みそ文

大人も子どもも気をつけて

職場の同僚が通りすがりに、「どうやら先生、きいてー!」と声をかけてきた。「はい、なになに?」と問うと、「私、今、胴体にコルセットしとるんじゃけど」と、相変わらずの濃い広島弁(北陸ではまず耳にすることのない)で話し始める。

「コルセットだなんて、どうしたんですか?」
「それがよね。一昨日の夜、うちの子どもら(小学校低学年と幼稚園児の女の子二人)が、椅子に登って立って、そこから、だんなに向かって、おとーさんーっ! いくよー! ジャンプするよー! うけとめてー! 言うてから、ジャーンプ、って飛んじゃあ、だんなに抱きかかえてもろうて遊びようるのが、あんまりにも面白そうじゃったけん、私もしちゃろう思うて」
「いや、それは、ちょっと、小さい子どもの体と、大人の体じゃあ、ずいぶん違うような気がする」
「もう、そのとおりよ。私が椅子に登って立って、おとうさん、いくよー、受けとめてねー、言うたときも、だんなは、おい、おまえ本気か、いうて驚きようたわ。でも、娘らも、きゃあ、おかあさん、がんばってー、ジャンプー、ジャンプー、言うて、まあ、あの子らは、もう、ようけいジャンプして興奮してラリったみたいになっとるけん、そう言うわいねー。ほいで、私も、いくよー、見とってよー、いうて、ジャーンプ、って飛んだところまではよかったんじゃけど、抱きかかえてもろうたつもりが、たぶん、だんなの肩かどこかの角に脇腹をぶつけたみたいで、ゴキ、みたいな、ゴリ、みたいな音がして、激痛がきて」
「うがあ。痛そう。ご主人の肩は大丈夫なんですか?」
「それが、なんともない、言うんよ。どこにぶつかったんかも、わからんのんじゃって。だんなはだんなで、一応は、私のことも、子どもらとおんなじように抱きとめてはくれたんじゃけど、私の体が大きかったんじゃろうねえ」
「うーん、それは、やっぱり、大きいじゃろう。で、ゴリ、とか、ゴキ、の音と痛みの後は、どうなったんですか?」
「もうねえ、うずくまって、痛い痛い痛い痛い、息ができん、言うて、じーっとしようたら、だんだん動けるようになったんじゃけど、昨日、仕事に来ても、あんまりにも痛うて、息しても痛いし、お菓子の補充をするのにも、お菓子の箱なんか軽いのに、持ち上げるたんびに、痛っ、痛っ、ってなるけん、みんなが、そんなんおかしいって、病院行きんさい、言うてじゃけん。昨日、どうやら先生休みじゃったじゃろ。おっちゃったら、どうしたらええか聞こう思うたんじゃけど」
「それは、私がおっても、やっぱり、整形外科に行きんさい、いうて、言うだけじゃったと思うけど、実際行ってみたら、どうなっとったんです?」
「レントゲン写真撮って診てもろうたんじゃけど、ここの肋骨一本とその周りの軟骨が、本来の位置からずれたところにきとるとかで、しかも、軟骨が骨の周りにおらんといけんのが、ずれてはがれたみたいになっとるんじゃって」
「うがあ。うがあ。痛そう。もう、椅子からジャンプとか、激しい遊びを家庭内でするのは、大人はやめましょう」
「ほんまよお。ええ勉強になったわ。大人の体と子どもの体は違うんじゃいうて、ようわかった」
「大人の遊びを子どもがするのもやめたほうがええんじゃろうけど、子どもの遊びを大人がするのも、気をつけたほうがええんじゃないんじゃろうか」
「ああっ、もうっ、そのとおりっ。子どもは子ども、大人は大人。それぞれに気をつけんにゃあいけんわ」
「で、しばらく通院するんですか?」
「あ、それが、湿布して、コルセットで固定して、どうしても痛いときには痛み止め飲むだけ、それだけしかしてもろうてないんじゃけど、それだけしかできんもんなん? なんかこう、もっと、すぐに治るようなことは、できんのん?」
「その、それだけ、が、重要なんじゃん。きちんと固定して、骨と軟骨を元の正しい位置に戻してやらんと。固定せずに放っといたら、痛いのをかばおうとして、無意識のうちにゆがんだ姿勢になるけん、骨や軟骨が元の位置に戻りにくうなるし、そのままへんな場所で固まってしもうたら、今回怪我したところだけじゃなくて、他の部分にも負担がかかるようになるけん。怪我するのは一瞬じゃけど、治すのには時間がかかるけん、気長に気長に」
「そうなんじゃ。ほんじゃあ、がんばって、コルセットで胴体をまっすぐにして、正しい位置に骨と軟骨を戻しちゃらんにゃあいけんのんじゃね」
「そうそう。もう椅子に登ったり、ジャンプしたりせんと、コルセットして、おとなしゅうしといて」
「わかった。もう、ほんまに、あの遊びは絶対せんわ。面白そうじゃ思うたんじゃけど、こがいなことになったんじゃあ、いけんわあ」
「仕事にも差し支えるし、他の生活にも不便じゃし」
「ほんま、ほんま」
「とりあえず、もう、椅子から飛ぶのはやめましょう」
「わかったけん、もう飛ばんけん。だいじょうぶじゃけん」

