みそ文

体温以外の要素

蚊の襲来に遭う理由には、体温の高さだけではなく、二酸化炭素の排出量や、汗の多さも関係あるらしいことは知ってはいるのだけど、そのどちらの要素も私は完璧にクリアしている。

狭い空間にしばらくいると自分の排出した二酸化炭素で息苦しくなり、換気せずにはいられなくなる。私が夫のそばに寄り添っていると、夫はまもなく「なんか、空気が薄くなった」と言いだす。「どんなにエコ対策商品を導入しても、我が家にみそきちがいる限り、うちの二酸化炭素排出量はかなり多いんやろうなあ。古い冷蔵庫並みかそれ以上に二酸化炭素出してるんちゃうか」と言う。

汗の量は、多い。勤務中も額やこめかみから、たらり、と汗がたれるたびに、お客様がその汗に注目してしまい、私が話す薬の説明を聞かなくなる現象がある。折々にちゃんと拭いてはいるのだけど、自分でも気付かないうちに汗が噴き出ていることがあり、同僚からも「今日、そんなに暑いですか?」と不思議がられたりする。職場での制服は白衣で、その下に着るティーシャツとさらにその下のサラファインインナー(汗取り下着)の内側の背中部分には、常時タオルをあてている。背中の汗を吸い取るためだ。背中全体をタオルで覆い、タオルの余りの部分は、襟足から背中に垂らす。ちょっとだけセーラー服風。垂らした部分は白衣の内側かティーシャツの内側だから、それほど目立ちはしないけれど、ばれる人にはばれる。そしてその背中のタオルは、帰宅した時には、しっとりとして、お風呂上りに体を拭き終えたタオルと同じくらいに濡れているから、抜き取って洗濯する。この背中あてタオルを入れずにいると、背中部分が汗でじとじとになって、白衣の背中までぴたぴたとした感触となり気持ちがよくない。勤務中以外にも、長時間背もたれのある椅子に座るような外出時(長距離ドライブや公共交通機関の座席利用や美容室の椅子などで)も、背中にタオルを入れて過ごす。私の担当美容師さんは、私が背中にタオルを設置する手際のよさに感心して、「どうやらさんは、背中にタオルを入れる選手権があったら、ぜったい優勝しますね。すごく上手です」と言ってくださる。

血液中の抗体状態が蚊にとって都合がよいかどうかについては、これだけ襲来を受けるということは、蚊にとって都合がよい状態だということなのだろう。できることならば、私の皮膚に蚊が着地した時点で、その部位の筋肉をぐっと硬くして、蚊の針が抜けないようにして、ぱちんっと退治したいのだけれども、なかなか蚊の着地に気づかない「ぼんやり具合」も、蚊界のアイドルとしての条件を満たしているということか。

けれど、だからといって、蚊に襲来されにくい体を目指すからといって、蚊に襲来されにくい夫を見習って、ショートピースを分けてもらって喫煙しようとは思わない。深い呼吸も心身共に気に入っているし、汗をかいてさっぱりするのもけっこう好きだ。特定部位の熱気はともかく、体に冷えがないことによる身体細胞全体の安心感も手放しがたい。そういう自分にとっての快適は快適のままで保ちつつ、蚊の襲来を減らす方向で、体づくりの各種研究を重ねてみようと思う。     押し葉

夫婦の温度

「アイドルは要求する」で、私の「蚊界のアイドル」ぶりを書いたところ、「体温が高いからではないか」という予想と指摘を何件かいただいた。また「自分の配偶者も(あるいはこどもたちが)たいそう蚊に好かれている」という情報もいただき、アイドル人口とライバルの意外な多さも知った。

体温に関しては、私の腋下での体温計測数値は、そんなにいうほど高いわけではない。低温期と高温期とで若干の差はあるものの、だいたい三十五度台後半から三十六度台半ばくらいで推移する。

体温計で計測できる数値としてはだいたいその程度でも、自分の体の特定の部位から、独特の熱気のようなものが放出されている自覚はある。その放出は、湯気にも似てはいるものの、見た目に分かるほどの水蒸気は伴っておらず、けれど、ゆらり、と空気の揺れが見えるような、少なくともそこに手をかざすと、もわああっとしたなんらかのエネルギーの流動を感じるものだ。その部位の外側も内側も両方ともにかなり熱い。世の中の気温や湿度の高さとは別の事情、自分のその部位の熱さで、自分でも身の持って行き場のない感覚を覚えることがちょくちょくある。

