし、あとからかけなおしたりする。荷物が配達される予定があるときには、配送業者さんからの在宅確認電話かな、と思って出ることもあるけれど、それで、業者さんだったときには、業者さんであることを登録しておく。留守だからといって、メッセージを残さずに切る人は、それほどたいした用事ではないからそうするのだ、と判断する。こうするようになってから、勧誘電話の面倒くささはほぼ全くなくなり、当然詐欺系の電話もない。防犯対策もばっちりだ、と、ご満悦だ。根性のある勧誘屋さんは、名を名乗り、またお電話します、とメッセージを残してくれるが、こちらが用事のない勧誘屋さんの場合は、またお電話くださっても出ない。(なので、もしも、友人知人親戚等の方で、連絡が必要な方で、まだ我が家に登録されていない番号からかけてくださる場合は、ぜひメッセージを残してください。)

こういうシステムにしていても、たまたまなんとなく、あ、あそこのお店からの、商品入りました、のお知らせかも、お店だから電話番号が複数あるのかも、と思ったりして、受話器をとることがある。先日も出勤前に電話が鳴り、番号は市内局番だったので、本の注文をした本屋さんかなあ、と思い、受話器をとった。受話器をとっても名は名乗らない。「はい」と一言だけ、丁寧に言う。すると相手は少し年上風の女性の声で、「あ、あけみちゃん? ちょっと、お母さんにかわってくれるかな? お母さんいるやろ?」と、とても馴れ馴れしく話しかけてくださった。「いえ、ちがいます」と応えたのだが、「何言うてんの? あけみちゃんやろ? お母さんに用事やねんて」と、今度は幼女をたしなめる口調で話しかけてくださる。たしかに私は、声のトーンがやや高いが、幼女ではないので、今度は少し落ち着き気味に「失礼ですが、何番におかけですか?」と尋ねてみる。それでようやく相手の人も「え? ちょっと待って。ありゃ。二四にかけたつもりなのに、押し間違えたわ。」と言われる。「大丈夫ですかね? では、かけ直してみてくださいね」と言うと、ようやく「まあ、すみませんでした。」となり、解決、出勤に至った。

たまたま出た電話で、間違いを教えてあげられれば、こうして解決するのだが、留守番電話に間違い電話のメッセージが残っている場合、それを後で聞いた場合、なんともしてあげられない感が生じる。何年か前に、お盆だか年末年始だかの、広島帰省から戻ってきて、留守番電話を聞いたとき、全く見知らぬ人の番号の着信履歴とメッセージが入っていた。再生してみると、「あ。お母ちゃん。あんな、お土産の漬物、たぶん倉庫の棚の上に置いたまんまで、手渡すの忘れててん。腐るといかんし、早めに冷蔵庫に入れて、食べてなー」メッセージの受信日時は、すでに三日以上前。漬物の存在に、お母ちゃんは気づかれただろうか。それとも腐ってしまっただろうか。かといって、こちらから電話をかけてあげて、間違い電話で漬物のメッセージが入っていましたよ、と教えてあげるほどのことではないような気がするよねえ、と夫と話して、そのまま放置することにした。気になりつつ。我が家の留守番電話の応対メッセージは、電話の機械に付いている音声をそのまま使っているのだけれども、それで殆んど不便も問題もないのだけれども、あの漬物電話を思い出すと、自分でこちらの電話番号を名乗る対応メッセージを録音して使おうかなあ、と思う。けど、あれ以来、そんなうっかり電話もないので、いいことに、している。     押し葉

たんざく

毎年、七夕になると、七夕に限らず「お願い事」を思う季節になると、思い出す。図書館に飾ってあった七夕の短冊。小さな子どもの慣れない文字で「でんしゃにのりたい」と書いてある。よしよし。乗せちゃる。乗せちゃる。

「じをじょうずにかきたい」その調子で練習練習。

「せーらーむーんになりたい」がんばれ。がんばれ。

こういうお願い事たちには、「世界平和」や「家族みんなが健康でありますように」よりも、好感を感じてしまうのは、なぜだろう。

以前熊本で、薬を届けに行っていた特別養護老人ホームの七夕の短冊は、またちがった趣だった。「夜眠りたい」「足が痛いのがらくになりますように」「家族に会いたい」

こういうお願い事たちが、「合格祈願」や「海外旅行に行きたい」の短冊を見るよりも、ずっと胸締め付けられるのはなぜだろう。
    押し葉

きりぬきを握りしめて

新聞の下段広告の「切り抜き」を握りしめて、「この薬ください。」と、ご来店くださるお客様が、ときどき、たまに、いらっしゃる。だいたいの場合は、テレビ広告もしているような、有名どころの商品で、「はいはい。こちらです。」と、すぐにご案内できることが多い。けれど、先日ご来店くださったお客様(年配女性)は、少し事情が異なった。新聞の下段広告の切抜きを握りしめてご来店くださる、そこまでは通常通りなのであるが、そして、その紙を示しながら「この薬ちょうだい。」とおっしゃるところまでも同じなのだが、「これで耳鳴りが治るって書いてあるから。」というのも、よくある展開ではあるのだが、「はい。なんでしょう。」と、その商品がなんなのかを見せていただいた、そこからが、いつもとは、事情が少し異なった。

