みそ文

ヨーグルトに学ぶ

 「満願成就ヨーグルト」を書いたことで初めて思い至ったこと。

 ヨーグルトのカップの蓋の裏に付着したヨーグルトを舐めて食べるのをたのしみにしている人もいる。

 ヨーグルトのカップの蓋の裏に付着したヨーグルトをスプーンでこそげとって食べることによろこびをおぼえる人もいる。

 蓋の裏にヨーグルトがつく製品と、満願成就ヨーグルトのように蓋の裏にヨーグルトがつかない製品と、その両方が存在する世の中にいるということは、私の願いも叶っていて付着好きな人の希望も叶っていて、我々はよき時代とよき世界を謳歌していることであるなあ。     押し葉

如意不如意

 最近手作業をしていて、ふとしたことで思い通りにならないことがときどきある。手で持ったつもりなのにしっかりと持てていなかったのかそのものを手からするりと取りこぼしたり、その場に置くつもりのものをうっかり床に落としたり。いやそれは最近に限ったことではなくて以前からあることなのかもしれないが、あらあらおやおやと思う頻度が増えただけなのか、実際にそういう事象そのものが増えたのか、どっちなのかな、どうだろう。

 おそらくこれはリウマチなどの疾患が指先に現れてのことというわけではなく、随意運動の随意の精度が肉体の経年変化等の事情により部分的に低下している状態なのであろうと予想している。

 そんなことがしばらく続いて、こういうふうにものごとというよりは自分が行う手作業が十分に思い通りでないことを表すのはなんと言うのだったのかしら、と考える。もしも何か一つの用語で表すことができるなら、その都度「ああ、また例の、なになに、だわ」とやり過ごすのに便利かな、という思いもあっての思考だろうか。

 なにかが思いのままになることは「如意」であるということは、思いのままにならないことは「不如意」、そして自分の手元の作業が思い通りにならないことをいうのであれば「手元不如意」かしらね、うん、「手元不如意」かも、なんだかそれっぽいわ、でも念のため「手元不如意」で合っているかどうか調べてみましょう、そうしましょう。

 「手元不如意」の意味は、お金が不足していること足りないこと、家計が苦しくお金がないこと。

 あらまあ、そうなんだ、そうだったんだ。それじゃあ、私のこの手指の動作の結果が十分に思い通りでない状態は「手元不如意」とは言えないのか。気持ちとしてはすっかり「手元不如意」のつもりだったのに、残念残念。ではなんと言えばいいのかしら。自分の手の指先が行う作業であるから、じゃあ「手先不如意」ではどうだろう。

 ところが「手先が不如意」の用例を見てみると、手工芸などにおいてどちらかというと不器用である状態を示す意味で用いられている。ううむ、私は特筆して手先が器用なわけではないがかといってことさらに手先が不器用なわけでもない。「手先不如意」もちがうなあ。

 もしかするとそもそも「不如意」という語を持ち出すところに無理があるのかしら。「不如意」がいいと思ったのだけれども。「不如意」は「思い通りにならない」という意味以外に「経済的に苦しい」という意味を持つというのは今回の大きな学習。

 しかし私の状態が「不如意」でないならばなんだろう。かといって「不随意」では心拍血流腸管運動などのように随意性の低いものになるからなあ。私が手元から何かをするりと落とすような現象はもしかすると「不注意」「注意不足」とも言えるのかもしれないが、従来の自分の人生大半においてはそこまで意識して注意力を注がなくてもできていたことであるから、注意力を研ぎ澄ませることでできていたというよりは、おそらくは注意力を意識することなくそうできる感覚が身についていたものにあたるなあ。

 私がちょっとしたものを取りこぼしたり落としたりするような事象は「思い通りにならない」というよりは「思いがけない」のほうが近いなあ。ほんとはちゃんとこうするつもりだったのにあらまあおやまあできていなかったのね、でもまあそういうこともあるよね、というようなそんな意味合いの熟語が見つかるな、どうかな。