痛みは伴っているものの、欠勤せねばならぬほどの怪我でなくて、本当によかった。大人も子どももそれぞれに、気をつけるべきことを気をつけながら生きてゆこう。

雪の願いと安寧と

正月に実家で母が、どういう話の流れでだったのか、「うちの子たち(私弟妹)は、小さい頃、広島から島根に里帰りする途中の峠の雪深いところあたりを車で通るたびに、なんでこのへんの子に生んでくれんかったんか、こんなに雪がいっぱいあるところの子どもに生まれたかった、って文句を言いようたよねえ」という思い出話を語り始めた。そういえば、そんなことを、言った記憶があるようなないような。その記憶があってもなくても、幼少の頃の私は、いつでも雪が大好きで、待ち焦がれていたのはたしかだ。雪がいっぱいあるところに住みたい、雪の降る様を飽きるほど見たい、雪景色を満喫したい、思う存分雪と戯れたい、と、何度も何度も強く思ったし、何度も何度もその思いを、いろんな表現で口にした。そうして、その夢は叶った。三十代も半ばになってから、北陸暮らしを始める、という形で。幼い頃に願い始めてから、おおよそ三十年以上の時を経て。

雪の夢が叶った現在は、何を願っているかというと、雪かきや雪道運転のためにエネルギーを使わなくてもよい暮らし。そのためならば、居住地周辺限定の地球温暖化だって腹黒く目論むし、冬将軍との交渉の手間も惜しまない。

母には、「うん。おかげさまで、当時の夢は叶ったよ。もう雪はおなかいっぱいです、雪かきも雪道運転も一生しなくても一切の心残りはありません、っていうくらい。強く強く願ったことは叶うんだなあ、というのはわかったけど、何かを強く願うときには、時期とかタイミングなんかを、より具体的にイメージしとかんと、こういうかんじになるんじゃねえ、というのがよくわかったよ」と話す。弟は「ねえちゃん、よかったよのう。雪、好きじゃったんじゃろ。わしら(弟と妹)の分の雪も、ねえちゃんにやるけん。ありがたいじゃろ」と言い、妹は「まあ、ねえちゃんのところに遊びに行くなら、ぬくいときじゃね」と言う。

雪が降ることを、積もることを、あんなに心待ちにしていた、かつての自分のことを思うと、今の自分はずいぶんと、素直さや純粋さのようなものが欠損したような気分になったり、それを残念なことのように感じるような気がしてきそうになったりする。テレビドラマの中で雪が降り、登場人物たちが「わあ、雪!」と感嘆したり喜んだりする姿を見ると、「けっ。どうせ雪下ろしや雪かきや雪道運転のことなんて全然なんにも考えてないんじゃろ!」と、まずいったん毒づいてから、その後、私の脳内道場で、登場人物たちを、男子も女子も次々と、背負い投げては床に叩きつけ、連続で何本も「一本(柔道用語の)」を決める。けれども、今夜みたいに、普段は降雪や積雪が少ない地域に住む人たちが、雪に対して、どちらかというと、わりとかなり好意的に肯定的に受けとめている様子や姿を垣間見たときに、「よかったねえ、せっかくなら満喫してね」と感じたり思ったりしている私は、素直さも純粋さも、必要十分十二分、これくらいあれば人として全然問題ないじゃん、というふうに思えてきて、安堵したり安心したり。そして、そもそも、人の素直さや純粋さというものは、そういうところ(雪に対する感情など)で測るものじゃないじゃろ、という当たり前のことに気づいたり。私の願いは叶うときにはちゃんと叶い、雪も降りたいときに降りたいところに降り、私の素直さも純粋さもどうこういうほどの問題もなく、とりあえずだいたいのことが安寧でよかったよね、と腕を組みながら頷く夜。