その広告には、大きなドットの太い文字で、縦書きで、「耳鳴りが治る!!」と書いてあり、その横に、数行にわたり、全文は記憶していないけれど、小さめの文字で、やはり縦書きで、「この驚異の植物エキスであなたの長年の苦しみが解決! うんねんかんぬん!!!」と書いてある。そしてさらにその下には、さらに小さい文字で、そして今度は横書きで、こう書いてあった。「○○出版 ISBNコード○○○○○○○○ 本社電話番号○○-○○○○-○○○○」

「お客様。こちらの広告は、お薬の広告ではなくて、本の広告のようですね。」
「え?本?でも、ここにちゃんと、耳鳴りが治る、いうて書いてあるやん。」
「そうなんですねえ。どうもこの、耳鳴りが治る!! というのが、本の題名みたいですね。」
「ええ??でも、ほらここに、植物性エキスで治るって書いてあるやん。」
「この本の内容の説明文として、そう書いてあるようです。この下のところに書いてある小さい文字をご覧いただけますか。出版社名と本の商品番号が書いてあるんです。」
「えええ??? じゃあ、これは、ここには、ないっていうこと?」
「はい。申し訳ございませんが、本屋さんでたずねてみていただけますか。」
「本屋じゃないとないの? ここにはないの?」
「はい。当店では、書籍類の取り扱いはしてないんです。」
「じゃあ、私は、どうすれば、この植物エキスの薬を飲めるん?」
「そうですねえ。薬か健康食品なのかは、今のところ不明ですが、まずは、本屋さんで、この本を見ていただいてですね、その本の中に書いてある植物エキス、というのが、何の植物エキスで、どういう成分なのか、確認していただきまして、そのものが一般に販売されているものであれば、当店で取り寄せ可能かお調べいたしますので、また教えていただけますか?」
「そんなことできんわ。私もう年やし。目もよう見えんし、本なんて読まれんわ。」
「そうですか。」
「じゃあ、おねえさん(私のことだ)、植物エキス、なら、あるん?」
「お持ちくださった広告に書いてある植物エキスに関してはわかりませんが、植物エキスが成分のものは、いろいろとございます。」
「どれ、それ?それ見せて。」
「えーとですね、植物エキスというのは、木や草や葉っぱや花や実や根っこから抽出したもののことをひっくるめて、そう呼ぶんです。」
「それはどれなん?」
「どれというわけではなくてですね、たとえばですね、こちらのブルーベリーですと、目の働きを助けますし、ウコンであれば、肝臓の働きを助けてくれます。そんなふうに、いろんな種類のものが、たくさんあります。」
「じゃあ、耳鳴りに効くのは?」
「植物エキスというわけではなくなりますが、よろしいですか?」
「うん。いい。どれ?」
「当店で、耳鳴り対策として取り扱ってるのは、ひとつはお薬で、ナリピタン、というものなんです。」
「あ。それは、もう、飲んだことあるけど、効かんかったわ。」
「そうですか。他にとなりますと、健康食品になりますが、蜂の子をカプセルにしたものがございます。」
「ああ。それも、もう飲んだ。全然効かない。」
「そうなんですか。ところで、その、ナリピタンと蜂の子は、それぞれどのくらい飲んでみられましたか?」
「半分くらい飲んだけど、効かんから、やめたわ。」
ということは、せいぜいが四、五日か。
「そうですかー。耳鳴りは多くの場合、何かをして、何かを飲んで、劇的にすぐに治る、というわけではないですから、何かを試していただくときも、気長に、最低でも一ヶ月くらいは、できれば数ヶ月以上かけるつもりで、続けていただくほうがいいんですよ。」
「そんなん無理やわ。私は心臓の薬やら、いろいろ飲んでるから、なんでもかんでも長いこと飲むわけにはいかんやろ。」
「お客様。病院にかかっておられて、続けて飲んでるお薬がおありなんですね。」
「うん、そうよ。」
「心臓のお薬も飲んでおられるんですね。」
「そう、そう。」
「それで、他に何か市販のものを試してみようということもあるんですね。」
「そうよ、そう。」
「そのときには、長く飲むときも、短く飲むときも、まずは、担当の先生と相談してみてください。」
「ええ? 病院で?」
「そうです。短ければ飲んでいい、長いから飲んじゃダメ、というわけではないんです。それで、先生と相談してみて、飲んでもいいね、ということになれば、試してみてください。」
「ええ? 病院で?」
「もしも次の診察日まで、だいぶん日にちがあるようでしたら、そのときには、そのときに飲んでいるお薬を全部か、お薬の説明書(医薬品情報提供用紙)を持ってきて見せてくだされば、併せて飲んでも大丈夫かどうか、可能な範囲でお調べします。」
「まあ、そうなん?」
「それでだいじょうぶなものであれば、市販のものも併せて飲んでみて、また次の診察のときに、病院でもその話をしてくださいね。」
「ほう、ほう。」
「それで、しばらく飲んでみて、体に合うようであれば、気長に続けた方がよいものは、数週間、数ヶ月、じっくりと、きちんと続けて飲んでみられてはいかがでしょう。」
「それで治るん?」
「それは試してみないことには、わからないことなんです。でも、もしも体にぴったり合えば、そういえば、最近なんとなく、症状が気にならなくなった気がするかなあ、というかんじで、効いてきます。」
「そしたら、もう飲まんでええん?」
「いえいえ。調子がよくなったときに、治った、と思って、やめてしまうのではなくて、よい調子を保つように、少しずつでもずっと続けて飲まれるほうが、いいみたいですよ。」
「じゃあ、いつまで飲めばいいん?」
「お客様ご自身が、もう飲むのをやめよう、と判断なさるときまで、です。」
「他の人らは、みんなどうする人が多いん?」
「人それぞれではありますが、もう死ぬまで飲み続けるつもり、という方も多くおられますし、一度やめてみたけれど、また症状が気になりだしたから、やっぱり続けてみる、という方もおられます。」
「まあ、私はな、病院で心臓の薬飲んでるからな、そうなんでもかんでも、長いこと飲むわけにいかんからな、それは無理やと思うわ。」
「そうですか。ではとにかくですね、新聞記事や広告で、これいいかも、と思うことがありましたら、まずは病院の先生と、相談してみてくださいね。」