 「手元不如意」を学習したついでに、手元のお金にゆとりがあることは「手元如意」と言うのかしら、というのも考えてみたけれど、如意不如意業界ではお金がないことを「手元不如意」とは言っても、お金があることを「手元如意」というふうには言わないようであるなあ。「手元如意」が使えるならば、「今日はなになにの集金をします、手元如意の人はひとり二百円持ってきてください」「すみませーん、今日は手元不如意なので明日でもいいですかー」などと使えそうな気がしたのだけれども。

    押し葉

メトロノームは一分間

 知っている人はとっくのむかしからすでにずっと知っていることで、当然のことで、それ以外になにがあるの、なことだろうとは思う。

 音楽の速さを数字で表すときに用いるメトロノームという道具をご存知だろうか。速さを数字で表すというよりも、「このテンポで演奏しなさい」と指示する目的で楽譜の最初に表示されている数字の速度が実際はどれくらいなのかを確認する道具、というほうが近いだろうか。カツカツカツカツと一拍ずつのリズムを知らせてくれる道具。私の手元にあるメトロノームには上から順に数字が書いてある。数字はリズムがゆるやかなほうから順に40,42,44,46,48,と大きくなる。私が持っているメトロノームの一番大きな数字は208。

 今回とあるいきさつがあり小さな曲を作ることになった。結果的にできあがった曲は1小節に四分音符が4拍入ったもの(八分音符が8個入っているとも言える)が全部で10小節。つまり四分音符40拍分で構成される。作曲ソフトで作った曲をパソコンのスピーカーで聴いてみる。これはメトロノームだとどのくらいの速さなのかしら、と思い、自分のメトロノームを持ってきて流れる曲にメトロノームの拍を合わせる。メトロノームのおもりを少しずつ上下に微調整しつつ、ううむ、これくらいかな、と思えたおもりの位置が示す数字は120。それではと、曲を演奏する人たち(楽譜は先に送信済み)に「速さはメトロノームの120でお願いします」と連絡する。私のメトロノームは昔ながらの卓上サイズで振り子が左右に揺れ動くタイプだけれど、曲を演奏する人たちのメトロノームは手のひらサイズのデジタル式。各自が自宅で同じ楽譜を見て同じ速さで演奏できるように練習しておくと、合同練習で合わせるときによりいっそう合わせやすくなる。ああ、今にして思えば作曲ソフトの速さ(テンポ)は何もしなければ120になるように設定してあるのかもしれないなあ。

 そもそものいきさつは、私の現在の勤務先でラジオ広告を出そうということになり、その広告枠20秒に入るような曲を作ってほしい、という依頼がなぜか私のところにきたところから始まる。なぜになにゆえにそんな無茶振りを私にという広告話はまた後日するかもしれないことにして、そういういきさつで作った10小節をパソコンで流しながらストップウォッチで計ってみたらたまたまちょうど20秒に収まることがわかった。へえ。四拍子が10小節でほぼ20秒ぴったりなんだー。そんなつもりなく作ったけれど、なんだかキリがいいのねー。

 あれ、あれ、なんだか、なにやら、むむむむむ、ももももも。メトロノームの速さ120の曲が40拍で20秒ということは、1分つまり60秒なら20秒の3倍だから拍数は40拍の3倍で120拍ということかしら。あら、あら、あら、ということは、この1分に120拍というのがメトロノームの120であるのだとしたら、メトロノームの数字がたとえばだいたいALLEGRO(アレグロ)あたりにある132というのは1分間に132拍ということなのでは。え、え、じゃあ、じゃあ、いちばんゆっくりな数字の40というのは1分間に40拍ということなのよね。なら、なら、それなら、メトロノームの数字が60のところで打つ1拍はだいたい1秒ということなのかな。

 わーわーわーわー。知らなかった気づかなかった。いやいやいやいや。メトロノームと知り合ってから数十年以上の間のどこかで、小学校か中学校の音楽の時間に、あるいは私は高校でも大学でも選択科目で音楽をとったからその授業のどこかで、音楽の速さを表す数字はそういう意味であることを、一分間に何拍入るかという意味なのですよ、ということは習っていそうな気はする。習ったことを忘れているだけで。もしかすると4歳のおわりか5歳の初めくらいから高校を出る少し前まで習っていたピアノの先生からもどこかの段階で指導を受けたかもしれない。すっかり忘れているだけで。