私の体から熱気を発する部位とは、上から順に、頭頂部の両脇、首、背中の第五頸椎あたり(肩甲骨と肩甲骨の間のへん)、太ももの内側、足の裏、となっている。どれくらい熱いかというと、たとえば、手のひらを凍ったアイスノンに押し付けると、手形のように、みょわーっと、低反発素材がその部分だけ沈むように、私の手の形で凍った部分がいっきに解けるくらい。

蚊たちは、私のその熱気に吸い寄せらせてくるのだろうか。少なくとも私のほうは、蚊たちの襲来を望んでいない。望んでいるのは、夫とのスキンシップだ。けれど、こちらは、私が熱くなれば熱くなるほど、世の中の気温と湿度が高くなれば高くなるほど、夫は私から距離をとる。抱きついて首と太ももを絡めて、私の足の裏を夫のふくらはぎか脛につけて、手のひら全体を夫の二の腕にあてて、完全な納涼態勢、ではなくて、スキンシップ態勢を整えるのであるが、夫は「やめてくれー」「おれは抱き枕じゃないー」「みそきちの熱でおれの細胞が壊れるー」などと訴えながら、体をほどいて逃げる。夫もいろいろ学習したらしく、私が夏場に夫に近付くと、すいーっと逃げる技を各種開発している。それでも私が「仲良しなのにー」「夫婦のスキンシップは大切なのにー」と訴えると、「ほら。ここに仲良く並んで、エアコンの風を一緒に浴びよう。涼しいよ」と私をいざなう。私はおとなしく夫の隣に並んで立ってみるけれど、しばらくすると、「どうやらくん。顔や胸や胴体は冷やくなるけど、私の熱気のポイントは、エアコンの前に立っても熱いままだよ。特に足の裏は、立ってるから、ずっと熱いよ」と訴える。夫は「それは仕方がないよ。それだけ足の裏が熱かったら、人間として生きていくのも大変じゃろう」と私をねぎらってくれる。「うん。わたし、けっこうがんばって生きてると思う」と応える。夫は「こうやって、みそきちの熱さに近寄れなくなってくると、今年もまた夏がきたなあ、ってかんじがするよなあ」と感慨深げだ。夫にとっての夏の季語は「あついみそ」なのかもしれない。夫はさらに、「みそきちの熱を、何か、発電とか、手かざし治療かなんかに有効利用できたらいいのになあ」とも言う。それは私もそう思う。

私としては「蚊界のアイドル」の座に対するこだわりも執着もまったくない。むしろアイドルの座からの引退を強く希望している。順調で円満なアイドルからの引退と同時に、順調で円満な夫婦のスキンシップを目指したい。自分の体が快適ですこやかでありつつも、蚊の襲来とは一線を画して暮らしていける、そんな体づくりの各種研究を重ねてみよう。     押し葉

「滝の修行」の予定

今日の校正。「パラダイス孔雀」

上記記事中、妹は、そういえば、ずいぶんと気持ちよさそうに、打たせ湯に打たれていたけれど、私は個人的には、打たせ湯よりも、水中(お湯の中)のジェットバスのジェット水流の水圧でコリをほぐしてもらうほうが好きだ。ジェットバスのほうが、たぶん、湯しぶきの飛び散りを気にしなくていいのが、私の好みに合っているのだと思う。飛び散りを気にするのは、打たせ湯の湯しぶきの形を気にしているのではなくて、しぶきが顔にかかったりするのがなんとなく気になる、というか、ちょっと快適が下がるという意味。ジェットバスは背中(肩甲骨あたり)と腰と足の裏を同時にしてもらうのが一番好きだけど、そのすべての条件を満たすジェットバスを持つ施設との出会いは少ない。背中腰足裏の三点ジェットバス付き湯船と、横になれるサウナ(これはさらになかなかない)と、露天風呂と、使い勝手のよい洗い場とが、すべてちゃんとそろっていて、私が行くときにはいつも必ず空いていて、でもそれなりに繁盛していて存続に安心感のある、そんなお風呂屋さんが近所にできたら、通う。

ところで私は、湯しぶきだけではなくて、水しぶきに関しても、別段得意というわけでも好みというわけでもない。ゆえに、これまでの人生でも、今後残りの人生でも、「滝の修行」の経験と予定はない。     押し葉