ああ。くすりの神様。しごとの神様。知恵の神様。文殊菩薩様。なんだかだいぶん話が通じていないような気がします。でも、もう、ここまでで、この方への私の仕事、おしまいにしていいですよね。私、もう、これ以上は、何をどうしていいのか、知恵が湧いてきません。もう、もう、他の仕事に移ってもいいですよね。

いいよ、いいよ、そうしなさい、と、空耳を聞いたことにして、お客様には、「どうぞ、ごゆっくり、いろいろ比べて、ご覧になってくださいね。また何か必要な時には、声をかけてくださいね。」と、にこやかに伝えてから、去った。ほんの少し、足早(足速、あしばや)だったかもしれない。     押し葉

かんちょういろいろ

「かんちょう、くれ」と言うお客様に、浣腸をご案内したら、そのお客様がお求めだったのは「浣腸」ではなく「三共胃腸薬」だったということがあった。「かんちょう」と「さんきょう」を聞き間違えたのか、言い間違えたのか。その話を友人(薬剤師)にしたら、「あるよね、そういうこと、って」と、彼女の「かんちょう間違い」を聞かせてくれた。

彼女の友達(薬剤師ではない人)が、彼女に相談をもちかけてきた。「便秘してるから、かんちょうのいちじくを試してみようと思うんだけど、どうかなぁ」

友人は、てっきりイチジク浣腸だと思い、「試した事あるの?」と訊いてみる。
「ないけん、どうかなぁと思って。出るやろか」
「うん、出ると思うよ。買っても安いし、試してみたら?」
「どこに売ってた?」
「薬局だったら大体どこでも置いてると思うよ。使うときにお湯で温めると刺激が少ないよ」
「????」
「大人だから、頑固な便秘なら、30ml2本使ってもいいかも」
と、薬剤師として知りうることを惜しみなく提供していたら、相手の人は、やや話を遮り気味に、「食べるやつよ。乾燥いちじく」と冷静に言ってきた。

うーん。「かんちょう。イチジク」「乾燥無花果(かんそういちじく)」
とても似ている。     押し葉

未来を開く好奇心

お客様は興味深い。自らが何を求めているのか、あんまりはっきりしていなくても、「テレビでなんとなく見たアレはいいものなのではないかと思って」、くらいの根拠で、ご来店ご所望くださることが、よくある。

最近でこそ、「ジェネリック」とは、病院や医院で処方する薬のうち、開発費をかけずに製造してるぶん薬価が安く設定されている「後発医薬品」の総称である、という認識も広まりつつあるが、ほんの少し前までは、「テレビで見たジェネリックちょうだい。」とお求めくださるお客様もいらっしゃった。「ほら。黒柳徹子さんや高橋英樹さんが広告してるやつ。」と。

「病院で処方箋を出してもらわれましたか?」とたずねてみても、「いやいや。薬屋に来ればあるんやろ?」とおっしゃったり、「ジェネリックいうのが、なんかよさそうだと思って来たんだけど、それはなんなの? どこにあるの?」とおっしゃったり。

けれども、この、「飽くなき好奇心」が、きっと、人の未来を開くのだ。そのものがどんなものなのかは、しかとわかっていなくても、テレビで広告しているなら、いいものかもしれないから、とりあえず見るだけでも、確かめるだけでもしておこう、というその心意気が、きっと、市場を活気づけるのだ。仕事をしていると、つい、自分が属する業界の専門用語も一般用語であるかのような勘違いをしてしまいがちだけれど、「ジェネリックって、なんだろう? どんなものだろう? 薬屋さんで訊いてみよう!」と思うその気持ちを、今一度抱いてみようと思う。
    押し葉