 そして私は自分の中でのこの小さな発見を演奏者である同僚たちに「私今回初めて気がついたんですけど」と話す。すると彼女たちの中で何か小さな電球がピコンピコンと点灯したみたいな顔になり彼女たちは「えーと、120の速さで10小節で40拍で20秒は、1分で120拍だー」「ああっ、ほんとうだー、そうなんだー、そうだったのかーっ」「わあ、わあ、どうやらみそさん、その発見はノーベル賞よー」「すごいすごいー、大発見だー」と口々に言う。私は「いやいやいやいや、それはないない。私が知らなかっただけで、もともとメトロノームを作った人はそのつもりで作ったんだと、今ならそう思います」と言う。皆が「私も、私も、知らなかったー」と言う。

 メトロノームにはこれまでさんざんお世話になっておきながら、彼(メトロノームはなぜか「彼」だ)のそんな基本的な主張にまったく気づくこともなく、なんとなくリズムをとってもらっていただなんて。私が知らないところで彼は何十年もの間「この子(私)はいつかこの規則性に気づくかなあ、生きてる間に気づくかなあ、まあ本人機嫌よく楽しそうにしているなら音楽はそれでいいんだけど、音楽の中に数学の美しさがあることも知ったらもっと嬉しかろうにねえ」と思っていたかな、どうかな。うん、ありがとう、うれしいです、とお礼の気持ちを込めて、綿棒と布で丁寧にメトロノームを手入れする。     押し葉

梵天仲間

 いまさらながらに気づくことであるよ、なのだが、「刺網」という漢字を韓国語で音読みすると「チャマン」なのであるなあ。昨日の赤い布の画像に書いてあった「沿岸刺網」の音読みそのまま「ヨンアンチャマン」と書いてあったその「チャマン」の漢字が「刺網」であることには今になって気がついた。

 ところで「ぼんてん」といえば、耳かきの先についている白いフサフサの綿毛部分のこととしてこれまでは理解していた。しかし、今回刺し網漁の標識も「ぼんてん」であることを知り、そもそも「ぼんてん」ってなんだっけ、たしか仏様の名前にそんなのがあったような気がするな、と思って調べてみる。

 梵天様は帝釈天と並んで登場することが多い仏教のかみさまで、その御姿を見ると、なんと、手に長い棒を持っている。そしてその棒の先っちょにはなにやら丸い塊のようなものが付いているではないか。これは棒の先に香炉をつけた「柄香炉(えこうろ)」と呼ばれるものであるらしい。お香を振り回してお祓いするときなどに便利な道具なのだろうか。もしかして長い棒の先に何か付いたものを「梵天」と呼ぶのはここから来ているのかしら。

 そして「梵天(凡天)」は祭具のひとつでもあるらしい。長い棒の先に御幣がついたものを「梵天」と呼ぶ。それが転じて、長い先にふわふわがついたものも「ぼんてん」と呼ばれるようになり、だからふわふわのついた耳かきは「凡天耳かき」なのだな。そして、さらに転じて、延縄や刺網などの漁場で浮かべておく標識(長い棒の先に旗状のものをつけたもの)も「ぼんてん」と呼ばれる、と。

 ほほう。ふふむ。これまでは「ぼんてん」といえば耳かきの凡天しか知らなかったけど、なんだかいろいろ梵天仲間のつながりがあるのだなあ。     押し葉

刺し網ぼんてん

 昨夜夫が私に「大川からのメールで、韓国語を訳してもらえないでしょうか、って頼まれてるんだけど」と私に言う。大川さんというのは夫の元同僚というか同期入社の仲間で、大川さんはその後退職して現在は故郷で別の仕事に就いている。私が「短くて簡単なものならいいよ」と答えると、夫は「じゃあ、そうメールしとく」と言う。