みずからがかけるもの

 自らの心身のすこやかさを護るために、かけてもいいのは、尊厳であって、健康や命ではない。

 自分の自尊心を損なうような作用を持つエネルギーには、様々な形がある。自分に対して否定的な言動、という形の場合もあれば、自らの美学や美意識や価値観とどうにもこうにも相容れない、という形もある。

 自分に対して否定的な言動、というのは、まあまあわかりやすく、その認定も対処も、どちらかというと、まだやりやすい。それでももちろん、消耗も疲弊もするものだから、必ずしっかり腹を括って、心づもりを整えて、ことにあたる必要がある。

 けれども、自分とはどうにも相容れないものについては、ついうっかり、気づき損ねてしまうことがある。
 間違いなく瞬時に「これは自分にとっては十分に不愉快である」とせっかく感知したとしても、「みんな仲良く」だとか、「多様な価値観」だとか、「異文化共生」だとか、自分の中で勝手に自己主張している、そういう「人類こうでありたい(かもしれない)」スローガンのようなものに、ついうっかり惑わされる。
 その結果、本来相容れないエネルギーを持つものが、自分の自尊心を損なうことを、あるいは、既に自分の自尊心を十分に損なっていることを、認定することに遅れをとる。
 遅れるだけならまだしも、うっかりした上に弱ったりまでしてしまうと、相容れないものが自分に対して持つ攻撃力を認定する機会を逃してしまうことすらある。

 この世に、自分と異なる価値観が存在するのは当たり前のことである。
 けれども、自分にとって心地よくない価値観や、自分にとって美しくない価値観を基準とした言動が、ただそこに存在しているだけなのか、それとも、必要以上に自分と近い距離にいて、場合によっては自分を攻撃するエネルギーを発したり、自分の健康や自尊心を損なう力になっているかどうか、そのことを見極めることは、おそらく、間違いなく、重要で大切。

 そうして見極めた結果、その価値観を基準とした言動が、少しでも、自分の健康や自尊心を損ねる力を持っていると認定したなら、そのときは、ただちに、すみやかに、自らが、その言動を行う存在との距離を置くよう努める。
 身体的な距離が変わらない場合でも、目に見えないしっかりとした防御壁を建設する。
 それだけではなく、その言動を行う存在の、その言動、そのエネルギーが、自分から遥か彼方に遠ざかるよう、正しく真剣に願うべきだ。

 その存在、多くの場合は人物であるのだろうが、その存在がこの世から消滅することやその存在の健康の低下を願うわけではない。
 その存在の、その価値観を基準とした、その言動、そのエネルギーが、かわることなくこの世に存在するとしても、少なくとも、自分の目の前、自分の身の周りには、立ち入ることがないように、立ち入ることが極めて少なくなるように、自らを防御するだけではなく、自ら離れるだけではなく、そのエネルギーが遠ざかることを、そのエネルギーの現れ方が弱くなることを、正しく真摯に願うべきだ。

 その存在、多くの場合は人物であるのだろうが、その人物がその言動を行うことが不可能で、かつ、その人物にとって不健康で不本意な状況を、願ったり念じたりするわけでは、決して、ない。

 ただ、その存在の、その価値観が、その言動が、そのエネルギーが、自分の身辺から離れること、自分の身辺に立ち入ることを控えること、姿をあらわにしないこと、その結果、自分が穏やかですこやかであること、そのことを、ひたすらに、静かに正しく熱心に願うのだ。

 その存在の、その価値観が、その言動が、そのエネルギーが、もしも離れてゆくときには、その背景に関しても、その状況に関しても、自分は関知しないし、関知する必要もない。その背景や状況が、その存在にとって、本意な場合もあれば、不本意な場合もあるだろう。この世的に、望ましい場合もあれば、望ましくない場合もあるだろう。
 けれど、それは、自分のあずかり知るところではない。そのエネルギーが、自分から離れるにあたり、より速やかであるとともに、その人物にとってもより適切であるように、なにかしら采配するのは、天の仕事であって、自分の仕事ではないのだ。

 だから、いつでも、安心して、きちんと願うべきなのだ。それは、まったく、「恨み」ではなく、「呪い」ではなく、純粋で、正当で、必要な、「願い」であり、「祈り」なのだから。