カープふりかけ

本日の校正。「磨きで勝負

年末年始に帰省したときに、義妹(弟の妻)が、手土産として「カープふりかけ」を持たせてくれた。小さな袋に一回分ずつのふりかけが入れてあり、味は、たらこ、さけ、のり、かつお、たまご、の五種類。それが何十包も入っている。一包ごとの片面には、広島カープの選手の似顔絵と紹介文(背番号、名前、ポジション、生年月日、タイプ)が印刷されていて、もう片面には笑顔のカープ坊や(広島カープのマスコット)がいろんなポーズをきめている姿が描かれている。ふりかけは食べるのは食べるけれど、こんなにたくさんはちょっとうちには多いかなあ、と思ったので、職場に持って行き、広島出身の同僚に、「ふりかけ、よかったら、食べてもらえるかな」と、実物を見せて話してみた。すると同僚は、「うわあ! ありがとう。うちの子どもら、ふりかけごはんが大好きなんよ。なんぼでも食べるわいね。それに、このカープ坊や、ぶちカワイイじゃん!」と、喜んで持って帰ってくれた。帰宅後、そんなに言うほど「ぶちカワイイ」かなあ、と思いながら、ふりかけの袋のカープ坊やを、まじまじと眺めている。

分杭峠

本日の校正。「ごみぶくろを求めて

昨日書いた「それはいったいどこやねん!」な、長野県の霊験あらたかであるらしい場所は、その後、私の日記を読んだ友人からの追加メールにより、どこであるかが判明した。長野県長谷村の分杭峠(ぶんぐいとうげ)というところなのだそうだ。別の友人からの情報によると、その地は雪深いところらしく、冬場の積雪時には、近づくことができないのだとか。私としては、たまたま何かの流れで気軽に訪れた地で、たまたま凛とした静謐さや大いなる力を感じたならば、それはそれでありがたく嬉しくもあるけれど、そのためにわざわざ赴く努力をするかというと、その手の気概は低いのだ。たくさん歩いたり、息を切らしたりしなければ辿り着けないようなところには、あんまり積極的に行きたくない。夫はそんな私のことを、「この年でそんなにやる気がなくてどうするんだ!」と叱咤激励してくれる。しかし、名探偵コナンくんは「体は子どもでも頭脳は大人(高校生)」かもしれないけれど、私の場合は「見た目は中年でも中身は老婆」なんだから、と、夫には説明している。今自分が生きているのは、幸運なおまけのようなもので、私はこのおまけをいたく気に入っている。おまけだから、きっとそんなに大量にはない。だから精力絶倫に大盤振る舞いしたりせず、小さな味わいを丁寧に積み重ねてゆきたい。大きな味わいに遭遇しても、私のおまけの生命力では受け止めきれないかもしれないし、無理して大きな味わいを求めて行動し遭遇し受け止めて受け容れて、その結果、私のおまけの生命力残量が減りすぎるのだとしたら、それは私の本意ではない。だから、大きくて有名なエネルギーのある場所にわざわざ自分が赴くよりも、そのために必要となる私のその分のエネルギーを、自分の心身のメンテナンスに注ぐことで、私自身が私のためのパワースポットであれたらいいな、と願う。

地の気の力

本日の校正。「しりとりパッド

先日友人とメールのやりとりをしていたときに、世の中には、なんというか、こう、ぴんと張り詰めているけれど、それは心地のよい緊張感で、凛としていて静謐な何かが全身を貫き、清められたような何かを感じる場所があるよね、という話をしていた。その地が持つ力なのか、地だけではない天も含めた空間すべてが何かエネルギーを帯びているのか、詳しいことはわからないけれど、そういうところの気持ちのよさは、ある種の格別さを覚える。友人は翌日奈良県の三輪神社に詣でる予定になっていて、これまでにも何度かその神社を訪れるたびに毎回、そういう感覚が感じられるのだと話してくれる。その後、他にも、どこどこのあそこもそんなかんじだった、とか、神社以外にもお寺や教会やモスクや、宗教施設とは無関係に、そういうところあるよね、と話が続く。そして、最後に、友人が「じゃ、もう寝るわ」というメールを送ってきてくれたときに、「そうそう。私(友人)は車の中で待ってたから行ってないんだけど、パパさん(友人の夫)が2、3回行った長野県の山奥と言うより下に下りて行くと、磁場を感じるので有名な場所があって、全国いろんな所から人が集まってるらしいよ」という情報も教えてくれた。が、この友人情報のみを頼りに、そのスポットに辿り着くのは私にはたぶんちょっと無理だよ、と思いながら眠った。