 今日の夜になって夫が「大川からのメールの韓国語来た」と言う。

「じゃあ、私に転送して。見てみて翻訳文書くから」
「転送する必要はないと思う。おれのパソコンの画面で見てくれたら。文書じゃなくて画像だし」

 夫のパソコンの画面には、なにやら赤い旗のようなものの画像が。たしかにその旗のような布に書かれているのはハングルだが。

「なにこれ」
「いや、それがなんかわからんから教えてほしいらしい。なんなんやろうなあ。大川の説明では、ゴールデンウィークに鳥取県に旅行に行って海岸線を歩いていたら『密入国は絶対ダメ』っていうような看板があって、あやしいなあ、と思ってさらに歩いてたらこの韓国語の書いてある赤い布を見つけたって。竹には根っこも付いています、って書いてある」
「竹? ああ、旗をつけている棒の部分が竹なのね。根っこが、ほうほう、なるほど付いてるね。でも知りたいのはこの赤い布に書いてある文字の意味なのね」

 ハングルは表音文字なので音をとって読むこと自体はハングルが読めさえすれば読めるのだが、その意味がわかるかというとそういうわけではない。とりあえず書いてある文字を音読するが、私が使う韓国語彙としては馴染みの少ない言葉のようだ。

「うーん、なんだろ。この大きな文字の最後の『ホ』は一号二号だとか船の名前なんかについてる号だと思うんだけど、あと沿岸なんちゃらとか書いてあるけん海関係のなにかかなあ。辞書を持ってくる前に、グーグル翻訳にかけてみるね」
「うん、うん」
「でもさ、大川さんもハングルの読み書きは勉強したことあるんだから、グーグル翻訳使うのは私じゃなくて大川さん自分でもできるよね、きっと」
「でも、大川はそんなにそこまではできんと思う。まあ、やってみて」

 グーグル翻訳の元の言語を韓国語に設定する。赤い布に書いてある文字を順番に入れる。うーん。日本語翻訳部分にはハングル表記そのままの音がカタカナ表示されるだけだなあ。ということは固有名詞か地名かしらねえ。そうして順に入力していたら『沿岸刺網』という日本語が表示される。夫が「あっ。刺し網だ」と言う。

「なになに? 刺し網ってなんなん?」
「漁の方法のひとつ。こう網を海の中にぐるうっと浮かべるんだけど、それこそグーグルで検索したら?」
「わかった。とりあえず書いてある文字を最後まで入力してみるね」

 そのあとの文字はすべてカタカナで表記されるから、これらはきっと固有名詞地名人名ね、と判断する。そして沿岸刺し網という語彙から、ホはやはり海関係船関係の号であろう、ハンは港のハンだね、と判断する。それから『刺し網』を検索する。

「ひゃあ。刺し網ってこんな漁法のことなのねえ。あっ、見てみて。ほら、この説明の絵のここに付いてる赤い旗、大川さんが送ってきた画像と似てるよ」
「どれどれ、ほほう、ほんまや、もろそのものやなあ」
「ええとね、この赤い旗は『ぼんてん』っていうものなんだって。刺し網漁の網の持ち主などを示す標識だって。へえー。刺し網なんて言葉、日本語でもその言葉と意味を知らないのに、韓国語で知ってるわけないじゃんねえ」
「刺し網は知ってたけど、ぼんてんは知らんかった」
「ということは、この最初の文字は港の名前、その横は沿岸刺し網、その下の大きい文字が網元さんかな船主さんかなの船の名前ね、その下はたぶん個人の名前だと思う、イ・ジョンファンさんかな、その下の数字の番号はなんだろ許可番号か識別番号かなんかそんなんかな。港の名前は漢字で書いたらこうらしいよ(その地名を検索したら出てきた漢字)。へえ、慶尚北道のこのあたりにこの港はあるのねえ(韓国地図を眺めながら)」
「へえ、この位置からなら、まあいろいろ流れてくるわな」
「いやあ、刺し網って初めて知ったわあ、ぼんてんも」
「この標識の旗を網のブイにくっつけて浮かべとくんやろうな。網の所有者がわかるように」
「で、大川さんの画像のやつは、それが漂着したものなんじゃね」
「へえ、そういうことなんやなあ。ありがと。じゃ、メール書くわ」