 自らの自尊心を損なう力を持つものであることを、速やかに認定したならば、すぐに「願い」を開始する。瞬時に「祈り」を発動する。去るべきものに「去れ」と。離れるべきものに「離れろ」と。「ゆけ」と。「控えろ」と。
 決して頼むのではなく、懇願するのでもなく、エネルギーという単純な存在が、正しくその意味を理解するように、すべてにおいて肯定形で、すべてにおいて命令形で、静かに正しく指示を出す。

 直接、その存在、その人物、に向かって、声に出して言わなくてもいい。ただ、たしかに、いつも必ずしっかりと、強く確実に「思う」のだ。
 その結果、その人物が、かわらずそこにいたとしても、その言動が、そのエネルギーが、目の前に現れる頻度が、少なくなるかもしれない。
 その結果、その人物は、かわらずそこにいたとしても、そして、その人物の言動もエネルギーも、かわらずそこにあったとしても、自分の視点や波長が、そのエネルギーの存在と、もはや全く接することがないほどに、遥か彼方に移行するかもしれない。

 どういう形で、どうなるか、それはその場ではわからない。けれども、まずは必ず願うところから、まずは指示を出すところから、きちんと正しく始めたい。
 自分の自尊心を損なうものを見誤ることなく見極めて、そうであることを認定する。認定したら、指示を出す。それだけのことなのだ。

 誰かの不幸を願うのではなく、誰かの不本意を願うのではなく、その人から発せられる、特定の種類のエネルギーが、自分の周りからきちんとちゃんと離れることを、静かに正しく願うだけだ。

 自らの自尊心を護るためには、その手間暇を惜しんではならない。見極めて、認定して、指示を出す。その繰り返しを、怠ってはならない。
 自尊心の損失は、いともいとも簡単に、肉体を、こころを、健康を、生命を、損ない奪いうるものだから。

 特定のエネルギーの、その姿を薄めるために、そのエネルギーを飲み込んで、そのエネルギーを放置して、自らの肉体を、自らのこころを、自らの健康を、自らの生命を、ひきかえに損なってはならない。

 それでも、もしも、うっかりと、うっかりしなくてもなんらかのいきさつで、自らの肉体を、こころを、健康を、生命を、損なったそのときには、命を懸けて、誠心誠意、すべての力を込めて、修復に精を出す。
 けれども、いったん損なってから修復しようとするよりも、損なう前に気づいて対処するほうが、本当はおそらくずっと簡単で、安全性も高くて、きっとさらに省エネ。

 自らの心身のすこやかさを護るために、尊厳をかけてことにあたるのはかまわない。けれども、自分の健康や命をかけたり引き換えにしたりしてはならない。ぜったいに。     押し葉

大切な心構え

金曜日の夜。夕食に回転寿司屋さんに出かけよう、五パーセント割引ハガキもあるしね、そうしよう、ということになった。

ところで、私は少し「頭が弱い」らしい。空腹や疲労などが一定量を超えると、体が私の弱いところに症状を示して、私に警告を伝えてきてくれるのだが、そのときにも、真っ先に症状が出るのは「頭」だ。頭痛は私にとって、「何か食べなさい。」「何か飲みなさい。」「深く呼吸をしなさい。」「活動量を低下させなさい。」などの指令としても機能している。

で、回転寿司屋さんへ出かけるときも、頭が痛かったので、助手席でじっと静かにしてたほうがいいかも、と、思い、夫に、「私、頭が痛いから、運転してもらえるかな。」と聞いてみた。夫は一瞬立ち止まり、その後黙って助手席に乗り込んだ。「ど、どういうことなの? 免許証持ってきてないの?」と、尋ねながら運転席に乗り込む。夫の返答は、「免許証は持ってきたけど、運転の心構えを家に置いてきたから、今日はもう運転できない。運転するなら、(心構えを)家まで取りに帰らないと。」であった。

そういうわけで、私が往復運転したが、回転寿司屋さんでほうじ茶を飲み、いろいろ食べて、帰宅後鎮痛剤を飲んだが、まだやや頭が痛い。無理せず、夫の「運転の心構え」を家まで取りに帰って、運転してもらえばよかった。体の声に従うことは大切だなあ、と、あらためて思うことである。     押し葉