さがしもの

広島の実家では、洗濯物干しの場所が、二階の外にある。両親が住む母屋(帰省中、私は、この母屋の二階の部屋で寝泊りする)と、弟夫婦と子ども二人が暮らす棟(今回便宜的に「離れ」と呼ぶ)の、二階部分を繋ぐように、七畳ほどの広さだろうか、屋根付きベランダが設置され、物干し竿が何本もかけてある。母屋からは、二階の部屋から出て行けて、離れからは、居住スペースの二階部分からそのまま出て、それぞれ洗濯物を干せるようになっている。離れの一階部分は、車庫や倉庫になっている。

母屋の洗濯機は、一階のお風呂の脱衣所にあり、離れの洗濯機は、二階のお風呂の脱衣所(といっても、実際は洗面専門スペース)にある。

母のほうは、父と二人の老夫婦の洗濯物は、量も種類も知れていて、最近はもうすっかり、洗濯も乾燥も全部機械におまかせで、「タンブラー(乾燥機)にかけないでください」と表示してある衣類でも、「なんか、ようわからんけど、なんともないみたいじゃけん」と、実際には多少縮んでいるであろうことなど気にすることなく、一緒にがんがん乾燥機にかけていて、洗濯物干し場に洗濯物を干しに行くことは、めっきり少なくなったようである。

一方弟宅では、子ども二人が日々出す大量の洗濯物、水着に何枚ものバスタオル、空手の胴衣などまで、乾燥機にかけていたら、きりのない量なので、義妹のゆなさんは、毎日こまめに、洗っては干し、干しては取り込み、を繰り返している。

私は、帰省中の衣類を、何度か洗濯することにして、実家の洗濯機を借りた。乾燥までいっきにするものは、両親のものと一緒に洗い、乾燥機にかけない衣類は別にして、洗濯だけした後で、ベランダに干していたら、姪っ子のみみがーが離れの二階扉から洗濯物干し場に向かって、「みそちゃーん」と声をかけてきた。

「みみ。おはよう。宿題、がんばりようる?(頑張っている?)(現在進行形で)」
「うん。がんばりょうるんじゃけど、カンド(漢字ドリルの略)はあるけど、漢字ノートがないけん、できんけん、さがしょうる(探している)。みそちゃんもいっしょにさがしてー。」
「どこにあるんね?」
「こっち。こっち。」と離れの子ども部屋に案内される。
「で。漢字ノートは、どんなノートなん?」
「えーとねー、か・ん・じ・の・お・と、いうてかいてあるノートなんよ。」
「他の特徴は?」
「えーとねー、大きさは、これくらい。」と指で四角を描くが、それは「漢字ノート」に限らないサイズであろう。
「うーむ」と、腕を組む私に向かって、みみがーが、かなり偉そうにこう言う。
「みそちゃん。なんで、ノートが、どこにいったかわからんようになるかしっとる?」
「なんでなん?」
「それはね。おしえてあげようか? なんでかいうたら、へやがぐっちゃ、じゃけん。」
「部屋がぐっちゃ、じゃけん、どこにいったか、わからんようになるんなら、ぐっちゃ、じゃないように、きれいにしといたらええんじゃないん?」
「そうよ。」(って、なんでそんなに堂々と偉そうなんだ?)
「あ! あった!!」(ああ。この発見で、部屋の片付けしなきゃがんばる隊は、もういなくなったな。)
「それは、よかったね。んじゃ、宿題できるね。がんばれ。」
「しゅくだいおわったら、あそぼうね。」
「うん。そうしよう。また、後でね。」と、ベランダつたいに、母屋に戻った夏の日。広島の夏は、暑かった。     押し葉

ご機嫌長者番付

お腹がすいたり、頭が痛かったり、何か体やこころの余裕が少なくなるような背景が自分の中にあったり、外部からの何か不愉快なことがあり、エネルギーを消耗してしまったとき、ついつい不機嫌になってしまうけど、そういう、ついつい、以外のところでは、できるだけ、無駄に不機嫌にならないようにしたいものだ。無駄に不機嫌にならないようにしようとする、その作戦の一貫として、無駄に上機嫌になるようにこころがけてみている。

無駄に上機嫌、というのは、なかなかたのしい。街路樹のきれいな道を通ることができてうれしいなあ、うれしいなあ、うれしいなあ、ありがとー、ありがとー、と意味なくつぶやいていると、いつのまにか心底嬉しくなってくる。ぷくぷくと奥底から嬉しい気持ちがこみ上げてくる。少し頭痛気味だったのも気にならなくなってくる。何かでなんとなくやれやれな、ちょっとくさくさしたような、そんな気持ちがあるときも、その出来事の不都合さと、伴う感情の不愉快さが、自然と弁別されてゆく。「出来事」と「感情」を別々に扱えると、不愉快な時の不要な消耗度がぐっと少なくラクになる。こんな力を持つ上機嫌に、無駄なんてないのかもしれない。自分が上機嫌でいるとき、脳内か、体内に、なにか「いい汁」(内分泌物)が出ているような気までする。じゅぱっじゅぱっ、と分泌されてる音が聞こえる気さえする。