 そう言って夫は大川さんに「これは『刺し網漁』の『ぼんてん』という標識で、それぞれの文字は港の名前、沿岸刺し網、船の名前、個人の名前、の順のようです」という意味のメールを書いて送る。しばらくしてから夫が「大川からまたメール来た。ありがとうございます、だって。すぐに読めるだけじゃなくて意味までわかるなんてすごいですね、って書いてある」と言う。

「いや、だから、すぐには意味はわからんかったじゃん。私、刺し網がなんのことか知らんかったし」
「おれは刺し網は知ってた」
「でも『ぼんてん』は初めて知ったね」
「うん。それからメールにはこう書いてある。『素材がしっかりとしたビニール製のものだったので北側ではなく南のものだろうとは思いましたが、暴風雨で飛ばされた道路標識か何かかと思っていました』」
「道路標識に竹とビニールは使わんやろう」(夫と私二人同時に言う)

 本日の学習。『刺し網』という漁法がある。その刺し網漁で用いる標識の旗の名前は『ぼんてん』。そして切った竹は水に浸けておくと根を生やす、の、か、な?     押し葉

どこから来た人なのか

 土曜の夕方、隣県の温泉施設に出かける。第一目的は落語。この温泉施設では、日帰り入浴の利用料金六百円で入浴して落語を含めた演芸を見ることができる。入浴だけの利用でも六百円、演芸観覧だけの利用でも六百円。

 夫は演芸を観覧する前に大浴場へ入りに行く。私はここのお湯はわざわざ入らなくてもまあいいかと思うことが多くて、夫が入浴している間、日帰り客用休憩室で座ってゆうるりと好きなことをして過ごす。休憩室は広い和室で、テーブルと座布団が並べてある。その休憩室を利用する人はそんなには多くなくて、今日は最初しばらく私一人だった。

 夫がお風呂に入っている間の待ち時間のおたのしみは、ペルシャ語(イラン語)。最近勉強し始めて、文字の読み書きがたどたどしいながらやや自由になってきたところ。文字の読み書きはある程度できるけれど、イラン語の読み書きが自由にできるレベルにはまだない。ローマ字アルファベットを使って日本語ローマ字や英単語の簡単なものは書けるけれど、簡単な英文を思いどおりに読み書きできるわけではない、あのころのようなかんじ。

 テーブルにテキストとノートを広げて、ノートの右端からウニョウニョとペルシャ文字を綴る。シャンベ、シャンベ、シャンベ(イラン語で土曜日の意味。イランの暦では土曜日から一週間が始まり休日の金曜日で一週間が終わる)、とつぶやきながらペルシャ文字で「シャンベ」と書く。

 土曜日の次は日曜日。日曜日はイェキシャンベ。イェキは数字の一の意味。一(イェキ)シャンべが日曜日、ニ(ドゥ)シャンべが月曜日、三(セ)シャンべが火曜日、四(チャハール)シャンベが水曜日、五(パンヂュ)シャンベが木曜日、そしてジョムメが金曜日、これが一週間。

 ペルシャ語の綴り書き方練習には筆ペンを用いている。ペルシャ文字には活字体がなく筆記体だけだからあの流れるような文字を書こうと思ったら鉛筆やボールペンよりも筆ペンのほうが真似しやすい。

 土曜日から金曜日まで私が何度も書いておぼえていると、誰かが休憩室に入って来た。人が入室する気配は感じたものの、私は大変熱心にシャンベシャンベと書いていたから、その人が私のテーブルの横に立って私の手元をじっと見ていることに気づくのにしばらく時間がかかる。