ご機嫌長者番付

お腹がすいたり、頭が痛かったり、何か体やこころの余裕が少なくなるような背景が自分の中にあったり、外部からの何か不愉快なことがあり、エネルギーを消耗してしまったとき、ついつい不機嫌になってしまうけど、そういう、ついつい、以外のところでは、できるだけ、無駄に不機嫌にならないようにしたいものだ。無駄に不機嫌にならないようにしようとする、その作戦の一貫として、無駄に上機嫌になるようにこころがけてみている。

無駄に上機嫌、というのは、なかなかたのしい。街路樹のきれいな道を通ることができてうれしいなあ、うれしいなあ、うれしいなあ、ありがとー、ありがとー、と意味なくつぶやいていると、いつのまにか心底嬉しくなってくる。ぷくぷくと奥底から嬉しい気持ちがこみ上げてくる。少し頭痛気味だったのも気にならなくなってくる。何かでなんとなくやれやれな、ちょっとくさくさしたような、そんな気持ちがあるときも、その出来事の不都合さと、伴う感情の不愉快さが、自然と弁別されてゆく。「出来事」と「感情」を別々に扱えると、不愉快な時の不要な消耗度がぐっと少なくラクになる。こんな力を持つ上機嫌に、無駄なんてないのかもしれない。自分が上機嫌でいるとき、脳内か、体内に、なにか「いい汁」(内分泌物)が出ているような気までする。じゅぱっじゅぱっ、と分泌されてる音が聞こえる気さえする。

おそろしいと思うのは、捏造した上機嫌でさえそれほどの力を持つということは、捏造した不機嫌も、なんとなく引きずる不機嫌も、同じように力を持ち、けれど、そのベクトル(方向性)は逆であるのだということ。自分の迂闊な不機嫌で自分の体調を崩すことだってあるということだ。病気の危険は、なにもなくてもしなくても、常に存在しているというのに、その危険を自らの不機嫌で増やしてどうする、なのだ。

上機嫌を計測する方法がないものだろうか、と前々から考えているが、まだ思いつかないし、出会えない。どこかに「上機嫌メーター」がすでにあるなら、ぜひとも使ってみたい。クスリでラリっている人や、興奮しすぎて抑制が効かなくなってるお子様方は除外して、ご機嫌な人のご機嫌度を測ってみたい。そして「長者番付」みたいなかんじで、「ご機嫌番付」作りたいなあ。ランキングというものを好まない人も苦手な人もいるだろうが、「励み」を刺激する装置としては、なかなかよくできているからこそ、世の中で活躍を続けているのだろう。番付入りを目指して、番付上位を目指して、たくさんの人が自分がご機嫌であるように精進して励むのも、きっと、きっと、面白いはず。
    押し葉

歯磨きの記憶

「私の職場の人はね、トリートメントを流さずにお風呂からあがってしまったり、自分が歯磨きしたかどうか思い出せなくなることがあるんだって。でも彼女は全然、健脳サプリ飲まなくちゃ、とは思ってなくて、ということは、ほんとは私も別にまだ飲まなくてもいいのかな?」と、夫に話してみたところ、「歯磨きは、みそきちも、ときどき、したかどうか思いだせん、とか言って、磨きなおしてることがあるじゃん」と言うので、少し驚く。「ええ? 私は、歯磨きしたかどうか、忘れたことないよ」と言うと、「うーん。自分が忘れていたことを憶えていないあたりがもう、サプリお飲みになったほうがよろしいということなんやろ。職場の人は自覚がある分まだマシなんちゃう?」

げげ。そうなのか。     押し葉

脳健活動

ボケ対策、物忘れ対策、手際対策、などなど、脳のすこやかさが必要ないろいろを鑑みて、数年前から、GABA(ギャバ)というサプリメントを摂取している。それまでは、旅支度が思うようにはかどらないことが多かったのだが、ギャバを摂るようになってからは、出発前がスムーズになった。

夫は、数年前から、イチョウの葉エキスとDHAのサプリメントを併用摂取している。仕事の手際がよい気がするから、というのと、飲んでると冬場の冷えが気にならないから、というのが、継続の理由だ。

私は玄米(GABAの原料)好きだし、やっぱりGABA派かしらね、と思っていたのだが、数ヶ月前より、ふとしたときの物忘れが、おおいに気になるようになり、イチョウとDHAにもお世話になることに決めた。