おそろしいと思うのは、捏造した上機嫌でさえそれほどの力を持つということは、捏造した不機嫌も、なんとなく引きずる不機嫌も、同じように力を持ち、けれど、そのベクトル(方向性)は逆であるのだということ。自分の迂闊な不機嫌で自分の体調を崩すことだってあるということだ。病気の危険は、なにもなくてもしなくても、常に存在しているというのに、その危険を自らの不機嫌で増やしてどうする、なのだ。

上機嫌を計測する方法がないものだろうか、と前々から考えているが、まだ思いつかないし、出会えない。どこかに「上機嫌メーター」がすでにあるなら、ぜひとも使ってみたい。クスリでラリっている人や、興奮しすぎて抑制が効かなくなってるお子様方は除外して、ご機嫌な人のご機嫌度を測ってみたい。そして「長者番付」みたいなかんじで、「ご機嫌番付」作りたいなあ。ランキングというものを好まない人も苦手な人もいるだろうが、「励み」を刺激する装置としては、なかなかよくできているからこそ、世の中で活躍を続けているのだろう。番付入りを目指して、番付上位を目指して、たくさんの人が自分がご機嫌であるように精進して励むのも、きっと、きっと、面白いはず。
    押し葉

もち米キャンペーン

夫が出張のついでに広島の実家に立ち寄り一泊。義母手作りのおはぎを、夕ご飯と、翌日のお昼ご飯に食べてきた。

「どうやらのお母さんは、久しぶりに帰ってくる息子に、好物のものをふるまってやりたくて、作ってくれちゃったんじゃね(作ってくださったのね)、きっと。」と言う私に、「いいや、そうじゃない。なんでメニューがおはぎじゃったか、わかった。訊いたら、最近近所の農家あちこちから、ようけい(たくさん)もち米もらったけん、使わんにゃあいけんけん(使わないといけないから)、じゃった。それに、かあさん自身がおはぎ好きじゃけん作るんじゃろう。」と言う夫。

もち米がたくさんあるからで、もち米消費強化月間だとしても、母自身がおはぎ好きだとしても、それでも息子の帰宅に合わせて、おはぎを作ってくださるのは「母の愛」ではないか。

けれども、夫が「いいや、そうじゃない。」と言うときには、妻の言説をとりあえず否定したい「脳内こびとくん」がお出ましになっているときなので、これ以上何か言っても、どうせもう聞きゃあしないし、今宵は、これまでと、いたしとうございます。     押し葉

おはぎの愛

夫が出張先の広島で、実家に立ち寄り、夕ご飯に義母手作りのおはぎを食べた話しを書いたら、私の幼馴染のめいちゃんがそれを読んで、メールを送ってきてくれた。

めいちゃんちでも、お母さんが、お彼岸には必ず、それ以外にも折を見ては、おはぎを作ってくださるのだそうだ。めいちゃんがおはぎ好きだから作ってやろうと思っておられるせいもあるし、「お彼岸はおはぎ」だというお母さんの中の決まりごとのせいもある。「お彼岸はおはぎ」なのは、めいちゃんのお母さんに限らないことではあるけれど。そしておはぎを作った日は、夕ご飯の主食が「おはぎ」になるのだそうだ。でも、めいちゃんの好みとしては、「主食が甘い」のは「避けたいこと」で、毎回「私はご飯は白いのがいい。」と希望を述べる。

するとお母さんは、「なんねえ。あんたが好きじゃけん、おはぎ作りようるのに。しょっぱいおかずに、甘いおはぎを食べるのが、おいしいのに。ヘンな子じゃねえ。」とおっしゃる。毎年。毎回。毎度。

めいちゃんは、「おはぎは、まあ好きじゃけど、主食は甘くないのがいい、と、昔から言ってる。何十年も。」と言う。結局めいちゃんは、冷やご飯を主食に、おかずをいただく。「ヘンな子じゃねえ、って、うちの母、毎回言うけど、この年まで親子してて、毎回ようるん(言ってるん)じゃけん、ええ加減、私が甘い主食が苦手なの、おぼえてくれてもいいのになあ。まあ、私も、あ、今日おはぎだ、って気づいたら、先手を打って、自分用の白ご飯炊けばええんじゃけど、仕事から帰って来て、いただきます、まで気づかずにいると、くー、まただー、になるんよねー。」

教訓。親子の誤解や、思い込みや、習慣や、お約束のパターンは、威力絶大。     押し葉

名誉の追記

どうやらの母(夫の母)の名誉のために追記するが、夫は「つぶあん」が好物である。なので「つぶあんのおはぎ」も好きではある。間食として。

おそらく義母の中では、「つぶあん好きな息子」→「おはぎ好きな息子」→「久しぶりに帰ってくるなら好きなものをふるまってやろう」→「夕食は息子の好物のおはぎにしてやろう」という愛の変遷があったものと思われる。

ああ。母の愛。     押し葉

「おはぎ」をおかずに

夫が出張で広島へ出かけた。せっかくだから、実家で一泊してくる、と計画して、数日前に実家に電話して、「泊めて。それと夕ご飯も頼む」と依頼していた。

広島での仕事は滞りなく終了し、もともと日帰り出張予定の、同じ会社の人は福井に向かって帰られた。夫はひとり実家に向かって、夕方六時時前には到着し、ゆっくり過ごしている様子。