 なんだろう、なにか手元に視線を感じるわ、と視線の元をたどってみたら、ご年配の男性が立っていて「これは、英語では、ない、なあ」とおっしゃる。私が「あ、こんにちは。はい、これは、イラン語です」と言うと、おじいちゃんは「イラン語!」と驚いて、それからおもむろにゆっくりと「おねえさん、どこの人? どこから、来たの?」と訊かれる。

 私はしばらく考えて、ここは「日本人です」と答えるのが流れなのかしら、でもお互いのこの普段着感覚といいたいへん地元の方っぽいことだしもう少し細かい行政区分でお答えしたほうがいいよねと判断して「隣の県の福井から来ました」と言う。おじいちゃんは「福井か。おねえさん、日本の人か」と問われる。「はい。イラン語の読み書きできたらたのしいかなあ、と思って勉強してるんです」。おじいちゃんは「英語の勉強してる人は見たことがあっても、イラン語の勉強してる人を見たのは初めてや」とおっしゃってから「いやあ、感心感心」と言いながら少し離れたテーブルの席に座る。

 私はにっこりと会釈してから、また、シャンベシャンベと練習を続ける。すると今度はテーブルの向かい側に別の気配を感じる。はて、と思って見上げると、先ほどのおじいちゃんとは別のおじいさんがじっと私のノートを覗き込み「これは、英語では、ない、なあ」と言われる。

「こんにちは。えーと、これはイラン語、ペルシャ語、なんです」
「イラン語! それは、また、何か、イランに行く用事でもあるんか?」
「いえ、用事は全然ないんですけど、イラン語を読んだり書いたりできるといいかなあ、と思って勉強してみています」
「ほおー、イランに行く用事もないのに勉強するとは、何に使うんや?」
「うーん、これといって特に使い道はないんですけど、イランの人と文通をしているので、それは英語でなんですけど、それも近頃はごくたまになんですけど、私が少しはイラン語も書けるとお互いにたのしかったりするかしら、と思いまして」
「それは相手の人はうれしいやろうなあ」
「そうでしょうか」
「そらそうやろ。で、その文通相手の人は、男か? 恋人なんか?」
「いえいえいえいえ、女の子です、といっても私と同じくらいの年の」
「おねえさん、学生さんか?」
「いえ、学生ではないです」
「そうはいうても、そんなイラン語を勉強するとか、ただの人じゃないやろ」
「いやあ、ふつうに、ただの人、やと思います」
「はあー、長いこと生きてきたけど、そんなイラン語を勉強しとる人を見たのは初めてやわ」

 二人目のおじいさんはそう言ってから、一人目のおじいちゃんが座るテーブルに向かい合わせに座る。そして「あのおねえさんが書いてるのイラン語なんやて」と言う。一人目のおじいちゃんも「初めて見たなあ。おれも英語じゃないなあ、とは思うたんやけど、イラン語やいうのはわからんかったわ」と言われる。

「それで、なんや、イランに行く用事はないけど、文通相手がイランにおって、それでイラン語勉強しとるんやって」
「ほお、その文通相手は男なんかな、恋人やろか」
「それが女の人らしいわ」
「なんや男とちがうんか」
「それなのにわざわざ勉強するとはなあ、感心やなあ」
「いやあ、ほんま、イラン語勉強しとる人なんか見たの、生まれて初めてやわ」

 このおじいちゃんとおじいさんは別々の人なのに、なんでこんなによく似た発想でよく似たことを言われるのか、あんたら兄弟なんか、と思ってにっこりと会釈をしながら二人のお顔を見てみるけれど、外見は全然似てなくてたぶん他人。

 その後の落語の寄席のときに、このときのおじいちゃんとおじいさんが、後方の座席から「よっ、待ってました、大統領っ」などと芸の合いの手(というのだろうか)を入れておられて、ここの落語の常連さんであるらしいことがわかるのだが、休憩室ではただの日帰り温泉利用客にしか見えず、そしてそれはあながち間違ってはいない。

 そういうわけで、今日はペルシャ語で土曜日から金曜日までを書いて言えるようになった。しかし、突然に、では、月曜日は、と問われても、えーとちょっと待ってよ、土曜日がシャンべだから月曜日は土日月で、シャンべ、イェキシャンベ、ドゥシャンべだからドゥシャンべね、という程度の時間はまだまだ必要なのだけど。