職場で、同僚が、お客様から血圧計の注文と取り置きの御希望を承った。ちょうどそのとき、その商品は、私の勤務先店舗では欠品中で、次の発注日と入荷予定日を待つと、四日から五日ほどかかることが予想された。私の勤務先と私の自宅の間にある系列店の在庫を調べてみたところ、在庫数に余裕があったので、店間移動を依頼した。では、本日、私が仕事帰りに、立ち寄って、商品受け取りますので、よろしくお願いします、と、依頼先店舗にも、同僚にも、連絡報告しておいた。

翌日、出勤して、いつもどおり仕事前に客注ノート(お客様からの注文を書いておくノート)を確認して、「ぎゃあ!」とヘンな声を出してしまう。

「ど、どうしたんですか?」という店長の声で我に返り、「すみません。私、昨日、店間移動で血圧計を取って来るはずだったのに、思いっきり忘れ去っていました。あとで取りに行って来ます」と答える。客注ノートには、「血圧計 店間移動 ドウヤラ 取りに行く」と記載してあった(自分が記載したのだが)。

お客様からの注文を受けた同僚にも、事情を話して、夕方までには取りに行ってきます、と伝える。同僚は「別に今日中でなくても、今日の帰りに取りに寄って、明日持って来てもらっても、かまわないことやと思いますよ。お客様には、四五日かかる予定とお伝えしてありますし」と言ってくれるが、早いほうが、お客様も喜ばれるだろうし、血圧測定生活を早く始めていただけるし、何よりもう、そうしなくては、私の気がすまないではないか。同僚は微笑みながら「どうやらさんも、ぼちぼちと、我々物忘れ世代仲間の世界に、足を踏み入れつつあるんですかね」となぐさめてくれる。

結局は、勤務中、仕事に差し支えのない時間帯に外出して、昨夜立ち寄るはずだった系列店に出向いて、血圧計を受け取って、お店に戻って、お客様に、入荷しましたの電話をかけ、お客様はすぐにご来店ご購入くださった。

今回は、この程度のことで済んだからよかったけれど、忘れていたことを思い出したときの、あの、「ぎゃあ!」の、びっくりは、たいへん心身によろしくない。

同僚に、「私、これまで、GABAを飲んでいましたが、今日から、イチョウもDHAも飲み始めることにします!」と宣言する。同僚は「そんなに気にしなくても」と言ってくれるが、「でも、私、昨日の帰り道、車の中で、なっすー、なっすー、茄子の味噌炒めー、って歌うばかりで、帰って茄子の味噌炒めを作ることしか頭になかったんです。車に乗るまでは、血圧計取りに寄る、と思ってたのにですよ。血圧計は茄子に負けてはいけないと思うんです!」と話して、イチョウとDHA追加摂取の決意を固める。

帰宅後、夫に経緯(いきさつ)を話して、イチョウとDHAのサプリメントを分けてくれるように頼む。そうやって飲み始めて、しばらくが経つのだが、心なしか、物忘れが気にならなくなった気がする。もしかすると、忘れていること自体に気がつかないほど進行したのかもしれないが。それでも、このまま続けようと思うので、イチョウとDHAのサプリメント、今回購入分からは、夫用と自分用とに今までの倍量注文。

ただ一点だけ、ちょっと気になることがある。GABAとDHAに関してはそうでもないのだが、イチョウに関しては、どういうわけか、つい今しがた飲んだかどうかが、ふと思い出せなくなることがあるのだ。「サプリたち、君たち本当にちゃんと仕事してくれてる?」と訊きたくなるひと時だ。我ながら、「え? 今、今のことだよ!」と思って、自分を問い詰めるのだけど、飲んだような飲んでいないような、うーん、わからないやー、まあ念のため一粒飲んでおきましょう、とあいなる。ゆえに、もしかすると過量摂取になっているかもしれないのが、やや気になるところではあるが、まあよしとすることにして、いいことにしよう。     押し葉

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プロフィール

どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

ときどき、思い出したように、いただいたメッセージへのお礼やお返事をリンク先の「みそ語り」に書いています。よろしければ、いつでも、どうぞ、どなたでも、ご覧ください。「みそ語り」では、メッセージをくださった方のお名前は書いておりませんので、内容から、これは自分宛かしら、と推理推察しながら読んでいただければうれしいです。手の形の拍手ボタンからメッセージをくださる場合は五百文字以内、文字の方の押し葉ボタンからメッセージをくださる場合は千文字以内となっております。文字数制限なくお便りくださる場合には、下のメールフォームをご利用ください。

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