火水木の精霊たち

本日の校正。「とんびに大判焼き

以前、私が熊本に住んでいた頃、「くまもと国体」が開催された。そのときのマスコットキャラクターの名前は「ひっくる」「みっくる」「もっくる」だった。もしかするとカタカナで「ヒックル」「ミックル」「モックル」だったのかもしれない。「ひっくる」は火の精で、「みっくる」は水の精、「もっくる」は木の精だ。熊本は、火も水も木も自慢のお国柄だから、この三人を選出したものと思われる。当時どこでどうやって入手したのかまったく記憶がないのだけれど、私は長く、この三人が一枚の樹脂(プラスチックとゴムの間くらいの柔らかさ)にかたどられたキーホルダーを使っている。手に持っても軽く、このあたり(北陸地方)では他の誰も持っていなくて(少なくとも日常的に使ってはいなくて)、自分のものだとわかりやすいことがお気に入りの理由だ。ところが、一昨日、家に入ろうと鍵を手でさわったとき、おにょ、というような感触とともに、三人の精のプレート部分がホルダーから外れた。ホルダーの輪が通っている穴の上の部分がちぎれたらしい。まあ、もう、長年使ってるしねえ、壊れてもおかしくないよねえ、とは思うものの、なんとか修理して使えないものだろうか、と、現在考え中である。

鏡台到来

本日の校正。「魔法の相槌

土曜日の夜に、祖母の鏡台が届いた。ダンボールとプチプチとで厳重に梱包され、うやうやしく台車に乗せられて、玄関前までやってきた。業者さんにお願いして、玄関の絨毯の上に置いてもらう。梱包を外して、自分の部屋に運びこむ。なんとか自分ひとりで抱えることができ、夫に助けてもらわなくても大丈夫だった。こころなしか、自分の部屋の「気」の力のようなものが、ひとまわり力強くなったような気がする。ものはものではあるけれど、ものにはものの力が、それぞれにあるのだと思う。

決意新たに

本日の校正。「いろう

過去の自分の「聞き間違い」ネタを読み返すたびに、果たして私は、接客したお客様のお話を、正しく聞き取り適切なお薬をご紹介しているのだろうか、と、自分で自分を監視したくなる。せめて、お客様が、「いや、そうじゃなくて、こう」だと、聞き間違えた私にツッコミを入れることができる程度の間合いは、保ちながらゆっくりお話をしよう、と、決意を新たにできるのが、こういうネタのいいところだと思う。

傾向と対策

本日の校正。「被害妄想くん

常々、私の夫は、若干「被害妄想」の傾向があるのだろうか、と思っていたのだが、今回年末年始に帰省したときに、実家の家族たちを見ていたら、実家の父(私の父)にも、義弟(妹の夫)にも、その傾向が見られた。彼らが本当に被害や不満を感じているかどうかは、私は彼ら本人ではないから、本当のところはわからない。けれど、彼らの、何かのときの、とっさの、彼ら各自の妻に対する反応の、言葉の癖のようなものが、私には「被害妄想」的に感じられるようである。これは彼らが「男子」だからだろうか、とも思って見てみたが、同じ「男子」である弟と甥っ子(弟の子)には、これといってその傾向が見られない。家族と人類の傾向と対策(が必要かどうかも含めて)を、引き続き観察、ということで。

雪かき部隊

本日の校正。「孫の手

年末からこれまでずっと、「雪はスキー場中心にたっぷりと降らせてあげてください。市街地には雪かきが要らない程度でお願いします」と、冬将軍様との交渉を頑張ってはきたのだが、本日は大雪。今日くらい雪が降り積もると、出勤前の雪かき作業時間に、三十分くらいは必要になる。しかも雪かきをしなくてはならないというのに、その雪かきの道具たちが、雪に埋もれた車の中にある。とりあえず、車のドアをどこかひとつ開けなくては、雪かき道具を使うこともできない。仕方なく、手と足で、ごすごすと雪を退けて、運転席のドアを開けようとするが、すぐには開かない。何度か手足での雪かきを繰り返して、ようやく自分ひとりが社内に入れるくらいにドアを開ける。助手席に荷物を置いて、後部座席から雪かき道具を取り出す。ごっすり、ごっすりと、車の上の雪をおろす。ただでさえ車の周りに雪が積もっている上に、車の上の雪が加わって、車の周りはさらに雪だらけ。とにかく、発進できる程度にだけ雪を除ければよしとしよう。さっくりほい、ほっくりひょい、ざっくりぽん、と、大きなシャベルで、すくっては投げ、すくっては投げ、を繰り返す。雪はどこに放り投げるかというと、車の後ろのフェンス(駐車場のフェンス)の外側にある道路の端っこ。除雪車が除雪した雪を道路の両脇に積み上げるのだが、その積み上げられた雪の塀の上に、私も雪を投げ足して、雪の塀はさらに高くなる。今も雪が降り続け、そして、積もり続ける。

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プロフィール

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

ときどき、思い出したように、拍手コメントへのお礼やお返事をリンク先の「みそ語り」に書いています。よろしければ、いつでも、どなたでも、ご覧ください。拍手コメントくださった方のお名前は書いておりませんので、内容から、これは自分宛かしら、と推理推察しながら読んでいただければうれしいです。文字数制限なくお便りくださる場合には、下のメールフォームをご利用ください。

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