 落語もたのしかったし、ペルシャ語で曜日も言えるようになったし、いいおでかけだったな。     押し葉

押し葉のおしらせ

 みそ文の文末に付けていた「拍手ボタン」の「拍手」という文言が、以前からどうもしっくりこなくて、なにかいい他の言葉がないかしら、と、ずっと考えあぐねていた。
 みそ文の記事を読んだからといって、そうそう実際に拍手することはないと思う。まあ、たまには、面白おかしくて、つい両手をぱちぱち叩いて(拍手して)笑うこともあるかもしれないが、それはそんなに頻繁ではないはずで、みそ文を読んだあとの読後感として、「拍手」という文言が、もうひとつぴったりでない。
 「うなずく」ような種類のものではないし、軽やかに「読んだよ」というには軽やかさを売りにしておらず、「いいね」と言うようなよさとは少しちがう(みそ文がよくないわけではなく、よさの種類が異なる)。
 かといって、「こころに深く残りました」なものかというと、それもみそ文の芸風のようなものとしても現実の感想としても、少しちがう気がするし、なにかのランキングに関係するボタンでもない。
 気軽に押してもらえると、お名前やメッセージはいただかなくても、それはそれで、わーい、読んでもらえてさらに応援もしてもらっちゃった、な気分が盛り上がってうれしいのだけれども(もちろんお名前やメッセージをいただくと小躍り度合いは上昇するが)、わたしが抱く「拍手」という概念のイメージで押してもらうのは、便宜上とはいえ、なんだか、こう、むにゃむにゃ、だったのだ。

 そんな試行錯誤と切磋琢磨の結果、このたび、これまでの「拍手ボタン」の文字を「押し葉」に変えてみることにした。
 「拍手」というほどではないけれど、なんとなく「押し葉」なら「押し葉」だけに、ぎゅっと圧をかけて押しちゃえ、な気分になるかな、ならないかな。
 葉っぱの葉の字が、ひとひらな、かけらなかんじで、ちょっとつまみたくなるような、ボタンに相通ずるような気分でいるのだけど、どうだろう。
 読んだページにそっと押し葉の栞をはさんで閉じるイメージならば、みそ文の読後の感覚として、それ以上でもそれ以下でもない域に近いような気がする。
 いいの、とりあえず、「拍手」よりも「押し葉」のほうが、自分が自分の画面で見た時に気持ちがいいから、しばらくこれでいってみる。

 手の形の拍手ボタンのほうは、この形か、そうでなければ数字が表示される馬の形か、あるいは付けるのをやめるか、しか、たぶん選びようがないのだけど、携帯画面で見てくださる方によっては、こちらのボタンしか表示されないらしいので、ブログ屋さんの気分が変わって他になにかよい表示方法の選択肢が用意されるようになるまれは、これはこれでこのまま付けておこうと思う。

 そういうわけで、今日から「押し葉」を、なにとぞよしなに。     押し葉

山に登っておりる

「仮病とお粥」

「ともに老齢化を目指して」


 夫は無事に白山から戻ってきた。
 富士山に比べると、ずいぶんと登りやすかったらしく、また、夫の登山力が富士山のときよりも向上しているだろうこともあり、山頂には昨日の午後と今朝と二回登ってきたのだという。山ではやはり、山に登るかおりるかちょっと休憩するくらいしか、することがなくて暇なのだろうか。
 昨日は山を登る道中で雨に降られはしたものの、無事に山頂にたどり着き、山頂から少し(一時間弱くらいだろうか)おりたところにある山小屋(事前予約してある)で一泊。
 今朝は日の出前に山小屋を出発する。やはり山では「ご来光」というのが、特に人気が高いようで、山頂までの山道は「ご来光渋滞」と呼ばれる状態。
 それでも無事に日の出前に山頂にたどり着き、朝日が登ってくるのを眺めて、満足して山をおりる。