「夕ご飯はなんだった?」と電話で尋ねる私に、夫はくすくす笑いながら、「なんだと思う?」と訊いてくる。
「私の予想は、おでん、って、言ってあるじゃん。おでんじゃなかったの?」
「おでんじゃなかった。今日のおかずは、おはぎ、だった。」
「え? おはぎ? おかずに? じゃあ、ご飯はご飯であるの?」
「うん。くすくす。」

どうやらの母(夫の母)のそういう柔軟なところが、私はとても好きだ。彼女のそういうところは、加齢とともに自由度を増しているような気がする。

そんな義母の息子として大きくなった夫だから、彼もかなり柔軟で、私の作る食事に不満を示したことは、結婚十五年の間に、たぶん一回あっただけである。その日(十年以上前のある日)私の欲望に合わせて作った夕食は、主食がみたらし団子、おかずがホワイトクリームシチューであった。私はたいへん満足だったが、夫は、「この組み合わせには、二度と会えなくていい。」と言っていた。私もその日以来、その組み合わせへの欲望は湧いてこず、今のところ夫婦の食生活は円満だ。よかった。     押し葉

心意気を携えて

裁判員制度というものは、たいていの人は審査面接で不合格(?)になるシステムなのに、どうして世の中の論調は、どうやって拒もうか、選ばれたらどうしようか、をそんなに心配するんだろう。そう簡単には適任者として選ばれないと思うのだけど。心配する「プレイ」なのかな、と思いそうになるけど、本当のところはどうなんだろう。

どちらにしても、どんな形にせよ、裁判員制度に関わることは、この時代に、大人として生きる縁(えにし)を得た者としての「務め」だと理解している。「関わる」ということは、自分の状況や状態に応じて、適切に辞退することも含む。自身の整い具合を見極めて判断し行動することも、大人の「務め」であり「役割」でもある。

これまで永きにわたって、多くの先人達が、手間暇時間エネルギーを費やし、場合によっては命をかけて、議会制民主主義や普通選挙制度やその他諸々のシステムを手がけてきてくれたように、私達も、自分が生きている間には満足や恩恵を得ることがないかもしれないことや、もしかすると最終的にシステムとして成立しないかもしれないことを、手がけることに参加することは、ある程度持ち回りかな、と。後世の人たちにとって使いやすいシステムに成熟していくかどうかは、実験でもあり冒険でもあるのだと思う。よりよいシステムとして成長するとよいなあ、と、願う。数限りない先人達への感謝の気持ちを、何かの形で恩返ししようとするなら、戸惑いや不安を抱き抱えながらも、試行錯誤することを引き受ける、そういうものなのだと思う。

現状の裁判員制度では、量刑の判断も裁判員が行うことになっており、それは素人にはちょっと過酷な部分であるのかもしれない。だけど、玄人さんだって、いつでもラクラク量刑判断してるわけではないだろうから、素人にはなおさら過酷なのは、ある程度しかたのないことだろう。けれども、それでも、先人達が引き受けてくれた多大な過酷さを思えば、「ちょっと過酷」くらいは、どんと引き受ける心意気でいるほうが、たぶん、粋。

実際は、時間をかけて気長に気長に「運用しながらの議論」を行い、制度として成熟するかもしれないその時までを、ゆっくりとゆっくりと歩むことになるのだろう。きっと常に先など見えず、面倒くささが伴うことではあるけれど、それでも、これは人類として許容範囲の試行錯誤のはず。

自身がある程度整った状態や状況に恵まれている場合には、その幸運を、ある程度、世に還元する、還元しようとする。そんな心意気を携えて、この世を過ごしてみようと、そう思いながら、生きてみる。そうして生きてる間に、体調もまあまあよくて、ボケてないうちに、通知が来た時には、ちょっと頑張って、裁判所へ審査面接受けに行こう。

ただひとつ気がかりなのは、法廷や、裁判員室の窓は、私の好き勝手に開けたりできないのかなあ、できないよねえ、ということ。私は年中、真冬でも、吹雪でも、窓を開けて寝るほどに、酸素要求度が高い体であるから、通気不十分なところでは、実力を発揮しきれない。思考力にも判断力にも、新鮮な濃い酸素は必要不可欠なのだ。 酸素が薄くては、まともに考えられない。面接の時に裁判官さん(かな?)に、そのへんは相談してみよう。窓を開けての自由な換気が難しい場合には、せめて酸素スプレー持ち込み許可してもらえるとよいのだけど。心意気は携えていても、酸素の事情で「そういうことであればご無理なさいますな」と不合格になるのかもしれないなあ。     押し葉

世界平和

生きてると、嬉しいこともあれば、悲しいこともあり、気持ちよいこともあれば、気持ちよくないこともあり、ラクラクなこともあれば、面倒くさいこともあり、よいこともあれば、よくないこともあり、いろいろでは、あるけれど、おおざっぱに言ってしまうと、その出来事が、自分にとって、本意であるか、本意でない(不本意である)か、に分類されるように思う。もちろん、そのどちらとも言えない、どちらでもない、というようなことも、多々ある。