 山をおりたら、温泉。昨日の日記には白峰温泉と書いたけれど、実際に入浴したのは、山をおりてすぐのところにある白山温泉にしたのだそうだ。
 なにはともあれ、山も温泉も満喫して帰宅した夫は、たいへんよく陽にやけている。
 ずいぶんと疲れたのか、巻尺でお腹まわりを計測することもなく、居間のい草ラグの上に横たわり、扇風機の風を浴びながら、寝息を立てている。

 山登りの世界では、日本三大銘山、三大霊山、と呼ばれているものがあり、富士山、白山、立山、が、そのみっつにあたるらしい。
 夫は、先月まず富士山に、そして今回白山に登った。
 幸運なのは、三大銘山三大霊山のうち、白山と立山が、長距離運転を好むわけではない夫が自力で自宅から車を運転していってこようと思うくらい近いところにあるということ。登山日直前までバスツアーが催行されるかどうかでドキドキする必要もなく、自分の体調とお天気とだけ相談すればよいのはずいぶん気楽そうだ。
 八月の後半には、立山に行ってこよう、これで三つの山制覇だ、と、夫は意気込んでいる。     押し葉

今度は白山

「白髪の理由」

「地震と眠り」

「先の見えない安心」


 夫は今朝から「白山(はくさん)」に出かけた。
 午前中のうちに登り始めて、途中でお昼ごはんにおにぎりを食べ、お昼すぎまで登って、白山の山小屋に泊まる。
 富士山とは違って、山小屋から山頂まではそんなに距離がないし、富士山に行ったときよりも日の出の時間が遅くなっているから、ご来光に合わせて山頂に登るにしても、夜中三時過ぎに出れば充分間に合う。
 明日の朝、朝日を見物したら、今度はひたすら山をおりる。麓までおりてきて、白峰温泉につかる。
 それから車を運転して、二時間弱で帰宅する予定。

 夫は山に登るようになってから、山にのぼるたびにウエストのサイズが落ちるのをたいそうたのしみにしている。
 健康診断では、ぎりぎりメタボではないけれど、いつでもメタボになれるぜ、なくらい、お腹まわりだけが積極的に成長傾向にあったから、お腹まわりがすっきりしてきて、本人も身軽で快適であるようだ。
 よかった、よかった。     押し葉

色あざやかにぷくぷくと

「家庭内の獣の毛」

「結婚腹帯」


 「結婚腹帯」を読み返すと、あのときの、ぷくぷくとしたうれしいようなあたたかい気持が色あざやかに蘇る。お店のコンドーム売り場(妊娠検査薬売り場でもある)とベビーコーナーまでの通路を、なんだかスキップするみたいにして、わたしのあとについて歩いてきてくださった若い男性のお客様の絶え間ないほほえみのことも。
 あの接客とご案内には、薬学的な知識はほとんどまったく必要なかったけれども、あのひとときと遭遇して、あの気持ちを味わった、そのたったひとつのことだけでも、わたしは大学で薬学部に進学して、薬剤師になりあの仕事に就いてよかったなあ、と思う。
 高校生のとき、進学希望の学部として一応薬学部も想定し、理系のクラスを選択した自分に「よしよし、それでよし!」と強く大きく伝えたい。
 そして、高校三年時、理系のクラスメイトの中に、現在夫として同じ家でともに暮らす人がそこにいるだなんていうことは、あのころのわたしに話しても、ぜったい信じないと思うなあ。     押し葉

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プロフィール

どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

ときどき、思い出したように、いただいたメッセージへのお礼やお返事をリンク先の「みそ語り」に書いています。よろしければ、いつでも、どうぞ、どなたでも、ご覧ください。「みそ語り」では、メッセージをくださった方のお名前は書いておりませんので、内容から、これは自分宛かしら、と推理推察しながら読んでいただければうれしいです。手の形の拍手ボタンからメッセージをくださる場合は五百文字以内、文字の方の押し葉ボタンからメッセージをくださる場合は千文字以内となっております。文字数制限なくお便りくださる場合には、下のメールフォームをご利用ください。

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