けれども、この世には、基本的に、「二元性」を味わいに来ているので、出来事の多くが、本意だったり不本意だったりのどちらかであることは、おそらくたいへん自然なことなのだ。

自分にとって「本意」であれば、やったー、うれしいー、たのしいー、と感じるし、自分にとって「不本意」であれば、いやだー、くるしいー、残念ー、と感じる。生き物としては、たぶん基本的に「快」を求めるものなので、ついなんとなく、「不本意」は、避けるべきことと思ってしまいそうになる。

けれども。この世というのは、エネルギーで成り立っているから、どこかで「不本意」が生じれば、どこかで「本意」も生じるのだ。「本意」も「不本意」も、それぞれに、エネルギーの一形態、場合によっては受け手の思い込み、に過ぎない。エネルギーというものは、どこかがでっぱれば、どこかがひっこむように、均衡のようなものがとれるようになっているのだ。きっと。

ということは。自分にとって「不本意」なことがあったとき、それは、誰かの「本意」の元が生じた、とも考えられる、かもしれない。その誰かが、自分の全く知らない誰かのこともあるだろうし、自分の知ってる、あんまり好きじゃない人のこともあるだろうけど、もしかすると、未来の自分かもしれないし、自分の大好きな大切な誰かかもしれない。

であるならば。自分に「不本意」が生じた時には、どこかで誰かに「本意」が生じることを、まず思う。そして少し安心する。エネルギーというやつは、そうやって、均衡をとっているのだと、まず、いったん、そう思う。そして、どうせならば、と、自分の「不本意」と均衡して発生する、もしくは、存在する、「本意」エネルギーのその場所が、自分の望む所であるように、自分の望む誰かのところであるように、力を込めて想像する。

自分の大切な誰かが、少しでもラクになるように。少しでも痛みが減るように。自分の大好きな誰かが、勇気と力に満たされるように。大丈夫がいっぱいになるように。その思いが叶ったら、もちろん自分も嬉しくて、あなたもはっぴー、私もはっぴー、それは「世界平和」の基礎の基礎。

自分にとって、いわゆる「よくないこと」が生じたら、それはそれで、それに伴う感情も味わいつつ、それと同時に、思うのだ。「よしよし! 世界平和だ!!」と。そうすると、少しくらいの「不本意」は、軽々引き受けられるようになる。これくらいなら大丈夫、と。これくらいで、大切な誰かが「本意」を得るのなら、喜んで引き受ける、と。任せておきなさい、と。思える気がしてくるのだ。

そう思えるようになると、もっと大きな「不本意」が来ても、「よっしゃ、しめしめ」とさえ思えそうな気になってくる。「不本意」がこれだけ大きいということは、大切な誰かへの効果も、きっと大きいはずだ、しめしめ、と。

そうすると。自分に「本意」があったときにも、どこかで自分の大切な誰かが、誰かたちが、自分が知らないあいだにきっと、「不本意」を引き受けてくれていたであろうことに思い至る。そして、感謝にまみれてしまう。ありがとう、と、愛にしびれる。その気持ちがさらにまた、自分の「丈夫」を太くする。すると、さらにもっと、少々の「不本意」は、腹をくくって引き受けられる。

ただし、「世界平和」を増やしたいあまり、別段不本意でないことまで、自分の感情で「不満」と認定し、それを増殖するような作業は慎みたい。そんなふうに認定増殖されたエネルギーは、その作業をする場に、なにやらよろしくない仲間を次々と呼び込むのだ。自身の安全のためにも、安心安寧のためにも、「不本意」は、できるだけ思いがけず遭遇するもののみにとどめるべし、だ。

何はともあれ、そうやって、互いにエネルギーを巡らせ合う。きっと、それが、「世界平和」。だから「不本意」に遭遇したら「世界平和」を思い出す。そう思う実験。人生の実験。     押し葉

続エレメント

昨日の日記で、「エレメントのおじいちゃん」の話を書いてみたところ、日記を読んでくださった方から「おじいちゃんはトリートメントと間違ったのではなく、エメロンと間違ったのでは」という意味のご感想をいただいた。「エメロン」とは、昔あったシャンプー、リンス、石けんなどのシリーズ。現在は「植物物語」に移行したのか、世の中で見かけなくなった。そういえば昔は、シャンプーやリンスの総称としてエメロンという人もいたような気がしてきた。

そこで、今日出勤してから、店長に尋ねてみた。「店長。昨日の、エレメントのおじいちゃん、実はエメロンと言いたかったのの、言い間違いってことはなかったですか?」

「だーっ! 先生。そのことはもう僕の中では解決したんで、そっとしておいてください。あれはほんまに疲れたんですから。エメロンの言い間違いなんていう可愛らしいもんじゃなかったんですから。」

「やっぱりエレメントはエレメントでしたか。」

「お求めのものがトリートメントだとわかってからも、あのおっさん、ずーっと、『なんでここにはエレメントがないんや! 薬屋や店屋ならエレメントはどこでも置いとるのに、なんでここにはないんや。わしがいつも買って使うやつには、ここのみたいにトリートメントやらとは書いてない! ちゃんとエレメントいうて書いてある! これと同じ容れ物やったけど、うちのにはエレメントいうて書いてあった! なのにここにはトリートメントいうて書いてあるのしかない。おかしいやろうが!』って言われて、もう、こっちもしまいには、ぶちぎれそうになったんですけど、それでもまあ、もしかしたら、と思って、商品名にエがつくものは一通りご案内して、でもやっぱり、『トリートメントじゃない、エレメントや、容れ物はこれと同じや!』いうて言い張られて、他の店ならあるのに、って言われて、それはもう、そうですか、申し訳ございません、もしこちらでもよろしければどうぞ、と言いながら、内心、そんなんどこに行ってもないわ! 思いながら離れたんですけど、おっさん、ちゃんとそのトリートメントをレジに持って行ってはりましたわ。なんややっぱりトリートメントやったんやないか! 思いました。」

「それは、たいへんにご苦労様、だったんですね。お疲れ様でした。」

「はああ、ほんま、もう、かんべんしてくれー、でした。」

自分の言い間違いに気がついても、認めたくなくて意固地になっていらしたのかなあ。それとも、そのおじいちゃんちのトリートメントだけはエレメントと書いてあるように、おじいちゃんには見えたのかなあ。もしかすると、認知症の症状がいろいろ出ていらっしゃるのかなあ。それでも、自分に必要なものを、外に買いに出かけるということは、たぶん、きっと、よいことのような気がするね。

店長、これからもがんばれ。私もみんなも、がんばろう。     押し葉

髪にエレメント

自分の売り場で、もくもくと仕事していたら、少し離れたところから、店長が駆け寄ってきて、「どうやら先生。エレメントって、薬か健康食品でありますか? お客様がエレメントをお求めなんですけど、ちょっと雑貨で思いつかなくて」と言う。

エレメント、ですか。今のところ、うちの薬と健康食品の売り場には、エレメントの名前が付くものはありませんが、何か新しいものかもしれませんから、すぐにパソコンで検索してみます。お客様には、どんな目的でお使いになるのか、確認しながらお話し伺ってみていただけますか?

「はい。わかりました。すみません。お願いします」と、店長は、再びお客様の元へ。私はパソコンのインターネットの世界へ。

「エレメント」で検索してみる。ふつうに出てくるのは、車用品のオイルエレメントだ。うーん。お客様は、私の勤務先のようなドラッグストアでも、カー用品の取り扱いをしていると思われたのだろうか。一般的ではないものの、ダイエット関連商品で、エレメントの名がつくものもあるけれど、ダイエット食品をお求めなのかどうか、今一度お客様に確認した方がいいな。と思いながら、接客中の店長のいる方へ向かう。

私の気配に気づいた店長が、遠くからジェスチャーで、「大丈夫です。おっけーです」と知らせてくれる。そしてお客様には、「こちらもそうですし、こちらも同じようにお使いいただけます。袋に入っているのは、詰め替え用ですので、プラスチック容器の中身が空になったら、これで中身だけ足していただければ」と説明しているのが聞こえる。お客様の姿は見えない。

あの、売り場は、シャンプー売り場。

接客を終えた店長が、バックヤードへの道すがら、私の近くによってきて、「すみませんでした。トリートメント、でした」と報告してくれる。

トリートメントをエレメントと言い間違えるのは、並大抵のことではないと思うのですが、かなりのおじいちゃんだったんでしょうか?

「はい。かなりのじいちゃんでした。頭を洗ったあとに、髪につけて流すエレメント、と言われました。リンスじゃなくて、エレメントだと」

さすが、じいちゃん、ですね。

「ほんまに。さすが、じいちゃんでした」

やはり、あれですね。こちらにおぼえのない名前のものをお客様がお求めの時には、とりあえず、その使用目的確認、ですね。

「ほんまです。それで解決しました」

と、店長との会話は完結。

じいちゃんは、自分用にトリートメントを買いに来てくださったのだろうか。それとも、ご家族か誰かの、おつかい、でいらしてくださったのだろうか。どちらにしても、よくわからないけど、名前をちゃんと知らないようなものを、それでもお店に買いに行こうと、心意気を持って活動することは、人として、特に老人として、なんだかとても、よいことのような気がした。     押し葉

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どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

ときどき、思い出したように、いただいたメッセージへのお礼やお返事をリンク先の「みそ語り」に書いています。よろしければ、いつでも、どうぞ、どなたでも、ご覧ください。「みそ語り」では、メッセージをくださった方のお名前は書いておりませんので、内容から、これは自分宛かしら、と推理推察しながら読んでいただければうれしいです。手の形の拍手ボタンからメッセージをくださる場合は五百文字以内、文字の方の押し葉ボタンからメッセージをくださる場合は千文字以内となっております。文字数制限なくお便りくださる場合には、下のメールフォームをご利用ください。

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